第四十六話 友だち
今でも、はっきりと覚えているわけではない。
何しろあまりに一瞬のことで、何が起こったのか理解するのにも時間がかかった。目もきつく閉じていたはずなのに、それがいつの間にか開いていることにさえなかなか気づけなかったほど。
場所だってそうだ。見晴らしもいい明るい大通りから一転して、周囲は薄暗いどこかの裏路地に変わっている。
「気をつけなさいよ」
ぽかんと口を開けていたトリカの上から、そんな無愛想な声が投げられる。顔を上げると、知らない女の顔があった。
それで、自分の体が抱きかかえられていることに気づく。
「まったく……おかげで私が、こんな――」
ぶつぶつと文句をいいながら、その女は腕の中のトリカを放り出すように地に下ろした。その仕草は乱暴なものに思えたのに、いざ足が地についてみれば何も危なげではなかった。
そこで、その女の全体像が目に映る。
若い女の人だった。自分よりはずっと年上だったけれど、そこまで大人という印象もあまりうけない年頃の少女。
場所が薄暗いうえにサングラスまでかけていて、表情があまり分からず委縮してしまう。
「えと……」
だから、少し怖いと思った。
彼女はなぜか不機嫌そうであったし、いつのまにか場所まで変わっていたのだから、訳のわからない展開に恐怖を覚えてしまっても、それは仕方がない。
助けてもらったことになど、頭は回ってくれなかった。
「誰にも言うんじゃないわよ」
抱きとめて痛めたのか、軽く肩を回しながら少女はぼやくようにそう零した。
それを見て、ようやく自分をどうにかして助けてくれたらしいことに気づき、大慌てでお礼を言おうとして。
「え。ど、どうして――?」なのに、焦って口走ってしまったのはとっさに浮かんだ問いだった。
「噂になったら困るから」
ぶっきらぼうにそう告げて、その少女は手早く背を向けてしまった。いくらなんでもこれではまずいと、慌ててその背を呼び止める。
「あの、名前は――」
「――はぁ!? あなた、私を知らないの……?」
少女は呆れたような、不満そうな顔を残してその姿を消した。去り際には「影響力が――」と少し呟きが聞こえただけで、トリカの目にはその動きさえ追えず、文字通り一瞬で消えたのだろうと思った。
暗い路地の片隅に、トリカが一人残された。
その後、自分の名を呼ぶ友達の声が聞こえてきて、やっと現実感が追いついてくる。その声の必死さや取り乱した様子に当てられて、わけもなく泣き出してしまったのを覚えている。
「あぁ、それはユーリアだよ」
その夜、トリカは父親であるアルバーに昼間の出来事を話した。母親に聞かれれば間違いなく強く怒られてしまうので、夕食の後にこっそりと二人きりになるのを見計らって。「危ないなぁ」と難しい顔になってしまったけれど、今後は気をつけることを約束して許してもらった。
アルバーは昼間の少女と面識があるようで、詳しく特徴を伝えるまでもなくぱっと一人が思いあたったらしい。
「こんくらいで、不愛想で、でもどことなく可愛い女の子だろう?」
娘の前でそんなこと、ふつう言うかな――と目を細めながら「可愛いかどうかは……顔、見えなかったし」と、昼間のことながらすでに曖昧になっていた記憶を振り返る。
「あぁ、サングラスしてるからな」と、アルバーは笑った。「似合ってないだろう?」と面白がるような口ぶりが続き、何やら憎からず思っているであろうことがなんとなく伝わってしまう。
似合ってないかはともかくとして、野暮ったいなぁとはトリカは思う。
態度も合わさって、他人と壁を作ろうとしているかのようだとも。
「仲いいんだ、その子と」
と、嫌味に聞こえるように父を見た。
何もないとは分かっていても、やはりなんだか不健全な気がするというか、『ちょっとそれはどうなの?』と微妙な気分にさせられてしまったせい。
「全然」
ところが父は予想に反し「話もしてくれないよ」と首を振って見せた。そして不思議がるトリカの頭を撫でながら、感慨深そうにしみじみと呟く。「お礼、言いたいんだけどなぁ……」
「――でもそうか。わざわざ路地裏にねぇ……徹底してるよ、まったく」
「ね、ねぇ。さっきからなんなの?」
話の見えないトリカを置いて、一人納得したように話すアルバー。それが妙に胸をざわつかせてしまうのは、もどかしさのせいだろうか。
父は少し席を立つと、やがてお茶を入れたのか湯気の立つカップを持ってきてくれた。トリカはなんとなく、そのわざとらしい「間」に付き合うことにして、大人しく続きが話されるのを待っていた。
「――あの子、人間が好きじゃないんだ」
「そんなの、大人はみんなそうじゃん」
トリカのようにこの町で生まれた子供ならともかく、外から移住してきた人たちはみな人間の世界から追い出されてこの町にたどり着いている。本来住めるはずのない場所に追いやられた者たちだ。町から出たこともないトリカにはぴんとこないのだが、瘴土エリア外を支配する人間たちに対して恨みを抱く住民は少なくない。
ほとんど、と言ってもいい。
異人種族は元より、仲間外れにされた人間種もそうだ。
「いや違う。あの子が嫌いなのは、この町に住む人間なんだ……少なくとも、態度に出している分ではね」
「どうして……?」
この町の住民は他所と違って、みな助け合って仲良しなのに。
彼女はたぶん人間だろうし、同種を相手に嫌な思いなんて抱きようがないと思うのに。
「……トリカは」
アルバーが躊躇うのを見て、促すようにその目を覗き込んだ。理由はきっと好奇心か探求心。言葉を変えれば、気になってしまっただけだ。
「母さんや俺が、誰かに傷つけられたらどう思う?」
「嫌だ」
「それをやったのがこの町の人間だとしたら」
「嫌いになる。引っ越す」
「それをされたのがあの子なんだ」
「……え」
そうしてトリカは、この町で起きた二年前の事件のことを聞いた。
全然知らない事件だった。平和だと思っていた町でそんなことがあったのかと思うとショックだったし、無関係なのはずの自分がとんでもない悪人になってしまった気持ちになえう。
「それで、あの子はみんな嫌いになっちゃったの?」
「あぁ」
「でも、わたしを助けてくれたんでしょ?」
「悪い子じゃないんだ、見て見ぬふりはできないよ」
「そっか……」
この町の住人は八割近くが人間種。その全員に心を開かず、かといって危ないところを見かければ人間相手でも放っておくことができず、そのくせ自分みたいな子供に対しても強固に向き合わずにはいられない。
そうやって、もうずっと過ごしているのだろうか。
それではとても生きづらいだろうし、何より――
「それは……かわいそうだね」
「そうだね」
「ユーリアさん」
翌日、トリカは家を教えてもらい、ユーリアが出てくるのを朝のうちから待っていた。学校はあったけど、少し遅れていけばいいだけだ。
魔術師として働いてはいるものの、ユーリアの事情は他の大人たちと異なり、毎日決まった時間に働きに出ているわけではないらしく、大体の日は暇しているらしい。
おかげで会えるかどうか不安だったけれど、すぐに金髪のきれいな女の人が尋ねて入りすぐに出てきたかと思えば、しばらくした後に気だるい様子と共にユーリアは顔を見せた。
あの日見たサングラスは、していなかった。
「あなた――」
「昨日はありがとうございました!」
何かを言われる前にと、すかさず頭を下げていた。思えば、昨日はついに口にできていなかった言葉だ。
家の前で張られていたことに少々戸惑った様子のユーリアであったが、すぐに「聞いたのね、私のこと」とうんざりとした顔で不平を漏らす。
「……で、昨日の件は誰にも話してないでしょうね?」
「あ」
思わず見せてしまったあまりにも分かりやすい同様に、ユーリアは深いため息と共に背を向けた。先日のように――助けてくれたのと同じらしい速く動ける能力で――消えられると困るので、「ま、待って!」と慌てた声で呼びとめる。
「わたし、トリカです! トリカ・クラポットです――!」
「……あぁ、あのお節介焼きの――」
よかった、さすがにお父さんの名前くらいは知っていてくれた――と、しかしそこまで思ってしまうようでは逆に失礼なのかもしれない。
まぁ父の同僚、魔術師といっても、厳密には彼女は管轄も違うし、立場も実力もだいぶ上であるらしいけれど。
「じゃあ、ちょっとくらい私の事情も聞いたってことね?」
「は、はい……」
知られたくない秘密のような重い過去を、本人を前に「知っています」と主張するのは気が引けるどころではなかったが、そもそも知っていないままでいるのも悪いような気がする。
鋭く上からのぞき込まれる視線に耐え切れず、言葉を待つように目を逸らした。
「話が早いわ。気軽に話かけないで」
「そ、そんなこと言わないで――」
早すぎて終わってしまいそうだ。
目を戻したころにはまたもや背を向けられてしまいかねない勢いで、訳も分からず涙ぐんでしまった。
と、さすがに気が引けたのか「……まだ何か用?」とユーリアはその足を止めてくれた。こういうとき子供って便利なんだなと、少しだけ思う。
「そ、そうですね。とりあえず――」
向き合うと綺麗な顔なのがよく分かる。父が言うように、幼さが残りつつも鋭く整っている顔だった。
特に目なんか宝石のようで、直視していることさえ気が引けてしまう。
「なりません? ……と、友達に」
「なんでよ?」と、心底迷惑そうな顔。「嫌」
「お、お父さんが言ってました!」
やっぱりショックは受けたけれど想定通りの答えではある。その圧に負けぬよう、トリカは空元気を振り絞った。陽気で無知な、子供のふりだった。
「きっかけと時間さえあれば、あの子も少しは楽になれるだろうって」
無言、無表情。
少しじゃなく、怖い。
「だ、だからわたしで……リハビリしてみませんか?」
「病気じゃないのよ、ふざけないで」
病気じゃない。だから、治したいと思うこともない。
ずっとそうやって、気を尖らせ続けることを望んでいる。
それが――
「でも、かわいそうですよ」
次の瞬間には頭を掴まれていた。正確には頭ではなく、髪の毛を。それも、指で軽くつまむように。それは乱暴なようだけど、それでもやっぱり少しも痛くなかった。気分的には撫でられているかのようでさえあって、くすぐったいのやら照れ臭いのやら。
「お、お父さんも言ってましたし……」
実際全然怯まされたりはしなかったのだが、それでも突っぱねるのも無意味で馬鹿馬鹿しくなるような子供だと思われておこうと無邪気に笑う。
状況を無視するような一言に、ユーリアは「あのね」と顔を近づけた。目を逸らしたくなるのを、ぐっと我慢する。
「私はとても怖い人なの。私へ悪口言ったなんて告げ口すると、あなたのお父さん――」
『え、そこまでするの……』と、内心に冷汗が流れる。「お節介焼き」とまで言ったのだ。お父さんのことは確執云々以前に性格的に好きじゃないのだろうし、ただでさえ自分を「かわいらしい」という目で見てくる中年相手だ。言いがかりさえできれば、その立場からどんな制裁を加えられても不思議じゃない。
ごくりと。
かたずを呑んで固まるトリカに、ユーリアは――
「一日、休みがなくなるかもしれないわよ?」
「……は、ははは」
「何?」
それ以上何を繕うこともできず、それすらまさに馬鹿馬鹿しいものに思えてしまった。思い出し笑いのようになかなか口元のゆるみが治まらず、「い、いえ――」と何とか手を振って会話を繋いだ。
「ただ、面白い人だなって」
「……何がよ」
そこでトリカは、この人に一生ついていこうと決めた。うっとおしがられても構わず、傍につきまとってあげようと。そうしてあげるべきだと思ったし、そうしてあげたいとも思った。口では何と言おうとも、絶対悪い気はしないはずなのだ。その確信がある。
なぜかと言われれば、さしたる証拠もないけれど――なんとなく、そんなやり取りをしながらもユーリアの様子がどこか楽しそうなものに見えてしまったのだ。
その後は拍子抜けするくらい、あっさりとユーリアは心を開いてくれた。
約束、実験。トリカが今のまま、どんな種族に対しても平等な心を持ったまま成長できるか監視する――見守ることにするという「きっかけ」こそあったけれど、元々無理に壁を作っていたような人なのだ。何度か会った段階ですでに無理して突き放そうとしているのが見え見えになっていた。
ユーリアにしてみれば「きっかけ」というより、それは「言い訳」だったのかもしれない。
「似合ってないよ、サングラス」
ある日、そんなことを言った。会うたびに外せと言っていたから、そんなやり取りも二、三回はあったかもしれない。
「子供が無理やり大人びようとしてるみたい」
「う、うるさいわね――」
可愛いだとか子供みたいだとか、卑屈に考えれば舐められているようにも聞こえる言葉をユーリアは嫌う。トリカはそれを分かっていて、それでもからかわれるのがほんとは嫌いじゃないことにも気づいていた。
「ファッションじゃなくて、半ば必要なのよ……体質的に」
「そっかぁ、生きづらそうだねぇ……いろいろと」
初めはその過去だけでも悲惨だと思っていたのに、聞けばまだまだユーリアには秘密があるという。五感異常に恋知らず、そして生き物に触れられない接触忌避――三重苦、プラス重すぎる過去である。
過去はともかく変わり者だ。トリカの目にも常軌を逸したものに映る。聞けば、魔術師としての戦闘力も他に類を見ないほどのものらしい。
そこまで揃うと異端というか、もはや人間という括りで大丈夫なのかと疑いたくなるほどの異物にさえ思えてしまう。
「生きづらい――のは確かだけど、そこまで困ることはあまりないのよ?」
「そうなの?」
体質を乗り越えるために会得した魔術であり、五感は常に制御しているらしい。「じゃあサングラスは?」と問い詰めるも、実際魔力制御の負担を軽減する効果はあると言う。だがサボらなければ素顔を晒せるはずなので、やっぱり大人びようとしているつもりも、周囲へ壁を張っているつもりもあるのだろうなとトリカは思う。
恋にしても、最初から生まれ得ないのならそもそも苦にさえならないという、トリカには頑張っても理解できそうにない理屈で困ってはいないらしい。
「だから、つらいのは誰にも触れないことくらいね」
「そうかなぁ……」
絶対恋できない方だよ――などと、口にしても無駄だと諦めているので言ったりはしない。
「つらいわよ? 家族とも友達とも触れあったりできないのは」
「ユーリアちゃん……」
なかなか弱みを見せようとしないユーリアの、珍しい、泣き言のような告白。
ならば彼女の言う通り、一番気にしている体質はそれなのだろう。ユーリアが誰かに触れているところなど、確かに一度も見てはいない。
自分に置き換えて考えてみる。お父さんやお母さん、それから友達に触れなくなってしまった自分のことを。一日だって耐えられる気がしなくて、改めてユーリアの特異性に胸が締め付けられるような気分になった。
だけどどうしてか。
その想像の中で一番嫌だなと思ったのは、隣に居るこの年上の友達に触れてあげられないことで。
「じゃあ、ほら――」いつものように、体を傾けて頭を差し出した。「髪、撫でてよ」
ユーリアが触れられないのは生き物の肉体であり、頭髪に触れる分には抵抗がない。それは、早い段階からユーリアが行動で教えてくれたことだった。
トリカの髪に、そっと手が乗せられる。
そのこそばゆさに、トリカは思わず目を閉じていた。
「……うれしいの、これ?」
「うん」
まさかこんな、何の意味もない要求をする者は自分以外にいないだろう。そう思うと、自分でもよく分からない優越感が湧いてくる。
それに、ユーリアには悪いと思うことだけど。
誰にも触れない、そんな特性がどこかトリカには嬉しく思えてしまう。
それはあの日、頭から落下しかけた自分を抱きとめてくれた思い出を、他に代えがたい万感の思いに飾り立ててくれるから。
「……トリカ」
「なぁに?」
不意に投げられる、消え入りそうな綺麗な声。
不安そうな声だった。それが胸を締め付けるけれど、やはりどこか心地いい。
「あなた、ちゃんと今のまま……変わらないままちゃんと成長して……私の傍に居てくれるわよね?」
「うん」
迷わず即答して、意地の悪い言葉が思いついた。
人知れず浮かべたいたずらな笑みと共に、トリカは言葉を付け足した。
「……自信はあるけど、でも分からないよ」
だから。
「一生見ててね、ユーリアちゃん」
自分で発したその言葉。どうしてそんな言葉が浮かんだのか、その真意に気づくのに、そう時間はかからなかった。