第四十二話 ミッシングリンク ⑤
廉太郎とクリスが名も告げない男と対峙した、その一方――
事情など互いに知る由もなく、ユーリアは一人ハンドルを握り続けている。
飛び出すように基地を発ってから、半日近くが過ぎていた。
座席を監視するような鏡が、ユーリアの顔を不躾に映し出す。気が散らされるようで、手を伸ばして上へと傾ける。支えの部分が弱っているのか、いくら調整を繰り返そうにも時間と共に鏡は角度を落としてしまう。それで、何度も繰り返す羽目になっていた。
運転自体がユーリアの性に合わず、そんなことでさえ気が滅入ってしまう。
それでも速度も落とさず集中も切らさず、追うべき二人の反応を遠目に探し続ける。
やがて日が落ちかけ、車内にはわずかに夕の光が残っていた。
長時間、長距離の運転。
その間、ユーリアの心は片時も落ち着くことはなかった。
果たして、トリカとベリルに追いつけるだろうか。追いついて、どちらも傷つけることなく穏便に解決できるだろうか、と
それに、ラヴィのこともある。
それしかないと託して来たけれど、今にして思えば怪我をしたはずの彼女を見捨ててきたようなものではないか。結果、見殺しにしてしまったのではないか――時間が経つと、どうしてもそんなことばかり考えてしまう。
今さら引き返すこともできず、取り返しはつかない。
「ごめんなさい、みんな……」
ラヴィの怪我も、それを放置してきたのも。
トリカを殺しかけて、身も心も狂わせてしまったのも。
ベリルが町を離れるきっかけをつくってしまったのも。
暗い自己嫌悪が逸るように鼓動にのしかかり、胸の辺りに深い霧がかかったかのよう。判決を保留にされたまま放置されたような、楽になることも許されない。
「アルバー……」
会話相手もなく孤独に流れる景色を見続けていると、瞑想でもしているように思考が深く沈んでいく。底なしに、心の内の深くまで。
あの日、あの洞窟。
こんな事態を招いたすべてのきっかけ、ユーリアの犯した酷い罪。
その記憶が、何度も頭を往復する。できるだけ考えないように、必死で回避していたけれど、それが今とても難しい。
――五日前。
アルバー・クラポット――トリカの父親を、ユーリアは殺すはずだった。町に紛れた諜報員である彼は、見逃せる相手ではない。
トリカの父であることは分かっていた。彼も人間である以上話をすることも目を合わせることも避けてきたが、それでも友人の父には変わらない。それを納得した上で任務に従い、代わりに彼が連れ出したトリカの保護を誓ったのだ。
結果、任務も誓いも達成することは叶わなかった。
アルバーが死んだのは、そこに至るまでの戦闘で受けた負傷が原因。洞窟に逃げ込んだものの、それ以上動くこともできなかったほど手遅れな、放っておいても死ぬような状態だったのだ。
なのに独り決着を急いで、周りの人間そのすべてを無視して。結果、ユーリアはトリカに致命傷を与えてしまった。
直後激昂したベリルに刺されたことで、ユーリアもまた動けなくなった。致命傷だった。死ぬと分かったし、それは受け入れるでもなくどうでもいいことだった。
しでかしたことに震えていて、すぐにでも消えてしまいたかったから。
だが。
「なんでよ……なんで、私を助けるの!?」
アルバーは、何も言わずにユーリアの蘇生をし始めた。
外部の者ゆえに理論の分からぬ技術を持って。彼の持つ血を、臓器を、器用に欠けた身体に繋げてみせた。
アルバーもまた死ぬことが明らかだったのだから、それは自己犠牲とはまた別の献身。理解の及ぶ行為の一つだ。
「私がっ、何をしたと思って――」
「……いいさ」
目の前で娘を殺した仇に対し、アルバーは心身共に衰弱しながらも敵意一つ向けなかった。それが不気味で恐ろしくて、何を言っているのかさえ理解を拒みたくなっていた。
「すべて俺の招いたことだからね。君も俺に巻き込まれたんだと……そう思うよ」
それが、妻と娘を殺されて間もない男の言葉なのかと。
それから少し話をして、言い争ったりしている内、やがてアルバーは事切れた。
その話のすべて、展開のほとんど。ユーリアは理解できなかった。
トリカを思うととても頭に入らなかったし、アルバーの言動を受け入れるのが、酷く恐ろしかったせいでもある。
――――
とうに夜がふけていた。
日付も変わりかけていて、闇夜の風が肌にしみる。
町には着いていない。距離的には、まだ車を降りるには早いはずであった。
しかし、急ぐことも忘れてユーリアは夜を歩いている。
走るべきだと分かっていながら、足は躊躇が張り付いたように重く動こうとしない。
それでも歩き続けた道の先に、どうしようもなく現実は待ち構えていた。
「こんばんは、月が綺麗だねぇ」
出迎えるような、屈託のないトリカの笑顔。
手を後ろに組みぽつりと立ち尽くすその姿は、まるで夜に偶然顔でも合わせたかのように自然で、変わらない姿だった。
「……そうね」
噛み締めるように、ユーリアは空を見上げた。
眩しいくらいに満ちた月。それに照らされる周囲には何もなく、ただ起伏のない荒地が続くのみ。
「ベリルは、一緒じゃないの?」
周囲を見渡す素振りを、わざとらしく演じてみせる。
何もないのは明らかで、別行動を取られてしまったのは分かっていた。何でもいいから、言葉を交わしていたいだけだ。
「え、先に行ったよ」
「ついて行かなかったのは、どうして?」
「うーん……」
問われたトリカは首をかしげ、照れを隠すようにその口元を手で覆った。
「なんでかな? 待ちたかったんだ」
「当てようか。待ち伏せでしょ」
ゲームか何かで、策でも見破ってみせたように。得意気な顔で指摘してみせる。
焦り、重い、悲痛な心など少しも表に出さぬよう。平静を装って、余裕のある態度を見せてやるように。
私とあなたの関係に危ういものなど何もないと、何もかも無視してしまうような無意味な態度。時間、会話。
それは自覚するまでもなく滑稽で、臆病な自分にユーリアは腹立たしく思った。
「前に教えたものね。車や列車に乗っている間、私は寝ているよりも無防備になるって」
ユーリアを殺そうと思えば、その方法はかなり絞られる。
正面切っての戦闘は理論上完璧に反撃されるか逃亡を許し、まず不意打ちも通じない。大都市一つ、土地ごと吹き飛ばすような超広範囲爆弾でも用意しなければ、不可能であると断言してもいい。
だが、高速度で移動する乗り物に運ばれている場合、その限りではなくなる。
一般の人間や他の魔術師と違い、肉体速度の上昇と制御に特化したユーリアのようなタイプの魔術師の防御策は、回避一つに頼り切っている。当然、狙撃でもされれば防御対応ができず、車ごと破壊されて死に至る。脱出したところで、地面と速度に殺されるだけだ。
仮に運転を担い通常の数十倍の速度でアクセルを踏もうとも、ハンドルを切ろうとも、それは入力が早くなるだけであって、車体の動きは通常の現象範囲を超えてくれない。
「でも残念ね。車、置いてきちゃったわ」
一つ佇む魔力反応。それに気づいた時点で、トリカの不意打ちは予測できていた。模倣してみせた転移術による奇襲も想定し、ずっと遠い場所から歩いてくる羽目になってのはそのためだ。
何事か、考える素振りでトリカは首をかしげるも「えぇーっ! しなかったってば、そんなこと」とすぐに両手を突き出し、手首を激しく振ってみせる。
「あらそう?」
「つまんないでしょ!」
「それは……」
話を続けようとして、言葉が出てこないことに気づく。
トリカに憎まれて、当たり前だとは分かっている。だが彼女は憎むことなく、まるで友情の延長であるかのように命を狙い、あろうことかそれを楽しもうとしている――。
核心。
一度触れてしまえば、またトリカとの闘いが始まってしまいそうな。
「んー、早かったね」
話を進めたがらないユーリアへ、それを促すようにトリカは本題へと触れていった。「探してた子は、見つかった?」と。その目に、「いいえ」と答える間が空いた。
思わず顔が強ばる。
ラヴィのことは気が気でなく、それもまた、心臓を締め付けるように切なく辛い。
トリカや町を優先して、するべきことだと言い訳して。
ラヴィを見捨ててきた。
死ぬかもしれないと疑っていたのに、それでもこちらを優先した。身を張って助けてくれたラヴィより、友人を選んでここに来た。
それを思うと、取り返しの効かない選択に心が震えそうにない。仮に再開できたとして、浮かべる言葉も顔も何も、何一つとしてユーリアにはなかった。
「そっかぁ……!」
対照的に、トリカの顔はぱっと晴れ上がっていた。
「やっぱりわたしだけなんだ! ……そうだよね、そうじゃなきゃダメなんだから」
そうしきりに、一人頷いている。感極まったような声で、何やら目元まで拭っている始末。
その姿を、ユーリアは冷静に視界に捉えていた。
「あなただけって、何のこと?」
「ユーリアちゃんが、こうして大事にしてくれる人間」
――ちくりと。
針で突かれたような痛みが、ユーリアの心の奥を貫いた。
「せっかく会えたわたしより、あの子の方が気になってるみたいに思ったから……わたし、ここに来るまでずっと泣いてたんだからね?」
そうなじるトリカにユーリアは謝ることもなく、顔色一つ変えなかった。
死ぬ思いを乗り越えた彼女に辛い思いをさせて、悪かったとは当然思う。
だが、そんな扱いを受けるだけの状況を自ら作っておいて、それでも自分の都合が正しく通ると疑わないトリカの言動が、酷く悲しく痛ましくて。とても直視はできなかった。
「でもよかった、変わってなくて」
満面の笑みを浮かべるトリカに、しかし「――いいえ」と、今度は即答を突き付ける。
突然の否定に、目を丸くされる。そのまま、ユーリアは突き放すように宣言していった。
「もう、あなたを特別にしない」
「ぇ――」
そして、その目は酷く動揺したものに変わる。それが愛おしくも、また哀れに思えて「あぁ、勘違いはしないでね」と、ユーリアは念を押すように言ってやった。
「あなたを嫌いになったわけじゃないのよ」さらに重ねて、茶化すように笑いかける。「なるわけないでしょ、馬鹿じゃない?」
それでも腑に落ちない様子で、トリカの顔は強ばったままだ。
反応がないのを良いことに、ユーリアは言葉を重ね続ける。何を告げるかなんて固まっておらず、それを纏めようとしているそれは、むしろ自分に対して言っているのに等しい。
「あなたと、それからロゼ以外の人間を、私は親の仇だと思って……思い込もうとしていたけど、それは今日辞めにしたの」
「……なに、それ」
五日ほど、宣誓の遅れた決意表明。
変わりたいと思いはすれど、結局少しも変われた気がしない。変わるには踏ん切りがつかず、何かのきっかけや言い訳を、甘えるように求めていた。
だから、これはいい機会。
それをトリカに告げるべき理由があると、ユーリアは心から強く思った。
「これからは、誰とでも上手くやってみせる」
「だから、なにそれ」
冷めきったトリカの目から、その感情を読み取ることはできなかった。
石のような顔から泣きそうな目に変わり、やがて怒声を吐きだすような形相に変わる。
「忘れた、の……? だって、あんなに怒って、悲しんでたのに! なんで、急に――」
それらすべての感情が、ユーリアには手に取るように理解できた。「なんで……許しちゃったの?」そう振り絞られた言葉と共に、頬を伝った涙の意味も。
「許せないし忘れられないわ。でも、それを態度に出し続けたところで無意味だし、周りは迷惑に思うだけよ」
これまで、ユーリアは散々やってきた。
大事な家族を奪った人間は、みんな気に入らなかった。話しかけられても無視したし、当てつけられる態度はすべてとった。そんな態度を心配する者もいたが、文句と嫌味で通したほど。
少しでも相手の気が害せれば、それで良かったのだ。
そうして今、町の人間全員に嫌われていてもおかしくないし、事実それに近い状況になっているはずだ。
町を歩いても、目を合わせようとしてこない。
それを心地いいと思っていたし、そうでなければ駄目だと思った。
そんな態度で二年と少し。いくらか、気は晴れた。
だが――
「――そう、迷惑だったのよ……私は。そしてそれが、あなたという被害者に繋がってしまった」
だから、もうこんなことを続けるわけにはいかない。
許されないと言い換えてもいい。被害者なのは確かであり、無実で害はないから見逃されていた態度が、一線を越えたのだ。
「ふーん、迷惑ね」
冷ややかな目が、ユーリアの真剣な表情に突き刺さる。
「迷惑なんて、先に向こうがかけてきたんじゃん。わたしにも、ユーリアちゃんにも」
子供の理屈だ、痛いほどよく分かる。
「わたしに悪いって思うなら、じゃあ手伝ってよ。一緒に、町の人を殺しに行こう?」
「それはダメよ」
「……なんで? 殺してやりたいって、そう思ってたでしょう?」
「酷い誤解ね。そんな風に思ったことなんて、一度もないわ」
死んだ母と父、弟に誓ってそれは言える。
消えてしまえと思ったことくらいはあるけれど、死んでしまえと思ったことは一度もない。
裏切られたように、トリカは顔を背けてその小さい肩を震わせた。やがて夜空に顔を上げると、それから袖で目元を拭い去る。
「……その程度だったんだんだ、ユーリアちゃんの辛さって。そっか――そりゃあそうだよね」
ユーリアとトリカ、二人の憎しみはよく似ている。
共に、家族を町に奪われた。
だからこそ、分かってもらえると、共感してもらえると――トリカは思っていたのだ。
その後にユーリアへと向けられた顔は、いつか鏡で見たような、よく知った顔に痛いほど似ていた。
その様子に寒気を覚える。何が怖いのか、自分でもよく分からない。
「だって、ユーリアちゃんの家族は、本当の家族じゃなかったんだもん」
「それでも変わらないわ。あなたと私は」
悲しみも憎しみも、燃えるような怒りも。
すべて同じ気持ちだ。痛いほど共感して、今にも泣いてしまいそうなほど。
そこに、違いが少しでもあるとは思わない。
トリカの思想が過激なのは、瘴気と異形化で蘇った精神構造が不安定になっているだけ。
でなければ、トリカとユーリアにそれほど大きな違いが生まれるはずがない。
同じはずだ。
死んだ家族を思う気持ちも。憎しみと天秤にかけられる、生まれ持った良心の重さも。
「だめよ、だから――」
かつての自分に、その先を告げるとして。
それでも受け入れてもらえるだけのことを、ユーリアは言わなければならない。
「私たちがしていいのは、せいぜい不機嫌でいることくらい。臍を曲げて、周りを嫌い続けて、文句を言って……」
だが、それ以上のことをしてはいけない。
それで誰かを害するようなことがあれば、憎しみ自体が連鎖する。あれだけ嫌った加害者に、知らず自分がなってしまう。
そんなどうしようもない、くだらない――自分のような存在に。
トリカの価値を貶めるなど、絶対に許されることではない。
そう、ユーリアは強く心に思った。