第五十話 むこう
「この子、ずっと眠ってるわ」
アニムスに連なる血の繋がり。やや踏み込みづらいそれらの事情を呑み込まされたのち、ユーリアはトリカの様子を見るため別の部屋へと連れられた。
図書館の地下深くに埋まる居住空間。外観を一望することはできないが、普通の一軒家と何ら変わらない設備と機能を備えている。入り口を開けて通された応接間こそ広く特別な一室のように豪奢であったものの、そこから続く扉の向こうに広がっていたのは当たり前の民家にあるのと変わらない狭く短い廊下だった。
仄かに、陽が当たることのない廊下を蝋燭の灯りが照らしている。位置する場所は異様なのに、それらは場違いなほどに馴染みがなくもない光景だった。
気分的には本当にただ友達の家に立ち寄ったかのようで、悪く言えば雰囲気はない。
「落ち着いてくれては、いるようだけれど――」
ベッドに横たわったトリカは依然変わらず目を閉じたままで、見た目にはその身に起きている異常が分からない。
ただの幼い、大切な子供。
心配で仕方ないのはずっと変わらない。しかし今、隣に彼女と血の繋がる者が二人もいる。それが頼もしくて、闇雲に不安になるようなことはなかった。
空き部屋だったのか、まとまりのない物が隅へ乱雑に積まれているだけの生活感のない部屋だった。
どこか、身に覚えのある住居事情。余計なものが目に入らぬよう、ユーリアはただトリカを見つめていた。
「ふぅ」薄い毛布をどこからか持ち出し、ラヴィはそれをトリカにかけた。濁った視線を投げたかと思うと、口元を歪めアニムスへと言い寄る。
「……館長、妹を変な目で見ないでよね」
「当たり前だ。早すぎる」
「――こういう人だから」
諦めたように告げるラヴィに、いったいどう返してやればいいのだろう。やはり、曖昧な苦笑いを浮かべることしかできそうにない。
どうやらこういう言動に、常日頃から苦労――というより、心労をかけられ続けているようであった。
アニムスは超常の存在だ。おそらく妖精種の中でも特に生物の枠外に近いほどの『なにか』としか形容のできない何者か。ユーリアの知識や一般に知られる常識の中に、彼らのような存在や能力は刻まれていない。
そのアニムスの思考や嗜好が、どれだけ人間のそれとずれていたとしても驚くことはできない。
それとは別に、
「ま、まぁ私みたいなのがいるわけだし……」
そんな自分とは反対に、奔放で見境のない者がいたとしても、それはそれでバランスがとれているような気もする。そう気を使って口をついた言葉だったが、ラヴィは受け入れる気もない様子で眉を寄せるだけだった。
血の濃さでいえば、ラヴィはかなりアニムスに近しい。母体の関係上分類は人間となるが、半分以上『なにか』側だ。
それでも、彼女の思考回路はだいぶ人間側であるらしい。自身もそこから外れがちなので、らしいとしか言えない。
「――あの、トリカのことなんだけど」
咳払い一人、自分を主張。
「本当に、ここに寝かせていて大丈夫なの?」
「あぁ」
研究所でも病棟でもなく、何の治療設備があるわけでもない一室だ。
それでもアニムスは肯定し、ラヴィは自信を持って連れてきている。それは単に身内だったから、などという短絡的な理由ではあり得ない。根拠がなければ無責任な行為で、当然そんなことをする人たちであるとも思っていない。
だから、確証というよりその理屈を求めたいだけだ。
ほとんど末期状態に近いトリカが、なぜ専門の機関に任せずとも構わないことになるのか、その理由を。
「詳しくは言わんが、この図書館は俺たちにとって都合のいい場所だ」
「都合がいい……って、具体的には?」
「力がでる、安定もする」
「も、もっと分かるように言いなさいよ」
理解させる気の感じられないアニムスの言い様が、焦らされたようにもどかしい。わざとやっているような気もするのに、不思議と怒りさえ湧いてこない。友人二人の父と祖父だと、今は分かっているからだろうか。
説明を求めるユーリアの視線に、見かねたラヴィが言葉を加える。
「例えば私が使って、この子が真似しちゃった瞬間移動法。あれ、ただここに帰ってくるだけの力なんだよね」
「……あぁ、そうだったの」
今夜トリカと対峙したとき、その場から町の方向に向けて跳ぶことしかできないことは分かっていたし、単に方角が偶然町を向いているだけだとも思ってはいなかった。だが、この場にある三人の繋がりなど知る由もなく、図書館の場所自体に意味があるなどという発想には至らなかった。
今となっては、先日の昼間に消えたラヴィがどうなったのかも理解できる。
あの場からこの図書館地下の自宅まで、車で半日以上の距離を一息で転移してしまったのだ。片腕は間に合わなかったものの、胴体に攻撃が及ぶ前に、逃れ帰ることができたのだろう。
「でも、腕は……」
あの場には何も落ちていなかった。だからこそ、再会するまでラヴィの状態も分からなかったのだ。共に消えここまで戻ることができたなら、すぐに処置しすれば繋げることだってできたはずなのに。
一緒に帰ることができなかったのだろうか。
自然と肩に目線が落ちる。再開してから時間が経とうと、慣れることも割り切ることもできはしない。庇わせて、負ってくれた傷だ。その気持ちを思えばただ感謝するべきなのだとは分かっていながら、哀れだと思わずにはいられない。
例え自分の体が欠落しようとも、ここまで胸が苦しくなったりはしないはずだ。
そんな隠すこともできない視線に対し、ラヴィは「気にしないで」とどこか気まずそうに口ごもっていた。
「泣いてくれたから言いづらかったけど、私の腕なんてすぐ治るよ」
「何言ってるのよ……」
「あ、信じてないね。言ったでしょ、都合がいいし安定するって」
「ほ、ほんとに……?」
気を使い、逆に慰めてくれるための妄言だとしか思えなかった。
だが、言われたようにラヴィもほとんど人間の枠を超えている。通常切り離され時間が経った四肢など接合するのも難しいはずなのだが、自身気でしかも悲壮感もないラヴィたちの様子から、徐々に常識外の彼女らであれば可能なのかもしれないという気にさせられていく。
「だから、トリカのことだって心配しなくていいんだよ。元の体にすぐ戻れる」
「あ……」
喜ぶのも忘れ、絶句してしまう。
他の何の言葉でもなく、元に戻すと言ったのだ。容態を落ち着け、安定させるための処置などではない。それしかできないと思っていた延命処置ですらない
終了のための準備などからは、根本から異なる言葉だった。
心身の、異形化からの完全な治癒。それは、おそらく世界で他に例のないほどの奇跡である。人間であれば誰もが望んで、そして叶わないと知る永遠の闇。人間だけを蝕み、特に瘴気のただ中に位置するこの町では死因の八割にまでのぼっている。全世界的に見ても、平均寿命の歴史を百年以上前の水準に引き戻している。
だからこそ、にわかに信じがたい。
しかし、彼らほどの存在であるのなら、あるいは――
「力は薄いからな、俺とラヴィほどの再生力はない。が、瘴気による異形化など風邪ほどのこともないだろう」
「ちょ、ちょっと待ってよ――」
与えられる情報のそのどれもが衝撃的で、ユーリアは思わず頭を押さえた。受け入れるのに一呼吸を要すると思っただけなのに、いざ頭で捉えようとするとあまりの現実感のなさに脳の動きがついていかない。
それが懐疑的な態度に見えたのか、心配そうにラヴィは言う。
「ほんとだよ。明日には、身も心も元通りになっているだろうね」
「い、いえ……信じるわ。信じるし、とても嬉しいことだとは思うのよ? でも、それって『都合がいい』ですむ話なの……?」
「そういうものだよ。そう思って」
「――そう」
そこで何やら気が抜けて、床にへたり込んでしまった。
思えば先日の朝から丸一日動き続けていたし、途中からはずっと気を張り続けている。気力も体力も限界に近く、強力な睡魔が瞼を重く変えてしまう。
一度疲労を自覚してしまえば、今まで平気に動いていたのが冗談のように気分は悪くなっていた。
「椅子持ってこようか? それとも、隣で寝る? 一緒に寝る?」
「……いいえ。まだ、やることが残っているもの」
ここまで後回しにせざるを得なかったが、ベリルの件がある。
彼の目的は不明瞭で、何をしでかすか分からない様子だった。しかし、ここに来るまでに見回してみたものの、幸い未だ大騒ぎが起きた気配はない。
トリカを置いてずっと早くたどり着いているはずだから、どこかに潜伏しているのは間違いない。ユーリアと同じ、疾走型の魔術師だ。実力はだいぶ劣るとはいえ、平凡な男ではない。相当な下手さえ打たなければ、誰にも見つからず目的を探すことくらい可能だろう。
だが、複数人の魔術師との戦闘になれば勝ち目はない。
その前に接触を果たし、説得するか、負傷させてでも身動きを奪う。死なせるわけにはいかない。ここまで、できすぎであるほど上手くいっているのだ。
それに、何者かの通信妨害を受けていた基地の件も気がかりだった。
「ごめんなさい、この子のことは任せるわ。私は機関に戻って、報告を――」
「少し待て」頬を叩いて気力を奮い立たせるユーリアを引き留め、「お前の持ち帰った情報と理解だけでは、まだ分からないことがある」
トリカに近づき、アニムスは覗き込むように顔を見た。
「運び込まれたとき、トリカの魂には何か干渉する力が感じられた」
「……干渉?」
「取り除いたがな。何者かの影響を受けていたようだ」
「な、なんで……!? なんのために、そんな――」
狼狽や疑念、それ以上に燃え上がるような怒りがこみ上げる。
顔も知らない何者かに、知らないところで友人に手をだされていたこと。そして、それに気づくことも、解決してやることもできなかったこと。
「そりゃあ、利用するためじゃないの?」
「腹立たしいことにな」
ラヴィとアニムスは、もう終わったこととして冷静でいる。ここにいれば安全だという確信があるのだろうし、無事に帰って来たことを思えばそれだけで十分なのだろう。
しかし利用されたこと自体も業腹だが、その目的にだって気を向ける必要がユーリアにはあった。トリカを取り戻そうとも、その何者かの敵意はなおどこかに向いているかもしれないのだから。
「影響ってどんな……まさか、操られていたって言いたいの?」
「だろうな。といっても、洗脳のように強制されたわけではく、ただ心を煽られ動かされただけだろうが」
それを聞いて、少しほっとしてしまった。
トリカがしたことを振り返れば、ユーリアと敵対するようにしむけられたことは疑いようがない。しかし、そこに至るきっかけはあくまでトリカの中にあった感情だ。ユーリアはそれを抱いて当然のものだったと思うし、そうでなければいけないものだ。文句もなければ否定されていいものでもない。
だから、あのトリカの言動が、本人からまったく乖離した意思によるものでないのなら、それでいい。
しかし――
「許せないわ。……そうでしょう?」
だが、この子に無遠慮に手を加えた何者か。この子が一番苦しんでいたときに、ほんの少しでも苦しめるようなことをした者が、追い詰めるように背を押した者がいるのであるなら、到底許すことはできない。
誰なのかも、今どこに居るのかも、目的も何も分からない。
それでもいつの日か、必ず報いを受けさせねばならないと強く思う。
――――
「いい子だよね」
寝室を出て行ったユーリアの背をなぞるように、ラヴィがぽつりと呟いた。
隣には父親、傍らにはまだ口をきいたこともない種違いの妹。そして、出会いを思えば想像だにできない友人がいる。それを思うと、本当に腕一本失っても惜しくない二日間だったと、人知れず少女は思っていた。
「お前、初めはあれだけ嫌っていたのにな」
「そうだね」
それが、今では遠い昔のことのよう。
「だから、初めにアニムスがあの子を許してくれて、ほんとによかったと思うよ」
もしあの日、ラヴィと同様アニムスが感情を抑えられずにいたのなら、ユーリアは今生きていない。いくら彼女が対人戦闘で無敵に近いといはいえ、戦闘力には天と地の差がある。
「いい女だからな」
「……もう」
軽口に口を曲げつつも、否定できるような言葉は浮かばなかった。
「悔いていたし故意ではなかった。こうしてトリカも戻ってきた。だから許すもなにも、恨みも何も俺たちにはない」
「うん」
ユーリアに告げた通り、本心から二人は彼女を心良く思っている。
「だが――」
「そうだね」
言葉は不要。特別な力で意思疎通など図ってもいない。
親子、血のつながり。考えることは合わせずとも自然と合致してしまう。
トリカは死んでおらず、ユーリアには初めから罪などない。
しかし、マリナを殺した者を許す気は元からなかった。
アニムスの娘、トリカとラヴィの母親。その仇を打たずにいれる精神構造は持ち合わせていない。
あの日襲撃をかけた者。それを指示した者――それらは明確な敵である。
「身内の安全を確保した以上、俺たちの弱みはなくなった」
「戦争だね」
機関、この町そのものと。
「いつの日か、必ず報いは受けさせる」
相手の正当性や、その結果巻き込みんで生まれる被害など考慮に値しない。家族、身内、今いるこの場以外はどうなろうと構いはしない。
誰に聞きだすでもなく殺すべき相手は分かっている。
実行犯である魔術師と、それを指示した部隊長と――機関の総合代表であるルートヴィヒ。
一人を除いて、虫を潰すほどの手ごたえもない。
「まぁ、今日明日の話ではないがな」
「お互い、時間は腐るほどあるからね」
いつの日か。そういう心構えさえあれば十分なのだ。それが叶わずとも、常に気持ちの上では戦っていられるから。
ふと思いついて、ラヴィは父に問いを投げた。
「――ねぇ、お母さんは何て言ってる?」