第九話 面倒な人たち
「アイヴィさんに言われたこと、まだ気にしてるんですか?」
レンタルした魔動車のハンドルを握りながら、クリスがうんざりしたように口を開いた。
座席に浅く座り、小さな体で器用に車体を操っている。動作は手慣れているようで、今朝初めて触った廉太郎よりも当然運転は上手い。
そんなことですら、数少ない役目を奪われたようで落ち込んでしまう。
「いい加減に立ち直ってください。隣にいる私の方が滅入ってしまいそうです」
ため息まじりに、クリスが指でハンドルを二度叩いた。
思考や感情を読まれるのは苦痛だと思っていたが、読み取る方にも苦労があるらしい。確かに、興味が無いのに鳴り続けるテレビの雑音ほど、うっとおしいものもない。
ハンドルを奪われたのは、何も廉太郎の操縦技術にケチがついたからではない。
単に、車を動かすのは楽しいからと、クリスが運転手を買って出ただけだ。
「お前も言ったろ、ヒモみたいだって」
車外の遠くに目を向けながら、廉太郎は自分に言い聞かせるように口を開いた。
「ユーリアの好意に甘えすぎていたんだ」
その結果、考えられないような危険な役目を押し付けてしまった。
だというのにユーリアは文句一つ、愚痴一つ言わなかった。当然のことをしたまでだと、本気で思っている。
アイヴィの言いたかったことは、つまりそういうことなのだろう。
ユーリアの傍にいるのなら、そういう彼女の性格をしっかり理解するべきだと。
でなければ、こういった事件はきっとまた起こるから。
「ヒモ、それを悪いとは言ってないんですけどね……」
苦笑まじりに、クリスがハンドルを切った。
「それより、ぐちぐちと悩む男のほうがずっと見苦しいと思いますよ」
「別に、悩んでるわけじゃ……」
悩むというより、後悔している。
ユーリアと共に脱走したグライフを追おうと決めた時、少なからず争いになると分かった上でそれを良しとした。相手が異形化するとは思っていなかったとはいえ、ユーリアの力をあてにしたのは事実。
彼女は強いと皆が言うから、ただの人間と戦わせるくらい、何のことはないと思ってしまったのだ。
あまりにもユーリアを軽く見ていたと、今では思う。
「そんな男が好きだって人もいますがね。他の女には相手にされませんよ」
クリスは変わらぬ調子で、にやりと笑う。
「ユーリアさんはどっちなんでしょうね?」
徐々に話が逸らされていくのは、クリスなりの気づかいなのだろうか。からかいたいだけだとは思うが、へこんでいるだけにどうしても温かさを見出そうとしてしまう。
「案外面倒見がいい人ですから、ひょっとするかもしれません」
恋愛感情も性区別もないユーリアに男の好みなど無いのだろうが、人の好みはあるだろう。
彼女に好かれるような人間であるかは、とても自信がない。友達として接してくれるのも、嫌うところがないからだと思っている。
「お前はどっちなんだ」
クリスに一人話させ続けているのも心苦しく、そんな分かりきったことを聞いてみた。
「死ねばいいと思いますよ」
その答えがいっそ小気味よく、気持ちがわずかに晴れるようだった。
ユーリアの待つ廃集落が遠目に見えたころには、すっかり落ち着いた様子で座席に揺られていた。
ユーリアが待つ部屋のドアを軽くたたき、ノックする。前にもこんなことがあったよな……と気恥ずかしくなりながら、躊躇いがちに声をかけた。
「入るよ」
返事はなかった。
そこまで、前回と同じ。
ひょっとして寝ているのではないかと思い、ドアを開くだけにして室内をクリスに確かめさせる。
「あれ、いませんよ……?」
ひょっこりと中を伺ったクリスが、そんなことを言った。
「えっ――」
血相を変えて、廉太郎は部屋に入った。
冗談であってくれと入ったその部屋には、クリスの言う通り誰もいない。
入る家屋や部屋を間違えたということは絶対にない。
「そんな……」
町を立つ前に交わした、アイヴィとの会話が脳裏によぎる。
ユーリアに万が一のことが起こることを、何より案じていた彼女の訴えを。それに感化されて直前まで心配していただけに、ユーリアの不在はかなりの衝撃を廉太郎に与えた。
ユーリアが休んでいたベッドに目を向ける。そこには、彼女がそれに着替えていたはずの服が散らばっていた。
「これは、その……」
「いや。寝るときに服を着ないんだ、あの人……」
珍しく言い淀んだクリスの意図するものを、即座に否定した。
そんな俗なことからは最も遠いところにいる人であるし、そうでなければならない人だ。
「ならば、余計ベッドにいないのはおかしいですよ」
そんな指摘など何も聞きたくなくて、廉太郎は声を上げた。
「ユーリア……っ!」
こんな風に大声で、誰かの名前を呼んだことがあるだろうか。
それどころか、彼女に名前で呼びかけたこと自体恐らくない。名前を口にしたことはあれど、本人に向けて呼びかけたことは一度もなかった。
そんなどうでもいいことが胸を打つほどには、自分の心がどこにも見つからいほどに浮遊している。
「ここよ」
部屋のどこからか、篭った声が聞こえてくる。
そんな小さな声に、自分でも驚くほど心が安堵するのが分かった。
「良かった……でも、どこに――」
「ここですね」
こんこんと、クリスがクローゼットの戸を叩いた。
すると中から、人が動いたような物音が響く。
「な、なんでそんな所に……?」
困惑しつつ、中から出てこようとするユーリアを慌てて制止する。
「その、君が無事ならそれでいいんだけど……服を」
――たぶん、何も着ていないと思う。勘だが。
またもや中で動く音がしたかとおもうと、すぐに戸が開いた。
姿を見せたユーリアは、瞳こそ閉じているものの変わった様子はない。中で適当に手に取ったのであろう、オーバーサイズの服を身にまとっている。
「おまたせ」
そうして、済ました口調と共にクローゼットから出た。
「いや、こちらこそ……」
おまたせ、ではない。
何をしていたのだろう、この人は。
こんなことで人を驚かせようとする人でもないし、無意味な奇行をする人でもない。
言葉にせずとも訝し気でいる廉太郎に対し、彼女はこんなことを言った。
「何か、妙な気配を感じたのよ」
「気配……?」
不穏な言葉に顔をしかめる。それが確かなら、誰かが、もしくはなにかが居たことになる。それはユーリアの無事を確かに脅かすもので、一歩間違えれば再会さえできなかったかもしれないのだ。
「いえ、今の私に何が探知できるというわけでもないし、きっと思い過ごしなのでしょうけど……」
ユーリアは一人、難しい顔で呟いた。
目が見えず魔力も感知できないとしても、何かの気配というものは感じられる。ユーリアが身を隠すほどに脅威を感じたのだから、きっとそれは思い過ごしなどではない。
「でしたら、早々に退去しましょう」
クリスが、静かにそう告げた。
余裕一つ、軽口一つ見せない。
その様子から、クリスが今も穏やかな状況だとは思っていないことが察せられる。
と、呆れたようにユーリアに声をかけられた。
「廉太郎……あなたまた人形に喋らせて」
「ち、違うよ。これはこいつが自分で――」
クリスの声に微妙な顔を示したユーリアに、焦るように弁明しようとする。
人形に自我がないというのが一般であるらしいから、こんなふうに口を効くのは持ち主の操作によるものと思われる。
クリスの特殊性を知らない者からすれば、腹話術のような奇行に見えるだろう。
「あぁもう、私のことはあとで紹介しますから。ほら、行きますよ」
何かがいるかもしれないのに悠長に立ち話を始めた二人に対し、業を煮やしたクリスが両者の腕を引いた。
簡単に振りほどけるような弱い力なのに、廉太郎もユーリアも大人しくそれに従う。
「ま、待ちなさいよ。靴を――」
急かされることに文句を言いつつも、触られていることに対してユーリアは文句を言わなかった。
クリスのような人形を生き物と認識していないとのことだが、であれば生物への接触拒否は心理的なものなのだろうか。
てっきり感触が苦手なのかと思っていたが、人形に触れられるということは違ったらしい。
クリスがユーリアの手を引けるので、盲目の彼女を手早く車まで誘導することが出来た。
「ユーリアさん」
「……なによ?」
どうにも落ち着かない様子でクリスの問いかけに応える。
人形を介して廉太郎に話しかけられていると誤解しているからだ。
「シートベルト、してください」
「嫌」
五感制御も出来ない現状、服ですら嫌々着ているユーリアの事だ。シートベルトのような拘束具のしめつけは、なおのこと不快なのだろう。
クリスの要望に対し、短い言葉で拒絶した。
「文句言わないでくださいよ。子どもですか、あなたは」
心底呆れたような口調で、クリスが不平を漏らす。
ぽつりと「子ども……?」とユーリアが言葉を返したのちに。
一瞬の間が空いた。
「は、はぁ――!? 言っていい事と悪い事の区別もつかないの!?」
地雷に触れたかのような、劇的な反応を示す。
その矛先が向くのは、当然ながら――
「廉太郎!」
「俺じゃない!? 言わせてないんだって……!」
これはもう、面倒だとか不便だとかの話ではない。早いところクリスに対する情報を共有しなければ、それこそ人間関係が終わってしまう。
親しくやれていた二人の人間から立て続けに声を荒げられて、対立に慣れていない廉太郎の精神が悲鳴をあげるようだった。
「何でこう……二人とも面倒なんですかね」
そう呟いたかと思うとクリスは運転席から身を乗り出し、乱暴にユーリアへ覆いかぶさる。そのまま無理やりにシートベルトを装着させると、不平を隠さないユーリアに対し顔を寄せて言った。
「今からアクセル全開で逃げるのですよ、私たちは」