第四十七話 ミッシングリンク ⑨
一年来の親友。付き合いはまだ短いけれど、もはや知らないことなどないとさえユーリアは思っていた。
一度死にかけて、精神に歪みが生じた後でさえ、トリカのその感情の根の部分は十分に理解してあげることができた。
だが、今――
「……えと」
そんな友人から告げられた言葉を、ユーリアは理解するどころか上手く飲み込むことすらできそうにない。腕を掴まれているままなので、ちょっと離れて落ち着こうとすることもできず固まってしまう。
「……ごめん。聞き間違えたのか、それとも誤解しちゃってるのか――」
「結婚しよ?」
それで、遅れながらも言いたいことを理解できた。正確には、理解したことがなんなのか、認識することができた。
人には、特定の誰かに特別な感情を抱く機能がある。それは友情や家族愛のような親愛の類いとは異なり、生存と生殖の本能に繋がる機能でもある――らしい。
「私のこと好きだって……そういう好きだったの?」
「うん」
「……いつから?」
「さぁね」
その機能が欠け、実感することのないユーリアではあるが、決して無知ではない。社会で生きていればおのずと必要になる知識であり、性教育の類いはアイヴィによって必要以上に叩きこまれている。
しかし、目の前で告げられた思いとそれまでしていた理解にはだいぶ齟齬があるようで、ただでさえ暗記科目のように覚えただけの頭は混乱してしまう。何が正しいのか、その自信もなくなってしまった。
「――私の理解では、その……恋って、異性にするんじゃなかったっけ?」
「えぇー、性別なんて気になるの? ユーリアちゃんが?」
「……それは、そうねぇ」
生まれてこの方、他人の性別を意識したことなどない。
性自認はもちろん女で、それに則った趣味嗜好だってもちろんある。だが、他人と交流をもつ上で性差はまったく気にならない。同性の方が付き合いやすいだとか、異性の目を気にしてしまうだとか、そういう感性もまったくない。
極論、誰かに裸を見られたとしても、それが同性であろうと異性であろうと感じる羞恥心に違いがないのだ。
「でも、歳だって離れてるし」
「たった九個でしょ」
「トリカは……まだ子供じゃない」
「あのね。わたしくらいなら、もうみんな誰かを好きになってるよ」
「……そう。進んでるのね」
異性の目が気にならないとはいえ、その気にさせてしまうような性的魅力は可能な限り削っていたつもりだ。肉体的にも精神的にも応えてやれない自分に、恋心や性欲を向けさせてしまうのは悪いと思うから。そういう欲求の強さも、それが満たされない苦痛のつらさも分からないから。
だから、他人を煽るような言動や格好はしていなかったはずなのだ。
それが、まさか同性の――それもこんな子供に、そういう感情を向けさせてしまうなど。
夢にも思うことはなかったろう。
「なんで、私なんか――」
「そういうとこかな、たぶん」
「どこよ……?」
勉強していたことがまるで役に立たない。
友だちだと思っていた相手から、それも同性の子供から、思わせぶりな態度もなく告白もなくいきなり求婚されている。
――想定を三段階くらいすっとばされてしまった。気分的には、階段ごと破壊されてしまったかのようだ。
直前まで殺す死なないのやり取りをしていたせいもあり、その落差は混乱してしまうどころの騒ぎではない。
「ねぇ、答えは?」はぐらかされているようで、焦れったっかたのだろう。トリカは照れたように笑っていた。「実質選択肢ないからさ、ごめんだけど」
「あっ、えぇと――」
正直、まだわけが分からない。
だから、余計なことに頭が回ってしまう。
「その、結婚――っていうか、あなたと家族になるっていうのは……とても素敵なことよ?」
今のトリカには身寄りがない。家族を、両親を失ったのだ。
ユーリアも、アイヴィと二人だけになってしまったショックから親子そろって立ち直れてはいない。
だから共に生活しようだなんて、むしろこちらから提案したいほど。
「……でしょ?」
「え、えぇ。私もいいなとは、そうは思うのだけど――」
懸念事項が、どうしても一つだけある。
「今、ちょっと面倒なことになっていて」
「え……?」
話が怪しくなってきたことを悟ったのか、トリカの表情に影が差した。
それがいけなかったのだろう。
「いろいろ込み入った事情があって……今私の家に、私と付き合っていることになっている友だちがいるのよね」
「――は?」
不安にさせるのは悪いだろうから、誤解させぬよう早く結論を言ってあげよう――そう思い、一息で話そうと口が回りすぎてしまったのだ。
「だから、その事情が解決するまで……その、保留にして欲しいというか、おおっぴらにしてほしくないというか――」
手続きとか、いろいろあることだし。
それから詳しい話をしようとして、トリカの反応がしばらくなにもないことに気づく。「トリカ?」聞いてるのかと、のんきに名前を呼んだ、その瞬間――
「はぁぁああ――っ?!」
思いのほか、というより思ってもみなかった反応の大きさの圧に押され、ユーリアは子供のように委縮させられてしまった。下から見上げられる、殺意より目を逸らしたくなるような強い視線にますます逃げ出したくなってしまう。
「ちょ、ちょっとユーリアちゃん!? わたしがいなくなったとたん、人間の友達増やしたり男作ったり――人生エンジョイしすぎじゃない?!」
「ご、ごめんなさい……」
ラヴィとはあまり話せていない、廉太郎とは友だちでしかない。だからそれはどちらも誤解なのだが、トリカを失ったのがあまりに深い心のだったせいで、必死に忘れようと他のことに気を向け紛らわそうとしていたのは事実。他の人間にうつつを抜かしていた。
それに言い訳の余地はなく、ゆえにとっさに謝ってしまい誤解を訂正することも忘れ――
「はぁ、なんかもういいや……」
火に油を注ぎ、逆に冷められてしまっていた。明後日の方向に目を泳がせると、トリカは覆いかぶさるユーリアを逆に拘束するように、腕を回し身体を寄せて捕まえる。
子供、人間離れした膂力に、身動き一つとれそうにない。
トリカはその状態で身体を回し、上下の位置をを入れ替えたようにユーリアの身体に乗りかかった。
「このまま殺しちゃおっかなぁ」
「あっ……待ってトリカ! それずるい――」
だがそんな状況でも、もはや浮かんでくる言葉なんて地に足などついているはずがない。現実感さえ曖昧なのに、ただでさえなし崩し的にそれまでの熱が冷め、変に冷静になってしまっている。
そのせいで、なぜこうも間抜けに詰みの状況へと追い込まれているのか、不思議でしょうがなくなってしまった。
「ご、ごめん。ちょっと、話聞いてよ――」
何を言ってやるべきで、何が失言になってしまうのか。いざ色恋沙汰に話が及べば、そんなことでさえ分からなくなってしまう。
そうこうしているうちに、トリカには完全に体重を預けられていた。肉体は異形化したことで適正体重の倍はある。その圧力が肋骨あたりを襲い、痛みは消して感じないものの、肺呼吸への負担から発声に多少の支障をきたす。
ただでさえ、触れているストレスで思考もままならないのだ。そろそろ限界が近づいているようで、このままでは殺される前に気を失ってしまいそう。
なんとか接触範囲を減らそうと、身をよじり拘束から外れようとして――
「……トリカ?」
不気味なほどあっけなく、何の抵抗もなく。
体の上からは負荷が消えた。
掴まれていた腕から指が離れる。その傍に、受け身もとらず崩れ落ちる体があった。
「そんな……ど、どうしたの――」
目を閉じ、意識も手放したトリカのその姿に心臓が握り潰されそうになる。呼吸を確認して、最悪の想像は吹き飛んでくれたものの、あまりの突然の事態に心は追いついていかない。
「ねぇっ――?!」
肩を揺する。反応はなかった。
汗ばんでいるのに、体は石のように冷たく硬い。
自分で言ったように、トリカの体に起きている事情に確かなことは何もない。彼女がどんな状況にあって自分はどう対処するべきなのか、それさえ何も分からないままだ。
どうあれ意識がないのだから、当初の目的通りに町まで運んでやるべきなのだ。まずは遠くへ置いてきた車を取りに戻り、トリカを拾って車を飛ばす――そんなことは分かっているけれど、今この場を離れるという、正しく冷静な判断など簡単にできる状態ではなかった。
「大丈夫……?! ねぇってば――」
これではどちらが年上なのか、馬鹿みたいにそう繰り返すだけ。
そのとき。
そんな姿を見かねたように、「大丈夫だよ」と――
「だぶん、疲れただけだと思う」
不意に聞こえた誰かの声。
月明りに喧嘩を売るような強い光が、地に這いつくばる二人の少女の姿を照らし出す。
いつの間に現れたのか、一台の車が傍に止まっていた。魔力灯の逆光が目に眩しく、声をかけてきた誰かの姿がよく見えない。
それでも、その声を聞き間違えることは絶対になかった。
「ラヴィ……?」
まさかと思いつつも、自然と声にはそう出ていた。時間差で、停車した車のライトが消灯する。
瞬間目に飛び込む、闇夜に溶け込むような髪の色と、無機質で綺麗な色白の肌。
表情は本物の人形みたいにいつも通りだったけれど、それが今では親しみ深いとさえ感じられる。
「やあ。お疲れ――」
何かを言わせる前に、ユーリアはそのラヴィの身体に飛びかかっていた。やはり逃げられたくなくて、目で追われないくらに速い速度で。
細く、脆そうで、暖かい身体を抱いていた。
「うわ、どうしたの?」
分かっているくせに、ラヴィは変わらない様子で空とぼける。何も言えないユーリアをためらうことなく受け入れて、一回り背も高い頭に手を伸ばしてきた。
「そんなに泣いて、キャラを二つ三つ間違えてるんじゃない?」
「だって、あなた……片腕ないじゃん……」
「あー、ほんとだね」
動揺もなく気まずくもないのか、なんてことのないようにラヴィは答える。
疑う余地なくあのときの負傷、ユーリアを庇い失った腕。
痛みはないのか、恨んでないのか。その顔を見る勇気はまだなかった。無事だとは口が裂けても言えないが、血だまりを残して消えてしまったラヴィが生きていてくれると分かっただけでも、ユーリアには言葉にならないほど胸がいっぱいでたまらなかった。
「ごめんなさい……あなたを置いてここまで来て」
「いや、先に帰ったのは私の方」
なぜ車で半日以上離れた西の町で負傷したはずのラヴィがここにいるのか。なぜ自分より早く帰って来ただなんてことになるのか。
――そんな疑問はどうでもよかった。
「ありがとう、私を助けてくれて……」
「うん」
こんな自分の命と、それを守ってくれたラヴィの腕。
絶対に釣り合うものではないだろう。それでも、あのとき生き延びなければトリカを抑えることもできなかった。
いくら感謝しても足りない。自分の命とトリカの命、ラヴィがいなければ共に失われていただろう。
「あのね――」
どう感謝するべきか、それとも償うべきなのか。そもそも、それらを受け入れてもらうにはどうするべきなのか。
そんな都合など別にしても、心からそうなりたいと願うものがある。
「――私と、友だちに……友だちになってください」
声は震えていた。いつまでも顔を押し付けて、ラヴィの首もとを濡らしてしまっている。
思い返すのはトリカのこと、その関係の始まりの言葉。
考えてみれば、こんな台詞は口にしたことがない。友達になりたいと強く思うような相手など、多くの場合すでにそういう関係になっているからだ。
それに、友達になるのが難しいような相手とは、友達になろうとも思わない。普通は諦めてしまうだろう。
ラヴィの場合はまさにそれだ。これまで、険悪とは言わずとも他の人間同様感じの悪い態度をとっていた。いい印象を持たれているとは思えない。
自業自得、今さらの言葉。
「いいよ」
だが、ラヴィはあっさりそう答えた。
返事は軽いものだったが、少しだけ間があった気がする。悩んだり、躊躇するような間ではなかった。
むしろ、暖かみや親しみを感じる間でさえあった。
「……ありがとう」
そうして、ユーリアは体を離して顔を見る。見つめたその視線は、ラヴィの目の動きだけで躱されてしまった。
もしかしたら、少しくらい照れくさい気分になってくれたのかもしれない。
それは何だか嬉しいけれど、それ以上にこちらも今さらながらに照れてしまう。
「その……したい話も聞きたいこともたくさんあるのだけど――」服の袖で顔を拭い、気を少しだけ入れ替えた。「トリカのこと、ほんと?」
「うん。それはまかせて」
適当なことなど言うはずがないのは分かっている。しかし、それでもユーリアには手放しで安心することなどできない。
ラヴィが大丈夫だと言う、その根拠にまったく心当たりがないからだ。
いくら図書館勤務の彼女だとはいえ、断片的に見た情報だけでそれが判断できるほど専門知識に明るいとはとても思えない。
だが、せっかくの友人をいきなり疑うことなどしたくない。
ユーリアは黙ってラヴィに従った。
ラヴィは地に横になったトリカに目を落とすと、少しだけそばに寄っていった。膝を折ってしゃがみこむと、間近でその顔を見つめている。
そして、ぽつりと呟いた。
「私の目的も、実はこの子だったんだ」
「――え?」
目的。今回のユーリアの任務に同行した理由。正確に言えば、アニムスに同行を指示された目的。
それがトリカである理由は――まるでわからない。
しかし、彼らの使う転移術に酷似した能力を使っている時点で、トリカとの間になんらかの繋がりがあるのは不自然ではない。
「それは……どうして?」
「んー。あっちでしようか、詳しい話は」
そう言うと、ラヴィはトリカを抱きかかえようと腕を地面との隙間に差し込んだ。だが、重くなったトリカを持ち上げるには細すぎて、しかも片腕しかないために動かすだけで一苦労。
すかさずユーリアも手を貸したが、自身もだいぶ非力な方であるため車に運び込むだけでも時間を要してしまった。
なんとかトリカを後方の座席に横たえると、ラヴィは自然と運転席に乗り込んだ。ユーリアが基地から乗って来た車ではなく、――おそらくだが、ラックブリックに先に戻ったのであろう――ラヴィが用意した車だ。
だから自然の流れではあるのだが、片手でハンドルを握る姿が痛ましく、助手席に乗ったユーリアは思わず目を逸らしていた。運転、代ろうか――そんなことを提案する前に、ラヴィは車を走らせる。
「町に着いたら、ひとまず……隔離病棟ね」
あそこにはロゼと常時直通する連絡手段がある。そこに着く時間なら、ちょうど起きているころのはずだ。人を動かすには、ユーリアより彼女の方がよほど適している。
そんなロゼに、ほぼ丸投げするかたちで頼らざるを得ない状況。今のトリカは心身共に急を要する状態だし、その上立場と権力で黙らせなければ即処分されてもおかしくないのだ。
「ううん」だがラヴィは、そんなユーリアの思惑に待ったをかける。「あっちって言っても、別に町じゃないよ」
「えっと、じゃあどこに行くの?」
少しだけ純粋に浮かんだ好奇心で、ユーリアはその横顔に目を向けた。
「――図書館」
どこか気が進まなそうな口調で、ラヴィは逃げるように車を飛ばしていた。