第三十五話 嵐の前の乱気流
ユーリアが基地を発つより少し前――一方、廉太郎とクリスは目的もなく町の通りをさまよっていた。食事中に席を立ったユーリアを見送った後、気づけばラヴィの姿も消えてしまったために、二人だけである。二人はとりあえず町並みを眺めるだけで、特に何をすることもない。
散策である。
初めて訪れる地。勝手も分からなければ、どんな町かも知りはしない。ゆえに足取りが定まらないのだ。
こんな町にまで足を伸ばしたは、元の世界に繋がる手がかりの捜索。だがやはり、あまりに漠然としすぎていて、いざ現地に到着してみると何をしたものかと途方に暮れてしまう。
「どうするんです、これから」
「どうしようなぁ……」
そうして、ふらふらと歩きまわっている。
これでは本当に、ただ観光に来たのと変わらない。が、そこまで浮足立った気分でいることもまたできない。
行きかう住民の様子は、どこで見るそれと変わらない。当たり前に家族や友人を愛するような、素朴な人間たちでしかない。
なのに、ここにいる全員が敵。
瘴気に飲まれていない人間側の世界では、他人種族の命は害獣同然。同族でさえ、マイノリティな存在は欠陥者として処理される。
多様性を否定し、排除する世界。
それを思えば穏やかではいられない。それでも目新しい町並みには心が惹かれるもので、緊張しながらも楽しい気分にはさせられてしまうのだが。
「そうだな、図書館か……本屋にでも」
「そればっかりですね」
「仕方ないよ。誰にも聞いたりできないんだから」
ラックブリックでさえ、廉太郎は別世界から迷い込んできた事情を隠している。だがそれは余計な詮索やトラブルを避ける程度の意味でしかなく、ユーリアやロゼの忠告に従ったにすぎない。
だが、この町においては死に直結しかねない秘密となる。他の世界の存在など、おそらく信じているだけで異常思考の欠落者として扱われるだろう。
誰にも悟られずに手がかりを探そうと思えば、やはり情報を閲覧できる場所に赴くしかない。結局、やれることは変わらないのだ。
しかし、いまいち身が入らない理由はそれだけではない。
どうしても気がかりで、案じていることがあるからだ。
「ユーリア、今頃なにしてんのかな……」
何も言わずに別行動を始めた、ユーリアの安否である。
下見だとか様子見だとか、そんな言葉で濁していたが、それにしてはあまりにもタイミングが急。一人、するべき仕事を果たしに行ったのは誰の目にも明らかだ。
今回彼女に下された指令、その詳しい内容は聞かされていない。町から離脱した魔術師の対処――ユーリアはそう言っただけで、それ以上は何も言おうとしなかった。
それは触れてほしくない意思表示のようで、廉太郎も聞こうとはしなかった。
気になって、心配でもあったけれど、結局聞けなかった。
――あんな性格ですからね、心配させたくないんでしょうよ。
一人で仕事に向かったのも、内容を告げなかったのも。
それを寂しいと嘆く余地すら廉太郎にはない。いずれにせよ、力になれることは何もないのだから。ユーリアたち魔術師の戦闘能力を思えば、手助けどころか足手まといにしかなれないのは言うまでもない。
傍にいれば、かえって首をしめる。
できるのは、ただその無事を信じてやることだけ。そう思うと今更ながら、アイヴィの気持ちが痛いほどに分かった。
空を見上げると、午前中には差していた陽が薄い。雨こそ降りそうにないが、風が少し肌寒い。
明るい灰色の空。
なんとなく、ユーリアが好きそうな空だと思った。
「……騒がしいですね」
足を止めたクリスの視線を、自然と追っていた。少し外れた、そう遠くない通りがざわめいている。周囲を見渡せば、何事かと同じように気にしている数人が目に入った。やじ馬が一部そちらに向かって歩きだし、廉太郎もつられるようにそれにならう。
「――っと」
ところが、つっかえたように前に進まず、服でも掴まれたのかと振り返る。そこで目に飛び込んだのは、謎の紐状に伸びる発光体。それをクリスが握りしめていて、状況が分からず戸惑いの声を上げてしまう。
「え、何これ……紐?」
気づけば、その光は自分の胸から伸びていた。胸の、それも内部から唐突に現れた薄青に透き通る謎のロープ。それを、クリスが呆れたように引っ張っていた。
片側は同じようにクリスの心臓あたりに繋がっている。人同士に繋がれた鎖かのようで、本能的な不快感を覚えそうになった。
「見てわかるでしょう。飼い犬のリードですよ」
「聞いてないよな、こんな設定」
「必要なかったので……でも、わざわざ車にひかれに行くペットがいるから」
廉太郎とクリスの、魂の接続。魔力の繋がり。普段目に見えることないその関係を可視化したもの――特に説明されなくとも、自然とそう理解していた。
筋力に難のあるクリスが引くだけで廉太郎を留められていることから、見た目以上の干渉力が伺える。
「いや、だって。ユーリアが関わってるかもしれないじゃん」
「……まったく、弁えたふりして直情的な――あの人のことしか考えてないんですか?」
そう言われてしまえば、確かにそう。あまりに考えなしの行動で、危ないとこだったと自覚させられてしまう。つい先ほどまで足手まといにしかならないと憂いていたのに、これでは一貫性がない。
それでも未練がましく、ちらちらと視線を向けてしまう。そんな廉太郎を見かねて、クリスは諭すように言った。
「大丈夫ですよ、あの人強いんですから。足手まといさえいなければ絶対無傷ですってば」
「……強い強いとは言うけれど、なんだか逆に心配になってくるんだよ」
それは逆に言えば、より危険な戦場に送られるということだから。
こんな風に心配してしまうのは、活躍している姿よりも、苦しんだり傷ついている姿を目にする機会のほうが、ずっと多かったせいなのかもしれない。
「ほら、観光に戻りますよ」
「観光じゃないよ。気分的には」
トラブルから引き離すように、クリスが反対側へと誘導する。それに抵抗することなく、おとなしく足を合わせていった。
すぐに紐は見えなくなった。それでも一度見た以上、クリスとの関係をより自覚してしまう。見えなくなっただけで、消えただけで。常にそこにあるものなのだと。
「――そうですね、お土産でも探しません?」
人の込み合った通りに入り、気分を変えるようにクリスが提案をだした。
「アイヴィさんあたりに」
「あぁ、それは良いな」
どうせならユーリアと選んでやりたいし、何を買うにしても用事が済んで町に帰るときにするべきだろうけれど、下見くらいはしてみたい気分だった。
何が喜びそうなのかと考えてみて、一昨日の晩を思い出し酒だけは選ぶまいと心に決める。
店先を覗きながら、アーケード通りを歩いていく。やがて、思いついたようにクリスが言った。
「そうだ、プレゼント買いなさいよ」
「お前に……?」
「ユーリアさんにですが?」
クリスの意図は表情を見るまでもなく分かる。そのまま完全に、いつもの方向へと話をもっていかれそうだった。
しかし、変に関係を意識することもなく、それは検討すべき提案のようにも思える。
出会ってからこれまで、世話になり続けているから。
むしろ、贈らなければ不味いほどの関係でもある。もちろん義務感だけではなく、何かの形で感謝を伝えたいという思いだってもちろんある。
だがそれには一つ、大きな――大きすぎる問題点があった。
「俺が持たせてもらってるお金、全部ユーリアのなんだけど……」
「いいじゃないですか。ますますヒモっぽくて」
「…………」
本当に付き合っているわけでも好意を抱き合っているわけでも依存し合っているわけでもないのだが、状況だけ捉えられればそれに限りなく近いのは事実。強く否定するにはあまりに後ろめたく、何も言い返すことができない。
だがヒモであることを受け入れるにせよ、用意してもらったお金で贈り物を買えるほどの勇気は廉太郎にはなかった。
「そうですねぇ……何か――」
葛藤し始めた廉太郎をよそに、クリスは一人その気になって、目につくものがないか探していく。だがその勢いもすぐに枯れ、困ったようにあちこちを見渡しだしていた。
何を贈ったらいいものか、見当もつかないのだろう――そんな風に、すぐピンときた。廉太郎も同じ思いだったからだ。
何を贈られても喜んでくれそうでもあり、その実困らせてしまいそうでもある。頭を抱えていたクリスだが、やがて「そうだ――」と頬を緩めた。
「アイヴィさんに貰った手帳、何かヒント書いてません?」
「うっ……」
思わず顔をしかめる。
同調するように、クリスも渋い顔で笑った。
「例のメモか」
「例のやばいメモですよ」
町を発つ前夜、アイヴィに『ユーリアの説明書』だと言って渡された悪魔のような手帳。
確かに、食事事情などの情報はユーリアを手助けするのに役立っている。しかし、その他の内容がだいぶ――かなり問題だったのだ。
昨晩基地で休みながら目を通したとき、本気で捨てるべきかと迷ってしまったほどに。
――これは本人に怒られる、さすがに。
第一感想はそれだった。
初めは羅列されたプライベートの数々を茶化していたクリスさえ、最終的には無言で引いていたのだ。
あまりにも赤裸々に、余計な――というか、知ってはいけないような情報で大半が占められていた。本人と己の名誉のために、とてもすべては読めていない。
おそらく、これを書き始めたときにはすでに酔っていたのだと思う。仮に素面であったなら、アイヴィへの見方と関係性を考え直す必要がある。
とても人前では開けないので、覗いた情報の中からまともなものだけを思い出していった。
「鉄板ですが、アクセサリーとかどうです?」
「身に着けるのは全部ダメだってさ」
「では、いっそ宝石とか」
「重すぎるだろ……値段的にも気持ち的にも」
「香水は?」
「めちゃくちゃ苦笑いされそう」
「えぇ、となると――服とか?」
「服って贈るものか……?」
贈るにしても、恋人同士が一緒に探しながら買い物するくらいのものだろうに。そうでなければ自分で買うし、選ぶもののはずだ。
好みやこだわりなど、装飾品以上に振れ幅が大きい。意外にも人の目を気にする方で、見た目には相当気を使っているという情報もある。
贈ったところで着てもらえるかどうかも、着れるかどうかも分からない。
「考えてみれば家族でも恋人でもないのに、服って……ちょっと気持ち悪くない?」
「でも、サイズ分かってるじゃないですか」
「――しかし、あれだなぁ」
雑踏すべてがむなしく思えて、廉太郎は天を仰いだ。
「そのつもりなかったけど……いざ何で喜ぶのかも思いつかないなんて、なんか寂しいな」
化粧品も美容品も、石鹸類でさえ一定のものしか使わない。食べ物には興味がなく、特に甘い物は虫歯が怖くて手をつけない。
となるともう雑貨に絞られてくるのだが、それこそ幅が広すぎて選択に困る。
思えば女性どころか、友人のような相手にさえ物を贈ったことがない。かえって困らせてしまうのではないか、気に入ってくれないのではないか――そんな風に考えるから。
「参考までに背を押すと、ユーリアさんの誕生日が七十六日後ですかね」
「えっ……十九歳? そ、そっかぁ――」
酷い衝撃を受けた。
今まではどうにか同年代だと思っていたかったのに、二つも年上となると少し距離を感じてしまう。なんだか対等に話しているのが不釣り合いな気がして、胸が寂しくなる。
「いえ、その日で満十八になるってだけです。今年度十八だという意味でそう教わったのでしょう」
「あぁなんだ、じゃあやっぱり同い年でいいんだ」
それは――やはり、嬉しい事実だった。
以前クリスに確認してもらったところ、廉太郎が元の世界で覚えている記憶は六月六日で止まっている。その日にこちら側に渡ったのだと考え、ここで過ごした日数を加えると、ユーリアの誕生日が逆算できる。
向こうの暦で考えると、八月二十七日に相当することになる。
それは意味のある捉え方ではないのかもしれないが、廉太郎にとっては大事なことだった。ちょうど自分より、四か月だけ早い生まれ――そんな風に具体的な数字で見られたことで、より対等でいられる自信がつく。
より身近で、実在する感覚が得られる。
「……好きすぎ」
「何か言った?」
「うわ難聴ですねぇ、自分の心に」
もちろん、異なる世界に生きた人間同士だ。一年間の長さ自体が違えば、生きた時間の長さは歳の数で比較できなくなる。
だが驚くべきことに、両世界間で一年という時間の長さに違いはない。暦のシステムこそまったく異なるが、日数にしてちょうど、三六五日。
クリス曰く、日の長さも同じだとか。
それはつまり、自転と公転――天体周りの仕組みがまったく変わらないということ。
偶然だと片付けるには、奇妙を通り越して恐ろしい。
無理やり納得しようとするのなら、それが宇宙のシステムに生態系が生まれる必要条件なのだと、そう考えることもできる。
もしくはより受け入れやすい解釈として、二つの世界は思っているより密接な関係にあるのだと考えることもできる。
いわゆる平行世界、あるいは裏の世界。
どちらかが表で片方が裏。
だからこそ差異はあれど、土台の部分で二つの世界は似通っている。人間や動物、植物などに共通項があり、人の精神構造だってほぼ変わらない。
そう考えてみるとあながち的外れにも思えず、そこに世界間移動の手がかりさえ、きっとあるような気もしているのだ。
「ともかく、八月二十七日ね。その日までには、何か……考えて――」
「どうしました?」
「……そんなに長くこっちにいたくないな、俺」
あと、七十六日も。そんなに長く時間をかけてしまえば、それだけ家族を悲しませる時間が長くなってしまう。
一日帰らなかっただけで、大騒ぎどころではなかったはずなのに。すでに、七日目だというのに。
「いやいや……帰りたいのは格好だけで、本当は一生ユーリアさんに養われていたいんでしょう?」
「捏造するなよ、俺の本心を――」
そんな風に強がっても、どこまで否定できるのか自信がない。
無意識の内に帰ることなど諦めているのではないかと、そんな風に恐れている。あまりに見通しが立たなくて、くじけてしまったのではないかと。
反対に居心地は冗談のように良すぎていて、出会えた人たちもみな気が合う。
だから、あろうことか――
別れたくないと、帰りたくないと思い始めてしまっているのではないか。
ここまで来て調査に身が入らないのも、他に理由はつけていても実のところクリスが正しくて、それで見透かされているのではないか。
――クリスは本当に、心が読めているのだから。
こんな逡巡も『誤解ですよ』と、今この瞬間にだって否定してくれないのだから。
「あっ、思いつきました。詩を書いて歌いましょう。お金要らないですし」
「分かった花にする」
クリスは目に見えて話を逸らす。触れてこないので、廉太郎も触れなかった。
あと、七十六日。
そこまで長期化すればさすがに自立して、花くらい買える程度の仕事は見つけているのだろうなと、廉太郎は思った。
――――
「ベリルたちは……無事に向かってくれましたか」
ホテルの一室で、男は誰に言うでもなくそう呟いた。部屋に人はいない。
連絡を受けたわけでも、報告を読んだわけでも、感化されたわけでも何もない。
部屋には何もなく、ただ中年の紳士が椅子に座るのみ。
彼は目を閉じていた。
そのままで、事の推移を理解していた。
「だとすれば手はず通り、トリカは愛する最高戦力を排除したということ……保険に打った手は無駄になりましたか」
おもむろに、懐から二枚の絵を取り出す。極限までの写実性を追求したその絵には、それぞれ黒髪の男と女が描かれていた。
見る者によっては、それが娵府廉太郎とラヴィを映した写真だと、瞬時に理解できるだろう。
「あのユーリア・ヴァイスの同行者……何者か知りませんが、殺すまでもなかったようで」
男は興味を失ったように灰皿を手元に寄せ、写真を二枚とも乗せる。そのままオイルライターで火をつけて、ついでのように煙草を取り出した。
吸い始める前に二枚の写真は灰になり、この世界から消滅する。
やがて、男は憂鬱そうに顔をしかめた。
「まぁ、いいでしょう。あの気狂いにも、たまにはガス抜きが必要でしょうから」
その両名の殺害という、もはやどうでもいい命令。それを下した己の下僕の扱いずらさに、付き合いきれないと辟易して。