第四十九話 暴露
「だからな、トリカがお前に見せた能力――人間にはあり得ないはずの力は、俺に由来するものだ」
「……ほんとなのね。そうでなければ……おかしい話だったものね」
空間転移術、魔力鞭。
トリカが純粋に人間であるのなら、どれほどその魂が瘴気に犯されようとも発現するはずのない力。前例のない、道理と常識から外れた異常事態。
アニムスの正体はこの際置いておくとして、その妻が人間であったのなら、その娘であるマリナはハーフとしての人間だ。
マリナの夫、アルバーは人間なのだから、彼女らの間に生まれた娘であるトリカはクォーター。僅かながら、アニムスの血が混じっている。
薄く、言葉の上ではほとんど人間と変わらない。それであれだけの力を生み出すのだ。アニムスの存在が、それだけ常軌を逸していることを物語っている。
「でも――トリカはあなたのことを、知らないと言っていたわよ?」
嘘をついたようにも見えなかった。
自分の血や能力にも無自覚的だった。
「そのはずだ」
うなずき、その先の発言をためらうようアニムスは目を逸らした。
珍しいことだった。
「俺に子がいると知る者は少ない。……公表もしていない」
「どうして?」
この町において――この町においても、個人個人の種族は重要視される。それは根本的な差別意識とは別ものの、性別や容姿以上に人の印象を決定付ける要素。
だがマリナのことは、おそらく誰もが当たり前の人間として定義していたはずだ。それは極めて異例であり、不可解でもある事実。
「育児放棄、施設に預けた。産んで、すぐに妻は死んだからな」
「……そう」
言えることは何もなかった。親の気持ちも、恋人や配偶者を愛する気持ちも、それを失った人の気持ちも分からないから。
だが、家族を失った者の気持ちは痛いほど分かる。
その状態で子供を一人育てろと言われ、それで背負いきれなくなったとしても、責めようとする気には少しもならない。
それでも、半ば実親から育児放棄されていた身としては――
「その、マリナとは……」
「会っていたよ、ここでな。だからあいつも全て知っていた」
そこにあるべき、家族の愛を夢見てしまう。
そしてそれが成されていたという事実は、ささやかでほろ苦くも、当たり前にそこにあった親子関係とは別に――一つの現実を否応なしに突き付けてくる。
「じゃ、じゃあ……あなたは――」
自分の声が上手く耳に届かない。それほど慄いているのに、現実感は今さらやってきたかのように心臓の鼓動に纏わりつく。極度の緊張のように、胸のあたりが嫌にざわついて気持ちが悪い。
目も見れず、話を続けることも、ここに居続けることにさえ耐え切れない。いつもの調子で接してくれていなければ、きっと逃げ出していただろう。
「あの日……娘と、孫を失ったってことになるの――?」
死んだと、自分の手で死んだと思っていたトリカは、無事とは言えずとも戻ってきた。
しかし、マリナの死は変わらない。
言い訳の余地なく、機関の過失で巻き添えを食い、殺されてしまった。
――気づけなかった。
あの日、洞窟でトリカを死なせてから、廉太郎と共に一度図書館には寄っているれど、アニムスの態度は普段通りに見えたから。まさか、そんな――自分やトリカと同じような、苦痛と絶望の中に居ただなんてことが。
図書館の中で、アニムスは中にいる者の心を自在に読み取れる。だから、トリカに致命傷を与えて失わせてしまったのが誰なのか、そのとき知ってしまっていたはずなのに。
「だから、孫はお前が連れ帰ってきただろうが」
どんな言葉をぶつけられても当然なのに、アニムスは一言も責めようとはしない。
前回も、今も。
誰かと同じく。
「だから礼を言う、深くな」
目を閉じ、注意して見ないと分からない程度に頭を下げる。
それに耐え切れず、ユーリアは間に挟んだ机に手をつき、できる限りより深くところへ自分の頭を押しやった。
「ごめんなさい――!」かえって目も見ないのでは非礼なのかと、首だけを上に向ける。「謝って、それで済むだなんて思わないけれど、でも――」
「もういい」
アニムスは短くそう告げる。あしらう訳でもなく、必要のない頭を上げさせようとして。
手が頭に伸びてくるが、避けようともしなかった。頭皮に指が触れそうで、それでも動かないユーリアにアニムスは髪だけを掴み、頭ごと持ち上げるように引き上げる。流されるべきなのか受け入れるべきなのか、少し迷って痛みに逆らう。
引かれた髪はすぐに離され、諦めたように口が開かれた。
「確かに、五日前――お前がここに顔を見せたとき、死んでもらおうかとも思った」
反射的に、それだけで腕を振り上げられたかのように身が縮こまってしまう。当然だとは分かっていながら、どうしても恐ろしく、恐れ多い。
敵意を向けられるには慣れていても、憎悪など向けられたことなどない。
仮に戦うとしても、勝てる気がしないのはこの男くらいだ。
「だが、悔いていることも分かったからな。それでもう水に流した」
「……えぇと」
「泣いてたろうが」
「う――」
思わず、目を逸らす。
あの日、廉太郎を連れて入った図書館の中。些細なきっかけで、目を背け抑え込んでいた感情が不意に沸き上がり、化粧室に駆け込むことになったのを覚えている。
それが見られていたとなると、素直に顔が熱くなってしまう。
というか――
そんな場所まで監視されているのか。
大丈夫なのか、この上の図書館は。
「悔いているのなら、それでいい。お前のことは嫌いではなかったからな」
「――でも、それではあなたが……あまりに……」
今は平静でいるように見えるが、娘が殺されたのだ。平気でいるわけがない。普段と変わらず淡々としているせいで、無感情に話すように見えるだけだ。
アニムスの娘、トリカの母――マリナの死に、ユーリアが直接関わっているわけではない。それでも、彼女の家に襲撃したのは同じ機関の人間だ。責任、罪の一端を感じずにはいられない。言葉にできない申し訳なさで、心が張り裂けそうに痛い。
それに、トリカを今日の今まで死なせてしまったと思わせていた負い目もある。
「今さら……私に、何ができるわけでもないのは分かってるけれど――」
少しでいいから、償わせてほしかった。
たった一言、責めてくれるだけでもいい。それで、僅かでも気を晴らす足しになれるのなら。
「ねぇ」
「いらん。もう十分応えてくれたからな」虚空に目を寄せ、思い出すように小声でつぶやく。「……二日前か」
任務のためこの町を立つ直前、廉太郎が借りた本を返しにこの図書館を立ち寄った早朝のこと。
「お前の任務を知ったとき、万が一トリカが生きているなら接触できるはずだと考えた」
「だから、ラヴィを同行させたのね」
「あぁ。俺はここから出られないからな」
「それは……」
比喩なのか冗談なのか、よく分からない一言が飛びだしてきたが、アニムスがどんな存在だろうとそう驚くことはもはやないだろうし、どうでもよかった。
「それでも何か、私に何か……」
トリカを取り戻したかったのは、自分がそうしたかったからだ。それを償いとしてしまうのでは、自分自信が納得できない。相手がそれでいいと言ってくれるのだから、それを求めるのは自己満足でしかない。そんなことは分かっている。
それでもユーリアは、娘を失ったこの男に、何をどうすれば力になれるのか知りたかった。ほんの些細な、なくても変わらないようなものであっても構わない。
こうして傍にいて、その胸中を思うだけで、自分のことのように見ていられなくなってしまうから。
「できることとか、してほしいこととか……何でもするから」
「ん、そうか――」
アニムスは顎に手をあてて、覗き込むようにユーリアを見た。どこまでやれるだけの気概があるか、そう値踏みするかのような視線が嬉しかった。
できるだけ難しいものである方が、お互いにとって気が晴れる。
期待して見上げるユーリアに向けて、さらりと口が開かれた。
「なら、一晩抱かせてくれ」
どこからか花瓶が飛んでくる、間髪入れず。
それはアニムスの側頭部で砕け散り、当たり前のように水が舞った。唖然とするユーリアの目の前、瞬きもしない男に向け、冷めきった声が部屋に響く。
「……まさか。まさかまさかと思ったけど――」
奥の間に続く戸が開いていた。そこから顔を見せたのは、先んじてここに着いていたラヴィ。その、羞恥に赤く染まる顔だった。
それはどこか泣き出しそうな表情で、『珍しいなぁ』とユーリアは思った。
「こんなときくらい自重できないの? 恥も知らないの?」
やはり珍しく、感情の発露に乏しいラヴィが明確に怒りを見せている。それを見て、『あぁやっぱり、そう反応していいようなことだったのね』と、やはりまた他人事のようにユーリアは思う。「……いや、それはそうよね」
「ユーリアも、こんなので考え込まないで!」
「えっ? は、はい――」
思いのほか強い視線に、反射的に了解を返してしまった。
元からどう処理すればいいのか分からない話題で、考え込むというより途方に暮れてしまっていたのだが、それを見かねてくれる友人がありがたいことくらいは分かる。
「何をする。俺と部屋が汚れた」
「――死ね」
臆面なく口を尖らせるアニムスに、ラヴィは露骨な嫌悪で吐き捨てる。
また何かを投げつけそうな剣幕。止めるべきかどうか少しだけ悩み、しかし何だか面白いような気分にもなってしまい、やめておいた。
「やっちゃいけないって分からないの? 弱みにつけこもうなんて……」
「しかしな」何をそんなに言い迫るのか、不思議に思うように「特に望むことなど、それくらいしかない」
「この――」
再び激昂するラヴィ。
これだけ遠慮なくものが言えるのだから、思ったより雇用主と従業員の仲は近しそうではある。
しかし、一方的に責めるのもどうかとユーリアは思う。そう言わせてしまった責任は、言われた側にもあるのではないかと、彼女特有の思考で。
手を上げ、隙を見ておずおずと口を挟む。
「その、まさかとは思うのだけど……アニムス、私のこと好きだったの?」
「いいや、お前の体に興味があるだけだ」
そこまで堂々と言われてしまえば、これまで世間で広まる常識や倫理観として学んでいたものの理解に間違いがあったのではないかと疑ってしまいたくなる。
あるいは、文化の違いなのかもしれない。
でなければ、常識も理性も社会性もない人ということになってしまう。
「いつもつも……だから死ねって言ってんの。女ならだれでもいいんでしょうが」
「貴様、その物言いは何だ――父親に向かって」
つい「えっ――?!」と。そんな、間の抜けた声があがる。
まともに理解が追いつかない。突如飛び出したその言葉、その意味するところ。それまでの話がすべて吹き飛んでしまう程の衝撃となって、それはユーリアの目を見開かせる。
「ちょ……言わないでって、それ――」と、ラヴィの様相は明らかに誤解や冗談などの逃げ道を否定している。
「――えっ、え? あなたたち……親子だったの?」
今の今まで、全然考えもしなかった。
ラヴィはずっとアニムスを「館長」と呼んでいたし、図書館にいるのも仕事だと言うだけでアニムスとの関係を示そうとしていない。
「だからバレたくなかったのに……」と顔を伏すラヴィの様子をみるかぎり、意図的に隠そうとしているようだった。ずっと羞恥に顔を染めていたのも、話題の内容というより身内の言動に恥を覚えていただけなのかもしれない。
だが、そうであるなら納得ができる。
アニムスと同じような、人外めいた転移術をラヴィは使う。雇用上教わった、などでは説明がつかないが、実子であるなら可能だろう。
トリカより、人外の血は濃いのだから。
「で、でも……おかしいわ――」
先ほど、アニムスは死んだマリナは自分の娘だと言った。
そして、ラヴィも娘だと言う。
マリナとラヴィ、二人の歳は離れすぎている。一児の母であるマリナは、十六だと教えてくれたラヴィの倍ほどの年齢であるはずだ。
それに、アニムスの妻はずっと前、マリナを産んだ時期に亡くなっているはずなのだ。
それから新たに妻を得ただなんて話は、聞かされていない。
「何がおかしい?」
ユーリアの頭に渦巻く疑問、それに気づき答えようとするアニムスに「そ、それだけは――」と、ラヴィが慌てて制止をかけた。なにゆえか。
しかしそれは軽くあしらわれただけで、アニムスの暴露は止まることがなかった。
「ラヴィは、俺とマリナとの子だぞ」
「……えと、その――」
言葉通り理解しようとしても、途中で何かを間違えた計算のようにそれが滞ってしまう。
しかし、何度飲み込もうとしても答えは変わらず、さすがに冗談だと思いラヴィの顔を覗き込む。
この世の終わりのような顔がそこにあり、明後日の方を見据えるその目がすべてを物語ってしまっていた。
「ほ、ほんとなのね?」
「……うん」
さすがに、タブーに触れているのは分かる。
何がだめなのか。それはいまいち実感するところではないが、親子で子供を成したという話は決して良いものとして語られない。ユーリアの中にも、理屈で説明できないような戸惑いが生まれてしまうほど。
ラヴィが隠したがったわけだ。
目を逸らしている彼女をよそに、ユーリアは混乱した話を頭の中で整理する。
アニムスの妻がマリナを産み、亡くなった。しばらくして成長したマリナは実の父親との子――ラヴィを産む。その後マリナはアルバーと結婚し、トリカを産むこととなる。
「…………」
連なる人物、すべてが壮絶すぎる。家系図も描けない。
愛はあったのか、同意はあったのか――などと、詳しく聞くことさえ気が引けてしまった。
「もうばれちゃったから言うけど、私とトリカは姉妹だよ。……父親違い腹同じの」
「あ――」
その言葉で、やっと一つの事実が脳裏をよぎる。
「あの子には伝えてないけど――っていうか、言えるわけなかったけど……」
そう寂しそうに言う、ラヴィの言葉が耳を素通りして抜けた。
それでも、頭のどこかでは理解している。
ラヴィも、アニムスも。おそらくはその明かせない事情によって、トリカとは距離を置いていた。それでも、この親子はずっと気にかけていたのだろう。二人ともあまり表にはださないけれど、実の家族に向けるのと変わらない、あるいはそれ以上の情を向けている。
これまでの言動を振り返えれば、それは疑いようがない。
そして、同時に心からよかったと思う。一人ぼっちになってしまったあの子に、こんな風に愛してもらえる人たちが、家族として受け入れてくる人たちがいたのだから。
ラヴィの言うように、これからは否応なく一緒にいれることになるだろう。
だが、それには一つ――未だ、受け入れなければならない現実が残されていた。
「引かないでね――あ、あれ……?」
自分たち親子の真実をどう受け入れたのかと、ラヴィはユーリアの表情を覗き込む。そして、驚いた様子で慌ただしく声をたてだした。
「ど、どうしたの? まさか、それほど気持ち悪かった――」
顔を覆い、唐突に涙を流し始めたユーリアに焦った様子で近づいてくる。
身に耐え切れないほどの優しさに、感情の波はとどまることを知らない。口を開けただけで、声が震えてしまうのがわかる。
「――だって、そうしたらラヴィ……お母さんと妹いなくなっちゃったってことじゃない……」
幼いトリカには告げられずとも、母親のマリナとはアニムスとともにずっと会っていたに違いない。あのトリカを育てた母親だ、娘を放っておくはずがない。ラヴィだって、口では父親の異常行動をなじりつつも、両親に対する思いは普遍的なもの以上にあるはずだ。
ラヴィは秘密の母親を愛していたし、関わりを避けた妹も愛していた。
――あの日、ラヴィとの初対面で険悪にからまれた理由を今さらながらに理解した。
いまでこそ、トリカが生きていたことは分かっている。だが、当時は死んだと誰もが思っていたし、ラヴィもアニムス同様、ユーリアが手をかけたことを知っていたのだろう。
右腕どころの話ではない。
それよりずっと前に、どうあっても償えないような思いをさせていた。
アニムスに対しても同じように思う。
しかし、申し訳ないけれど、子供が殺された気持ちに親ではないユーリアが心から共感してやることはできない。
それでも、母親が殺された衝撃の大きさは知っている。
「あ……そっちかぁ」と、ラヴィは安心したように笑身を浮かべた。
母親が殺されて、まだ一週間しか経っていない。そんな状態で、ラヴィは他人を気にかけることができている。
それに心を撃たれ、心からありがたいと思う、同時に、いっそ、その優しさで断罪されているかのような気分にもなって。
そんな自分がますます小さく思われて、消えてしまいたいとさえ強く思う。
「悪いだなんて思ってないし、泣かなくていいんだよ。――いや、泣いてもいいけど……ついでに全部聞かなかったことに……」
遠い目で自虐的に笑うラヴィに、ユーリアも同じく笑みを浮かべる。鏡ではあまり見たくないような泣き笑いになっているだろうけれど、それでも精一杯にその目を見た。
こんなことを知っていれば、きっと友達になりたいだなんて、絶対に言えるはずもなかっただろう。
それでも、何も知らないままでいる自分を受け入れてくれたこの友人に対し、本当に仲良くしてくれるのか、友達になったのはそれでいいのか――などと、そんな気持ちを踏みにじるような確認は絶対にしないでいようと、ユーリアはそう心に誓っておいた。