第六話 人付き合い
ユーリアは廉太郎が想定していた親切の度合いを、大きく超えようとしている。
そんな何から何まで面倒を見てもらうのは、あまりに申し訳ない。
「今でも十分助かってるのに、そんな……悪いって」
「別に? 大したことではないし、そのくらいはしてあげられるわ」
「……でも、費用とかさ」
「お金なら余ってるから、気にしないでいいわ。……それともなにか、問題あるの?」
そう言われて見つめられると、何も言えなくなってしまう。室内でも外さない彼女のサングラス越しの視線が、痛いほど胸に刺さる。
彼女の提案は、これ以上ないほどの支援だ。しかし、元の世界に帰りたい廉太郎の思惑とはだいぶ外れることになる。
少しでも早く帰りたいのに、働くなんて悠長なことはしていられない。かといって帰れるまで生活するには、どうしたってお金が必要になるのだ。
自分の都合だけでものを考えるのならば、いっそささやかな金銭だけ貰ってしまいたい。
しかし、そんな恥知らずなことなど言えるわけがない。いくらお金が余っているとはいえ、そんな風に――。
「ん、どうしたの?」
そのような葛藤の中返答を急かされて返せた言葉は、人聞きの悪い物になってしまった。
「は、働けない……働きたくないんだよ」
「はぁ? 働かなかったら、生きていけないでしょう?」
真顔で返された正論。
「そ、そうだけど……」
この世界で生きていくつもりはない――それだけのことがうまく伝えきれず口ごもってしまう。
それはつまり、暗に生活の面倒をみてくれと言っているようなものだから。
ユーリアに迷惑などかけられない。しかし、早く帰らねば帰りを待つ家族らに多大な心労と迷惑をかけることにもなる。
なにを選択するのも心苦しい。
そんな葛藤と先送りにしたい現実を急に直面させられ、廉太郎はしばらく答えを返せないでいた。
「――ねぇ、黙っていたら何を考えているのか分からないわ」
じれったいような言葉。その口調に僅かな苛立ちを感じとり、焦燥感がつのる。
「あ、いや……俺は」
言葉を探そうと口を開いて、そこから何もこぼれてくれない。
そんな様子に、ユーリアはしびれを切らして立ち上がった。音を立てて椅子を引き、机に手をついて廉太郎に詰め寄っている。
怒っている、だけではないようだった。
「――ねぇ、質問が難しいの? 余計なことを言ったのならそう言ってよ、謝るから」
「いや謝るなんて、そんな……」
「私を不安にさせないで」
すでに何を問われていたかなど頭から消えてしまった。
ただただ突然の剣幕に圧倒され、ただでさえ浮遊していた思考が散っていく。
はっきり言えと睨まれて、さらに混乱してしまう。彼女の口調は静かではあるが、それは努めて声を荒げないように抑えられたものだと分かる。
廉太郎は狼狽えるばかりで、何も反応を返せなかった。
しばらく、無言で向かい合う状況が続いた。
後に、
「あらら……せっかく仲良くしていたと思ったのに、もう喧嘩したの?」
そう、不意に穏やかな言葉が割って入ってきた。
アイヴィは三人分の食事を盆に乗せ、困ったように笑いながら二人の席へと運んでいた。
「落ち着いて。ねぇ、何の話で盛り上がっていたの?」
子を諭す母親のような姿だと、廉太郎は思った。
「……ごめんなさい」
バツの悪そうなユーリアは、打って変わったように落ち着いていた。癇癪を起こしたことを後悔しているようであり、その様子に廉太郎も気まずくなってしまう。気にしてないことを伝えると、アイヴィが困ったように話しかけてきた。
「ふふっ、びっくりしたんでしょう?」
「い、いえ……」
それまで温厚だった彼女の豹変には、呼吸を忘れる程驚いてしまっていた。
別に言い争いでもない、些細な意思疎通の事故でしかなかったというのに。
「この子と親しくしてくれるのはとっても嬉しいんだけど、知っておいた方がいいことがたくさんあるわ。たとえば、そうやって言葉を濁したりするのは良くないわね、不安にさせちゃうから」
「不安に……」
その言葉に、いつの日かの食卓での会話を想起していた。
――怒りたくて怒ってるわけじゃない……怒らせるのが悪いんでしょうがよ。
そんな風に激昂した、懐かしい妹の姿。
似ていると思った。ユーリアと、妹の七見が。容姿や性格ではく、不安に弱いというところが。
七見は昔から神経質で、些細なストレスにも耐えきれず過剰に反応して感情を高ぶらせていた。食卓で口論になったこともある。その時は、廉太郎がいたずらに煽ったようなものだった。今となっては後悔してもしきれないほど、いじわるなことをしたと思う。
二つ年下の妹とは思春期が被ったこともあり、一時期は喧嘩が絶えなかった。廉太郎は親にも友達にも迷惑をかけず、模範的な子どもであり続けていたし、ストレスを向ける相手が妹しかいなかったのだ。別に、暴力を振るったことはない。悪口を言ったこともない。それでも、同じ家で生活するうえで、余計な事の一つや二つを毎日のように言い合った。
妹は妹で、気に入らない相手には明確に敵意を示す癖に、直接的な対立がもたらす危険というストレスを避けるようにおとなしく暮らしていた。だから、実害のない兄のことは容赦なく罵った。実害がないのは両親も同じだったから、七見は親にも遠慮はなかった。妹相手に意地を張っていた廉太郎と違い、親と七見の間の関係はとても仲が良かったのだが、些細なことで癇癪を起して親に迷惑をかけることが多々あった。
廉太郎は、それが気に入らなかったのだ。
そんな喧嘩がぴたりと止んだのは、七見が事故にあった時からだ。片目を失った七見は、それをとても気にしていた。元から容姿にも神経質だったこともあり、見ていられない程痛ましい様子を見せていた。
そして神経はより過敏になり、攻撃的になった。
容姿や周囲の視線の変化がもたらしたストレスによって、絶えず不安に襲われていたのだろう。
廉太郎が十五歳の時だった。もう妹と張り合う程精神が未熟ではなかったし、喧嘩をすることも避けようとしていた時に起きたことだった。
だから、努めて優しくしようとした。
それでもそれ以降七見は口も利いてくれなくなり、記憶にある彼女との会話はどれも憎まれ口で、今はもう普通の会話をしようとしても叶わない。
そしてそれ以降、七見が食卓で激昂したことはなかった。
ユーリアの様子さえ、懐かしいものに感じるほど。
「誤解しないでね。ちょっと怒りっぽくて熱くなっちゃうだけで、とてもいい子なんだから」
「……わかってますよ」
ついさっきはお互いに口数が少ないという共通点があると考えていたが、廉太郎が話をうやむやにしたがるのに対してユーリアは端的に済ませたがるのだろう。
そして、相手の考えが伝わってこないことを嫌う。
気が合うようでいて、気遣いが必要な相手だった。そんなことはとうに知っていたのに、自分のことに注視しすぎて見落としていた。ユーリアは廉太郎のために精一杯の礼をしようとしていたのだし、金銭に換算したら当面必要な生活費を上回るほどの誠意のはずだ。受け入れるとも拒否するとも取れない答えを返すのは、あまりに失礼だったと気づかされる。
「ごめん、俺こそ。せっかく気をまわしてくれていたのに……」
「いいのよ。まぁ、ゆっくり考えなさい。……急かし過ぎたわ」
そう言うと、彼女は目の前に置かれた食事に手を伸ばす。
廉太郎は少し心苦しかったのもあり、その様子をしばし眺めていた。
銀色のカトラリーを手に取り、白い器に盛られた若草色の葉っぱを口に運んでいる。食卓に並んだのは、その葉が盛り付けられたサラダとパン。それに野菜で煮込んだようなスープと、濃い色のお茶。
異なる文化圏で出された食べ物の価値観が廉太郎に身近なそれと似通ったもので安心いていた。極端な話、昆虫食などを進められていたら相手に失礼を与えないように間食することすら難しかっただろう。
「いただきます」
二人が手を付け始めたのを合図に、廉太郎も食事に手を伸ばす。一人用に盛られたサラダの食器を引きよせ、ちらりと二人を窺った。食事の場の不作法は相手の心障を著しく損なうものである。特にこれほど住む世界が異なっていると、やはり廉太郎は気にしてしまう。
二人の動きにならいサラダを口に含む。みずみずしい野菜の触感に、酸味のある味付けが食欲をそそる。
初めて口にする食べ物の抵抗感を、ゆっくりと咀嚼するなかで薄めていく。食べられるものだが、なれない食材というだけで緊張してしまうものだろう。
素材と味を受け入れる作業は脳をだます行為に等しい。これは食べられるものだと、以前食べたものと似ているのだと納得させていくように。
口に合わないわけではなかった。ただ、食べ物一つに対しても恐れがあるだけだ。
ここは別の世界なのだから。
廉太郎は、無意識にユーリアを眺めていた。
静かに葉を口に含んでいく、その口の動きを見ていた。
咀嚼して上下する、顎の動きを見ていた。
注意深く見なければ分からないほど少ないその動きは、口内に含まれた食べ物がほんの僅かであることと、深く味わうようにゆっくりと咀嚼していることを示していた。
彼女の表情からは味の感想や好き嫌いなどは読み取れない。もちろん、食べなれているであろうサラダなどに反応を示すとは考えにくいが、廉太郎はなぜかそれが気になっていた。
――ずいぶん、ゆっくり食べるんだな……。
たった今口にした野菜は、どれだけの時間をかけて飲み込むのだろう。咀嚼している間は、どう味わっているのだろう。
なぜ、そんなことがわざわざ気になってしまう程に食べるペースが遅いのに、余裕や優雅という言葉から遠いように感じられてしまうのだろう。
そんな、くだらない疑問がつきない。
「――ん?」
ふと、目が合ってしまった。サングラスとはいえ色は薄く、彼女の瞳は透過して見えている。
彼女は一瞬、何を見てるんだこいつ……とでも言うように訝しむ表情を見せた。しかし、特に気にしたようでもなかった。
むろん、たった今湧いた疑問や好奇心などが、彼女に伝わるわけもない。
廉太郎は、彼女にならって手を動かしていった。同時に同じものを食べ、同じように味わっているという事実が訳も分からず嬉しかった。食卓の向かいに座る彼女が、同じ世界で生きていることを実感するからだ。
この世界で、ユーリアだけが無条件で安心できる存在だったから。
理由などはなく単に、別の世界に来たことを知り、恐怖する前に会話する機会をもてたというだけだ。
それ以外では、食べ物一つ、人間一人と関わることにさえ抵抗がある。
先ほど働きたくないと思ってしまったのも、未知の世界に対する恐怖がそこで発生する人間関係を拒んでいたからなのかもしれない。
――おいしい……。
比較的おしゃべりに見えたアイヴィを交えた食事は、意外に思うほど静かなものだった。それでもやはり気にはなるのだろう、アイヴィは食事中廉太郎とユーリアの顔をちらちらと伺っている。
それでも言葉を発しないのは、何か理由があるはずだ。
例えば、隣のユーリアがあまりに一生懸命食事をとっているから……だとか。
彼女の食事は非常にゆっくりであったが、それでも耐えず口元を動かしていた。咀嚼に余韻など設けず、食べ物を次々に放り込んでいる。味わおうというよりは、終わらそうという意思が見えた。
食べるのが遅いことを、気にしているのかもしれない。だから廉太郎も話しかける言葉は無かった。
「あれ、廉太郎……それ」
ふとユーリアは手を止め、意外なものでも見たような顔で廉太郎の手元を注視している。
「え? ……あっ」
無意識に目で追っていた動作を模倣していたのだろう。廉太郎は手で軽くつかめる柔らかいパンを、ナイフで切り分けているところだった。ちょうど、ユーリアがそうしているのと同じように。
確かに見ない食べ方だし、指摘されるのもおかしくない。だがそれは廉太郎の知る限りであって、この場での食事文化における正解不正解は分からない。
アイヴィは、素手でそのまま食べている。
しかし、そもそも模倣元であるユーリアがやっているのだ。
それが訝しむというのは、こういうことではないだろうか。
つまり、自分と同じように変わった食べかたをするのか、と。
「何かおかしかった? こうなんだけど……俺の世界では」
誤魔化したものか、素直に言った方がいいものか……まるでわからずに支離滅裂な返答を返してしまう。
「えぇ、可笑しいわ」
そう言って、彼女は小分けにしたパンを口に運んでいく。食べるというよりは口内へ押し込むような動作だが、僅かに味わっているように見えた。
こうして接してみて気づいたのだが、彼女はその印象に反して表情が豊かでわかりやすい。
パンは柔らかく口当たりも良かった。そんなありふれた味と触感が、とても美味しかった。
「あなたの世界……ってどういう意味かしら?」
会話の機会を伺っていたらしいアイヴィがここぞとばかりに話をかぶせてくる。その反応に、少しばかり憂鬱な気分にさせられてしまう。
――もういっそ、話して楽になってしまおうかな。
空腹が満たされたことと、ユーリア以外も交流をもてたことで、いくらか楽観的な思考ができるようになっていた。
それにこれまでの会話で、世界が変わろうとも人には大差がないということを教えられていた。
別世界の人間であっても、受け入れてくれると思いたかった。
意を決して、口を開く。
「俺がさっき戸惑ったのは、この町にいるつもりがなかったからだよ。……帰りたいんだ」
「あぁ、そうだったの? じゃあ、どこから来たのよ」
「……もしかしたら変に思われるかもしれないし、どう思うかもわからないけど」
この期に及んで口ごもる。吐き出すように、投げやりに言葉に変えていくのがやっとだった。
「別の世界から来たんだよ。……何か知らない? 実は相当困ってる」
「え、えぇ……」
「うわぁ、これはもう……重症ね」
一気に憐れむような視線を向けられてしまった。頭がおかしい奴だと思われたらしい。
しかし、それは想定された反応の中で比較的ましなものでもあった。
気分は随分と楽になっていたし、廉太郎は笑顔さえ浮かべることが出来ていた。
「はは……信じられないのも無理ないと思うけど、自分でも」
二人の反応から、別の世界の存在自体この世界でも認知していないものだと思われる。それは帰ることが困難であることを示すとともに、異世界の人間である廉太郎の安全が多少は保証されていることも示している。
別の世界の人間は敵だとか、無条件で襲われるとか、そういったホラー作品の類いをよく読んでいたからだ。
「でも、嘘をつこうとはしてないよ」