第1話 働かない勇気
「働きたくなああああぁぁぁぁぁぁぁい!!!」
片田舎の小さな家から、大きな声が響いた。
「せっかく叔父さんが農場で雇ってくれるって言ってるのに。こんな機会なかなか無いのよ。」
母は大層呆れてため息をついた。
「嫌だ! 絶対に働かない! 世の中が間違ってるんだ、働かなきゃ生きていけないなんて、非情だよ」
「職がなくて困ってる人もたくさんいるの。アシュラスは恵まえてるんだよ。よくそんなことが言えるね!」
いままで温和だった母の顔が赤く、険しくなったように見えた。今にも爆発しそうな感情を必死に押し留めている顔だ。アシュラスにはそれがわからなかった。
「そんなの詐欺師の言い分だ。朝から晩まで土だらけになって、キチガイみたいにクワを振る仕事なんて、死んでもしたくないね。あんな下等な仕事はバカでもできる。俺にはもっと高等な仕事がふさわしいんだ」
母はもう堪えきれないようで、両手をボロボロの机に思いっきり叩きつけ、立ち上がって言った。
「あんた、言って良いことと悪いことがあるわよ。だいたい今年で25になるっていうのにまだそんなこと……! 働く気がないなら出ていきなさい!」
「ああ、出てってやるよクソババアァ!」
アシュラスは靴も履かずに玄関から飛び出した。ドアはわざと大きな音を立てて締めた。
それからアシュラスはひたすら歩いた。理由は、数年ぶりに怒ったせいで生じた、動悸や足の震えを誤魔化すためだったと思われる。この辺りはいかにも、うんざりするよな片田舎だ。田舎と言っても壮大な田園風景や、のどかな牧場があるわけではない。仄暗い、じめじめしたな森や、背の高い雑草が生え放題の空き地の中に時折、ボロい家があるだけの殺風景な景色がどこまでも続いている。久しぶりに外を歩いたアシュラスは、こんな道を歩いているとき、いつも、どうも息苦しくなって寂しい気持ちになることを思い出した。寂しいといっても感傷的な――ある意味ロマンチックな寂しさではなく、もっと仄暗い、じめじめした寂しさだった。
30分くらい歩いて、ふと気づくと見覚えにある場所に着いていた。小さい頃よく遊んだ広場だ。どこを目指して歩いたわけでもないのに、不思議だ。
あの頃遊んでた友達たちは元気だろうか。今では労働に手を染め、すっかり疲弊してるかもしれない。そう思うとやるせなくて、なんだか情けないような気持ちになった。
アシュラスは広場の少し高くなっているところに腰を掛け、これからどうするのか考えていた。帰るわけにも行かないし、行く宛もない。金もないし靴も無い。ふいに空を眺めると雲ひとつ無い快晴だった。この快晴がどうも自分のことを馬鹿にしているように感じられた。気が病んでるのかもしれないと思うと同時に、この広場でよく遊んだ女の子を思い出した。確か名前はソランと言う。よく背が低い俺のことを馬鹿にしていた。よし! 家の場所を覚えてるから、とりあえずそこに行ってみよう。そしてあわよくば居候させてもらおう。我ながら完璧な計画だ。
広場から10分ほど歩いて着いたソランの家は記憶の3倍位大きかった。子供の頃の記憶なんて当てにならないものだ。玄関の扉は両開きの真っ白な石で出来ている。高さ3mはある巨大な扉の全面に、花や鳥、蝶などの緻密な彫刻が施されている。その左右に大きな窓の大きな部屋が5個づつ並んでいて、いかにも高そうなカーテンが閉まってる。カーテンは部屋ごとに全く違うデザインだが、調和が取れていて美しい。その反面、屋根の上には無秩序にペガサス、ドラゴン、ガーゴイルなどの像や複数の風見鶏が飾られて、なんかもう動物園みたいだ。
アシュラスは首が折れそうになるほど高い屋根を見上げながらドアをノックした。
「すみませーん。ソランくんはいますか?」
中から足音がするが一向にドアが開かない。それも足音は上に行ったり下に行ったりしている。それから左に行ったり右に行ったり、また左に行ったりしたあと、ようやくドアが開いた。
中から出てきた中年男性が、いくらか呼吸を荒くしながらも愛想よく声を掛けてきた。
「はぁ、はぁ、はい。――もしかしてアシュラス君か?随分久しいじゃないか。大きくなって。こんな平日の昼間からどうしたんだい?」
アシュラスはソランの所在を訊き、ついでに呼吸が荒い理由も訊いてみた。
「ああ。この家は増築に増築を重ねてるできてるから、中は迷路みたいに入り組んでるんだよ。全く、書斎から玄関に出るだけでランニングをした気分だよ。――ソラン? ソランなら8年前に街へ出たよ。ここらは仕事が無いからねえ。それにしても、若い奴らはみんなここを出ていくのに、君はずっとここにいるのか?」
突然の嫌な質問にドキッとしたアシュラスは、いつもの癖で咄嗟に嘘をついた。
「えっ、ええ。――今は知り合いの農場で働いています。汗水垂らして働いたあとのビールは最高ですね!……ほんと。いやー労働って素晴らしい!最近特にそう思いますよ。ははっ……。ソランは街に?その街というのはどうやって行けば……?」
彼は街までのルートをこと細やかに教えてくれた。あまりにも長く細かい話だったため、内容は殆ど覚えていないが、汽車で“ダコタ”という駅に行けばいいことだけは分かった。あと彼はソランの父親で、名前をランチョということも教わった。
「その汽車というのはお金がかかるのですか」
ランチョは驚いた仕草をしたあと、黙って頷いた。呆れたのか目がおかしな形になっていた。
それは困った。ソランのいない家に泊めてもらうのも、なんか気まずいし、ソランのもとへ行くにも金がかかるとは……。世の中はなんて非情なんだ!仕方ない、一か八か出てみるか。
「僕、今お金がないんです。無一文で。でも、どうしてもソランに会わないといけないんです。だから、その……お金を貸してくれませんか?」
ランチョは腕を組み、少し唸ったあと、わざとらしく口角を上げて言った。
「いいだろう。旅費は片道10000Gくらいかかるだろうから、食費や宿泊費、お土産代なんかも含めて30000Gくらいなら貸してあげよう」
「本当ですか!ありがとうございます。訳も聴かずにそんな大金を!あなたは本当にいい人だ。娘さんもきっとあなたに似たんでしょう。帰ってきたらお金は必ず返します。なんなら倍にして返しますよ」
金を返す気など毛頭ないのだが。アシュラスは調子に乗ると口が達者になる。
ランチョは嬉しそうに苦笑しながら言った。
「いやいや、倍にして返す必要なんかないよ。私は100%善意であなたに貸してるわけで、儲けようとしてるわけじゃないんだよ。ただ――私もあげたつもりで金をかせるほど裕福ではない、踏み倒されたら堪らないから、担保と利息はつけさせてもらいたいんだけど、いいかな?」
アシュラスは利息と担保の意味はよく分からなかったが、とりあえず威勢よく「はい!」と返事した。目先の大金にしか意識がなく、特に何も考えていなかった。
「じゃあ担保なんだけど、なにか用意はあるかな。今持ってるものじゃなくてもいいよ」
アシュラスは腕を組み目を瞑り、考えた。担保を何にするかではなく、タンポとはいったい何なのかを。タンポ……タンポ……確か、なにか女性が使うものだったような気がする。そういう名前の物を昔、母の部屋で見たことがあるような。いやでも、それを俺に要求するのはおかしいような……。
相当な時間悩んでいたのでソランの父が口を開いた。
「難しいなら、いちばん大切なものにしてみたらいいんじゃないか?ちゃんとお金を返せばすむ話だから。」
「大切なものですか……。うーむ、お母さん……?」
「お母さん! お母さんを借金の担保に!? ――まあいいだろう。じゃあ借金の担保はお母さんということで。利息なんだけど、複利で1日ごとに5割でいいかな」
アシュラスはよくわからず生返事をした。断れば金を借りれなくなるかもしれない。
「よしじゃあこれで決定だ。来年の今日までに返せなければ、担保を売って借金の返済に当てるからね。じゃあ契約書を取ってくるからここで待ってれおくれ。」
そう言うとランチョは扉を締めて家の奥へ行ってしまった。担保を売る?さっきお母さんを担保にすると言ってたから、つまり、つまり俺が来年までに金を返せなければ、お母さんが売られるってことか。――ヤバくね。いや、ヤバくない。一見ヤバいように感じられるが、冷静に考えればそうでもないかもしれない、多分。だってまず借りた額が大した額ではない。30000Gくらい、3日も働けば返せる額だ。いくら怠け者な俺でも、母親がかかってるとなれば3日くらい働ける。利息がつくとか言ってたが、そんなもの、たかが知れてるだろう。勝手に母親を担保にするのは道徳的にどうかとも思うが、俺は一切財産を持ってないから担保にできるようなものが他になにもない。止む終えない。
しばらくしてランチョがドアを開けて契約書を差し出すと、アシュラスはそこに自分の名前や住所を記入し、契約に同意した。それと引き換えに10000G紙幣を3枚受け取り、愛想よく感謝を言って豪邸をあとにした。
次回、1月27日投稿予定