第十八話 恋愛脳
五十一年前――
世界は狂気に包まれた。
世の終わりかと嘆くほどの天変地異。世界に広がる瘴気汚染による、生物が生存できる領域の減少。
そして何より、人間種の変質。
深い瘴気は紙に滴るインクのように徐々に世界を染めていったが、微弱な瘴気は瞬間的に世界に散った。
瘴気は空気を薄め、土壌を汚染し、生物の命を喰らう。
だがそれだけに終わらず、影響は人間の魂にまで及んだのだ。
微弱な瘴気の影響を全世界の人間が――人間種だけがほぼ同時期に受けた。
ある者は肉体が家屋を飲み込むほどに膨張し、無差別に人を襲う化け物となった。
またある者の気は完全に触れて、女子供をさらい生き血を集めた。
瘴気の真の恐怖は生活圏が脅かされることなどではない。そう誰もが認識するのに、そう時間はかからなかっただろう。
人でないものに、異形のものに変化していく恐怖。
それから逃れるために、人間は他の人種族をこの世から消そうとしている。理屈は誰もが理解していないが、それはこの世に生きる人間の共通認識。
一人殺せば浄化が進む。根絶やしにすれば瘴気が消える。
――異変の原因はお前たちで、これは先に仕掛けられた攻撃への報復に過ぎない。その証拠に、魂が歪むのは我ら人間だけではないか。
人間だけに異形化が起こるのは、彼らが唯一魔力を待たない種族だったからである。魂の抵抗力に、差があっただけだ。
皮肉にも、歪みによって人間種の魂は魔力を生成するようになった。その力は他種族より遥かに抜きんでて殺傷に向いており、種族間での戦闘は一方的な虐殺と化した。
その争いは、今日まで続く生存戦争と言えなくもない。
人間は己の魂を守るため、他種族はその言いがかりから身を守るための。
淘汰される側にしてみれば、たまったものではない。
今から五十一年前、アイヴィが十二歳のときに聴いた、世界が終わり始めた音である。
彼女の母親は、それを現実だと受け入れる間もなく命を奪われた。
まだ存在すら知らなかった、髪の綺麗な兵器によって。
――――
「でも不思議ね。クリスちゃんって、なんでそんなにいい子なの?」
「いい子て」
共に食事を楽しんだ中で、アイヴィはすっかりとクリスに気を許したようだ。正確には、そのように振る舞っているようには見えるという話だが、受け入れようとする姿勢に嘘はないのだろう。表情に無理はない。
過去に何があったのかなどアイヴィは語らなかったし、触れようとする者は誰もいなかった。
「人形ってふつう、造られた兵器だーっていうのがはっきり分かるじゃない? なのにクリスちゃん、普通の女の子とぜんぜん変わらないもの」
ユーリアのときといい、クリスは急に好意的に接されるとその対応に困ってしまうらしい。
話しかけられても迷惑だ、とばかりに顔をしかめて見せるものの、その見た目では逆効果である。大人がつい構ってしまいたくなるような、手のかかる可愛いらしい子供にしか映らない。
「どうして?」と、アイヴィが尋ねた。
なぜ、人形の中でお前だけが自我を持ち、人のように振る舞えているのかという問い。
口調こそ親しげだが、そこには少なからず詰問の色が見え隠れする。無意識的にせよ、だ。
「その、色々昔ありまして――」
うっかり口でも滑ったのか、クリスは途中で口をつぐんだ。
しかし、はぐらかすのも面倒に思ったのか、観念したように目を閉じる。
「何人か前の私の持ち主がだいぶ変わり者で……それで影響を受けたというか、変えられてしまったというか――」
出自が特別なのではなく、後天的要因による特異性。しかも、狙って施された技術や治療操作というわけでもない口ぶり。
「影響」とはまた、ずいぶんと曖昧な表現だ。
些細なことに聞こえるが、そんなことがこうして驚かれるほどの変化を生むとも考えにくい。
「ふーん、どんな人? 廉太郎くんみたいな?」
「は――馬鹿にしないでもらえます?」
それで不愉快になるクリスの反応も複雑だが、アイヴィに変わり者だと認識されていることも地味に心に刺さる。異世界人としての思想的相違点を差しているのだろうが、やはり変わっていると言われていい気はしない。日本人としては。
アイヴィの問いは続く。心なしか、楽しそうな声色に変わって。
「あれれっ、そんな反応するってことは男の人なの?」
「ん? まぁ、そうですが――」
「好きだったの?」
瞬間、クリスの顔色が不快に染まる。
「はい――?」
その反応に余裕はない。戸惑いもなかった。
ただ敵意だけを返す視線と口調で、それでも静かに言葉を繋げる。
「なぜそんな話になるんです? 私が一言でも――」
「そうなのね!?」
「えっ、だからなにが――」
「素敵じゃない? 恋を知って人になったのよ、きっと」
話があまりに通じなくて、クリスは浮上した感情も忘れて絶句している。
アイヴィの様子に悪意はない。ただ純粋に、他人の恋愛事情を想像してほころんでいるだけだ。「れ、恋愛脳……」とクリスが呻いてしまうように、この手の輩は本人が否定しようとも話を飛躍させてしまう。
やっかいなことこの上ない。
というか、クリス自身だってまさにそれだろうに。散々ユーリアへの好意を邪推しておいて――
自覚はないのかと、被害を受け続けている廉太郎としては口をとがらせたくもなる。
「……廉太郎、助けてくれません?」
「いい話だと俺も思うよ」
ささやかな嫌がらせである。
それにもめげず、クリスは次に助けを求めた。
「ユーリアさん?」
「恋愛話で人を茶化すのはよくないわよ、アイヴィ」
「そこじゃなくて」
一方的な態度を嗜めてはくれたものの、それでも恋愛話だとは認識されていたことに脱力し、クリスは肩を落とした。
ユーリアは恋愛という心の機微を知らない。恋をしたことがないのではなく、恋をする機能が生まれつきないようだ。異性と同性の区別さえ、心の中ではしていない。
しかし理解できないからこそ、それらを尊重しているようなふしがある。
「それに、はしゃぐほど明るい話ではないでしょう?」
「ぁ……」
ユーリアの指摘に、アイヴィの表情が暗くなった。
人形の持ち主が代わるということは、前の持ち主が死ぬということ。グライフが死んで、廉太郎がクリスを得たように。
何人か前の持ち主だと、クリスは言った。
その男にどんな感情を向けていようが、すでに生きてはいないのだ。
故人へ何かの想いを抱き続けることは、決して暗いだけの話ではない。だが、他人が触れるには重い話で、デリケートな話だ。
気安く、明るく触れる話ではなかった。
「ごめんなさい、わたし――」
「別に。そこは気に障りませんし」
すっかり意気消沈してしまったアイヴィの言葉を、クリスはため息交じりに水に流した。
そこは気に障らないと言うように、故人の話を振られたことではなく、その彼に恋をしていたと思われたことのほうが嫌だったのだろう。
あからさまにそうだ。
――それってつまり、やっぱり好きだったってことなんじゃ……?
そうは思うものの、口に出すほどの怖いもの知らずではない。
「恋愛話はほら、若い二人に振ってくださいよ」 と、クリスが鼻をならして吐き捨てた。
「頭の中は自由にさせて欲しいんだけどな」
悪口でもないのに文句をつけられていては、たまったものではない。
――若いのはお前もだろ。
そんな心中の抗議は「五歳なんで」と、クリスに軽くあしらわれた。
気を取り直して、アイヴィは尋ねた。
「ちなみにクリスちゃん、この二人をどう思う?」
話の対象が、言われた通りに廉太郎とユーリアに移る。
緊張が、嫌な予感が背筋を走った。
その言い方では、恋愛話を振るどころかむしろ男女としての相性を聞いているようで――
「付き合っちゃえばいいのでは?」
「理解ってくれてる!」
――不味い。
この二人、なんだかんだで相性がいい。
娘に無理やりにでも恋をさせたいアイヴィと、廉太郎の感情を誤解しているクリス。二人が組めば、こういう方向に話が進むのは必然。
気まずいどころではなく普通に恥ずかしい。
本人同士の前で何てことを言ってしまうのだ、この恋愛脳二人は。
健全な青少年にとって拷問にすら匹敵する仕打ち。幸いなことにユーリアは気にする心を持たないが、異性として意識されているとでも誤解されたら目も当てられない。
間違いなく気を使わせてしまう。
想いに応えられない自分に恋をさせてしまうのは、可哀そうだとまで言ったのだ。
「いや――」
黙っていれば意識していると思われてしまいそうで、何も思いつかない頭を動かして必死に言葉を絞り出す。
「わ、若いんだから恋愛なんてしなくても……」
口にしておいて、自分でも失敗したと分かった。
途端。
「えっ――」
「な、何言ってんですか……?」
信じられないものでも見たように、恋愛脳二人が大きな反応を示してくる。
意外なことにユーリアまでもが、興味深そうに廉太郎を伺っているようだった。
クリスはだいぶ引いてしまったのか、口元を手で覆ってまで表情を隠している。
「おかしいおかしいとは思っていましたが、まさか変な宗教にでも――」
「ち、違うよ」
思いのほか注目を浴びてしまい、適当な言い訳では誤魔化すこともできなくなってしまった。
照れ隠しなど考えている場合でさえなく、少しでも丸く収まるようにと、おぼろげな思考を整理しながら口を開く。
「子どものうちにする恋愛なんて遊びみたいなもので、どうせ結婚までいかないんだから……そんな覚悟で人と付き合うのは不誠実っていうか――」
やや固い考え方だとは自分でも思う。しかし、若いうちは健全な付き合い方が求められているのも事実。子供の恋愛など未熟だと、誰もが思っているということだ。
何があっても責任を取れないし、責任を取りたいと思うほどの真剣な付き合いがそう生まれるとも思えない。
「学生なんて将来の収入も不確定なんだから、結婚を考えるには無責任すぎると思うから」
恋愛は結婚を見据えた関係だ。
しかし人生は何が起こるか分からない。就職できないかもしれないし、不慮の事故で命を落とすかもしれない。
付き合う二人が別れなければならないそんな事情が、どうしたって起こり得るのだ。その際、元の恋人を引きずって前に進めない人だっているだろう。時間の無駄だったと嘆く人だっているかもしれない。
それは可哀そうだ。
そんな迷惑はかけられない。
恋愛が一人では成立しないものであり、友情より密接に相手を巻き込む以上、慎重になりすぎることはない。
少なくとも廉太郎にはまだ、それだけの覚悟と自信が何もない。同世代の多くがそうだろうと思う。
だからこそ若者が恋愛などと、おこがましいと思うのだ。
――そんな理屈を、一生懸命伝わるように話したつもりだったのだが。
「こじらせすぎですよ! 理性で恋愛を捉えようとか、馬鹿なんですか!?」
「まさか廉太郎くんも性欲とかないの!? そんなぶっ飛んでる子、うちの娘だけで十分なんだけど!」
まったく、とりあってもらえそうにない。
それどころか、かえって怒らせてしまったようにさえ感じられた。
思わず「すみません……」とは謝ったものの、馬鹿だとか性欲までないとまで言われるのは、過剰に馬鹿されているようで納得がいかない。
「あのね、結婚を前提にして責任とか考えちゃってるようだけど、ふつう恋をしてから結婚するかどうか決めるのよ?」
「アイヴィさん、俺は結婚も考えてないのに付き合う男女が好きじゃないんです」
「開き直らないで!?」
下手に引き出しを見せたことで、引っ込みがつかなくなってしまった。これ以上この話題を続ければ、話は平行線の上荒れに荒れてしまいそうな予感がある。
どうにかして着地点を見つけなければと、廉太郎が一人孤独に焦っていた、その瞬間。
「私はいいと思うけど」
不意に、そうユーリアが呟いた。
視線が集まる。こと恋愛に話が及べば、ユーリアの口数はどうしたって少なくなってしまうのだ。その上での発言は、ユーリアが考えに考えた上で生まれたものである。
それはきっと、人とは違った見方になるのだろう。
「家族になるかもしれない誰かのことを、しっかり考えてるってことじゃないの?」
「ほらぁ、悪影響与えちゃったじゃない……」
責めるようなアイヴィの視線に、『それが悪影響だとは思わないんだけどなぁ』と笑ってしまう。
恋愛観なんて人それぞれということで、納得してはくれないだろうか。唯一無二であるユーリアが娘なのだから、それなりに説得力はあるはずだ。
『二対二ですね』と言いそうになって、少し考えてやめておいた。