第三十話 侵入
夜空には光が浮かんでいた。夜の世界を照らす天体を『月』と定義するのなら、その光はまさしく月。
満月に近い光だった。
わずかに差し込む月明りを頼りに、一人の男が廊下を歩く。
「どこ行ったよ、あいつ」
人目を忍ぶ隠れ家の中、男は人を探していた。明かりも点けず音もたてず、それでも焦るように不安を抱いて探し回っている。
何も考えず、クローゼットを開けた。見慣れない服が二着だけ、捨てられたように並んでいる。
背後に人の気配を感じて、男は振り返った。
「――なんだ、あんたか」
「どうも、こんばんは。ベリルさん」
探していた相手ではなかったが、男の表情は和らいだ。
恩のある相手だった。行く当てもなく、身を隠さねばならない自分にこうして住処を与えてくれている。
「ここでの暮らしは慣れましたか?」
「あぁ、おかげでな」
やせぎすの、中年の紳士だった。背は高く、油で整えた髪は色褪せたようなグレー。物腰が柔らかく表情も穏やかだが、張り付いたように変わらない笑みは商人のように無機質なもの。
「それはよかった。そして、残念です……」
「何かあったのか?」
見て取れた不穏さに、ベリルの表情に焦りが走る。およそ予想通り、告げられる事実は最悪のものだった。
「例の基地に、魔術師が派遣されたようです」
「あーあ、マジかよ……」
「追手でしょうね、貴方への」
「極力、姿は隠してたんだがなぁ」
ある程度、リスクがあるのは分かっていた。ラックブリックから最も近いこの人間の町は、距離的な利便性から機関の諜報活動に使われている。
その機関から離脱した身としては、捕捉されるのは時間の問題だったろう。
しかし見つかるのが早く、早すぎる。
「つぅか、ずっと監視しててくれたのかよ。通りで顔を見せねぇはずだ」
「私にも目的があるのでね」
男とは、偶然この町で知り合っただけだ。本来、手を貸される覚えはない。
何か目的があるのも、こちらを利用する気でいるのも、ベリルには分かっている。
その上で、恩を感じていた。
どうしても手を借りなければならない理由があったからだ。
「追手か、当然あいつなんだろうな……」
ユーリア・ヴァイス。
対魔術師戦闘に特化したベリルにぶつける戦力など、同じ接近型にして抜けた実力をもつ彼女以外にあり得ない。確実かつ短時間で人を処理できる、最高戦力の魔術師として。
戦って、勝てる相手ではなかった。
数日前に背後を刺せたのは、彼女がすべての判断能力を失っていたからに過ぎない。
――自分と同じように。
「あんたには……世話になったな」
すぐにでも、ここから逃げる必要があった。
当てはないが、どこへでも行ける。容姿と思想――この世界の基準で、ベリルは正常な人間として受け入れられる。身を守る能力もある。
問題は――
「駄目ですよ」
「あ?」
探していた例の相手に思いを馳せたベリルに、鋭い視線が投げられた。
知らず、体が強張る。
「するべきことがあるはずです」
「何かしろってのか、俺に……」
『目的』とやらに利用する前に、いなくなられては困る――しかし、そんな主張を聞いているには状況は刻一刻を争っている。
「だが、逃げなければ俺は死ぬ。そしたらあんたの力になることも――」
「違う」
得体の知れない妙な反応に、総毛立つのを感じた。
「貴方の目的があるはずだ――ベリル」
男の手が、ベリルの胸に触れた。
体が崩れ落ちる。床に着いた膝が、陶器のように砕け散った――そんな錯覚を覚えた後、すべての五感が消滅する。
警戒はしていたはずだった。それでも、防ぐことはできなかった。銃弾すら訳なく躱せる自分が、枯れ木のような腕を避けられない。
壊れていく意識の中、辛うじてベリルは気づいた。
――すでに己の判断能力など、この男に奪われていたことに。
――――
前哨基地、居住スペース――
ユーリアたちが町を発ち、およそ十五時間。予定通りに到着したひとまずの目的地。
ラックブリックの町同様、瘴土内部に打ち捨てられた地下砦である。現在は機関が管理し、監視のために利用していた。
目的の町までは目と鼻の先――まさに、最前線の拠点だった。
たどり着いたのは夜。翌朝町に乗り込むべく、一行は手はず通り一晩の休息を取ることになる。
――その、翌朝のことである。
「――ねぇ」
腹に据えかねて、ユーリアは貸し与えられた個室のドアを乱暴に引き開けた。人がいるのに気づいていたからだ。起床する前からずっと、そこで気配を殺している――つもりなのだろう。
「は、はい!」
ユーリアの問いかけに、忠犬のように立ち尽くしていた年若い職員が緊張で上ずった声を上げる。
基地に常駐している、機関の職員だった。
「落ち着かないんだけど」
「いえ、何かお役にたてればと……」
朝から――昨日から、こうしてずっと傍に待機されたままだ。特命を受けているユーリアを、勝手も知らないまま手助けしようと。悪意はないのだろうが、監視されている気しかしない。
「そ、その……気に障りましたか……?」
「顔色、そこまで窺われるとね」
「す、すいません――!」
慌てて深々と頭を下げる姿を見て、ユーリアの気分は憂鬱になる。
――悪いなと思うほど、委縮させてしまっている。
これまで散々、当たり散らすように町の人間との仲をこじらせてきたのだ。そんなユーリアに対する反応は大方決まっていて、反発するか、厄介者と見るか――このように恐れられるかの、いずれかである。
慣れてはいるが、相手が幼すぎて気が引けた。これでは気遣いを強要した上に、意地悪で返しているようで。
「あなたとは、話すも初めてじゃない?」
「はい、すみません……」
であれば、辛辣な態度で接した過去があるわけでもない。それでこの扱いとなると――ますます、自分の振る舞いを見返さなければならない気にさせられる。
「別に気にかけなくてもいいわ。虐めたりしないから」
「でも、失礼のないようにと先輩方に――」
言いにくそうに言葉を濁らせたのを見て、ユーリアはなんとも言えず苦々しく笑みをこぼした。
要は、厄介ごとを押し付けられたわけだ。
他の職員は顔も見せようとしない。人間が、三人はいるはずだ。
用はないので構わないが、自分がそれほどの『厄介ごと』として扱われているのをこう見せつけられては多少切ない気分になる。自業自得で、望んだこととはいえ。
と――
『仕方ないよ、ユーリア』
直接脳内に注がれる、鈴を転がすような頭上からの声。
聞き覚えのある声に上を見上げると、翡翠色に光る宝石のような羽が、天井をすり抜けて舞い降りてきた。
『あなたのこと、みんな大げさなに言っちゃってたからね。本気にしたみたい』
「私の陰口? いいわね、盛り上がりそうで」
返した自虐を、面白がるように点滅を繰り返す。
羽妖精には顔がない。肉体の実体さえもなく、存在を示す羽の光は手のひらに収まるほどにか細い。
その品のある光が、ユーリアはとても好きだった。
「どうせあなたも何か言ったんでしょう、フリム」
『ちょっとだよ』
悪びれることなく白状するお喋りな友人に、ユーリアは久々の再開を喜んだ。
仲間同士で遠距離間を隔てた意思疎通が可能な羽妖精は、ラックブリックにおける通信手として重宝されている。
任期は長くないだろうが、こんな僻地で働かされて気の毒に思う――この少年ともども。
「フリムさん! ぼくは死にたくないんですよ……」
などと、少年の顔が青い。
思った以上に誇張されていたようだ。いったいこの子の中で、自分はどれだけ気に食わない人間を手にかけたことになっているのだろう。
「あのね、さすがに――」
敵でもない仲間を殺したことなんてない。ついそんな当たり前のことを言おうとして、口が裂けても言えないことを思い出してしまう。
不意に。
身構えることもできず。
「ぁ……」
洞窟、友人の亡骸――少しでもあのときの場景が浮かんでくると、いとも容易く精神が壊れていきそうになる。
気分が悪い――
逃げ出したい――
「ユーリアさん?」制止したのを気にかける、少年の声。『ぜーんぶ冗談だよ。この娘はこうみえて優しいから』混濁とした意識に割り込んでくる、明瞭な音。
「ふぅ――」
気づかれないように、ユーリアは息を深めた。
「……そろそろ出発するわ。車の手配は?」
『もうできたよ』
それで呼びに来たのかと納得し、ユーリアは逃げるように部屋を出た。友人二人と、付いてきた知り合いを呼びに。
ユーリアに集められた廉太郎、クリス、ラヴィの計四人は、地下基地から地上に出て朝の陽ざしを浴びていた。昨晩は暗く確認できなかったが、こうしてみるとこの地下にシェルターのような基地があるなどとても想像できない。そんなまっさらな土地が広がっている。
何もない荒野。
そこに佇む四人と、一台の――
「これは……」
「知らないんですか? 馬車ですよ」
呆けたような廉太郎の呟きに、クリスが小馬鹿にするように答え返す。大人しくもたくましい四肢の馬が二頭、粗雑な車体に繋がれている。観光地で見かけるような豪奢な物でもなく、本当にただ荷物か人が運べればそれでいいといった具合。
座席は吹き抜けで、帆が張ってある。
「見れば分かる。けど……なんで?」
これまで散々魔力車に乗せてもらったのに、ここにきて馬車。前時代的――を通り越して未知の乗り物ですらある。
だが廉太郎がどう考えようとしても、これまでの利便性を捨ててこれを使う理由は思いつかなかった。
「話は乗りながらしてあげるから」
先に座席へ移っていたユーリアに促されるまま、残りの三人もそれに続く。
車体はすぐに動き出した。目の間では、進行方向に黙って進む栗毛の馬の頭が揺れている。想像したよりずっと安定していて、獣の匂いもしなかった。
「馬車は……初めて乗ったな」
「私も」わずかに弾んでいるのか、ラヴィは馬の体から目をそらさない。「車にだって乗ったことなかったけど」
「私は腐るほど乗りましたね」と、クリスがなぜか自慢げに口を開く。
少しだけ言葉を選んでから、廉太郎は躊躇いがちに切り出した。
「お前の昔話、ちょっと聞きにくいんだよな……」
「じゃあ聞かないでください」
「聞いてほしいのかと」
クリスの体に起きたことや、その出自や略歴について。人間に生み出された道具としての彼女には、どうしたって話題にしにくい部分がある。
クリスはあまり――というかほとんど、自分のことを話さない。聞かれないから答えないだけなのかもしれないが、なんとなく、触れられるのを避けている節がある。
「昔話? なら私、廉太郎のそれが聞きたいな」と、ラヴィ。
はたしてどれほどの興味があるのか、真顔で覗き込んでくる。
廉太郎は曖昧な、苦笑いで返すことしかできなかった。この場には四人だけではなく、馬車を操る御者がいたからだ。
聞き耳を立てずとも話は聞こえてしまう。
廉太郎の昔話、つまり別世界についての話はとてもできない。
またもや言葉を選びつつ、ラヴィに言葉を返していった。
「いやでも、もうだいぶ知ってるんじゃないか?」
「そんなことないよ。事情は知ってるけど、深く読み取ったわけじゃないから」
――結論を言えば、ラヴィにはすべてバレてしまっている。
別世界のことだけではない。先日、図書館で町をでることがバレたのも、廉太郎とユーリアの関係と嘘を見抜いたのもその一環。
――ネタバレするとね、あの図書館では頭の中抜かれちゃうんだよ。
ここまで来る道中、車の中でラヴィはそう言い放った。
館長であるアニムスは、来館者の思考を監視している。その従業員であるラヴィにもその情報が伝わる形で、あらゆる隠し事が二人には見抜かれてしまう……らしいのだった。
「嫌な話ね」
複雑な表情で、ユーリアの視線が明後日の方を向いた。
「これから行きにくいじゃない、あそこ」
「来てあげてよ。ユーリア、館長のお気に入りだから」
「冗談でしょ? あれで?」
信じられないとばかりに、発言したラヴィの顔を見据える。喜ぶでもなく嫌がるでもなく、やはり複雑かつ微妙な表情で、ユーリアは呟くように言った。
「てっきり、嫌われてるのかと思ったのに……」
「幼稚な人だからね」
そこで、ラヴィの口元が笑みを作る。僅かな変化だったが、初めての表情でもあった。
「意地悪で気を引くことしか知らないんだよ」
「普通に愛想よくしなさいよ……」
付き合いきれないとばかりに、ユーリアは腕を組んで目をつぶった。なにやら初めて出会った後に揺られた車の荷台を思い出すようで、廉太郎は懐かしくその顔を眺めていた。
「それで結局、なんで馬車なんだ?」
「すぐわかりますよ」
「え?」
「まもなく、瘴気エリアを抜けます」
それからしばらく後に、クリスの言葉を理解することとなる。馬車の乗り心地にもなれてきたころ、突然それを感じた。
「あ――」
「今……」
五人の中で、廉太郎とラヴィだけが不思議そうに周りを見渡している。
否――二人だけではなかった。
馬。二頭の馬が興奮したようにその足を速め、大きな声で嘶いた。
「どうしました?」
分かっていて聞いているような、意地の悪いクリスの表情。
「なんだか空気が――」
「違う、全然」
今までずっと水に潜っていて、それでやっと水面に顔をだしたかのような解放感。長いこと絞められていた首が、ようやく自由になったかのような安心感。
言葉にするなら、味わったのはそんな感覚。
「出たのね、外に」
暫く目を休めていたユーリアが、思い出したように体を伸ばす。その表情は晴れやかで、ふるまいは呑気なもの。ともすれば、旅行中にでも錯覚してしまいそうだった。
「住んでる奴らは最悪だけど、環境だけは気持ちのいいとこだわ」
「そっか、これが瘴気の……」
後ろを振り返っても、境界線のようなものは何も見えない。しかし、それは目に見える異常がないというだけ。
内部と外部では、明らかに環境が異なっている。植物もまともに育っていなかった荒地から、徐々に緑が幅を利かせていく。
空を見上げれば鳥がいて、虫か何の鳴き声が聞こえてくる。
それはこれまで、見聞きできなかったものたち。
「あぁ、なるほど」
これまでは、瘴気の内部では――単に、馬が生きられないから代わる物が必要だったのだろう。
家畜さえ育てられず、食肉も用意できない町だったことを、今さらながらに思い出した。