第五十八話 身体
眠っている。
格好や周囲の状況から見て、眠るつもりではなく酒が進んで酔いつぶれてしまっただけだ。
静かに目を閉じるアイヴィをわざわざ起こすこともないとは思ったが、酔いつぶれた相手への適切な対応など廉太郎は知らない。――前回同様。
一見そうは見えなくとも過剰摂取で危険状態のただ中にいる、なんて可能性も捨てきれない。周囲に転がる空き瓶は、一人で飲んだとは思いたくないほどの本数で、それが嫌な予感を訴えてくる。相当な水量、例え水だったとしても人一人の体に入らないだろう。子供のように小柄なアイヴィであれば、それもなおさら。
――慎重過ぎて、おせっかいに当たるだろうか。酔いの中に水を差された気分にさせるだろうか。
そんな危惧が脳にちらつくが、やはり心配にもなる。
暗い部屋で戸締りもせず、無防備な姿で部屋の中は散らかり放題。それは玄関先で想像した嫌な予感と遜色なく、ただならぬ雰囲気を廉太郎に与えた。
「……あら」
「おはようございます。――夜ですけど」
廉太郎の腕に感応式の魔力灯が点灯し、明るくなったリビングに当てられてアイヴィは薄く目を開いた。翡翠のような鋭い目が、突然の光から逃げるように頭ごと横を向いて顔を隠す。
やがて事態を飲み込めたのか、アイヴィは視線を廉太郎に向けた。目覚めだからか酔っているからか、その表情はぼやけているままだ。ソファに沈み横たわった格好で、起き上がるでもなくぼんやりと廉太郎とクリスを眺めていた。
「……おかしいわ。時間の感覚が――あいまいで」
頭を押さえ、ぶつぶつと一人頭を働かせているアイヴィ。
灯りのせいで、さらにはっきりと意識させられてしまう。
およそ、人に見せていい姿ではない。軽率に目に入れていい姿でもない。
寝間着のようだが、外は出歩けない程度には薄着だ。身長はかなり小柄なのに、成長する部分だけは廉太郎でさえ無視するのが難しい。
町を発つ前の無防備で遠慮のない振る舞いを思い出させられてしまい、廉太郎は部屋を片付ける真似をしながら目を背けた。
地に転がるのは酒の空き瓶だらけで、他には着替えなのか脱いだ物なのか分からない服が何着か混じりこんでいる。
「確か、三日くらいしか経ってないはずなのに」
「あってますけど――」そう答えるクリスは訝し気だ。
確かに妙な言い回し。
酔い、脳の働きが鈍る感覚を廉太郎は知らない。だが、数日の記憶が日中もろとも消失し日付感覚が分からなくなる、などということにはなるまい。それでは社会が機能し得ないい。
酔っている間は時間の体感経過も乱れているのだろうが、素面でいる間は正常なはずだ。
それではまるで、その期間中ずっとアルコールに浸っていたかのような台詞ではないか。
さすがにそれはないだろうとは思うものの、部屋の有様がどうしてもその気にさせてしまう。率直に言って荒れている。この数日の掃除はなかったようだし、何ならそれ以上放置していたかのようにも見えてしまうほどだ。
いくら何でも三日掃除をさぼったところでこうはならない。
わざとそうしようと思わなければ、散らかりようがないほど散らかっているのだ。
「――そう、早かったのね」
「えぇ」
予定よりずっと早い。
出発前、アイヴィには十日単位で家を空けると告げていた。ユーリアは任務がそれだけ長引くと踏んでいたし、廉太郎もそのくらいは調査をして回るつもりだったのだ。
しかし、今回の遠征では予想外のトラブルがあちらこちらで起きすぎている。一言で済む話でも、簡潔に済む話でもない。話の中心にいたユーリアがいない今、勝手に話してしまうのも気が引ける。
「だいぶ飲んでいたみたいですね」
それとなく、些細な雑談に話を逸らしてみる。
起こしてからかえって余計に心配が増えたようで、複雑だった。
「眠れなくて」
冗談めかした声だが、アイヴィの顔は笑っていない。どこかやつれたように見えるのは、酒せいだけではないのだ。
アルコールで澱む頭を目覚めの悪さが襲っている。過剰摂取を裏付けるように、頭が痛むのを隠せていない。
「なんだか心配で……あの子、最近はずっと危うい感じだったから」
ソファから身を起こすこともなく、むしろより深く沈むようにアイヴィは項垂れていた。その恰好だけではなく、金色の髪もまた、やけを起こしたように乱れきっている。上品ながらも強気に晒すその額も、軽いつり目も、普段の面影は少しもない。
別人のように弱々しく、頼りない。
口から零れる言葉はすべて、尻すぼんで消えていくように聞こえてくる。
「ユーリアは?」
なんてこともないかのように。平静を装った確認のような投げかけが廉太郎に飛んだ。
それを、どれだけ恐れて口にしたのか。
痛ましい、見るにたえない様相を見れば想像するのは難しくない。
「無事ですよ」
廉太郎は端的にそう伝えた。
すぐさま安心させてやりたくて、余計な情報は何も言わない。
廉太郎とクリスが帰って来たこの場に、ユーリアだけがいない。出発前にあれだけ娘の身を案じていたのだ、もうそれだけで抱える必要のない余計な不安を与えてしまったようなものではないか。
今起こしてしまうのは、あまりに思慮に欠けていたことを知る。
「……良かった」
心から滲み出た声と共に顔を上げ、アイヴィはほっと安心した表情で笑みを向けてくる。酔いと悪い夢が同時に覚めたような、すっきりとした顔だった。
それはすっかりいつもの様子で、しかしそうなると余計にその恰好が際立つようで、居心地の悪さが湧きだしてしまった。
「その、ユーリアは図書館に――」
「ちょっと待ってね。」頭を手に当て軽く制止し、「アルコール、分解しちゃうから」
腕を上げ伸びの体操を済ませると、体がほぐれるのと同じようにアイヴィの肌から赤身と熱が引いていく。「便利な体だ」と興味深そうに茶化すクリスへ照れた様子で舌を出し、思い出したように立ち上がった。
「お帰りなさい、二人とも」
「はい」
満面の笑みで、そして近づいてくる。
気を抜けば抱擁でもされそうな勢いで、思わず気持ち的に一歩後ずさりながらクリスを代わりに前へと追いやっておいた。
好かれている、いいように思われている。――もっと言えば、すでに身内のように扱われつつある。
それ自体も照れ臭いのだが、お帰りと言われてそれに応えるのも照れ臭い。居候させてもらっている立場でおこがましいと思うのか、図々しいと思うのか。とにかく返せた言葉は中途半端なものだった。
「うへぇ……」
案の定、露骨に嫌がられるのも構わずアイヴィはクリスの体に手を伸ばす。
そこで初めて、その体の意変に気づいたようで、
「クリスちゃん?! その……怪我は――」
「階段で落ちました」
と、いるのかいらないのか分からないような嘘。
しかしそれも話せば長引きユーリアの身に起きたあれやこれやにも繋がりかねないので、結果的に気を遣った形となる。本人としては、面倒に思っただけに違いないのだが。
「そ、そう。気をつけなさいね」
疑うことなく思い浮かべた盛大な事故に顔を引きつらせ、アイヴィは場所を開けたソファへとクリスの手を引いて座らせた。腰をかがめその前で視線の高さを揃えると、医者が患部に触れるようにクリスに向けて手をかざした。
「わたしじゃ気休めだけど、治りは早くなるから――」
光だ。
自然なものとも違えば、人工的なものとも違う。似ているものであれば、羽妖精そのものの光が一番近い。
「どうも」クリスは素直にそう応じた。
怪我は酷かろうとも痛む素振りすら見せないので、どんな効果が生まれたのかは分からない。やり取りを見る限りでは治療行為。それも、魔力による治癒の魔法効果。
アイヴィが魔法を使うのを見るのはこれが初めてで、その効果の程にも驚かされる。妖精種の魔法――羽妖精の使うテレパシーや瞬間移動は目にしていたものの、エルフの力は初めてだ。
妖精種の中でもさらに種が枝分かれして、できることも複雑に異なっている。
人間の魔法などほとんど魔力を物理的に叩きつけているようなものだ。それに比べれば、妖精種の力はあれもこれも不思議な奇跡じみた力に分類されうる。
怪我の治癒など、より超常の、神が振るうような奇跡に近い。
容姿と母性的な面を考えれば、より適したイメージは女神なのだろうか。
しかし。
「あっ……そうだ」
その女神に潜む、看過できない異様な面があるのを廉太郎は忘れていなかった。
娘を思うあまり行き過ぎて――というか暴走して――見せる苦手側面、困っている側面。そして、それらを助長させる酒癖の悪さ。
娘が同じ年の頃、同じ人間の異性を連れてきたからといって何を期待しているのか。正直言って、たまったものではない。
だが、普段のそれらはまだ、苦笑いで流せていられるのだ。
それでも、
「これ。なんですか、これ」
「手帳?」
手荷物の奥底にしまったそれを引っ張り出し、アイヴィの目の前に突き付けてみせる。書いて寄越した張本人は、それを素知らぬ顔で見つめていた。
すっとぼけているようでは、残念ながらない。
酒か。忘れてしまったのか。
これを書いていたときも酔っていたのだろう。素面では書けない内容だ。
ほんの少しは『大真面目に書かれていたのならどうしよう……』と疑っていたので、それはまだ救いに思える。
だが、これから結構真剣に苦情を言いたい身としては、脱力感がすごい。
「――え、これ……わたしが書いたの?」
「誰がいるんです、他に」
珍しく強めに詰め寄る廉太郎に、アイヴィはさすがに不味いと思ったのかばつの悪そうな顔を向けてくる。
それでも止めるつもりはなかった。この件に関して廉太郎は本気だ。
別に、怒っているわけではない。
ただ、個人的な、明かされることのないはずのプライベートを晒されたユーリアという被害者が存在するのだ。注意というか警告というか――とにかく、もう二度としないことを多少強引にでも誓ってもらう必要がある。
とはいえ自覚がないようなので、やはり気は引けてしまうのだが。
「その……ごめんね?」
「謝るのは俺じゃなくて――いえ、本人に謝られても困るんですけれど」
こんな文章がやり取りされた、なんて事実は知られたくない。怒られるのも嫌だったが、本人に嫌な思いをさせたくない。気の弱い女の子なら、それだけで泣き出してしまいかねないほどの代物なのだ、おそらくは。
「そうねぇ……あの子、廉太郎くんになら見られても気にしないと思うんだけど」
「やめてくださいよ」
期待値が高すぎる。
不味いと思った瞬間に手帳は閉じ、触りにしか触れていない。だが検めたクリス曰く「読んだら眠れなくなるでしょう」とのことなので、本人の名誉のために余計な興味を示すつもりは少しもない。
身長をはじめ体重など――方向としてはそちらを向いているものだ。
「でもこんなに知っちゃったら、もう……責任とるしかないんじゃない?」
「何でですか……」
本人同士の意思をすべて無視していることに気づいていないのだろうか、この人は。
「とってほしいのは俺の方です」
いらないリスクを背負わされたのだ。おかげでユーリアの前で冷汗ものだった。万が一見つかっていたらと思うと、終わったことなのに鳥肌も立つ。
愚痴に近い廉太郎のぼやきに、アイヴィはしばし目を泳がせ、
「……これでいい?」
何を思ったのか、思い切り肌の露出を強調してきた。
体の間で腕を組み、前かがみになって見上げてくる。
何を分解したのだろう。
理性だろうか。品性だろうか。
アルコールだけでないのは確かだと思う。
「顔でも洗ってきてください」
「シャワー浴びてこいってこと?」
「あの、勘弁してくれませんか……」
お手上げとばかりに項垂れた廉太郎に、からかうような悪戯な笑みが向けられた。
それで、薄々気づきつつあった予感が確信に変わる。
アイヴィの中で、廉太郎は娘の連れてきた男友達でしかない。つまり子供としか見ておらず、何を言っても何を見せても少しも照れたりしないのだ。
ちょうど、クリスに対する廉太郎のそれと同じように異性として認識していない。
言葉を変えれば相手にされていないということで、それは別に構わないのだが、しかしこちらとしては強烈に身内として堀を埋めてくる美人でしかないので辟易してしまう。
年齢は六〇を越えているようだが、人間の成長スピードに合わせると肉体精神共に二十代前半でしかない。子供扱いされるには、廉太郎に余裕なんてまるでないのだ。
その上言動や背丈はクリスが背伸びしたくらいの歳下感覚なのでたちが悪い。一緒に居てやけに疲れたり緊張するのはユーリア絡みだけではないのだ。どう接するべきなのか、脳が混乱してしまうのだろう。
「私が背伸びしても、アイヴィさんほどいい体には――」
「ともかく」思い出したかのように敵に回るクリスを無言で黙らせ、「それは処分しといてくださいよ」
そんな禁忌の箱とはいえ、もらったものを破棄できるほどの豪胆さは廉太郎にはとてもない。現物も責任も本人に返して、文句を言って終わりにするつもりだったのだ。
「ユーリアに見つからないうちに」
「――へぇ」
聞きなれた声が。
それに気をとられた間に、アイヴィの手元から真っ黒な手帳が消えていた。ついで、背後からパラパラと頁をめくり進める音が重ねて聞こえてくる。
アイヴィとクリスの視線を追って振り返るころには、すべての頁はめくられてしまった後だった。
廉太郎は知っている。
疑似眼球を用いたユーリアの速読能力が、軽くAIを越えているということを。
「なにこれ?」
彼女がまず吐き出した言葉。
廉太郎が思ったより、よほど感情のこめられた声だった。
「俺は悪くないよ」
生まれてこの方、一度も吐いた覚えのない言葉がフライング気味に飛び出していった。
「おかえりなさーい……」
さすがに消え入りそうな声で、アイヴィも娘の顔を見ようとはしない。
目を逸らす母親と固まった廉太郎、それと噴き出しそうなクリスの顔を順番に見比べ「まぁ、ある程度察しがつくわ」と腕を組んで目を閉じるユーリア。
「ずいぶんと、私の事情を……それもこんなことばかり晒してくれたようだけど」
ユーリアの口調は、普段意図的に整えられている。早すぎず遅すぎず、聞き取りやすい声で綺麗に話す。誰に聞かれても恥ずかしくないような、知性や品性を感じさせるように。
他人からどう見られるかを、ことのほか気にする人なのだ。
それが、今は震え霞んでいた。
想像したより怒っている。あるいは、恥ずかしがっているのかもしれない。
「書き忘れたようだし知らなかったようだけど――私の品性と羞恥心と貞操観念、きっとあなたよりは強いわよ」
「あはは……」
アイヴィはもはや悪いと思うことすら諦めたのか、娘の文句さえ面白がって受け流している。
酔った彼女が何を考えてあんな手帳を作成したのかは知りたくもないが、残念ながら普段の言動が如実に物語っている。
要するに、それを廉太郎に渡して無理やりにでもユーリアのことを意識させたかったのだ。
それを考えれば、むしろすべてが露見した今の状況はアイヴィにとって最も好都合。
これで恋のキューピットのつもりなのだろうか。
テロリストと呼んだ方がふさわしいのではなかろうか。
「それに、なによその恰好……廉太郎の前なんだから、ちゃんと服着なさいよ――って、私に言われてるようじゃだめじゃない!」
散らばった服を適当に拾い、慌ててアイヴィに投げてよこす。
それを受け取るも着込むでもなく、アイヴィはただ嬉しそうに言い放った。
「いいじゃない。どうせそのうちお義母さんになるんだから」
「ならないでください、勝手に」
飛ばされるアイコンタクトを受け止めきれず、身を躱す。
――もう一つ、薄々気づいていたことがある。
アイヴィ――ユーリアの義理の母親。残された最後の家族の人。
彼女がその本心では、せっかく娘がみつけてきた同種同年代の気の合う異性である廉太郎に、元の世界になんて帰ってほしくはないと思っていることを。