第三十三話 ミッシングリンク ②
ベリルは去ったが、それどころではなかった。
トリカは明確な敵意と殺意を向けている。目に見えず、魔力反応もなく、ユーリアを捉えかねない速度で迫る謎の能力――殺傷力だけならば、もはや魔術の域に達している。
下手な魔術師でも殺し得るほどに。だが、一つの町との総戦力差を考えればあまりに分の悪い戦争。ベリルを足したとしても、ラックブリックに戻ればただ殺されるのが目に見えている。
「分かったわ、トリカ。私は殺していい」
安全な間合いも見極められず、言葉とは裏腹に警戒を続けながら、ユーリアは迷うことなくそう告げた。
「だから、そんな馬鹿なことは考え直して」
「まじめな顔で面白いこと言うね? わたし好きだよ、そういうところ」
「そう……」
説得も交渉も、何も通じそうにない。
トリカを助けるには、無理やりにでも精神治療を受けさせる必要がある。見境のない復讐心を、どうにか現実的なレベルにまで抑制させる。そのためにまずは無力化し、町まで連れて帰らねばならない。
その、無力化自体が問題だった。
あまりにも不確定要素が多すぎて。
単純な魔力であれば、近づくだけで封じられる可能性は高い。ユーリアの能力――魔術師殺しの魔力結合妨害、その効果範囲に取り込んでみる価値は十分にあった。
だが、それさえ確実とは言えない。
情報があまりに少ない現状、下手に近づけば詰みかねない。
死んでもいい――その言葉に偽りはない。だが、軽々しい無駄死にはトリカを救えない未来にもつながる。
それが、もどかしいほどに辛かった。
「でも、それじゃつまらないんだよぉ。本気で戦ってくれないと――」
殺気――もはや、頼れる情報が他にない。
トリカの視線がこちらの頭上に動くのを視認。即座に体をよじり、頭を後方へ反らす。とっさに取れる最小限の動き。のけ反った頭に従って、亜麻色に光る髪が空になびいた。
数本の髪の先が、体から切り離されていく。
額を横に、赤い一文字が走った。
「あはっ――抉れたねぇ、今!」
額から、派手に血が噴き出す。血流の多い顔からの出血なのを加味しても、確かめるまでもなく深い。
痛みに顔をしかめ、一瞬遅れて痛覚を消去する。
肉体組織を圧縮し、可能な範囲で止血。魔力を皮膚の下にかき集め、微細な運動神経の疑似的な縫合を行う。
気休め程度の応急処置。抑えきれない血の雫が、瞼まで伝って視界を塞いだ。
「おしかったなぁ。あとほんの少しでさ、殺せてたんじゃない?」
「そうね……」
こんな傷はどうでもよかった。心のほうがよほど痛い。
目元を拭い、邪魔な血をどける。血で汚れた手が、他人事のように気持ち悪い。
そんな仕草に「あっ――」と、トリカの表情が悲痛に歪んだ。
「そこまで深いと傷、残っちゃう? ご、ごめんね。せっかく可愛い顔なのに……」
心が握りつぶされるような、地に着いた足が融けていくような思いだった。
一息でいいから時間が欲しい。代わりに少し目を閉じて、それから振り絞った声が、耳に切ない。
「自分で何を言ってるか、ちゃんと分かってるの……?」
殺意を向けておいて、傷を気にかける。その後の命――生活を、それも美容の観点から気にする始末。
根本から矛盾した思考。その精神構造が痛々しくてたまらない。
しかし――
「――カウンセリングを受けましょう?」
それはまだ、どちらにも傾く余地があるということ。対話にだって、まだ意味が残されている。それが、救いだと思いたかった。
「今ならまだ、ロゼならきっと……」
「――ッ!」
――不意に振るわれた殺意が、ユーリアの傍らを削いだ。
顔の横を空気を撫でる。地面に叩きつけるように振るわれた爪痕が、ユーリアの真横から後方へと直線を刻む。発砲音に似た衝撃波が、明後日の方から聞こえてくる。
会話の中、感情と場の間隙を縫われたかたち。
狙いが定まっていれば、文句なく死んでいた。
「もういい!」
トリカが癇癪を起すのを、ユーリアは初めて見る。いつも明るく、聞き分けがよく、子供ながらに落ち着きのある子だったから。
「――ねぇ、好きだよ」
牙を向けておいて。
その余韻に浸るように紡がれる、親愛の言葉。
それが過去形でないことを、安堵するべきなのか、嘆くべきなのか。
「……ありがとう、私も好きよ」
せめて会話ができるなら。
思いだけはすべて伝わるように、飾ることなくぶつけてあげたい。
「今のあなたを、大事に思っている。思っていたい」
「……ずっと憧れてた」
そしてトリカは、照れるように顔を伏せた。その口元はどこか楽し気で、あの日のように変わらなかった。
「髪型も服装も、マネできるものはマネしてるくらい」
髪の色こそ深海の青。だが肩口で切りそろえられた髪型は、鏡を映したようにユーリアと重なる。毎日ではないにせよ、服装だって参考にされている自覚がユーリアにはあった。
性別を主張する服を意図的に避けている身としては、『もっと可愛い服を買ってもらえばいいのにな』と、つい思ってしまうほど。
「だから魔術師にだって、なりたいぐらいだったのに……」
――でも、と。トリカは恨みがましいような、拗ねたような目を向けた。
「覚えてる? ユーリアちゃん、『それは無理だ』って言ったんだ……ひどいよね?」
「それは――」
一般論でしかない。
十にも満たない子供に、兵士になれとは誰も言えない。
「ろくな世界じゃないの……あなたが来る必要はない」
――自分は言葉が足らないから、誤解させるとよく言われる。
知らないうちに傷つけていたのなら、心の底から悪いと思う。素直に非を認めて、頭を下げたい。だがそれは、もっと落ち着いた場所で、落ち着いた気持ちでするべきだろうと思うのだ。
「いいよもう。今なら対等に戦えるもんね」
挑発するような、嗜虐的な視線。
「一度は当てたんだ、もうわたしの方が強いんじゃない?」
「いいえ、それはない」
安くないプライドが、ユーリアにはある。戦闘のプロとして、年上として。遅れをとるわけにはいかない。この場の状況も度外視して、情けない姿は見せたくなかった。
自分の心にも屈しまいと、ユーリアはあえて睨み返す。
「いくよっ――!」
トリカの体に力が入る。直後に走る、トリカの後方右側面から生まれた攻撃の余波、攻撃の痕跡。トリカを中心に円運動でこちらに迫るその軌道は、やはり鞭がしなるように歪んでいる。
その軌道から予想される、空間に刻まれ得る不可視の円か扇。その内側にいるユーリアが被弾するまで、およそコンマ数秒以下。
これまでより大ぶりな一撃、回避手段は二択だった。
範囲外まで走り去るか、上下に身を躱すか――
後者を選択したのは、実際の射程が不明だったから。勝手に判断している範囲など、周囲の建物に先んじて走る痕跡からの推測でしかない。遮る物さえなければ、どこまで至るか分からない。
足元を狙うように振るわれた面の攻撃を、最小の動作で宙に逃げた。
――そこで、トリカの浮かべた笑みを見る。
一打目は、ブラフ――
大ぶりの攻撃をあえて振るい、周囲に分かりやすい情報を撒いて宙への回避を誘う。そこへ同時に振るわれた、コンパクトな二打目。何物にも当たらず痕跡を残さず、ただユーリアの胴体だけを狙った暗躍の一手。
表情だけでそれを悟るも、空中での回避行動は不可能。
ユーリアの加速運動は重力の自由落下にまで影響を及ぼす。実際の滞空時間も常人では認識できないほど短い。
だが、それでもやはり最悪のタイミングだった。
――くっ……。
コンクリートさえ年度のように刻む一撃、肉も骨も容易く切断される。胴に振るわれれば、絶命は免れない。
被弾の覚悟すら間に合わない、そんな一瞬。
だが――
「え……?」
突如、空間に魔力の塊が生み出される。丁度足元に現れたそれに足をかけ、押しのけるように力を乗せた。塊は空間に固定されて、その運動量は逆にユーリアの体を自由落下から解放させる。
弾丸のように地へと転がる。直後、背の上の空気が揺れ、足場にした氷塊が二つに割けた。
困惑するトリカを尻目に、一連の最中で視認していた、思いがけない救助者へ感極まった声をかける。
「――助かったわ、ラヴィ!」
「一生に一度のファインプレーだから、今の。あてにされるとだいぶ困る」
図ったようなタイミングで現れた、捉えどころの分からない黒髪の少女――ラヴィ。彼女は誰も気づかぬうちに場に割り込み、ユーリアの傍に降り立った。
廉太郎たちと行動させていた彼女がここに一人いる理由も、見張られていたような行動も謎ではあるが、助けられたのは事実。
「誰?」
邪魔をされて腹に据えかねたのか、トリカは不快そうに乱入者を睨む。そんな視線をまるで無視し、ラヴィは自分の都合だけを独り呟いていた。
「まさか、生きて会えるなんて思わなかったな。館長の勘も、たまには当たるもんだね」
「ねぇ、話聞いてる?」
質問に眉一つ動かさない色白で細身の不可解な女に、トリカはいっそ不気味がった顔で問いを投げ続ける。
「なんでユーリアちゃんのこと助けたの? どういう関係?」
「関係、関係ね」
問われたことで、ラヴィは困ったようにユーリアを見た。そんな目で見られようともユーリア自身、どう答えるのが妥当か自信がない。
頬に指を当てて、ラヴィは言葉を選んで答え返した。
「友だち……の二、三歩手前って感じかな」
「は、はぁ――っ!?」
その答えに、トリカは目を丸くするほどの動揺を見せた。それきりもう興味を失くしたのか、答えたわけでもないユーリアに目を向けた。これまでにないほどの感情と共に、強い態度で食ってかかる。
「どういうこと……? ユーリアちゃん、わたしが死んだら、もうそれで他の人間に目をつけようっての?」
「ト、トリカ――」
これまでトリカが向けたのは、殺意であって怒りではなかった。だが今、肌で感じる感情は怒りそのもの。その理由も、言いたいことすらも分からず、ユーリアはただうろたえるばかり。
「わたしの以外の人間は嫌いだって、好きなのはわたしだけだって言ったくせに……嘘つき」
どうやら他の人間と親しくているのが気に入らないらしい。だが、はっきりラヴィは『友だちではない』と言ったのだ。単語を抜き出して捉えるだけで、感情が先走っている。
「私あなたの他に、ロゼも好きだったはずでしょう……?」
「い、いいの! あの人は特別だから……」
少し振り返させれば冷静になるかとロゼの名を出したのに、トリカの理屈は要領を得ない。
それどころか、ますます機嫌が悪くなっている様子。今の一言に、そんな要素が含まれているとは到底思えないのだが――
「今のはユーリアが悪い」と、ラヴィが横から囁いた。
「そ、そう……?」
そんなものかと、注意が横に向いた途端――
「うるさいなぁ、部外者が――!」
先ほどの不意打ちと同じく、頭上から振り下ろす一撃がラヴィを襲った。不可視の攻撃が痕跡も残さず空だけを走る。真に不可認識の殺意。
ユーリアですら反応できないそれを、だがラヴィは――
「厄介だね、この赤い鞭。早くて」
肉体の加速さえもなく、最小の動きだけで躱して見せる。少し横に逸れただけ、見切っていなければ絶対に不可能な動きで。
加えて、その発言。『赤い』という言葉が出てくるのは、つまり――
「――ラヴィ、あれが見えるのね?」
「えっ、今まで見えないのに避けてたの? ……それは引くなぁ」
「いいから!」
一体どれだけ状況を理解しているのか、こちらまで緊張感が削がれかねない。
だが同時に心強い。平然としているのもそうだが、敵の――相手の攻撃手段を目視した情報、そのものが。
「胸のあたりから魔力が漏れてる。それを鞭みたいに振りかぶってくる。長さは毎回違うみたい。さっきは連打してきたけど、負担もあるだろうし連発はそうできないはず」
「それ、すごく助かるわ」
およそ推測通り。だが確信が持てたという点で、ラヴィの功績は計り知れない。それさえ分かれば、後は戦いようが――対処しようがある。
しかし、そんな覚悟を決めたユーリアの表情を見て、ラヴィは焦ったように釘を刺してきた。
「え、あの子を殺す気? 許さないよ、それは」
「そんなわけないでしょ! ……というか、トリカを知ってたの?」
ラヴィの目的や事情は分からない。だが、あの子を死なせたくないのは、どうやら自分だけではないかのよう――その事実が、ユーリアの心をさらに勇気づけていった。
「楽しそうだね、お喋りなんかして……」
恨めしそうに、トリカがこちらを睨み続ける。二人に対する殺意を高ぶらせて。
ユーリアに向けられる殺意とラヴィに向けられる殺意には、明らかな違いがある。普通、邪魔に入られたくらいでここまでの殺意を抱くものだろうか。いかに精神的に混濁していようと、そこまでの感情を。
「――死ね」
横薙ぎ、大ぶり。切断面は胴の位置。
ユーリアとラヴィを間違いなく捉える殺意の痕跡が、建物の壁面に刻まれていく。
音速の世界で、ユーリアの思考はそれらを目に捉えながら、目まぐるしく動き続けていた。
この一撃、ユーリアが躱すのはわけもない。より速く効果範囲外に逃れられるからだ。
だが、ラヴィは――
いかに攻撃の実態が目で追えていようとも、肉体の移動速度が通常と変わらないのだ。逃れたり地に転がれたり、回避行動をとる余裕がない。先ほどは上から振り下ろされたからこそ、わずかな動きで済んでいただけだ。
「ラ――」
呼んだところで加速された声は認識されず、また聞こえたところで意味はない。
もはやラヴィを救うには、攻撃者であるトリカを対処する以外になかった。時間的余裕のない以上、上手くいくかどうかも、殺さずに済むかも半ば賭け。
最大速度にまで肉体を加速させるべく、魔力を練り上げようとした――その瞬間。
――ラヴィの姿が消え去っていた。
一瞬、とも呼べないほどの認識的不具合。脳が弄られたかのような違和感。
ひとまず無事を信じ、自らも回避行動をとる。身をかがめ、頭上に迫る『赤い鞭』とやらをやり過ごす。
直後、ラヴィの姿が元通りにそこにあった。傷一つない姿で。
「ユーリア、私は大丈夫」
「そ、そのようね?」
いつの間にか消え、そして現れる。
とっさに忘れていたが、ラヴィとアニムス――あの図書館に連なる者たちにはこれがある。瞬間移動とも呼べないような、存在の希薄化か不確定化ともいうべき未知の現象が。
アニムスはともかく、人間であるはずのラヴィには過ぎた力。それでも、元よりユーリアの理解を越えた能力だ。生きているならそれでいい。
だが――
「はは……なに今の、かっこいいね」
初めてその能力を目にしたトリカは、興味深そうにラヴィを見つめた。玩具を見つけた子供のような無邪気さと、得物を捉えた獣のような残虐さを伴った目で。
そして――
「こうかな」
突如、どこからか。
そんなトリカの声が、本人以外の口から聞こえた気がした。
「ユーリア、後ろ!!」
ラヴィがこちらを振り返り、初めて見たような顔でそんなことを告げてくる。怪訝に思う。今のトリカから目を離すのは、あまりに危険ではないのかと。
しかし。
ほんの少しラヴィに目を向けて、再びトリカを捉えようと目をもどしたとき、そこにはもうトリカはいなかった。移動の気配など、見逃す筈がなかったのに。
まさかと――その可能性に思い至ったとき、振り返るべく身をよじった目の端。ラヴィの姿もまた、再び掻き消えていた。
直後目にしたのは、後方にいつの間にか回り込んでいたトリカ。それと、目にすることのできない殺気。
そして――
「ラヴィ――ッ!?」
どこからか予兆もなく、こちらの体を押しのけるように現れたラヴィ。その体から、鮮血を噴き出す姿だった。