第三十四話 ミッシングリンク ③
アニムスやラヴィに共通する異能は、単なる短距離間の瞬間転移術ではない。その程度の能力であれば、ユーリアの反応が遅れることはない。
些細な接触さえ嫌がり、周囲に人が近づけば敏感にそれを察知する。そのために普段から警戒態勢をとるユーリアの隙を、アニムスはいとも容易くついてくる。
嫌がらせのように肩に触れられ、そのたびに驚かされる。それどころか、幻か手品でも見せられたかのように現実感さえも奪われるのだ。
彼らが消え、現れる――それを、他者は正しく認知できない。
現象に対する知覚が遅れる。存在が移動したことに気づけない。ありもしない残像を脳が捉え続け、傍らに現れた実像に意識が向かない。
以前から、警戒はしていた。
もし敵対したのなら、自分は殺されたことにも気づけないだろうと。
――こうかな。
その能力を、何故かトリカが模倣していた。
ユーリアは背後を取られたことにも気づかないまま、無防備な背に攻撃を浴びせられることになる。
ラヴィは、そこへ跳んできた。
警告が間に合わなかったことを察し、割って入るように転移。ユーリアを押しのけるように、その存在座標をずらす。
そして、当然のように代わりに傷を受けた。
庇われたことだけを、ユーリアはとっさに理解できた。
「ラ、ヴィ……」
状況を理解する前に、ラヴィの姿が再び消失する。それきり姿は見えなくなった。混乱する頭が、夢や見間違いだと叫んでいた。場に残された血だまりが、取り返しのつかない現実を教えてくる。
ラヴィがその能力で逃れたのは明らかだが、跳ぶ前に被弾したのも明らか。彼女の言う『赤い鞭』は、肉体など抵抗なく切断する。まともに食らえば致命傷。
それでも、肉を浅く切るだけですんだに違いないと信じたかった。骨を、臓器を刻まれる前に場から逃れられたのだろうと。残された血も、致死量には足らない。
少なくとも、能力を使うだけの余裕はあったのだ。
生きているはずだ。
そうでなければ。
「どこにいるの――ッ?!」
喉が痛むほど、ユーリアは叫んでいた。
「無事なら返事を……いいえ、しなくていいからそのまま逃げて!」
静寂に、自分の声だけが反響する。
返事はなかった。
さすがに、そう遠くへは跳べないはずだ。それでも気配さえしないのは、負傷の深さを物語っている。返事もできず、身動きさえもできない――それどころか、意識を失っている可能性だってある。
事の重大さが不確かな今、すぐにでも姿を確認したい。
「あーあ、防がれちゃったし逃げられちゃった。便利な力だねぇ」
人を傷つけて何の感傷もないのか、トリカは淡々と言い放つ。それに心を痛める間もなく、ユーリアは周囲を探し回っていた。トリカを視界にとらえながら、ラヴィの姿を探し続ける。
負担のないぎりぎりの速度で移動を続けても、隠れた形跡の血痕すら見つけることができない。
ユーリアの心を、焦りが徐々に支配していく。
「どうして……? また、こんな……私は――」
このままトリカを放置してでも、ラヴィを保護する必要がある。その責任がある。
身を挺してまで、守らせてしまったのだから。
何もせず、ラヴィが死ぬようなことがあれば、それはユーリアのせい。
それに。
「ラヴィ――ッ」
ことここに至れば、さすがに気づく。
ラヴィは――いい奴だ。
助けられたことなど別にして、好感が持てる。
確執のある、あの町の人間だった。その上、初めて目を合わせたときは理由も告げずに喧嘩腰で絡んでくるような相手だった。
それで意地になって、そっけない態度を続けていたけど。
ここに来るまで過ごした時間や、交わした何気ないやり取りは――正直楽しかった。
だいぶ変わってはいるが、それはお互い様のこと。
もっと話がしてみたい。友達にだって、なれるのかもしれない相手なのに。
死んでほしくない、死なせたくない――そう思うと、目頭が熱く溶けていった。
「はぁ……もういいや」
そんなユーリアに、冷たい声が届けられる。その声に注意を向けると、トリカが顔を伏せ、こちらを睨み続けていたのが分かった。
「ねぇ、誰と会えたつもりなの? 死んだはずのわたしなんだよ?」
失望したような、裏切られたような声。
何が言いたいのか痛いほど分かって、ユーリアは思わず目を逸らした。
「なのに、もう他の子のことしか心配してないじゃん……信じられない」
「そんな……そんなことを言わないで。お願いだから――」
縋るような、泣きつくような声が漏れた。
本当なら、何もなければ。無条件でトリカを気にかけてやりたい。かけたい言葉も、償いたい罪も山ほどある。
だが、今緊急を要するのはラヴィなのだ。今こうしている間にも、どんな思いでいるのか分からないのだから。
「いいよもう。探して、手当してあげれば?」
「え……?」
思いがけない言葉。だが手放しで喜べない声色で、トリカはそれきり背を向けてしまった。
「でもわたしはもう行くからね。ベリルと一緒に、町に戻るから」
「駄目だって……言ってるのに――」
町への復讐。それには戦力があまりに足りない。
このまま行かせては破滅が待っている。ラヴィを死なせたくないのと同じか、それ以上にトリカを守ってやりたいのに、ユーリアの足は動こうとしない。
「先に用を済ませて待っててあげるから、今度は一人きりで会いに来てね」
そう言い残して、トリカは文字通り消え去った。
当たり前のように、どこかへ向けて転移したのだ。
ひとまず、ラヴィを探す猶予を与えられた。だが、このままトリカたちをみすみす死なせに行くわけにもいかない。
今追わねば追いつけない、両方をこなしている時間的余裕はない。
選択もできない、どうしようもない状況だった。
「だめ、私だけじゃあ……!」
――自分一人では。
それきり迷うことなく、ユーリアはその場を走り去った。
町の中を、ほとんど全速力で駆け抜ける。トリカとの戦闘が人払いになったとはいえ、少し離れれば普通に人が行きかっている。この速度で走り抜ければ不審な魔術師として確実に目立ち、だいぶ不味い状況に繋がりかねない。それでも、なりふり構うつもりはなかった。
息が上がる。運動量と疲労は普通に走るのと何も変わらない。
足を止めず速度を落とさず、ユーリアは目的の場所を目指していた。
「本当は、廉太郎たちに会えれば一番いいんだけど……」
離れて時間がたち、どこにいるのか分からない。ならば彼らを探すより、確実に会える相手に頼るべき――それはユーリアにとって、一つの覚悟を意味している。
やがてたどり着いたのは、自分たちが確保しているセーフハウス。前哨基地の職員が、町での拠点に使う家。ちょうど、今朝、馬車の手配を任せた女性職員が待機しているはずなのだ。
玄関先から大声で呼びつけようとして、名前も知らないことに気づいた。
仕方なく二階に駆け上り、存在反応のある部屋に駆け込む。つい、ノックも忘れる。中に居た女が、冷ややかな目でこちらを出迎えていた。
「なんだ、お前……目立って入ってくんなよな」
敵地にいる自覚のかけた行動なのは自覚している。が、それにしても視線が険悪に思えてならない。
今朝から分かっていたことだが、この女、ユーリアへの印象がかなり悪い。おおかた、過去にとった態度が最悪で、相当嫌われてしまったのだろう。
ユーリアには心当たりがなかった。
顔だって、初対面かと思ったほど。
こちらが忘れてしまうようなことでも、嫌なことをされた側は忘れないのだ。
ユーリアが、いつまでも三年前のことで町の人間を恨んでいるように。
「……緊急事態よ。今朝一緒だった、黒髪の女の子。ひどい怪我でどこかに消えた」
「はぁ?」
「保護を頼みたい」
息を整えながら、最低限度の情報を伝えて協力を要請する。感情的にも猶予的にも、それが精いっぱいだと思って。
「ふざけんな、分かるように言え。こっちにだってやることあんだから」
それなのに、こちらの気も知らず女の態度はあてつけるように悪い。自分などどれだけ嫌われてもいいが、人が死にかけているというのに。
それにかっとなって、ユーリアの声は喧嘩でも買ったように荒くなった。
「だから緊急だって言ってるでしょ? 今こうしてる時間も惜しいのよ!」
その剣幕に、ただ事でないことだけを悟ったのか、女はばつの悪い表情で言葉を返す。態度は変えずに、話を続けた。
「……まぁ、命令されりゃあ逆らえない立場なんだ。分かってんだから早くそうしろ」
命令。
そんな、無理やり強制されたようなモチベーションであたってほしいことではない。とても大事な役目なのだ。ラヴィが失われるなんてことが、万一でも起こっていいはずがない。
だから。
もっと、親身になってほしい。
力になろうと、心から手を貸してほしい。
そのためには――
「……私の標的が、予想外の動きをとった。町に向かってる、今すぐ追わなければならない」
こちらも、真摯にならなければ。
時間を気にして情報を選ぶにも、限度と誠意の折り合いというものがあるはずだ。何の事情も告げられないまま必死で動けるほど、人は機械的ではないのだから。
他人は詳しく知る必要がない――そんなことでは、一人焦って空回りしたあの日から何も変わっていないではないか。
「でもその過程で、私のミスで、あの子は大けがを負ってしまった……私を庇って」
「お、おう……」
混乱を避けるため――主にトリカについての――余計な情報は敢えて削る。それでも自分が求める役目の意味だけは、大事に伝わるように。
「今、頼れるのはあなただけなの。お願い……!」
自然と、深く頭を下げていた。
そうしていると、自分の存在があまりに滑稽に思えて消えたくなる。これまで散々人間相手に喧嘩を売り、嫌われるような態度を続けていて。どの面を下げて言っているつもりなのだろうかと。
――恥ずかしい。
今の必死な姿がではない。
これまでの自分の非を、この瞬間認めたようなものだから。
あまりにも幼稚な振る舞いだったと、泣いてしまいそうなほど。
頭を上げるのも、目を合わせるのも怖かった。目の前の相手に、かつて何を言ってしまったのかも覚えていないのが、あまりに恥知らずなことに思えて。
「わ、わかったから。もう行け」
「ありがとう!」
告げられた返答に、跳ね上がるように顔を上げた。目に飛び込んだ気まずそうな顔に、「頼んだわ」と一言思いを残して背を向ける。
再び走り出そうとしたその前に、ふと思いとどまって足を止めた。
「あと、その……私、以前に――」
「うるせぇな、急げよ。後でな」
その気持ちが嬉しくて、振り返ることなくユーリアは去った。そして、自分ふが思いがけないような表情をしていることに気づき、こそばゆいような気分で駆けだした。
本来慣れないはずの車の操縦を自ら行い、ユーリアは町を飛び出した。貸出公用車手配所の職員を軽く脅し、手続きをすっ飛ばして拝借した一台の車両で。
魔力ではなく化石燃料で動く旧式の粗悪品。乗り心地は最悪と言っていい。
それでも、車体が壊れかねないほどの速度で急ぐ必要があった。
目的地は、ひとまず例の前哨基地。
トリカとベリルは、間違いなく先にそこを狙う。町に襲撃をかけるのだから、先んじてその情報が伝えられてしまう連絡手段を潰しておかないはずがない。あの二人がその気になれば、あの基地に常駐する五人の命など数十秒も持たない。
やがて基地の真上に到着し、車から降りて顔を晒す。すると、巧妙に隠された入り口のハッチが唐突に開けられ、中から昨日は顔も見せなかった男が現れた。
「――なんだ、あんたかよ」
予定にない不審な車両に乗っていたのがユーリアだと分かり、安心したような不審に思ったような様子。
「何かあったんですか」と、続いて現れた昨晩の少年。
その二人の様子に、ユーリアの方が困惑してしまう。
「私以外の車とか、少し前にこっちに来たりしなかった?」
「来てねぇよ」
妙な話だった。
いくらなんでも、ユーリアより先に町を出たはずだ。予想に反して襲撃をかけなかったにしても、素通りする車両さえ見かけなかったのはおかしい。
ベリルがこの基地の観測範囲を知っていて、迂回したとも考えられる。が、その場合ユーリアはベリルたちを追い越して町に先行できてしまうはずだ。
意図が掴めない状況。それでも前に進むために、ユーリアは簡単な事情を皆に話した。
協力してほしいと、また頭を下げたとき、ほとんどの者が驚いていた。それを見て、どれだけ自分の態度が目に余ったのか改めて実感させられる。
何もかもから逃れるように、ユーリアは通信役へと指示を飛ばす。
「フリム、町への通信準備を――」
『もうやってるよ!』
遠隔通信術式の補助装置に入った羽妖精が、返事を直接魂に飛ばしてくる。
その音のような声が、徐々に動揺に染まっていった。
『で、でもなんかおかしい! 全然向こうの声が聞こえない!』
「え――?」
通信ができない――
装置の故障など、あまりにタイミングが良すぎる。
ならば、何らかの妨害を受けていると考えるのが自然。おそらく、ベリルたちが反応にかからなかったのもその一環。
だが、町に向かって行った彼らに、そんな余裕があったとはとても思えない。
「誰か……協力者が?」
薄い可能性だ。今の彼らに協力する者がいるとは到底思えないし、目的が分からない。
だが、可能性が僅かでもあれば見過ごすことはできない。その誰かは、この基地を補足していることになるのだから。
少なくとも戦闘要員のいないこの基地は、敵に見つかった時点で放棄するしかない。
「ごめん、さっき言ったことは全部忘れて。みんなは自分の命を最優先に――」
「それはないですよ、ユーリアさん」
昨日はユーリアを恐れてさえいた少年が、こちらに堂々と意見を向けてくる。
「言われた通り、ラヴィさんの捜索は自分も行きますし、その後はここで治療します」
「でも――」
「大丈夫です。いざとなってから逃げられるような訓練も受けてますから」
驚いて、他の者の顔を窺う。異論はないと、そう物語っていた。
それを見て、ユーリアはまた一つ思い知ることになる。
――この基地にまで派遣された連中なのだ。頼れないほど無力であるはずがない。
無意識の内に、自分の力以外を過小評価していたのだと。
「あの嬢ちゃん、お前の友達か? いつの間に人間と和解してたんだよ」
大柄な男が、やや誤解しながらも気さくなことを言う。
それを見て、化粧の濃い女が笑みを浮かべた。
「言ってくれたらさぁ、昨日も気ぃ使わなくてよかったのに」
「え、気を使ってたの?」
腫れ物扱いではなく――
その発想は、ユーリアにはなかったものだ。
「いやだって、仕事前に気が休まらないかなと思うじゃん。私らいたら」
「……なんだか、言葉もでないわね」
立つ瀬がなかった。この世界で自分だけ、何も知らない子供でいたような気がして。
言いたいことも言わなければならないこともあったのだろうが、とてもではないが口にできる気分ではなかった。慣れてなかったし、気持ちの整理もしきれていない。
ここで、また過去を清算するようなことを言ってしまえば、それで本当におしまい。
ユーリアはそれ以降、過去を恨むことができなくなる。
それはそれでいいかなと、そう思えるような浮ついた気分ではあるけれど。
その前に一つ、やり残したことがある。
「――じゃあ、私は急ぐから。みんな後はよろしくね」
今まさに恨みを抱く二人――ユーリアの振る舞いが生んだ二つの罪。それらに対峙するべく、ユーリアは一人、長い帰り道に足を乗せた。