第二十八話 温度差
――ユーリアはお酒、付き合ってくれないから。
アイヴィが突如定めた『負けたら飲む』なんてルールの元、そのゲームは開始された。彼女が懐かしんだボードゲーム、一対二のハンデ戦。
結論から言えば、五戦して五勝。
どうしても飲みたくない廉太郎と、酔っ払い相手にどこまで堂々とイカサマが通るかで遊んでいるクリスのペア。本来のルールもろくに知らない二人だったが、それさえも越えられないほど、アイヴィの脳は初めからできあがっていた。
「……もう一回!」
悔しそうに――しかしどこか楽しそうに告げられる、何度目かの台詞。断り切れず辞め時も見つからず、廉太郎とクリスは徐々に辟易し始めていた。
「負けず嫌いな人ですね、意外に」
「お前もあまり言えない方だったけど?」
アイヴィは挑み続け、酒をあおり続ける。水のように飲んでいるが、アルコールの度数を証明するように泥酔に沈んでいく様相。
今にも寝てしまいそうだし、最悪倒れてしまいそうで、心配にもなる。
「あの、その辺にしたほうが……」
「だいじょうぶだいじょう――」
言い切ることさえできず、階段でも踏み外したように身体が崩れ落ちた。半ば予想通りと、身構えていた廉太郎が手を伸ばす。床に落ちる前に、華奢な肩を受け止める。
手のひらが、火傷するように熱い。
「あぁ、だめそうですね。寝室まで――」
付き添いましょうか――そんな大人びた、気の利いた言葉は吐き出せなくなった。
言葉、声というのは空気だから、肺に衝撃を受けるだけで消し飛んでしまう。だがこの場合、決して酔っ払いの拳を腹に叩きこまれたわけではない。
飛びかかられた――直後の廉太郎の認識はそんなもので、そこからしばらく思考が動かせない。
もう完全に抱き着かれていると気づいたときには、意識も手放したのか体重がすべて預けられていた。
「だ――大丈夫ですか?! 体、めちゃくちゃ熱くて柔らかいですよ……!?」
「柔らかいのは元からでしょうが」
冷ややかなクリスの突っ込み。その意図するところからも、嫌でも状況の背徳性が意識させられてしまう。
有体に言って、密着している。
寝間着が薄いせいで、ほとんど素肌に触れているかのよう。
小柄なため、ユーリアのように華奢なのだと思いこんでいたし、実際そのように見えていた。それが誤解ないし過小評価だったのだと、生々しい五感で訂正させられていく。
「あの、クリス……」
「ほほう、着やせするタイプ」
言わないで欲しいことばかり、クリスは茶化すように言いたがる。「身長を考えれば並……いや、並以上には――」などと、無遠慮な視線で。
助けを求めたのも馬鹿らしくて、クリスから苦々しい思いで目を外した。
視界を埋める、つややかな金色の髪。
暖房器のような体温と、自分ではない心臓の音。
それらを、むせかえるようなアルコールの匂いが上書きしてまわる。きつい匂いの抵抗感が、必死に現実感を呼び起こしていった。
「離れてっ……まずいんです、けど――」
意識もなく気持ちよさそうに寝息まで立てているのに、しがみつく力は驚くほど強い。人型のトラバサミのようだと、本気で思ってしまった。無理に引き離せば痛めてしまいそうで、思うように抵抗できない。
「ふふっ……」
――と、胸の中で身じろいだ気配。
「え゛、起きてたんですか……早く寝てください」
「なによう、照れちゃった?」
「当たり前でしょう」
「いいじゃない、どうせそのうち家族になるんだから」
「なりませんけど?!」
ユーリアとの関係は形だけだと確認したばかりなのに、飛躍しすぎている。酔っているからなのだと思いたい。
それに、家族としての抱擁だとしても距離感を間違えすぎてもいる。際どいうえに顔が近い。嘘のように整った、無防備な顔が――やはり、アルコールの匂いが正気に塗り替えてくれるけど。
「起きてるならベッドまで行ってください。このまま運んじゃいましょうか?」
「一緒に寝てくれるなら、眠ってあげるー」
「何になりたいんですか、あなたは……」
アイヴィは笑うと、それから目を細めた。再び眠りに落ちたのか、静かになって手足も脱力していく。
気まずくて――あまりに限界で、この隙に一刻も早く解放されるべく傍にあるベッドに放り込んでしまった。自室だが、部屋を移動する手間も惜しい。時間というか、倫理観が。
「上手でしたね、嫌がるフリ」
にやにやと笑うクリスを視界に入れる気にもなれず、異常に体温の高まったアイヴィに、果たして毛布をかけるべきなのかどうか悩んでいた。
一見問題なく気持ちよさそうに横になっているのだが、酔っ払いの看病などしたことがないので自信もない。
落ち着いた嵐のような穏やかな寝顔に「エルフって酔うんですね」と、クリスがなんとなしに口を開く。
「やたら毒物に耐性があるイメージだったんですが」
「ふうん」
「それに、この方ほど精神的に不安定なエルフも珍しいものですよ」
「……そっか」
アイヴィの生きた六十三年間――人間との時間感覚は違うけれど――は、決して安らかなものではない。
この世の全てが変わったとき、彼女は十二だったはずだ。
急に人間から殺意を向けられるようになって、家族も失いながらこの町に逃れついた。
ここで同じ境遇の幼馴染と共に暮らし、その幼馴染が家庭を築くと、今度はそこの一員として同居することになる。
アイヴィとシルビアは、つまり、それほどの仲だったのだ。
離れがたい、唯一無二の友人。
後にユーリアも加わった不思議な家族。それは、間違いなくアイヴィが得た居場所だった。
――その家族を幼馴染ごと壊されたのが、三年前。
「ユーリアさんは怒りに変えられるだけ強い人なんでしょうが、この方は……」
残された最後の家族――ユーリアを。心が擦り切れそうになるほど、常に案じずにはいられなくなったのだろう。
ユーリアに何かがあると、アイヴィの様子はおかしくなる。
一晩帰らなかったときも、一人廃村に取り残してきた昨日も、しばらく家を離れると告げられた今夜も。
それはもう、見ていて気の毒なほどに。
「こうして酔い潰れでもしないと、とても眠れなかったんでしょうよ」
「薬みたいだ」
抱き着かれた際の思いがけない力が、今では意味深なものに思える。
縋りつくような、求めるような――そんな無言の訴えに。
「クリス」
「はいはい、分かりましたよ」
仕方ないと嘯きながら、クリスは諦めたように「ユーリアさんについて行くんでしょう?」と笑った。
「それで、この人が少しでも安心できるなら」
これで折れてくれるのだから、クリスも大概人がいい。意地の悪い軽口なんて、それを考えれば可愛いものに思えてくる。
「色気も貰っちゃいましたしね」
とびきりからかうようなその口ぶりに、廉太郎は負い目なく答えた。
「それは受け取ってない」
――――
翌日、日の出前――
ユーリアに同行して町を立つ前に、一つ済ませておくべき用事がある。
「えぇと、さすがに空いてないかな」
「投函口なら使えるんじゃない?」
廉太郎たち三人は、二日前――半ば押し付けれたように――借りた本を返すため、明かりもついていない図書館を訪れていた。当然人の気配もない。
町に帰るのがどれくらい後なのかも、返却期限も分からないのだが、ここの館長の心障を損ないたくはなかったのだ。元の世界への情報を持っていながら、なにゆえか出し渋る館長――アニムスの。
「館長さん、いつか話してくれるのかな……?」
「期待しない方がいいわ。嫌な人ってわけではないけれど、とっつきにくいから」
嫌ってはいないが、苦手だといわんばかりのユーリアの態度。
詳細こそ誰も知らないが、アニムスは明らかに人間種ではない。そのため、ユーリアの態度は他の要因によるものだ。
彼女がアニムスを苦手とする、主な理由が――
「なんの用だ?」
背後から投げられた不愛想な挨拶に、真似できない俊敏さでユーリアが振り返ってみせる。魔術まで行使した、過剰な反応。攻撃に移るつもりでもなければ、必要があったわけでもない――つまるところ、驚かされたというだけ。
「びっくりさせないでよ、いつもいつも……」明らかな動揺を、それでも悟られないように装い「趣味なの? それとも特技?」
「両方だな」
言葉はからかっているようなものなのに、アニムスは表情一つ変えない。
索敵能力にも動体視力にも長けたユーリアが、声をかけられるまで接近に気づけなかったのは異様とさえ言える事実。廉太郎でさえ急に現れたように見えたのだから、ユーリアにしてみれば説明のつかない事象に混乱さえしてしまうのだろう。
たとえ瞬間移動であったとしても、ユーリアの反応は鈍らないはずなのに。
「おはようございます。あの、本を返しに来たんですよ」
「そうか……」
代わりに答えた廉太郎へ僅かに目を向け、アニムスの視線はすぐユーリアへと戻された。そのまま無遠慮に眺められ、ユーリアは警戒するように身をすくめる。
そんな反応も意にも介さず、アニムスは忌々し気に舌打ちを響かせた。
「ちっ――腹立たしい」
「な、何がよ……?」
「お前の任務がだ」
『任務』と聞いて、ユーリアの表情が怪訝に染まる。まだ一言も、予定なんて話していないのに。
「どうしてそれを――まぁ、いいわ。別に」
それじゃあ急ぐからと、挨拶もそこそこに場を離れようとしたとき「――待て」と、鋭い制止が背に投げかけられた。
何事かと振り返る三人をよそに、アニムスは腕を組み目を閉じて考え込んでしまう。自分のペースが絶対だと言わんばかりの態度に、ユーリアが苛立った表情を向けた。
やがて一言だけ、人の名前だけが呟かれた。
「ラヴィ――」
「なに?」
アニムスと同様に、一人の人間の少女が唐突に姿を現した。目を向けていなかった空間に、いつの間にか佇んでいる。
彼女にも、一度図書館で出会っていた。二日前と変わらず、全身が黒い彫刻のような姿だった。
呼びかけに瞬時に反応し現れたラヴィに、何の気なしにアニムスは告げる。
「ついて行け」と。
「何で――あぁ、そういうこと。無駄だと思うけど……」
二人の間だけで完結したような、不可解なやりとり。
しかし勝手に話を進められても、こちらとしては困ってしまう。特にユーリアは迷惑そうな表情を隠すこともない。「は?」と、思わず口をついた反応で「どういうつもり?」と文句を投げた。
「戦力にもムードメーカーにも話相手にもならない奴だが、連れていけ」
「それ聞いて、連れて行きたくなると思う?」
高圧的に押し付けてくるようなアニムスに対し、ユーリアは是が非でも拒否したい様子。人間嫌いなだけではない。前回ラヴィと会った際、ほとんど初対面だったにもかかわらず、互いに折り合いが悪かったのだ。
それを思えば無理もないし、ラヴィだって嫌がるのではないか――そんな廉太郎の予想は、大きく外れることになった。
「なにそれ。自分を棚に上げるのはやめてよね、館長」
少しむっとしたように、自分に下された悪口のような評価に反論を返すラヴィ。
そして静かにユーリアの方へ近づくと、戸惑う彼女に向けて陶器のような右の手を差し出した。
「館長よりはまともにお喋りできる方だよ、私」
「あら、そう? この前は何を言いたいのか、一つも理解できなかったのだけれど……」
友好を示してくる相手にも、やや喧嘩腰になってしまう。それでも握手に応えられないことは悪いと思っているようで、微妙な表情でラヴィの顔と手を見比べていた。
「ふぅん。手袋してるのにだめなんだ、面白いね」
「何が?」
ラヴィの言葉に悪気はないのだろうが、ユーリアにとってはどう受け取っていいのか計りかねる。それでもできるだけ穏便にすまそうと、無理に曖昧な笑みを浮かべていた。
そんな惨状を見て、クリスが小声で語りかける。
「廉太郎……」
「気まずいな」
「行くの、やめません?」
「えぇと――」
正直、少しだけ心が揺れてしまう。それでも、なんだかユーリアの任務の心理的負担が跳ね上がってしまったようで、放っておくわけにもいかなくなった気がした。