第四十三話 ミッシングリンク⑥
故郷を離れラックブリックに連れてこられたのが、十歳になる前だった。今のトリカと同じ年のころ。当然、住み着いたばかりのユーリアには友達もなく、家族もいなかった。それは引っ越す前と何も変わらなかったけれど、大きく違ったのは周りがそんなユーリアを放っておかなかったことだった。
そこで受け入れてくれた家族のみんな――シルビア、オルディナ夫妻とその息子と、それから今もいるアイヴィ。
母親が二人と、父親と弟。
大好きな、優しかった家族。人間もそれ以外の人種も関係ない、人のいい住民たち。
生きている実感など何も得られなかったそれまでの人生とは一転して、幸せだった。
だがそれらを纏めて奪われてからは、以前など比べ物にならない地獄と変わる。
人を愛したのも、愛されたのも。それがいなくなってしまうのも初めてで。
人を信じたのも、それを裏切られたのも初めてで。
だから反動で、どうしようもなくなってしまったのだ。世界を呪って、それで少しばかり気を紛らそうと目を背けた。
――人間の性根は見るに堪えない。関わり向き合う価値もない。
そう自分に言い聞かせて、町の全員を敵に回して、辛い生き方にわざわざ変えた。
いつか限界が来るのは分かっていた。意地を張り続けるのも、感情を燃やし続けるのも、皆を嫌い嫌われているのも。そう長く続けられるほど楽なものでは決してない。
だがそれを終わりにすることもまた、認めるわけにはいかなかった。
生き地獄。
人前では横暴に振る舞い続け、部屋の中で独り泣くのだ。
――分からず屋だなぁ。
だから。
――わたしが友達に無理やりなるから、それを言い訳にしちゃいなよ。
そんな風に強引に、「まともに成長してみせるから傍で見ていろ」と迫る小さな友人が、ユーリアの目に知らず眩しく感じたのだ。
それを自覚したのも、今さらかと笑ってしまえるような今このとき。
家族を殺した町を、そこに住む人間を。
嫌いながらも、ただ嫌うだけで済まそうとしてきたユーリア。
その態度、強さ。当時はすべてが憧れで、同時に哀れでもあったのに。いざ似たような立場になってみれば、トリカには鼻で笑えてしまうような中途半端なものに思えた。
「だから、それで我慢できる程度だったってことじゃん」
殺意と親しみが入り混じっていたトリカから、あらゆる熱量が消え去っていく。視線はより鋭く、友人の死は望みでなく些細な作業へと意味が変わる。
父を追い詰められ自分も刺し殺されかけていながら、ついぞ向けることのなかった憎悪や拒絶。裏切られたというその感情を内側に覚え、トリカの思考はやけに冴え渡っていた。
「わたしは無理、絶対にやり返す。したいならしろって、ベリルも言ってくれたのに」
「あいつ――」
導くどころかそそのかす始末。死の寸前から息を吹き返したトリカに寄り添っていてくれたのには感謝するが、傍に居ながら何も思うところはなかったのか。こんな小さな子供に、そんなことを言わせて。
「無理かどうか、決めつけてしまうには少し早いわ」
だが、彼を責める資格はユーリアにない。それを強く自覚している。
今できるのは、失敗を取り返そうとすることだけだ。
「少しでいいから、試してみなさい」
気が晴れることなんて、本当は少しもない。むなしくやり切れない日々が永遠のように続くだろう。
それでも、いくら辛くとも生きていてほしい。
何もかも台無しになどすることなく、いつか、幸せとは言わずとも、少しは心安らかに過ごせることを信じて。
「生きていけるか! 今さら、あんなことされて!」
すべて駄目になったあの日、あのとき。トリカは家族で食卓に着いていた。夕食に手をつける直前で、母のよく作る得意料理の匂いが育ち盛りの胃を刺激していた、まさにそのとき。
何の警告もなく、部屋の中は制圧された。強烈な音と光、それを認識することもできず、五感どころか思考さえも奪われた。
真っ先に動いたのは、標的だった父ではなく母。
素人にしては手際の良い対応だった。だが、ただ逃げるため、娘を逃がすためだったその行動は、敵対行動として機関魔術師の目に映る。
一部始終、トリカには知覚できず、何が起こったのかなど分かるはずもなく、ただ母親が死んでいることと、怖い大人に囲まれていることだけが分かった。
町の人たちを守るはずの、機関の制服を着こんだ魔術師たちに。
「もう何もかもどうでもいい、ユーリアちゃんにも期待しないよ!」
「……死んでしまいたいのね、トリカ」
その気持ちも、ユーリアには痛いほど分かる。
自暴自棄。何もかも無茶苦茶に終わらせてしまいたいし、そうしなければ死んだ家族に悪い。と、そう思いそうになってしまう。
それでもユーリアが生きる気力を失わなかったのは、アイヴィが一人残っていたからだ。同じ気持ちを共有できる、たった一人の家族がいたからだ。
独りぼっちになってしまったトリカとは、だから、本当の意味でその気持ちに寄り添ってあげることはできないのかもしれない。
だが――
「ねぇ、友だちいっぱいいたでしょう? それも許せないの?」
自分のことは、もう友達だなんて思ってくれないだろうけど。
ユーリアにとってロゼや他人種族の友人、トリカの存在が救いだったように。
気兼ねなく心を許し隣で話を聞いてくれる友人がいるのなら、きっと生きていけるはずだと心から思う。
「……知らないよ、もうどうでもいいし」
「分からず屋め、私みたいよ?」
「光栄だね」
会話にも飽きた。そう、トリカは一歩足を踏み出す。
気持ちが戦闘に移りつつあるそんな幼子に、ユーリアは――
「……ねぇ、ちょっと酷いこと言うわよ。私、口上手くないから」
怪訝そうに眉をひそめながらも、トリカはその動きを止める。
臆することなく正面から、ユーリアはその顔を見つめ返した。
「あなたのお父さんが殺されたのを、私も誰も、悪かったとは思わない」
すぐさま振るわれる、トリカの攻撃。首を刈り取る一撃が、横薙ぎに大きく振りぬかれた。
それに身を屈め、ユーリアは最小限の動きで回避する。
半日ぶりに味わう凶悪な一撃は、初めて目にする一撃でもあった。
闇夜に赤く光る超音速の鞭。数十メートルに及ぶその武器は魔力が純粋に世界を走るものであり、物理法則に縛られない。挙動も歪、鞭と呼ぶより湾曲する光線の推移と呼ぶ方がより正確。
ユーリアの加速最高速度さえわずかに超えた、驚愕すべき理外の現象。
以前と異なり、周囲には建物も何もない。攻撃が完全に空を走られると、不可視の軌道を読むヒントは痕跡として残ってくれない。
なのに、ユーリアは危なげなくそれを回避できた。
妙な手ごたえに肩を透かしているのか、追撃はなかった。
「そう言うわよ、撤回しないわ。町全体を脅かしかねない敵だったんだから」
「このッ――」
「受け入れられないでしょうけど、頭に入れておいて」
睨むトリカの視線に、目を合わせているのが辛かった。
子供相手に、今の彼女に、そんな客観的な理解などできるはずがない。それは分かり切っている。ユーリアでさえ、今になってなおできるとは言えないのだ。
「でも、あなたのお母さんを巻き込んだのは――」
再度振るわれた、赤く鋭い鞭の光。袈裟懸けに振り下ろされた攻撃に、懐へもぐりこむように安全地帯を走り抜ける。「くそ……っ」常人の残像に残らないほどの速度に、姿を見失ったトリカが周囲を見渡していた。
そこへ、背後から声をかけてやる。
「ごめんなさい」
トリカが振り向く前に、自然と頭を下げていた。
「……謝らないでよ。聞きたくないし意味ないよ」
謝って許されることではない。その場にいなかった自分の謝罪になど意味はない。実行した同僚、彼らを代表するだけの価値も自分にはない。
そんなことなど分かっていても、こうして謝らずにはいられなかった。
「そして、あなたが今そうしている現状は、何もかも私が招いた結果」
目の前で父に迫り庇わさせ、本来であれば死んでいたはずの致命傷を負わせた。そこから蘇生したものの、肉体と精神に異常をきたし、今は破滅へ向かい歩いている。
「言い訳のしようもなく、私が悪い」
「それはそうだね。でもその話は済んでるでしょ」
気にしてない。それを恨まないとトリカは言った。自分が恨むのは、父と母を奪った町そのものだと。
しかし、だからこそ済ませられない。解決すべき責任が、この手で傷をつけたトリカを救うだけの責任がユーリアにはある。
「私は最低の人間で、死んでも許されないほどの罪を犯した」
「自虐がすぎるよ、しつこいな」
「でも、でもね……他は、誰も悪くなかったのよ」
それから、無言の攻撃が繰り返される。矢継ぎ早に、口を閉ざそうと迫るように。大地が切り刻まれ、縦横無尽に鞭が飛んだ。
そのすべて、ユーリアは顔色も変えずに避け続けた。
「多くの住民は無関係で、あなたのお父さんが敵だったことも知らないまま」合間を縫い、言葉を届ける。「あなたの家を襲撃した魔術師も、ただ任務に真剣だっただけ」
「――――ッ」
巻き込まれたトリカの母親を思うと、こちらも泣いてしまいたくなる。アルバーと異なりただ純粋に被害者で、トリカと異なり蘇ることも叶わなかった、ただの母親。
だがそんな彼女の命を、巻き込んでも構わない犠牲だと、初めから取るに足らない命だと――そんな志で臨むような人でなしが、機関の同僚に一人たりともいるとは思えない。
断言できる。
そう断言してしまうだけの覚悟を、たった今決めることができた。
――落ち度があったのは、私だけだ。
「みんないい人よ」
この町、この町においてのみ、人間は他の種族と変わらない。みな気のいい隣人たち。認められない、認めたくないことだったけど。
ラヴィも、今日基地で話した職員も――それ意外、これまで無視して取り合わなかった誰も彼も。
心の内、隠した本心、垣間見せてしまう本心。どれだけの差別、排除、選民思想を抱えていたとしても、手を上げず共存を果たしているだけで上等ではないか。
そんな場所は、世界できっと他にない。
「よくも、そんな……」
もはや別人を見るような目で、トリカは冷たく、それでも寂しそうに呟いた。
「他人事だからって好き勝手言えるね。昔の自分に、同じこと言える?」
「えぇと。たぶん、唾くらい吐かれるんでしょうけど――」
そこまでしたかなと、少しだけおかしい気分になる。
これまでの自分なら何をしてもおかしくなかっただろうし、今しがた口にしているような類いの事実、正論は最も忌避してきた話でもある。
「きっと、私のときもそうだったわ」
ユーリアの父が死に、母と弟が冤罪により町を追われたあの事件。
その判決や強行にいくらかの悪意や意図があったのは事実だとしても、多くの人は無関係だった。
彼らは助けてくれなかったのではない。
彼らは、何もしなかっただけだ。
そしてそれは、結局何もできなかった自分と何ら変わるところはない。
「あ――あぁ……」
涙が。
蓄積しつづけた感情が、既に吐き出したものも合わさりながら、蘇るように襲ってくる。
怒りに変えて誤魔化していた分、それが筋違いだと気づいてしまえば、本来耐えられないほどの喪失感だったと気づかされてしまう。
子供を諭すように口を回し、一人勝手にさらなる自分の至らなさを自覚している。そんな今の自分が滑稽で気恥ずかしく、いたたまれない思いで羞恥に顔を覆ってしまった。
――恥ずかしい。
世界に適応できなかった自分が、その上裏切られたような顔で被害者ぶるばかりで。周りに当たって、それで当然のような顔で平気に過ごしてきた。
周りから、どれだけ滑稽で哀れな子どもに見えていたことだろう。
嫌われるだとか、それ以前の問題であしらわれいたのかもしれない。関わればこちらが噛みつくから、遠巻きにそっとされていたのだ。
敵意を向けられると安心するから、自然とそう捉えようとしていただけだ。
――お前だよ。あの町で、一番不幸なのは。
死ぬ間際のアルバーの言葉を、今更になって理解した。
妻も死に、逃げ連れた娘も殺されたというのに、彼は娘の仇であるユーリアを助けて死んでいった。
不幸――ずいぶんと、言葉を選んだものだ。
惨めで哀れで、可哀そうな奴だと言いたかったのだろう。
だからこそ、アルバーは憎むべき相手に情けをかけてしまったのだ。
「だから、結局なにが言いたいの?」
「私だけにして、憎むのは」
誰を恨んでも救われないし、八つ当たりに過ぎないのだから。唯一罪を背負った自分が、その怒りを引き受けるにちょうどいい。
「……そうね、魔術師を目指すのもいいんじゃない? いつか私を殺せるくらい強くなるって、それを目標に生きるのも」
「何言ってんの、今ここで殺すんだってば――――」
生み出され、振り下ろされる光の鞭。血のように暗く闇夜に溶けるその鞭の挙動を、ユーリアは完全にその疑似眼球に捉えていた。
知覚能力に変更を加えたわけでも、特別何かが変わったわけでもない。それでも以前は不可視であったその力が、今となっては目で追える。
目の前すれすれで、わざと曲芸のように回避してみせた。
「まだ無理ね。これでは私には届かないわ」
「な、なんで急に……」
と、信じられないと目を丸くする。そんなトリカがおかしくて、思わずユーリアは笑いかけていた。
「さぁ? これでは私も拍子抜けよ」
見えてしまえば、ユーリアが被弾することは絶対にない。攻撃の軌道は見えるだけでなく、予備動作から予測することもできる。構えられた銃や、振り上げられた腕のように。
「でも――」
浮かべる不敵な笑み。それと同時に感じる、慣れることのない、だがよく知っている類いの嫌な悪寒。
ラヴィを失ってからずっと、最も警戒していた現象。彼女やアニムスが何故かものにする、転移としか呼べない転移ではない移動術。
気づいた瞬間、ユーリアは即離脱を決めた。トリカの鞭、その効果範囲のおおよそはその目で見て頭に入っている。どこに現れ不意打ちを振るおうとも、絶対に食らうことのない地点まで回避。
通常の肉体の速度を、百倍近くまで跳ね上げた。その反動で、一時的に視力まで喪失してしまう。
一瞬遅れて、遠くで赤い光が空を裂く。
「ねぇ、それ何がどうなってるか教えなさいよ」
切らした息など悟らせず、さも当然かのように再び近づいて声をかける。不満げな声で、背を向けたままにトリカは口を尖らせた。
「……それって何? 飛んでくやつ?」
「ラヴィのを見て、それだけで真似してみせたわよね」
「知らないよ、そこまで便利じゃないみたい――」
振り向きざま、不意打ちを試すように繰り出される攻撃。横薙ぎの一閃、見えてさえいれば回避行動の選択肢はいくらでもある。
赤く光る超音速の鞭、それをユーリアは完全に見切り切っていた。
「便利じゃなくても、飛んでくやつ、私に結構刺さるのだけど――」
「あっそ!」
怪訝なのは一つ。瞬間移動、転移術、あるいは――なんでもいいが、その力を多用してこないこと。
人間どころか妖精ですら不可能な、超常の改変現象。それにユーリアの理解が及ばないように、トリカにも全貌がつかめていないのか。
消耗も無視して全力で逃げなければ死んだことにも気づけない。それほどの効果があることは、いくら素人のトリカにでも分かるはずなのに。