第五十六話 「帰りたい」
『それで――二人は、もう帰ってくる? それとも、まだそちらに居るのかしら』
結果的にではあるが、ユーリアの任務はすでに終了している。 ベリルを殺害したのは他の魔術師で、トリカは死んでいなかったという違いはあれど、ともかくすべきことはなくなったのだ。
その過程で起きた想定外のトラブルの数々も、その状況は一応の解決を見せたと言っていい。基地を襲うものは処分し、いなくなったラヴィとも合流できた。
そして、ラヴィの目的である義妹の確保も叶ったというわけだ。
しかし、廉太郎の当初の目的はほんの少しも果たせていない。
ユーリアが遠征に赴くついでに同行させてもらったのは、元の世界に帰る手がかりを探すための調査。普段立ち入る機会の少ない瘴土の外側、人間側の社会にある町。
そんなオーテロマに滞在できたのはほんの半日足らずだった。続くトラブルに見舞われて、少し見ただけで場を離れるしかなかった。調査どころではなかったのだ。
やり残したことがあるのは、否定できない。
「いいや」
だが、廉太郎は目についた低い頭に手を乗せつつ、帰宅する旨をユーリアに伝えていた。
「クリスにも怪我させたし、一度帰って落ち着こうと思う」
不機嫌そうに唸りながらも、クリスは動かずそれを許していた。
先ほどから引き続き、何故か不愛想に口を開こうともしない様子。いつもの調子が嘘のようで、隣に居て非常に落ち着かない。
その原因は明らかだが、詳細はまるで分からない。
だが、ここを襲ったメインデルトに対する個人的感情と、その情報を仄めかしながら話そうとしない『ロゼ』への不満と疑念なのは間違いない。
クリスの事情も『ロゼ』の事情も不明瞭で。しかも二人ともそれを語ろうとしないのだから、間に挟まれた廉太郎にとってはお手上げもいいところである。
微妙な緊張が生まれたらしい現状では、正直何も手に付きそうにないのが本音でもある。
私の事は気にしないでいいです――とでも言いたげな視線が上を向いた。
帰りたいなと、廉太郎は思った。
『そう。なら、私は迎えに行かなくてもよさそうね』
「はは……」
曖昧な笑みで相槌を返す。
危険は去ったろうに。わざわざ送迎しようなどと、もしや冗談なのかとも思う。だが、ユーリアの性格を考えれば休憩も挟まずとんぼ返りしてきてもおかしくない。
ずっと連絡が取れず、心配していたはずだ。むしろ、後少しでも通信が繋がるのが遅ければ、先に出発されていた可能性だってある。
『家で待ってるわ』
「分かった。……じゃあ、また」
――こそばゆい。
電話でもそうだし、チャットでもメールでもなんでもそうだ。
続くやり取りの、その終わらせ方が難しい。相手との呼吸が合わないと自然なタイミングがつかめない。顔を合わせていない分、余計にそれが強い。
すると。
『えぇ。――ん? あ、うん。私も好きよ』
それに違和感を覚えたのは、すでに通信が切られた後だった。
思念伝達距離の補助装置から起動を表す光が消え、機械音に似たノイズが止んだ。装置にその姿を吸い込ませていたフリムが、ふわりとそこから這い出している。
表情がないため、表情が読めない。
それが不安を引き立ててる。
「ちょっと待て」
それが嫌なものであると、半ば確信に似た予感があった。
「最後に何か……付け足さなかった?」
『気のせいだよ』
「いや噛み合ってなかった。会話が――」
それでも一縷の望みにかけ真意を問う。年上なのか年下なのか、性別がどうなのかさえ判断できない相手。おかげで接し方にさえ悩まされてしまう。
その口調は楽し気で――というよりむしろ愉快犯的で、
『いいじゃん、付き合ってんでしょ?』
血の気が引くのを実感した。
そのくらい言ってやれとでも言いたげな、とんだ余計なお世話。リップサービスを押し付けられたようなものだ。悪いことなど何もしていないのに、親に学校から電話でもかかったかのような不安と諦観が胸を襲ってくるようだった。
ユーリアとのありもしない関係を公言する、その弊害が出ている。
必要があるだけ、周りの誰かにそう思われ勝手を言われる分には納得できるし構わない。だが、それが原因で本人の誤解を生んでしまうとなれば話は別だ。
「……帰らないと」
一刻も早く。
今基地を飛び出し車を走らせても、町に帰れるのは夜になる。半日以上かかってしまう気もするが、それでもできるだけ急ぐ必要が生まれてしまった。
心なしか引かれていた気がする。きっとそうだと動悸が酷い。
こうして通信が切られてしまえば、もう会うまでは何も取り繕うことができない。
電話とかいう、あるいはそれに似た、中途半端に人と人を繋げる技術概念に無性に腹が立って仕方なかった。それを成すなら責任をもっていつ何時でも瞬時に連絡を取れるようにするべきなのに。
こうして、不幸と不和を生み出しかねない。
人間にとって害でしかないのだ、どの世界でもこんな技術は。
悪魔の発明と言って差し支えない。
「……あれですね、廉太郎は」
そんな動揺に耐えかねたのか、クリスは呆れ顔と共にしばらくぶりの口を開く。
「あの人絡みで、その上何かしらかき回されて、それでようやく面白い奴になれるって感じですかね」
「俺は面白くない」
普段かき回してくる張本人に向け、絞り出すように苦言を呈す。
かき回すのは他にアイヴィもそうだが、ユーリア本人を前に茶々を入れられたり、からかわれる分には構わないのだ。廉太郎もユーリアも、揃ってそれについていけない雰囲気を醸し出しているし、互いにそれが分かるから。
だからこそ気まずくならずにこれた。
だが、今回ばかりは事情が違う。たまったものではない。
彼女がどうかはともかくとして、こちらは気まずくならずにはいられそうになかった。
――――
――情熱的な彼氏だね。
そんな軽口をこそばゆく思う。
廉太郎と付き合っている。そんな設定は、彼の素性を隠しながら協力し続けるための方便でしかない。
それでも、友人としてずいぶん親しくしている自覚はある。廉太郎もそう思ってくれているだろう自信だってもちろんあった。
それでも、どこか壁を作られていることには気づいている。初めの内は避けられているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
彼はそういう、独特な距離感をもって人と接するのが自然体なようで。
それが隣に居て心地いいと思うし、やりやすいとも思う。
同時に、ありがたいとも思う。気難しく、面倒な自分に合わせてくれているのもその一環だろうから。ちょうど、廉太郎と過ごした時期はトリカを失って精神的に参っていたのもあり、相当気を遣わせてしまっていた自覚がある。
自己の主張が少ない――のは時折心配にさえなってしまうけれど、自分の意思を抑えてまで他人をとことん尊重してみせるその姿勢は、一種見習いたいとさえ思うほど。 ユーリア自身も大事な相手を優先する人間だが、それはそうしたいという意思を曲げられないだけ。似ているようでまるで異なる。
だからこそ、少し意外だった。
あそこまで直接的な親愛を向けてくれるなどと。
――まぁ、今回は付いていてあげられなかったし。
心細かったのだろうか。
無理もない。あれだけ頼らせておいて、いざその危機に力になってやれなかったのだから。
「ふむ――」
帰ったらもう一度謝らなければ――などと頭の隅で雑念を浮かべながら、ユーリアは気だるげに己の任務の過程と先ほどの通信で得た情報を気に食わない上司へ報告していた。
――本部塔八階、ルートヴィヒの代表室。
地下ほどではないが息が詰まる部屋だ。委縮するほど殊勝でも従順でもないが、単純に気に入らない。何がと言われれば、居座っている者がこの男だというだけ。
気分的にはすべて終わり、すっきりとした気分でようやく気が休まったというのに。
正直、最も気が滅入る瞬間が今だとさえ思えてくる。
「だいぶ私情を絡めたようだが……まぁ、いいだろう」
いいのなら初めから口を挟むな。嫌味を言う気もないくせに、そう聞こえてくるようで紛らわしい――普段であれば、そのように口を尖らせていただろう。
だが今はもう、何でもいいから早く帰りたかった。
わざわざ口論してやる気力と、体力の余裕がない。
それに、より優先すべき事柄がまだ残っている。
「断言してもらうけど……生きて帰って来たのだから、トリカには何もしないわよね」
本来の任務は、死んだトリカの肉体の処理。体に情報が仕込まれている万が一を想定した対処。
だが、その実生きて戻ってきたのだから問題は何もないはずだ。文句を挟ませる余地は何もない。
いくら敵の娘といえど、本人だって何も知るまい。尋問する意味も罪に問う理由もない。記憶と記録をロゼに確認させれば、その裏もとれる。
せっかく図書館の力で普通の人間だったころに戻れるのだ。余計な手出しも、何の干渉もさせるつもりはない。
ちなみに、トリカの血筋について報告する許可は前もってアニムスからとってある。
「そうだね。というより、できなくなった」
その事実を、こうして確認させるためだ。
あの図書館とこの町自体は互いに独立している。そのため、いかに町の実質的な権力を握っていようとも図書館に連なる者には容易に手を出せない。
伏せられていたトリカの情報を開示することで、ルートヴィヒからの言質をとったかたち。
それで、ようやくすべての肩の荷を下ろすことができた。
だが。
「――後、やっぱり気がかりなのは……あの男の目的よね」
基地を襲い廉太郎たちと交戦した謎の存在。そのほとんどが謎に包まれている。常識で考えればあり得るはずのない力もそうだが、なにより目的が分からない。
何がしたかったのだろうか。人を使ってこの町に探りをいれ、攻撃をしかけようとして。
事によっては、背後に組織的な存在が控えている可能性だって否定できない。だとすれば、まだ終わったとは言えないのだろう。
戦争。そんな言葉が脳裏をよぎった。
この町が成立して五十年、人間の社会からは見逃され続けてきた。互いに探りを入れるような小競り合いはあれど、大規模な戦闘は起こっていない。互いにリスクが大きすぎたからだ。
向こうはこちら側、瘴気の支配する土地に踏み込みたくはない。
一方こちらは戦力的に大きく劣る。小規模な町が、残された人間の世すべてを敵に回すことになる。
だが、その向こうはついにその気になったのというのだろうか。あの男、メインデルトは国家ぐるみの手先なのだろうか。
戦争。その日が近づいているのだろうか。
つい七日前諜報員の存在が明るみになったのも、今となってはその兆しに思えてならない。
アルバーの死体から得られた情報は、ユーリアには未だ伝えられないままだ。
「いや、その男の目的については察しがついている」
掠めた最悪の想像をよそに、事もなげにルートヴィヒが口を開く。
「後で苦情を入れておこう」
「……誰に?」思わず口が聞き返した。「何に?」
「君が知る必要はない」
「……なら、言わなくてよくない?」
「そうかな」
頭の動きが鈍くなっているせいで、一瞬本気で喧嘩を売られているのだと思った。
だが、思えばこんな調子はいつも通りでしかない。人とのコミュニケーションの能力に致命的な欠陥があるような男なのだ、この上司は。
たとえ過去に何の確執もなかったとしても、一生好きにはなれそうにない。
痛み出した頭を抑え、ユーリアは諦めて部屋を出る。
断片的に示された情報は聞き捨てならない物であったにせよ、ルートヴィヒが苦情を入れてどうにかなると言うのなら、もうそれでいい。
ユーリアがここで何を言ったところで無駄にしかならないし、どうせあずかり知らぬところで好き勝手するつもりなら、好きにしてほしい。
「ユーリア」
向けた背が呼び止められ、まだ何かあるのかと要件には素直に顔を返してやる。
薄めた目をよこし、上司は手短に伝えてきた。
「図書館に戻るようなら、アニムスに伝えておいてくれ」
「なによ?」
「後で使いを出すと」
謝罪だろうか、知らずに死なせた彼の娘の。
僅かにその意味するところに思考を飛ばし、思い至るやいなや「私じゃだめなの、それ」と買ってでる。
しかし、ルートヴィヒは首を静かに横に振り、冗談でも言うかのように頬を緩めた。
「君が殺されては困る」
ユーリアはその顔から目を逸らすことなく、音が立つよう戸を閉じた。
友人二人の父親と祖父だと知った今、自分で思う以上にアニムスに情が移っていたらしい。