第四十話 有欲
初めに、鼻の骨が折られた。
ついで、前の歯が欠ける。
呼吸器官が共に血で遮られ、口内に溜まる不快感をまとめて吐き出した。歯が数本と、粘性のある血。鼻孔と口の端から、それらが留まることなく垂れ続ける。
それが、腹から膝へつたって生温かった。
打ち付けられた壁を、自分の血肉が汚している。
自然と、目を逸らしたくもなる。だが、クリスには身をよじることさえ叶わない。腰まで伸ばした髪は根元から掴まれたまま、首を動かすこともできない。
「痛いか?」
「ぐっ……あ、あたり前でしょうが……この野郎――」
痛みと不自由さで、口が思うように回らない。
それでもクリスは、あくまで平然と言葉を繋ぐ。怯み、弱ったなどと捉えられるのがあまりに癪で。
少しでも口調が乱れないようにと、残された気力を張り詰め言葉を発する。
「痛覚。それもまた、道具が持つには酷だったろう」
「べ、便利な機能……なんですがね。ふつーに生きてる分には」
自我ともども、人が生きていくために必要な感覚。そのせいで苦しむことがあろうとも、なければ話にならないもの。
手放せば楽になる、その一面は確かにある。が、仮に可能だとしてそれを選択できる人間はそういない。痛みを感じないということに、誰もが潜在的な忌避感を覚えずにいられない。
単純な五感以上に、自己の認識――命と密接している。
無痛。
生の実感に、欠けているということ。
「痛いのは……割と、好きな方で――」
直後、クリスの体が宙に浮く。空色の長髪が力任せに引き寄せられ、男の胸の上にまで持ち上げられていた。
男はそのまま振りかぶり、そして当たり前の作業のように通路の壁面に向けて腕を振るった。
顔面から、再度壁に叩きつけられる。
続いて体が勢いのままそれに続き、受け身など取れずに体のどこかで骨の音が鳴った。
脳が揺さぶられた衝撃で、自己診断が間に合わない。
左腕の感触が鈍く、千切り飛ばされたのかと視線を下げようとも、出鱈目に曲がった指が見えるだけだった。
体のあちこちが、情けないほど駄目になっている。
なのに、どれも致命傷には程遠い。
死なぬよう露骨に手を抜かれているようだった。派手に壊れかけているが、その実すべて軽傷の範囲。男が殺す気でいれば、初めの数撃で脳髄が破壊されているのに。
「強がるな」
――勝算はあった。
初めは万に一つほど。接続の後、支配下に置かれる一瞬の隙に、なんとか命を断ってしまう機会が。
次に、敵の魂が干渉にも気づかず、クリスの支配もできないほど脆弱であると気づいたときには、五分以上だとも。
そして今、策に感づかれたところで相手の魂は疲弊している。魔力を使うたびに負荷はかかり続け、残存魔力も消費していく。そしてそれは、クリスが魔法を使うことでも加速する。
なんとかなりそうだと、そう思えるほどには常に条件が揃っていた。
だが――
「ぐぅ――ッ」
単純な接近、肉体格闘が間に合う体ではなかった。
こちらの攻撃手段は魔法しかないのに、敵は魔術に加え単純な肉体攻撃を放ってくる。抗える差ではない。場所が場所だけに、一度接近されると身を躱す先さえなく、クリスには逃げ回るだけの足もない。
一度ペースを掴まれれば、それを覆すのがあまりに難しい。
腫れたのか切れたのか、あるいは失明したのか。左の目を開けておくことができなくなり、その眼孔から血が流れた。
「――あぁ、良くないな。まずいぞ」
「なに、が……?」
興味もなければろくでもないと、そう分かり切った男の言葉。それでも会話に付き合ってしまうのは、あまりの痛みに手放しそうだった意識を繋ぎとめるためだ。
朦朧とする意識へと、男の理解しがたい感性が毒のように紛れ込んでくる。
「このまま……お前を殺してしまうかもしれん。弾みで、抑えきれずに」
――人間は殺す。人形には興味もない。
そして、自我を持ったクリスという存在には、男は同情を抱いた。
自分の境遇と重なるから。そんな理由で、相手の意思などまったく考慮するつもりもないにせよ、男にとっては利他的な思い。
奴隷、思考や感情さえ理解を越えた力で支配される。人を殺すことも、その欲求を抱くことさえ許されない。
己という存在が限りなく制限され、薄められる。生きながらにして地獄よりなお耐えがたい環境に閉ざされ、発狂することもできず、男の魂は枯れていった。
だからこそ、それに近しい宿命を背負ったクリスに対し、決して小さくないだけの思いを抱いた。
だが――
「お前の反応、仕草、態度……いちいち俺をその気にさせる」
クリスと目を合わせ続けるたび、言葉を交わすたび。次第に、一つの疑問が男の中で湧き上がっていく。
――何を違うものがある。この存在と、人間との間に。
人間との相違点が、気づけばどこにも感じられなくなる。そんな思いが強くなればこそ、抗いがたい欲情が男の魂に芽生えてしまう。
食い殺せ――
か弱く幼く、得られる快楽は極上に近い得物――
同時に、確かに芽生えたクリスへの情もまた、男は捨てることができずにいたのだ。
「……酷い口説き文句だ」
思わず、自嘲的な笑みがクリスからこぼれた。
気力、精神力。抵抗する意思ごとすり減らされ、反撃どころか満足に言い返してやることもできない。
魔力一つ引き出せない。
綱を引く、その握力自体が残っていないように。
「いくら……死ぬ前だといえね。と、とびきり最悪の気分ですよ」
「死ぬのが嫌であるのなら、大人しく俺について来ればいい」
「で、自我を消して、くれると」
「そうだ」
「はは……まったく――」
あまりに余計な、傍迷惑な気遣い。死と、何が違うのだ。
だが、他人の事情に口を出すな、などと正論をぶつけたところで意味はない。
所詮は狂人の自己満足。
こちらも相手の事情に興味はないし、尊重してやるつもりもない。
「死ぬのは、別に……」
いつ死んだところで、本当は構わなかった。
少しばかり、物を考えるようになった己の心。
この思考して人を模倣する己の存在意識が、はたして自我と呼べるのか、自分でも自信がない。人間どころか生物としての自覚もないクリスに、本当の意味での生存欲求は大してない。
問題は、それが納得できる死かどうか。
快か否か。
「屈服すると、思……お前ごとき……この私が――」
ただ殺されるのも、連れていかれるのも気に食わない。最期まで反抗して、その結果死んだという事実が欲しい。
むろん、流されるまま死んでやる気はない。抵抗する力が限りなく零に近けれど、それを止めることはない。
諦めることがないのではなく、ただ意地を張り続けるだけ。
「そう喋るな。本当に、殺さずにいられなくなる」
人間として、心からクリスを捉えてしまう。殺したい存在として見てしまう――そういうことだった。
人間のように扱われるのが、実はクリスは好きではない。
人間に至れない中途半端な存在であることを、誰よりも自分が知っているから。
悔しい――
こんな人間以下の存在に勝手に同類認定されたあげく、やはり勝手に人間扱いされかけようとしていることが。
最期に出会った相手が、何一つ面白みのないあり触れた殺人者であったことも。自分が背負うべき仇が二つ、それらを打てずに死ぬことも。
生を受けて、自我を得て。
なお、何も為すことができなかったことも。
「…………ぁ」
走馬灯のように、この数日をクリスは順に思い出す。廉太郎と、ついで彼の周囲の人間を思い浮かべる。
万に一つ――
これからこの男を打倒できたとして。そこから奇跡的に生存し、地上に逃れて命を繋いだとして。
そこから廉太郎の友人、知り合い、誰にも合わせる顔がない――
そんな事実が情けなく、あまりに悔しくて泣けてくるようだった。
「救ってやりたいのだ。本当に、お前を」
本心からそう望んでいるような、理解を拒みたくなる男の目。こちらをのぞき込むその顔を、上手く睨み返しているかどうかも定かではない。
「同時に、本当に殺してしまいたい……どちらも、俺の大切な……」
「ぐ――」
床に寝かされ、男は上から覆いかぶさる。そのまま、クリスの首に手が回されていた。穴が空き人工器官で補強された、細く柔らかい首。そこへ硬い指が添えられ、ほとんど剥き出しの内臓を素手で触れられているような、不快感と痛みが襲う。
それだけで、確かな死を感じ取らずにいられない。
「ならばもう、運に任せるしかあるまい。これで死ぬか、死なずにすむか」
「やってみろ……よくも私の人生に、こんな――ッ」
直後。
脳に突き刺さる、首が折られたとさえ錯覚する衝撃。
息が苦しいどころではない。指が皮膚と体の内側に食い込み、脆弱な部分を爪が裂いて血が溢れた。
直後に全身が酸欠を訴え、気道と動脈が悲鳴を上げる。視界が意識と共に暗く薄まり、手足も禄に動かせずに死の淵へと落ちて行った。
「もし蘇生できたなら……そのときは、きっと――」
すぐに蘇生に移れるよう、男はクリスの心臓が止まるその瞬間を見つめていた。高揚感、満足感と共に、無視できないほどの罪悪感が生まれつつある。
それに、男は驚きを隠せなかった。
殺人を後悔したことも、罪を覚えたこともない。
害虫を殺して家畜を食うように、欲求を満たす手段としてしか考えられなかったから。
それが、今や――
「なぜ出会った、俺なんぞと……」
「――おい」
不意に背後から聞こえた第三者の声。
男は反射的に振り返り、そして声の主を見た。
「貴様……」
驚愕。
有り得ぬものがそこにあると、現実を忘れて目を見開く。
自然と、首を掴む指から力が抜ける。それに安堵した謎の刹那、男の動きは心身ともに停止していた。
『――廉太郎君』
声が生まれる。
だがその声は、決して男に聞こえることはない。他の者にも誰にも聞こえず、この現実に音として存在する声ではない。
横たわるクリスとその傍に居る男を、目覚め立ち上がった廉太郎は目に収めていた。
その耳元で、再び女の声が生まれる。
『するべきことは私が指示する。だから、素直に動いてくれればいい』
「分かってます」
廉太郎にしか聞こえぬ声。廉太郎の意識の中にのみ存在するもの。
その存在が、廉太郎の背後に並び立つ。そう見えるだけの幻として、そう聞こえるだけの声を発して。
「まさか、生きて――」
そこから起きることを、廉太郎は目にできず、現実として知覚することはできなかった。
音速。銃弾を放つより速い一瞬。常人に反応できる世界ではない。
だが、その魂は認識している。
――何をして、何が起きたのか。
廉太郎の胸の内、魂の底より一筋の光が伸びる。
それは切断したクリスとの繋がりを示す、魂の一部。クリスと魔力をやり取りしていた、今は切断してしまった魂から伸びる一本の管。
廉太郎は魂の外へ魔力を放出するための穴を持たない。ゆえに、膨れ上がる魔力を逃がすための穴、人形を求めたのだ。
クリスを得たことで、廉太郎の魂には管を繋ぐための穴が開いた。
そして、その管が切断された。
その切断面には、当然、なお魔力が漏れる穴がある。血管を腕ごと切り落として血を吐き出すように、開き得ないはずの穴が強引に開いたのだ。
それが今この一瞬にのみ、攻撃に転じる武器と化す。
『見えるか?』
思考速度は追いつかない。だからこそ、魂の中で『他者』に手を借り理解した己の攻撃の軌道。
魂の管から魔力を放出し、瞬間的にのみ許される形を成す。
魔力が水のような形を与えられず顕現できるのは一瞬以下。非物質的な、純粋な存在しえないエネルギー。
だからこそ、その攻撃は物質の枷に囚われず容易に音速の世界を凌駕する。
一筋の魔力、光。
高圧水流を噴き出すホースさながら。剣のように、槍のように――鞭のようにそれはしなり。
横薙ぎに、広く通路を巻き込み刻みながら。
反応さえも許さず、男の首を切断した。
「…………。あぁー、えぇと――」
あまりの事態に状況が理解できず、酸欠から解放されたクリスは呆然と言葉を探してしまう。
接続していた男が死んだことで再び魔力源を失ったものの、意図してそうする前に勝手に廉太郎との接続は回復していた。
気づけば、である。
体を起こそうとして腕も動かせず、男から噴き出し続ける血をうんざりするほど浴びる羽目になった。その体が自然と地に倒れたのを冷めた目で確認すると、何を言ったらいいものかしばし悩んで、やがて口元を緩める。
「あーあ。やっちゃいましたね、人殺し」
とりあえず理解できたのは、何を言っても格好がつかないらしいということだけ。
クリスはからかい半分に廉太郎へ軽口を飛ばし、暗にその精神状態を気遣ってみせる。
「……どうでもいいよ。お前が生きてれば」
思ったより平然としたその態度を、クリスは怪訝に思った。
そんな気など知らず、廉太郎はクリスの有様に、顔も直視できないほど自分の心を痛めていた。
一目見て、どれだけの箇所を痛めているのか数えきれない。動かすのも負担ではないのかと疑う。担架があればいいのだが、場所は人気のない地下、付近には死体が二つ。今すぐにでも移動しなければならない状況に、廉太郎はその体をそっと腕に抱えた。
「……ありがとう。ごめん」
「はい?」
「だから、お前がこんなになるまで時間稼いでくれたから――」
移動しながら、たまらないほど万感の思いが湧き上がり続ける。腕の中のクリスがあまりに軽く、それが何だかこのまま死んでしまいそうで、酷く恐ろしい。
どれだけ感謝しても足りず、どう報いたらいいかも分からない。
「いやいや……あの男、殴り倒した後の廉太郎なんて、眼中になかったっぽいですよ」
クリスが大人しくついて行けば、廉太郎の死を誤認したまま男はこの場を去ったはずだった。
だから、助けられただなんて思う必要はなく、事実としてそうではない――そう主張するクリスの意図を察したのか、そうでないのか。
廉太郎は自然と、そんなクリスに笑いかけていた。
「でも、目が覚めた後にお前だけ居なくなってたら、あぁ殺されたんだと俺は思うよ。そしたらさ」
「えぇー、泣けるんですかぁ? 私で」
「……さぁ、どうかな」
弱みに付け込んで茶化すような、いつもと変わらない言葉。
だけどそれは、いつもより少しだけ心に刺さるものだった。
「でも、今少し泣きそうだよ」
死んでいたかもしれず、そうでなくとも酷い暴行を受け続けたクリスの姿。
話す言葉は妙に成熟していても、小学生のように幼い子供。そんな彼女が受けていい仕打ちでは、到底なかった。
理不尽だとも、痛ましいとも強く思う。それと同じくらい、申し訳ないとも。
あの男の狙いが廉太郎だというのだから、完全に巻き添えにしてしまったようなものだ。
そう思うと、腕に抱えていながら合わせる顔が何もない。
「医者を……すぐ見つける」
「いや、そっちもヤバいかもですよ。今は麻痺してんでしょうけど、初めて人を殺して、それで平気でいられるとは――」
「大丈夫、それはもう済んだ」
カウンセリングを頼むならロゼあたりだろうか――そう思いを巡らせるクリスに、少しの間もなくそんな言葉が返される。
迷いなく、冗談でもなく。
「……は、はい?」
訝しんだクリスの意識に、どこからともなく存在しないはずの声が侵入する。
『医者ねぇ。この町の機関は避けた方がいいよ。目立って素性を問われると面倒だ』
「……そうですか」
そんな、聞き覚えのある音色。
背後から聞こえる。自分を抱える廉太郎の背後から。
ただでさえそれが不可解なのに、当たり前のように会話してみせる廉太郎がいっそ不気味で怖いとさえクリスは思った。
『そうだな、基地に戻ろうか』
「分かりました」
その『声』は、現実にある音ではなかった。どうやら廉太郎の意識の中にのみ存在するものであり、言ってしまえば妄想で誰かと会話しているようなもの。
だが、それにしては妙に確かで現実感のある会話。実存性があまりに高い。
そして、あろうことか――
「……あの、頭の中に恋人作っちゃう人ですか?」
曲がり角。廉太郎が横を向いた瞬間、クリスはそれを目視した。
「休んでろよ、余計なこと言ってないで」
『声』と同じく、廉太郎の意思上にのみ存在する『姿』。
声も姿も、廉太郎の知覚認識を読み取れるクリスだからこそ、その認識を共有できる。
そこにある、声を発する虚像。
それは――
『やぁ、クリスちゃん』
「……えと、ロゼさん?」
急ぎ歩く廉太郎に付き従い、映し出された映像のように宙を浮遊しながら、彼女は見知った姿でそこに居た。
白いコートのような上着で頭まで覆い、顔と前髪だけをフードの隙間から覗かせる、ラックブリックの美女。
『頑張ったね』
町に居るはずのその彼女が、さも当然かのようにクリスに笑いかけている。
明らかに、実体ではない。
意味が分からない。
「なんでですか……」
予想を超えた事態に、それ以上理解しようとするだけの体力が気力と共に消滅。何もかも諦めて、クリスはただただ痛む体を廉太郎に預けて放り出してしまった。