第五十二話 怒りの思念
感じたのは怒り。
否、それですらあり得ない憤懣の念。
それを怒りなどと、認めることも、自覚することもできはしない。
対等、同じ存在であればこそ、人は身に起きた事実そのものではなく相手の方に対し怒りを向けられる。知性のない生物相手に、心から感情的になれる者も、その状況も限られている。
ゆえにただ気分が悪く、気持ちが悪い。
同じ種ではないのだ、対等ではない。
取るに足らないもの、それ以下。
いくら姿形が似通ろうとも、この地に立つそれらを人と呼ぶには抵抗がある。
生き物なのか、何なのか。
それが、思惑の中で動かなかったという事実。
その苛立ちは、飼育する家畜や湧いた蟲が、想定した反応を見せようとしないときのものと似ている。一定の反応が決まっている、程度の低いものたち。制御されるべき存在が、想定に逆らい望む結果を示そうとしない。
時間と、機会と、かけた手間を無駄にされた。
ならば初めからなかったかのように、掃いて捨ててしまうより他にない。
――――
その基地は、かつて人がこの地を治めていた際国家が所有していた拠点の一つ。小規模ながらその全貌を覆い隠す地下砦であり、人の目に見つけられることはない。現在はその跡地を町の機関が再利用することで、ちょうど国境のような瘴土エリアの境目を監視する、最前線の拠点となっている。
それでも、瘴気による汚染が世界に広がって以降、理由なくその中に侵入しようとする健常者は極めて少ない。攻め込まれるような気配もなく、拠点の軍事的価値はそこまで高いとはいえない。せいぜいが、外の世界へと調査に出向く職員のためのものでしかなかった。
そのためここに置かれる戦力、魔術師は一人のみ。
戦闘を想定した部隊ではない。正体も存在も不確かな「何者か」と真っ向から戦闘するには、廉太郎とクリスを加えたとしても不安がある。
そのため安全を最優先し、速やかに撤退するという判断で彼らは合意した。
開けた黄褐色の荒野には何もなく、空と地を分ける二色があるだけ。生き物すら見当たらず、人の気配などどこにもない。
そんな土地の、せり上がる岩場が鳴動を始める。施された偽装が解除され、横引の戸が一人でに開いた。中はくり抜かれた果物のような空洞が広がり、人工的な箱状の建造物が、岩と砂で身を覆い隠していた。
それは、基地から地上に顔を出した格納庫。中には一台の車両が停められており、それは入り口が開くとともに駆動を開始した。
燃料魔力が重い装甲車の車輪を静かに回し始め、車は問題なく地にその車体を乗り出す。そのまま町へ急行すべく、決して短くない帰路に向けて、安定した加速を始めていった。
廉太郎たちが町から乗って来た、頑丈な車両。
特殊なガラスがはめ込まれ、外部から中の様子を窺い知ることはできない。
発進後、しばらく十数秒、なにごともなく基地を後にできたとそれを見る誰もが思っていた。
しかし――空は割れた。
何の前兆もなく。
まるで変わらない部屋の如く、見上げた空の手前に窓でもはめ込まていたかのように、それが割れる。亀裂が走った。透明な刃が空間に突き立ち、それを破ったかのような亀裂だ。地の動きで割れた大地と見紛う不可解な空は、視る者にこの世の安定性さえ疑問視させるほどの異常な光景。
空間に生じた異常はその距離感さえも掴ませない。それでも、地に空いていれば逃げる余地なく車を飲み込む巨大な溝だ。穴は黒々い。その向こうに広がるものを想像することさえ、脳が拒む。
それが、走行する車に目をつけたように、迎え撃つように現れた。
間を置くことなく、そこから何かが振り落ちる。黒く、拳大の物体。それらは雨か噴石かのように、終わりの見えないほどの物量で地に次々と降り注がれていった。
――それらは地に落ち、車体に当たり、あるいはそれを待たずに熱を発した。
爆弾、爆発。一瞬の内に解放された膨大な熱量が、周囲に破壊と爆風をまき散らす。
轟音と衝撃が、地と大気を揺らし続けた。
それは局地的な空爆に等しい。草木も家屋も、吹き飛ぶものも朽ちるものもない荒野で、ただその車だけが破壊の波に晒されていた。いくら装甲を固めようとも、こうなってしまえば鉄の棺桶でしかない。
やがて、周囲は静寂を取り戻す。後に残ったのは炭化し、残骸と化した原型の分からぬ鉄塊だけ。空に裂けた亀裂も、爆撃の終わりと共に何事もなく閉じ平静を装っていた。
いくらか地形が変わろうとも、埋められた基地の片鱗は顔を出さなかった。それは侵入のための風穴を開けるには至らなかったということでもあり、元より逃げ出さずにいれば爆殺されることにもならなかった事実をも意味していた。
そうして誰もが息絶えた地に、代わりに一人の男が立っていた。
初老の、顔に歪みのある男だった。
「……ちっ」
男は砂煙に汚れる背広を手で払う。乱れた灰色の髪を、整えていた油に任せて押さえつけた。
忌々し気な表情だった。
今しがた人を殺しておきながら、屋根裏に駆除剤でも撒いたかのように、その結果をどこか気味悪そうに眺めている。
「何人だ、死んだのは」
鉄塊となった車を前に、男は感情もなく呟いた。そうして、仕留めた成果を確かめるべくそれに近づく。
そして、その足の動きははたと止まる。
妙な感覚を、男は覚えていた。
車はすでに原型を残さず、搭乗者と共に一緒くたのがらくたと化している。車内の様子が覗えないどころではなく、既に車に内側も外側も存在しない。
だというのに、死体の面影が見つからない。肉片も、血の一片も。
それが焼けた匂いさえ、何もない。
『動かないで』
どこからか、鈴のような声が男の意識に介入する。耳も空間も介さず、直接その脳へと。
その出所が分からず、男は首を回して周囲を見やった。
『ちょっと、動かないでって言ったでしょ』
響かない警告にしびれをきらし、地中から羽妖精の光が顔を出す。己の存在と現在の状況を、言葉にせずともそれで男へ示唆してみせる。
男は、黙ってそれに目を向けた。視線がかち合い、フリムはありもしない目を背けるよう再び地中へと姿を消す。
羽妖精は肉体を持たず、ほぼ魂だけで成り立つ存在。物質に干渉されず、地中だろうと移動できる。視覚器官すら持ち合わせず依存していないために、その位置からでも男の一挙手一投足が手に取るように察知できる。
勝ち誇ったような声で、フリムは男に悠然と告げた。
『今、あんたを強めの狙撃銃で狙ってるんだから』
「――まさか、ほんとに襲ってくるとはな」
フリムと男の接触点からやや離れた、基地の内部。
岩山の中に偽装した格納庫のように、基地から地上に顔を繋げる別の棟。敵、男から視認されない位置から双眼鏡を片手に、防御用の狭間を覗いている。
そこにいるのは廉太郎とクリス、そして基地唯一の魔術師であるマズラ。
基地職員の他の三人は、内部の奥にすでに退避している。
マズラは自身の身の丈はある固定された砲台のような大銃を構え、その照準を慣れない手つきで覗いていた。
冷たい汗が、彼女の頬を忙しなくつたう。
「しかし、なんだったんだあの力はよぉ……どこの部隊の魔術師だ?」
気を落ち着かせるように吐き出される、どこか罵倒のような愚痴と疑問。戦闘のプロであり、仕事でこの場を任された魔術師であるマズラの邪魔にならぬよう、廉太郎はそれを緊張の面持ちで眺めている。
何者かに受けている通信妨害。廉太郎への殺害指示。ユーリアとラヴィの置かれている不確かな状況――
それらから現状を最大限に警戒するとし、撤退を図る前に無人の車を先行させていた。悪意をもってこの基地が監視されているのなら、そこを狙われる可能性は非常に高いと考えて。
そして案の定、危惧した攻撃は想定を超える規模で熱烈に振るわれることとなった。無警戒であの車に乗っていたことを思うと、思わずクリスの肩を掴まずにはいられなくなる。
「……震えてる?」
完治しない怪我に杖を突かされているクリス。その肩に触れた手が、無理もない動揺の一端を伝えてくる。
「まさか――」と、それにクリスは呟いてみせた。
違ったのか、あるいは強がっているのだろう。
そう思ったのだが――しかし、
「まさか……まさか。い、いや……でも――」
様子がおかしい。
クリスは外に目を向けることもなく、ただじっと床に目を落としてぼやき続けているだけだった。心ここにあらず、しかしその動揺は廉太郎たちが陥っている現状と、まったく別のものに起因しているように思えてなない。単に慄いただけで、ここまで平静を失うタイプではない。
発言の意図だって取り違えている。これでは初めから、廉太郎の問いなど聞こえてさえいないだろう。
『いいや。きっとそのまさかでいいらしい、クリス』
どう声をかけたものかと廉太郎がたじろいでいると、静かに現れた『ロゼ』が代わりにそう語りかける。廉太郎の意識から、それを観測できるクリスへと。
クリスはその言葉に顔を上げ、怪訝な顔で口を開きかけた。そして渋い顔で口元に指を当てる『ロゼ』の姿に、勢いを削がれ、ただその目を見据えていた。
そして、そのまま見つめ合う。
傍から見れば、クリスは半ば睨んでいるようにも見えた。
それに対し、『ロゼ』の表情はすまなそうにしおれている。いつか見たような顔だと思った。
両者の意図を、どちらも廉太郎は察することができない。『ロゼ』の魂、心を覗くことは廉太郎にもクリスにもできないし、クリスの魂を覗ける者もまたいない。
だからその二人に、認知してまだろくに交流もない二人に、無言での意思疎通や相互理解などあるわけがない。
「大丈夫か……クリス?」
「え、えぇ。初めから別に――」
いつも通りの減らず口で、クリスは廉太郎の持つ双眼鏡を奪い取った。
何も言う気はないようだった。だが、クリスを動揺させる要素があの男、ないしその能力にあったということは明白。そしてそれは、そうやら『ロゼ』も知るところではあるらしい。
『――女か、私を見ているのは』
唐突に、脳内へしゃがれた声が流れ出す。
不快な声だ。
フリムが離れたあの場から伝えてくれる、男の発する声だった。
「あいつ、こっちが見えているのか? いや、そんなはず――」
銃の照準越しに男を睨み、マズラは怪訝そうに不安を漏らす。その照準の先、男の顔はこちらを向き、真っすぐその目を細めていた。ここに隠れていることなど、肉眼で見抜けるような偽装ではない。物質的にも魔術的にも、決して軽くない対策がなされているはずなのだ。
『……醜いな』
『んんっ、何がぁ?』
男の呟きと、フリムの問いかけ。それが、通信機が拾った音声のように廉太郎たちの脳にも時間のずれなく伝播される。
『肌の色だよ』
その言葉に緊張が走ったのは、この場で廉太郎だけだった。
思わず横目に、照準を覗き続ける彼女を見る。しかし、危惧したものを裏切るように、本人はまったく気にする様子をみせていない。それどころか発言の意図にさえぴんときておらず、何を差しての評価なのかさえ分かってはいないように見える。
その様子に、ひとまず胸を撫でおろした。
だが、廉太郎には確信できてしまった。そして同時に、そう確信するに至った根拠、理由、固定観念と潜在意識――それらに、どうしようもない自己嫌悪を覚えてしまう。
だが奴は間違いなくこちらを、肉眼で捉えたように視認している。
『なになに、悪口? あたしに肌なんてないんだけど?』
そういう考え方自体が根付いていないのか、フリムは明らかに自分に向けられたものだと勘違いをしているようだと、廉太郎はどうしても思う。
元よりそういう性分なのか、フリムの発言――発念には緊張感がずっとない。場違いで、お喋りの延長線かのような口調だった。
どこか幼児性さえ感じる。そんな存在へ向けて、男は地へ吐き捨てるように言い放った。
『当たり前でしょう。羽虫風情が』
『ちょっ……侮辱発言だーッ! 何十年かぶりだぞ、この――』
どういう仕組みで伝播してくるのか、フリムの発する念に力がこめられる。音量を上げられたオーディオ機器のように、脳内に響く音が強まった。
とっさに耳を抑えようと、そこを介さない伝達情報に効果はない。
「落ち着けよっ、あいつめ――」顔をしかめ、マズラは照準から目を離す。
そして、こちらからの言葉が届くこともなかった。思念を他者へ伝えるのが羽妖精の力であり、逆に羽妖精が他人の思念を捉えることはできない。感覚器官もないのに何故なのか、彼らが聞くのは人の肉声だ。
人の肌色には無頓着でいる割に、何が癪に障ったのか――しかし、虫扱いされて平気でいられる者もまたいないだろう。
『やっちまえ――マズラ!』一方的な射殺指示。しかしすぐに思いとどまり、『ん。でも、大人しく拘束させてくれれば何もしないであげるけど?!』
それは最終的な投降勧告。狙う位置がばれていようとも、魔術師が大規模な設置兵器と共に捉えた相手だ。しかも、その傍には敵に肉薄して狙撃を補助する仲間がいる。この状況を無傷で突破できる魔術師などそうはいない。仮に加速型だとしても、ユーリアほどの実力がなければ傷を負わせられるだけの舞台が整っていた。
仮にも基地の真上である。
何の準備もなされていないわけがない。
「……はは」
しかし、それに対し男は薄く笑いを浮かべただけ。その表情、所作。照準越しでも鼻につく。
大人しく投降するような、常識的な人間ではあるまい。
マズラが引き金に指をかけるには、十分な態度であった。
「上等だコラ。お喋りするにはいらねーよなあ、腕も足もよぉ――」
何にせよ、状況を理解し整理するためには真意を聞き出す必要がある。殺したところで町へ脳でも運べばそれは可能だが、てっとり早くこの基地で澄ませるには口を割らせてしまうのが一番いい。
男は動こうともしていなかった。
その痩せぎすの足に向け、マズラは外すことのない引き金を引いた。