第二十七話 盤面の残り香
「えぇと、今日は来客でも?」食卓をところなしに埋める料理の山を見て「十人くらい」と、怪訝そうにユーリアが戸惑う。
「なに言ってるの? わたしたちだけよ」
当たり前だと言わんばかりに、アイヴィは人数分の飲み物を注いでいる。とりあえず思いつくだけの料理を並べられるだけ作った、としか思えない食べ物の量。魚介を中心とした、イタリア風に近いラインナップ。その全てに手が込まれていて、食欲がそそられると共に、目も楽しませてくれる。
「すごいですね……」
美味しそうなのは確かなのだが、『夕食です』と出されると圧倒されてやや反応に困る。一食として出す量ではない。作るのにかけたであろう時間も手間も、相当気合いが入っているはずだろうに。
「わたしと廉太郎くんたち、何だかぎくしゃくしちゃったでしょう? だから、そのお詫びね」
「食べ物で?」と、呆れたようにユーリア。
「精一杯」
自信たっぷりに、アイヴィは胸を張っていた。
先日から、ユーリアの身に起きた一件で気まずくなっているのは確か。廉太郎も気にしたりはしていない――どころか、言われて当然だと思っている――のだが、本人としては取り乱したと悔いてしまうのだろう。
アイヴィの働く喫茶店は軽食も出す。ほとんど趣味みたいなものだと言っていたが、一人で切り盛りしているのだから、腕に覚えがあると見える。
「しかし、これを我々四人でですか?」いまいち興味がそそられないのか、クリスがからかうように言う「うち二人、小食を通り越して食欲ないんですけど」
ユーリアは心配になるほど食べないし、クリスはそもそも口で食べ物を味わわない。アイヴィだって背はかなり小柄、一五〇ほどしかないのだ。そんなに多く、食べられるはずもない。
「大丈夫よ、わたしと廉太郎くんで食べるから」
「いただきます」
気持ちはうれしいのだが、どれだけ食べられると想定されているか不安になる。親戚や先輩に次々と勧められ、断るのも悪い気がして一人困ってしまう感覚に似ていた。
もちろんいつものことだが、料理はとても美味しい。
しかし。
「あの……これ、お酒ですよね?」
どうしても気になる、アイヴィと廉太郎にだけ注がれた赤く鮮やかな液体。
「あら、苦手?」
「未成年なので」
「味を楽しむだけよ」
まぁ、外国にいるようなものだし――と、香りのいいグラスに口をつけてみる。ワインの香りだけなら嗅いだこともあるが、いざこうして目の当たりにすると口に含むのにも抵抗が生まれる。お前は子供なのだと自覚させられるような、芳醇な大人のきつい香り。
猫が舐めるような量だけを口に入れ、飲んだふりをするのが精一杯だった。
「期せずしてお祝いみたいになったわね、形だけの関係とはいえ」
何とも言えない味に悪戦苦闘していると、アイヴィは微笑ましい表情で廉太郎とユーリアを交互に見やった。
形だけの交際関係――廉太郎がユーリアと共に居る建前としてのフェイクを、アイヴィはまんざらでもなさそうに受け入れている。
「一歩進んだ――というより踏み外している気もするけど、そのくらいめちゃくちゃな方がゴールも踏めちゃいそうじゃない? うっかりとね」
「なんですか、ゴールって……」
この嘘による最大の懸念事項は、周囲からの目線ではなくこの人の暴走なのかもしれない。
ユーリアを伺えば、彼女は自分用に取り分けられたシンプルな食事もそっちのけにして、クリスの喉元からの栄養補給を手伝っていた。
料理ではなく、市販らしき薬剤――それも、点滴用の。
「そんな栄養剤でごめんね、クリスちゃん」気まずそうに、アイヴィが問う。
「いえいえ、私にはこれが一番ありがたいですから」
「飴なら舐められるかと思って、一応作ってみたんだけど……」
「お構いなく。ですが、貰えるなら貰っておきます」
お互いにどう思っているわけでもなさそうだが、二人の間はまだぎこちない。アイヴィは無理もないとして、問題なのはクリスの方。意図的によそよそしく振る舞おうとしている。
だがお互いに接し方が落ち着かないだけで、わだかまり自体は初めからない。変に気にかけるのも悪い気がして、廉太郎は黙々と食事に手をつけていった。
「無理しないでね? 食べきれなくても、一日くらいなら日持ちするから」
自身も小さな体に相当な食べ物をつめこみながら、それでもまだまだ入りそうな様子で、アイヴィが廉太郎に笑いかける。
そんな彼女に、ユーリアがしれっと言い放った。
「私、明日から家空けるわよ?」
何でもない世間話をするように。
「え……?」アイヴィの表情が、一転して曇る。場が一気に緊張したようで、見ているだけの廉太郎も落ち着かなくなってしまった。
ユーリアもバツが悪そうに「任務で数日」と、一口だけ水を啜る。「……長くて十日くらい」
「え゛ぇーっ?! また、そんな……はやくない?」
娘が家を空け仕事に出ると聞いて、アイヴィは気の毒なほど悲痛に顔をゆがめていた。立ち上がり顔を覗き込むように、語気を強めてユーリアへと話しかける。
「心配よ、最近のあなた調子悪いじゃない……大けがしたり魔力使い切ったり」
「――今回は不確定要素も限りなく少ないから、平気」
目を合わせようともせず、だがユーリアはそう断言した。
それでもアイヴィは納得できず、「わたしの立場に立ってみて?」とひきつったように詰め寄っている。
「この数日だけで二回もよ? あなたが死にそうになったのは」
ユーリアは目をそらしたまま何も答えない。その様子に、アイヴィは疲れたように笑い「また病んじゃいそうなんだけど……わたし」などと不穏なことまで呟いている。
あまりにいたたまれなくなって、廉太郎は口を挟んだ。
「家を空けるってことは、遠くに行くの?」
「そうよ。西へずっと行くとね、瘴気の外に出られるのよ。そこから――」
ラックブリックの町は、瘴気に飲まれたエリアの内部。人間の住めなくなった場所だからこそ、迫害から逃れる者たちが住めるような、呪いと救いの土地。
ここより西、そのエリア外に出て、最初にたどり着くことになる町――そこが、ユーリアの赴く目的地である。
「そこで、町から離脱した魔術師を――どうにかするだけなのだけど……廉太郎、ついて来ない?」
「えっ?」
いきなりの話に面食らったものの、純粋に嬉しく思う。そんな重大な用に、誘ってくれるだけの信頼を得ているということが。
「もちろん、俺に何かできるなら行くけど……どうして」
「なかなか行く機会のないところだから、いい情報収集になるかと思って」
「あぁ、そうだね。ありがとう」
確かに――この町でもいくらか元の世界に関する手がかりは見つかったものの、現状先に繋がっていない状態だ。ここでは手に入らない情報があるかもしれないのだから、この機会を逃す手はあるまい。
と――
「ありがとう廉太郎くん! どうか気にかけてあげてね……」感動的なものを見るように、アイヴィに手を握られてしまう。力強く。
「えぇと、ついて行くからには」困ったような、照れたような返し。
「ほんとはわたしが行きたいくらいなんだけど、殺されちゃうだけだから……」
「あっ……」
忘れそうになっていたが、仮にも人間の領域。妖精種、エルフであるアイヴィが無事で済む場所ではないような危険地帯。
しかし、廉太郎もユーリアも見た目では正常な人間と区別がつかない以上、現地でも問題になったりしないだろう。
それを見越して、安全だと分かっているからこそ、ユーリアは廉太郎を誘っているのだ。
しかし――
「明日ですか……」
クリスだけは、この話に難色を示していた。しきりに眉を寄せ、難しい顔で考え込んでいる。
「一日待つ、とかは――無理ですよね」
「明日、何かあるの?」と、ユーリアが問い返す。
「戦闘訓練をしてもらう約束だったんですよね……ローガンさんに」
その名を聞いた瞬間に、ユーリアはほとんど無意識のうちに舌打ちをこぼし「まぁ、適任だけど……」と恨めしそうに呟いていた。相当嫌われてるし、相当買われている。
「でも、どうして訓練なの?」と、気を取り直してユーリアが問う。
「死にたくないだけです」
短く答え、クリスは廉太郎にまっすぐ視線を向けた。とても真剣な目だった。
「リスクを考えてください。現地の人間、全員敵になってもおかしくないんですよ?」
「廉太郎も私も、クリスも敵視される理由がないわ。だから大丈夫よ」
横からユーリアが反論を返す。そちらに目を向け、クリスはもどかしそうに口元を歪ませていた。
「あのですね……別世界の人間なんてイレギュラーすぎて、何も保証できないから言ってるんです」
「それは、そうだけど……」
身もふたもない正論に、ユーリアも言えることがなくなってしまう。
静かになった食卓で、クリスは一度深い息を吐いた。
「まぁ、どのみち決めるのは廉太郎なんですが」
「行くよ」
「ほらやだ」
即答すると、クリスは分かっていたとばかりに曖昧な笑みを浮かべた。それきり諦めたように、何も言わずに不貞腐れてしまった。
――――
「廉太郎、これやりませんか?」
風呂上がり、明日に備えて寝ようとしたタイミングで、クリスが小さな木の板を抱えて廉太郎を誘う。
「なに、それ?」
「チェス」
「絶対違うだろ」
クリスが広げた板は、確かにボードゲームの盤に見える。しかし、そのマスの数は明らかにチェスのそれではない。ルールもおぼろげだとはいえ、さすがに将棋より一回りは小さかったことを覚えている。
「ですから、こうして使用する場所を限定すれば――」
「とにかくチェスがしたいんだな」
きっと、それが登場する映画でも盗み見たのだろう。映画だけでなく、廉太郎の『記録』には一度見ただけで記憶には残ってないチェスのルールさえも刻まれている。それを閲覧できるクリスには、別世界のゲームだろうと自分のものにできるし、興味だって向けられるのだ。
「私が勝ったら、手足を折らせてくれませんか?」
「やだよ!」
「あぁ、まちがえました」
とんでもないことを思いついてくれる――デスゲーム系の映画にでも触発されたのだろうか。
本気なのか冗談なのかと戦慄する廉太郎をよそに、クリスは駒を並べていく。元々別のゲームの駒を、チェスのそれに見立てて。
「私が勝ったら、考え直してくれませんかね?」
「ユーリアに……ついて行くことを?」
「そうです」
キングか、あるいはクイーンが陣営に置かれた。
それでなんだかおかしくなって、廉太郎は笑った。
「心配性だな」
「すみません」と、クリスもつられたように笑う。
そんな様子を見て、廉太郎の心はすっかり決まってしまった。
「でも、お前がそこまで言うんだから――そういうことにするか」
ここまで訴えているクリスの忠告を、無視する気にはなれなかった。
ユーリアには悪いけれど――アイヴィにも悪いと思うけれど。
明確に行きたくないと主張しながら、それを強要しないクリス。そんな健気な子供に、心を動かされないような人間にはなりたくない。
――のだが。
「ど、どうしてこうもあっさり二連負けなんて……こんな、動きも定石も覚えていない素人に……」
「お前弱いんだよ……たぶん」
絶対負けると思っていた。チェスなんて一回か二回程度遊んだことがあるぐらいだし、随分前のことだ。ポーンの動きでさえ理解が怪しい。その上、クリスはこちらの思考を読んでくる。
半ばクリスに譲るような気持ちで臨んだ勝負だったのに、これでは――
「まだです……私の賭ける手足は、あと二本残っています」
「やっぱり賭けてるのかよ!」
『行かない』という言い訳を作るために、無理やり行けない体にしてくるつもりだったらしい。こうなると話は別になる。実行しかねないほど本気であるし、何が何でも負けてやるわけにはいかなくなってしまった。
「もう一度――」
――そのとき。
「お邪魔しまーす」
廉太郎たちの寝室のドアが、陽気な声と共に開く。声の主のアイヴィは、酒らしきボトルを持ちながら遠慮なしに部屋へ上がり込んでくる。ご機嫌な様子で――それも、なぜか寝間着姿で。
「と、泊まってたんですね」妙に視線に困りながら、廉太郎が尋ねる。
「これを渡したくて」
近づくと、アイヴィは上気した顔で懐から一冊の手帳を取り出し、廉太郎に渡した。
部屋に立ち込める酒の匂いに頑張って耐えながら、その中を軽く開く。
「なんです?」
「ユーリアの説明書よ。簡単にまとめといたから」
家を離れるということで、傍でサポートできる廉太郎へのアドバイス。それ自体は助かるのだが――たった今、行けるかどうかの瀬戸際なのであった。
「食べられる物とか、我慢すれば食べられる物とか――あっちだとたぶん、いろいろ理由付けて何も食べようとしないだろうから」
「それは……」
小食なのは構わないのだが、そうなるとやはり健康状態が心配でならない。日々のアイヴィの心労が察せられる。
「あっ――懐かしいので遊んでるわねぇ!」
二人が囲んでいた仮想チェスボードを見て、アイヴィが玩具を見つけた子供のようにはしゃぎ出した。何となく分かってはいたが、かなり――相当酔っているらしい。香水なのかと思うほど、芳醇な酒の香りを漂わせている。
正直言って、少し苦手だった。
「知ってる? これ、三人でも遊べるのよ」
「そうなんですか?」と、卿がそがれたようなクリス。
「ええ、一人と二人に分かれるハンデ戦でね」
そう言うと、アイヴィはチェス第三局として並べ始めていた駒を一気に退かし、勝手に元のゲームのそれに修正し始めてしまう。
――いい大人にこんな身勝手な行動をさせるとは……。
酒の効力の恐ろしさに、できれば生涯飲みたくないと願わずにいられない。
「懐かしいわ、昔はよく相手したのよ。ユーリアと、それから――」
それきり、アイヴィは続けなかった。言葉に詰まったような、元から何を言ってもいないかのような。そんな不自然な態度で。
表情は変わらない。酔っているからか顔は赤く上気しているし、軽く汗ばってもいる。
廉太郎には、彼女が何を言いかけたのか察しがついていた。それに、なぜ言えなくなったのかも。
アイヴィが昔、それもハンデ戦で相手をしたのなら、ユーリアももう一人も子供であるはずだ。そして、そこに該当する子供は、きっと例のハーフエルフ。
――ユーリアとアイヴィが失った家族の、その一人息子のことだろう。