第24話 期待の種
「私の大切な友だちを、ずいぶん可愛がってくれたじゃない――こんな風に」
よくも手を上げてくれた。
見上げた度胸だ。
死ぬ覚悟もできているのだろう。
「ぐぅっ、ぁ……」
後頭部を踏まれ地へと顔面を押し付けられて、男はかろうじて呻き声を漏らす。
そんなことすら不愉快で、押さえつけていただけの足に自然と体重がかけられていく。
「本当に……本当にいい度胸」
先日クラヴィーノに暴行を加えたこの男は、まるでとどめを刺しに来たようにこの場所を訪れた。
まさか――と否定したいような事実だが、それ以外の理由は思いつきそうにない。
その暴行に、どんな意図やきっかけがあったのかなど知りたくもない。だが、これではもう突発的な喧嘩の範疇など超えている。
明確な殺意――その理由だって知りたくないし、知れたことだ。
まさに人間の思想。他種族の命が奪いたくて仕方ないらしい。
「私はお前なんか、本当はどうでもよかったのに、でも――」
許すつもりは初めからない。それでも制裁自体は法に則った罰で留めるつもりでいたし、それ以上のことをするつもりもなかった。
だが――
実際に傷を負ったクラヴィーノと、その命を再び奪いに現れたこの男の姿を目にして、そんな温い考えは吹き飛んでしまった。
――殺すしかない。
そうでなければ、ユーリアが武器を取る意味がなくなる。
こんな人間を――自分の家族を奪ったような人間たちを。もう二度と自由にさせないためだけに、ユーリアは今の地位と戦闘力を掴んだのだ。
もう、三年前とは違う。
現在、この町でユーリアに逆らえる者は片手の指で数えられる。この町の支配者ルートヴィヒが有する、四人の直属の部下。その一人として、ユーリアの意思や我はあらゆる法やルールを超越する。
罪人を無罪として解放することも、証拠もない誰かを牢に入れることもできる。
そんな特権を持つユーリアが人間以外の種族に肩入れしている事実は、彼らに対する悪意への抑止力となるはずだ。
この男の凶行が意味するのは、それが不十分だったということ。
ならば。
「さよなら――」
さらなる恐怖で縛り付けるより他はない。
他種族に手を上げた人間が、ユーリア・ヴァイスに殺されたという事実さえ広まればいい。
そもそもが、友人の命を狙う敵。罪悪感など覚えている余裕はない。
握っていたナイフに、力がこもる。
その瞬間――
「――だめです、ユーリアさん!」
背後に軽い衝撃。身体に回された細く黒い、数本腕と足。亜麻色のショートヘアが軽く乱される。
飛びかかるように、背後から抱き着かれていた。
「く、クラヴィーノ?! だめよ、いきなりは――」
確かに、今日だけは好きに触れあうことを許していた。とはいったものの、こんな不意打ちまでは想定していない。心の準備もできておらず、心臓が止まるとさえ思った。
同時に、周りが何も見えていないことに気づかされる。こんな接近など、普段は警戒していなくとも絶対に避けられるはずなのに。
「あ、あの! とりあえず、足をはなしてあげてください……痛そうですから」
「痛そうって、あなた――」
それが、自分を殺しかけた相手に向ける言葉か。その姿を見て、先ほどまで怯えていたというのに。
涙がこみあげそうになるほどに、人がよすぎる。
「あの、その方……何か話したいことがあるみたいですよ?」
「話?」
「もしかしたら、遊びにきただけかもしれませんねー」
気の良さのあまり毒気まで抜かれて、踏みしめていた足をどけた。それで少し冷静になると、あろうことか、自分の方が悪いことをしているような錯覚を覚えそうで。忌々しげに男を睨む。
流れでクラヴィーノを背におぶったまま、立ち上がるのを待った。
「く、くそ……」
「言いたいことがあるなら言いなさい。ここに来た目的も」
言っておいて、あまりにしまらない姿だと自分でも思う。危ないからナイフも捨ててしまったし、背中の子が珍しく見せていた緊張感さえも、すでに残っていない。
こんな状況でも、おぶってもらえるだけで嬉しくなってしまうのだろう。しばらく離れてくれそうになかった。
「お、おれは何もしてないだろうが――き、今日は」
「私がいたものね」
「元から何もしねぇよ!」
状況をいいことに、そう言い張って逃れようとしているらしい。ふてぶてしいどころか、随分となめられたものだ。
冷めたような、見下したような目で問いかける。
「じゃあ、ここに来た理由は何だっていうつもりなのよ」
「おれは……魔人種のガキなんてろくすっぽ見たことなかったし、喋ったこともなかった。だから興味自体なかったっていうか――」
男の語りは要領を得ない。何が言いたいのか分からず、それでも結局のところ自己弁護にしか繋がりそうにない。それこそ聞きたくもない話だが、クラヴィーノの手前、短絡的な行動にもためらいを覚える。
「だけど、昨日出くわして、それで一言二言交わすうちに――どうしようもなくなっちまって!」
男の語りに熱がこもる。それは当然で、相手をしている者の権力を考えれば、弁明どころか命乞いまでに必死になって然るべき。
――しかし、どこか真に迫る。
存外に、自分も騙されやすいほうなのかもしれない。
「気づいたらそいつは死にかけてて、気づいたらおれは加害者だった。冷静になれたのは、町に帰ってからだ……」
悪意も敵意もなくかっとなって振るった理由のない暴力で、今は反省している――まとめると、男の主張はそういうことになる。
「まさかだけど――」
信じがたい話だ。
その真偽ではなく、そう言い張ってどうにかなると思っているらしいことが。
「謝りに来た、とでも言いたいの?」
「そうだよ」
「勝手な話ね」
ひどい頭痛がする。
そんな加害者の理屈がまかり通るのなら、この世に罪も刑罰も生まれていない。
もうこれ以上口などきかず、機関の警察部に突き出そう――そう諦め、黙って落としたナイフを拾おうと身をかがめた。
「本当だっつってんだろ!」
「煩いわね。もうどうでもいいわよ、あなたなんて……」
その動作を殺意とでも受け取ったのか、男は激しい動揺を見せた。
そんなこともどうでもよかった。
先日の件だけではそう重い刑罰にもならないだろうが、この様子なら少し脅すだけでここには二度と近寄らなくなるだろう。
しいて言うならば、せっかく穏やかに過ごしていた時間を、こんなことで邪魔されたのが腹立たしくてしかたない。
「――信じてくれよッ!」
拘束しようと近づいたユーリアに、男が叫んだ。
――信じる。
何もかもどうでもよくなったこの状況で、本来何も響くはずのない言葉。
だがユーリアにとっては、今、この場に限り、最も聞きたくなかった言葉でもある。
嫌でも、重なってしまうから。
「トリカ……」
もういない友人の名が、口からこぼれていた。
――わたしを信じて?
三年前の事件以来、ロゼという例外を除けばすべての人間を敵視している。
にもかかわらずトリカという人間の幼子と交友を持ったのは、彼女のそんな一言がきっかけだったのだ。
――ねぇ、どうして友だちになってくれないの?
ユーリアは迷うことなく『人間は異常だから』と答えた。
他の種族の命を奪うことに、虫を潰すほどの罪悪感もない。この町でさえ、表面上は協力しているものの、それは環境や状況がそう強いているだけ。
――でも……わたしは全然、他の種族の人たちを悪くなんて思わないんだよ?
確かに、幼い子供にはその傾向がある。
心身の発達が未成熟なのと関係しているのか、十歳未満の子供の多くは迫害思想を持たない。
だがそれも僅かな時間だけで、大人になるにつれ自然と人間は人間になっていく。だからいくらトリカがそう主張しようとも、あと数年で思想は歪んでしまうのだ。
――それはやだ!
トリカは人間らしく成長することに、激しい抵抗と嫌悪感を見せていた。彼女にも、他種族の子供の友人がいるからだ。
それなのに夢も希望もない未来を教えてしまい、悪いことをしたなとユーリアは思った。
――そうだ、じゃあユーリアちゃんが見張っててよ。わたしがおかしくならないように。
大人になっても考え方が変わらないように、ずっと傍に居続ける。少しでもその兆候が見えれば、いつでも矯正できるように。
そんなことは試したことも、考えたこともなかった。
おそらく、未だに誰もそう。
不可能だと決めつけてしまうのは、あまりに希望のない話だと思った。
それからたまに一緒に過ごすようになり、二人の仲はすぐに深まった。元から、少しでも心を許せば際限なく入れ込んでしまう性格。意地をはることもなくなり、すっかり妹のように可愛がっていた。
二人の試みは約束になり、やがて確信へと変わる。
――だが、その結果はついに分からないままだった。
あの子は死んだ。他でもない自分に殺されて。
絶望的な悲しみに匹敵するほどの、ひどい負い目がある。
偉そうなことを言っていた自分が、人間以下のしょうもない存在に思えて。
――信じてくれ、か……。
意図は全く異なるけど、その実繋がってもいるかのよう。
そんなことを言い放った、憎むべき男に、ユーリアは問う。
「あなた、歳はいくつ?」
「十二だけど」
年齢の割に、体ができあがっている。一六二センチはあるユーリアと、そう身長が変わらない。
「そう、見えないわね」
「ほっとけよ……」
判断が難しい年齢。精神的にはもうあるべき人間へと成長しきっているような気もするし、まだまだ形成段階であるようにも思える。
言葉を信じるのであれば、こうして無意味な謝罪に来るだけの良心はある。
大人であれば、理由さえなければ決してしないことだ。
ならばこそ、トリカが望んだような成長を見せる可能性が全くないとは言えない。
それを否定するのは、あまりに盲目的だと思う。
トリカの代わりに希望を託す――なんて気にはなれないが、可能性を初めから切り捨ててしまうようでは、あの子と過ごした時間が報われない。
そんな気がした。
「――この男はこう言うけど、クラヴィーノはどう思う?」
「あやまってくれるなら、自分は許しますよ? ですから、こわい顔しないでくださいー」
「そう……」
その言葉が最終判決となる。
ユーリアは立場上、法に則った罰も、法を無視した過剰な罰も与えられる。だから、法に背いて見逃すことだって許される。
いまいち納得はしきれないが、何を選んだとしても結局、納得することなどできはしないだろう。
「だってさ。あなた、何か言うことないの?」
「ずっと上等な奴だ、おれなんかより……」
――それが分かるのであれば、せいぜい心がわりしないことだ。
「次はないわよ。私は許してないんだから」
何もかも善良だったトリカと違い、この少年を監視していく気にはなれない。だが、少しくらい気にかけることにはなる。
それにあたり、聞いておくべきことがどうしてもあった。
「それで、名前は――?」
――――
ロゼが話している間、ずっと重い空気が続いていた。
ローガンは遠くを見ていたし、廉太郎はロゼの顔も見れない。クリスは表情も変えず、黙ってじっと座っていた。
「……どうして、俺にそんな話をしたんですか?」
ユーリアの過去と人間を憎む理由を聞かされても、廉太郎には何をどうすることもできはしない。
あれだけ家族や友人に対する情の深い女だ。その心中の悲しみを思うと、胸が張り裂けそうになるけれど。
結局過去の話であり、廉太郎は赤の他人。
友人としても、触れることのできない領域。
同情することも、変に態度を変えることも、するべきでさえないように思う。
それほどまでに重い悲劇など、本来友人同士でさえ共有されることはない。
とても話せないし、触れられるような話でもない。
それが可能な関係はもう、友人など越えている。
何もかも打ち明けられるような、唯一に近いほどの親友でなければ。
「どうしようもないからさ」
ロゼの調子がいつもと何も変わらないのは、きっと、あえて意識しているのだ。
フードから覗いた薄く赤い髪を、手持ち無沙汰な様子で軽くいじり続けていた。
「私も、ユーリアには負い目があるからね。あの子の苦しみに対して、何も言ってあげられる立場にないんだ」
「でも、ユーリアはあなたを慕っているようでした」
「許してもらえただけだよ。私は特別じゃない」
仲のいい友人同士に見えたのに、許されていても未だロゼは気に病んでいる。おそらく、力になれなかったことを。
心に壁を感じてしまったから、触れてやりたくても、力になってやりたくてもそれができない。
ロゼの性格を思えば、相当に歯がゆい思いをしているはずだ。
「君はあの子と仲がいいし、この町どころか世界とも無関係だからね。話しちゃった」
「でも、俺は――」
次に会ったとき、どんな顔をすればいいかさえ分からない。それほど頼りない、つまらない人間だというのに。
それでも、できることがあると言うのだろうか。
一人で思い悩む廉太郎に、ロゼは笑った。
「別に何もないよ。今まで通りが一番良さそうだ。そうだね、これは余計なおせっかいで――私の我儘だな」