第三十六話 獣の欲
尾行されていると確信するまでに、そう時間はかからなかった。ふと振り返えった歩道、上り切った階段の真下、一息を入れた広間の隅――必ず、同じ男の影が目についた。
容姿も人相も不審には思えず、雑踏に溶け込んでしまうような男だった。年齢の分からない顔つきだったが、どこか成熟してない印象を受ける。
妙なのは、その男から悪意や敵意を感じとれなかったことだ。目的があるのは明らかだが、廉太郎たちに害をなすような素振りもない。尾行もおざなりで、しぐさの一つ一つが素人臭い。
「心当たりは?」
「ないと思うんですけどねぇ……」
無論、廉太郎にも思い当るものはない。恨みを買うような覚えも、付け狙われる理由も縁も何も。この町に来たのはこれが初めてで、目立った行動など何もしていないのだから。
「そろそろうっとおしいんでね、撒いてしまいましょう」
「ん、まぁ……できるなら」
気取られぬよう、自然な足取りで行き先を変える。人の行きかう開けた通りで、後ろからの視認性を遮りながら、徐々に横道へ。歩道に併設された地下道の入り口を目指し、その傍を周りと同じように素通りするように。
「――行きましょう」
合図をだしたクリスの体を、廉太郎は不意に抱きかかえる。そのまま簡易な立て札で封鎖された入り口へと駆け込み、階段を足早に駆け下りる。慣れないバランスに転倒することもなく、やがて現れた狭い通路を背後も気にせず走り抜けていった。
すぐに十字路に差し掛かり、廉太郎の腕の中で弾んだように声が上がる。
「あはは……ここから先は入り組んでますからね、適当に進むだけでも姿を隠せるでしょう」
「なんだ。来たことあったんだ、この町」
勝手を知るクリスに促されるまま、右へ曲がり通路を進む。しばらく同じような通路と分岐が続き、そう歩くこともなく開けた空間に出られてていた。
地下駅や地下街のように、多目的に人が活動できる空間。だが、備品はわずかに放置された物が見られるだけで、引き払われたテナントのようにすべて閑散としているのみ。あの入り口が封鎖されていただけではなく、地下空間自体が使用されていないようだった。
魔力灯が生きており、傍に近づくたびに点灯するのを繰り返している。尾行者は早々に諦めたのか、追ってくるような足音も聞こえなかった。
廉太郎に下ろされて歩くクリスが、地上へと続く階段に指を差す。
「ここです、ここが――」
言いかけて、目を丸くする。上に向かって口を開けた通路まで近づいてみれば、その先が瓦礫に埋もれていた。光さえ差し込まず、とても通れそうにはない。
「残念」
「いえ、別に……出口はいくらでもありますから」
不服そうなクリスに苦笑しつつ、気を取り直して先に進もうと足を再び動かした、そのとき――
「――申し訳ない、変に警戒させてしまったようで」
聞きなれない声が、唐突に背後から投げかけられる。
心臓が縮む思いで振り返り、そこに男の――撒いたはずの男の姿を見た。
「いやぁ、お若い方は足が速い。こちらは息が切れそうですよ」
口ではそう言いながら、男の息は乱れていない。クリスを抱えていたとはいえ、廉太郎の体は温まりかけているというのに。同じ距離を同じ速度で移動してきたはずだ。その上行き先も読まれ、足音も完全に殺していた。
ただでさえ不気味だったその男に、廉太郎とクリスの警戒心は最大まで高まっていく。
「いえ、ですからそう怖い顔をなさらず」
男はこちらの視線を受け流すように涼しい顔を保ち、懐に手を伸ばす。そこから何かを取り出すと、こちらに見せつけるように手にかざした。
「――申し遅れました。私、こういうものです」
掲げられた、金色の目立つ懐中時計。そこに刻まれた装飾を目にしたクリスが、消え入りそうな声で一つ呟く。
「クロリア――」
「ええ」
男は肯定を返す。
一人疑問を抱く廉太郎に、クリスが「簡単に言えば、人形技術の研究所……それも大元です。私の製造元ですよ」と補足を加える。
「クリスの……?」
物腰の柔らかい男の態度にも、少しも警戒を緩めることができない。それどころか、クリスに関係しかねない事情を前に、かえって廉太郎は不穏なものを感じとっていた。
暗い地下を照らす灯りが、遠くで一つ消えるのが見えた。
「それで、俺たちに何の用があるって言うんです?」
「商談を」
「……え?」
「交渉ですよ」
話の流れが想像できず、廉太郎はクリスを横目に見た。いささか警戒してはいるものの、廉太郎が思うより剣呑ではない様子。それを確認して、無言で男の話を促していく。
「知っての通り、彼らの造る人形はこの国が保有する戦術兵器です。ですから、民間に流れることは本来禁じているんですよ」
「……でも、見逃されているはずです」
でなければ、クリスを連れてこの町に来るような真似はしない。
言ってしまえば、ラックブリックは人の法の外。クリスを連れて人前に出ても咎められることはない。
一方、人間の法の内側であるこのオーテロマの町で堂々と行動できていたのは、その辺りの事情を聞かされていたからだ。人形など巷にあふれていて、いちいち罪に問われることもないはずだ、と。
「まぁそうですね。現に私が、彼らから人形を流している仲介人なわけですし」
「仲介人……?」
商談、交渉。
男の目的はまさにそれだ。兵器を生み出す機関から、それを商品として横へ流すこと。兵器と知って世に流す、違法の商人。
人形が実際に人と変わらない以上、倫理的な嫌悪感を覚えずにはいられない。気づけば強く、クリスの腕をつかんでいた。
「民間に人形が流れる経緯は二つ。一つはそれを使用する軍人の死亡、もう一つは私どもによる金銭目的の販売流通……ですが、後者である私どもの商品には、戦闘機能に規制をかけておりまして」
そう言って、男は言いにくそうに顔を伏せた。男の言葉が何を意味しているのか、廉太郎には察しがついた。
民間に合法で出回れるのは、彼らが売りさばく人形――兵器ではなく、ただの道具としての個体のみ。
だから。
「お兄さんのその人形、それは前者のものでしょう?」
――知らない、そんなことは。
クリスは出自を語らなかったし、廉太郎も聞いてはいない。それでも、元は兵器だとは言っていた。そのときは人形すべてが兵器として造られているのだと思い、特に気にも留めなかったが、話を聞く限り男の言う通りに矛盾はない。
だが――
「――だとしたら、どうすると?」
「入手経路など問いません。煩いことも言いません……ですから交渉を、お互いにとって利益のある話がしたいのです」
この状況、咎められる非はこちらにある。その上で提案される話など、初めから飲めるはずがない。そう身構えてはいたものの、続く男の言葉に、廉太郎は思わず耳を疑ってしまった。
「それを引き渡して、新品と交換なさってはいかがでしょう?」
言葉も忘れる。ただ目の前の男に、悪意も何もないことだけが気に入らなかった。
「こちらとしてもその個体の回収は、それだけで新品一体分の価値がありますから」
出回った兵器を回収したいのか、蓄積された情報を求めているのか。いずれにせよ飲めるはずのない話。クリスの反応も目にとめず、廉太郎はただ利益を求める男の目を、静かに睨み返していた。
「お断りします」
「見たところ、あちこちがダメになっているようですし」
「ですから――」
「使用目的を教えていただければ、それに沿った適正個体を用意できますが」
そこで少し、男は軽蔑するような、見下すような目で。廉太郎を――ついで、彼に手を掴まれたままのクリスを見た。
「性別も……まぁ年齢も用途ごとに。雑用だろうと、愛玩だろうと――」
――その瞬間。
世界が一転する。
「え――」
最期の言葉を言い切る前に、男の首が弾け飛んでいた。
今まさに会話していた、ひと時前まで生きていた男の首だ。熟れた果実でも叩き潰されたように、耳障りな破裂音を響かせて。
血と肉片が廉太郎の頬にまで飛散し、血の届け先を失った血管が赤い噴水を咲かせている。直立したままの男の体を、僅かに残る首の残骸と血潮が生け花のように飾り立てている。
気づいたときには、廉太郎の頭は地に下がっていた。
そのまま、胃の中にあるものをすべて吐いた。
「だ、大丈――」
――現実感がない。
青ざめたクリスの言葉も、廉太郎の耳にはとても届かない。
裏返ったのかと思うほど、胃と喉が焼けただれる。そんな痛みが、嘔吐では解消しえない不快感と共に襲ってくる。
「いえ、大丈夫じゃなくても動いてくださいっ……! やばいですよ、これは――」
辛うじて聞こえた、必死な声。
遅れて、ようやく恐怖が芽生えてくる。身がすくむような、感じたことのない死の危険を予感して。
一つ――
足音が、闇から唐突に生まれていた。
「……いい日だ、人が殺せるのは」
そんな声の主に、恐る恐る視線を合わせていく。
図ったかのように、それまで沈黙していた魔力灯がその生体に反応し、その通路を照らしだす。
廉太郎とクリスの視線が、この場に現れた第三者の姿を――今まさに仲介人を殺害した男の姿を捉えていた。
一目でまともではないと分かる、異様な男。癖のある黒髪と無精髭が、秩序なくその風貌を覆い隠している。
表情一つ変えず、身動き一つ取ろうとしない。
季節感のないコートで全身を包む姿が、それだけで不気味に見えた。
睨まれているわけでも、凄まれているわけでもない。それなのに、視界に入れただけで恐怖がこみあげて仕方なかった。
「に、逃げますよ――廉太郎!」
掴んでいた腕を、逆に強く引かれている。
しかし、廉太郎の足は動かなかった。明らかに人を殺した男を前に、あまりにも隙を晒している。そんなことさえ、気にならなかった。
それどころではなかったのだ。
「……どうして、こんなことを――」
投げかけたのは、そんな、あまりに悠長な問い。
どうかしていたのだ。
人が死ぬのを――人の姿のまま、当たり前のように死ぬのを初めて見たものだから。これほど残酷に人が死ぬなんて、現実として想像することもなかったものだから。
聞いてみるのも恐ろしい。そんな風に、冷静に考えることもできなかった。
「――理由など、俺は知らん」
「な、に……」
「ただ、命じられただけだ。お前を――」
男は緩慢な動きで腕を持ち上げ、静かに廉太郎に向けて指を差し、告げた。
淡々とした口調で、何の感情も思想も見せず。
「お前を殺してこいと。今死んだ男は、そのついでだ」
「ふ、ふざけんな――」
その一言が、廉太郎には耐えられなかった。
人が殺されたことよりも、自分のせいで死なせてしまったという事実があまりに重くのしかかる。あまりの出来事に現実感が奪われたせいで、そんな自分の都合だけが色濃く意識に上っていた。
――俺のせいだ……。
廉太郎にある思考は、それ一つだけ。
自分が狙われた理由など、もはやどうでもよかった。
「お前には……感謝するぞ」
放心する廉太郎に向けて、謎の男は一歩ずつ足を近づけていく。走るでもなくやはり緩慢な動きではあれど、殺すと告げていなくとも身の危険を感じるであろう死の気配を漂わせて。
「人気のない場へ自ら潜ってくれたばかりか、もう一つ、俺に贄を連れて来てくれた。あつらえたように、巻き込む口実を、よく……俺に与えてくれた」
「なんだよ……これ以上、何を言って――」
口から吐き出された言葉が、別の言語なのかと疑うほどに、一つたりとも理解できない。脳も精神も、それがこの世のものだと理解するのを拒んでいる。
「呑気に会話してんじゃねーですよ……見りゃ分かるでしょうが――ッ!」
クリスに酷く揺さぶられ、耳元で声を張り上げられる。
それでようやく、現実の一部を取り戻す。
このままでは間違いなく殺されて死ぬという、簡単に脳裏に浮かぶ先の現実を。
「人殺しの目だ、それもとびきりやばいタイプの」
殺人に抵抗を覚えないどころか、それに飢えている者の目。心の底から社会の敵だと吐き捨てられるような、考え得る限り最悪の殺人者。人であることすら疑わしい、獣以下の畜生――そう思えるまでに、男の存在は異様だった。
「廉――」
クリスの指示を聞く前に、体が動いていた。クリスが抜いていた拳銃を奪うように手に取り、少しも迷うことなく敵に照準を定める。
『染光』――クリスの扱える、人に通じうる射撃魔術。
断罪でも自己防衛でも逃避でもなく、ただ本能での行動だった。
指と同時に己の魂で、その引き金に指をかける。
だが――
「――う、ぁ……ッ!?」
何が起きたのか理解する前に、手中の鉄塊が弾き飛ばされていた。
手が熱い。文字通り、焼けたように。
地に転がる銃の残骸が溶解している。常人に視認できない速度の攻撃で打ち抜かれたのだと、ただクリスだけが理解していた。
その現象と、先の男をおそらく射撃手段によって殺害したこと。それらが意味するのは、目の前の殺人鬼が魔術を操るという事実のみ。
「――くそっ、最悪だ……廉太郎」
魔法を越えた殺人の術。それを我が物とする殺人者に、クリスは絶望的な思いで打開策を模索し続けていた。