第五話 私の名前は
「さて、行こうか」
時刻は昼過ぎ。
車で移動した距離を考えると、日没までに町に着ければ御の字である。
多少疲れはするだろうが、廉太郎にとってそこまで苦のある道ではない。
しかし、
「お前には……辛いんじゃないのか」
付き従う人形の肉体は女児のそれ。
しかも、足の筋肉を喪失している。魔力による補助を行っているとはいえ、その動作には制約がつく。二の腕の筋肉の欠損により重い物は持てず、両太ももの欠損により走ることもできない。
ただ歩くことにすら、相応の苦労があるはずだ。
「辛くなったら背負ってもらいますから、平気です」
「いいけど……そこまで大変なら、付いて来なくてもよかったのに」
同じく徒歩での移動が難しくなったユーリアと一緒に、車での送迎を待っていたほうが互いにとっても負担にならない。そう思っての提案だったのだが、人形は珍しく苦い顔で否定を返した。
「そうもいかないんですよね……」
廉太郎に腕を伸ばす。外套を脱いだ彼女の服装は簡素なワンピース姿で、その腕の異様さがさらけ出されている。
「私の体の欠陥は、あなたの魔力を貰うことで機能しています」
「うん」
両腕。両足。喉。
五か所。
「手足はともかく、喉は生き死にに直結します。呼吸ができませんから」
「……そうか」
彼女の体で一際凄惨なのは、その顔の下にぽっかりと空いた大穴だ。
喉から体に繋がる気管も食道も、共に抉られて断ち切られている。正面から、加工された脊髄の一部が顔を覗かせていた。
口や鼻から息を吸っても、肺に入っていかないのだ。
「そしてあなたからの魔力供給なんですが……我々の間のに開いた距離に反比例して、か細くなってしまうようなんです」
そう言って、これ見よがしにおおげさな溜息を吐く。
つまり、そう長い距離を離れることはできないということ。
町への移動に付いてきたのはそのためで、付いて来ざるを得なかったのだ。
「……離れると危ないのは、どのくらいの距離だ?」と、廉太郎が問う。
「私が寝ていた時、廉太郎は風呂の用意をしていましたよね? それで苦しくなる程度です」
直線距離で十数歩。
ほとんど四六時中、共にいなければならない。
しかしそれを苦と思えないほどに、廉太郎は彼女の制約を痛ましいと思った。
「苦しくて目が覚めたのか……悪いことしたな」
文字通り一歩間違えれば、死なせることすらありえたのだ。
罪悪感にも庇護欲にも似た、たまらない感情が湧いてくる。殆んど無意識の内に、廉太郎は人形の頭に触れていた。
触れて、それで唐突に気づいた。
もっと早くに、聞かなければなかったことに。
「そういえば……名前は? なんて呼べばいいんだ?」
「……逆に、なんで今の今まで気にもされなかったのでしょう」
子どものように撫でられているのが不服なのか、名を聞かれなかったことが不服だったのか。彼女は呆れたような、不機嫌そうな様相でまた、
「興味、なかったんですかね」と、なじるように言う。
「いや……」
初めから話した内容が突飛すぎて、自己紹介など頭になかっただけだ。一方的に名前を知られていたことも起因する。
「頭の中は他の誰かでいっぱいだったのでしょうか」
「だ、だからさ……」
何かにつけて話をそちらの方に向けたがる。
茶化したいだけで、さほど気に障ったわけではないのだろう。
少女はふっと笑い、
「まぁいいでしょう。答えます。私の名前は――」
間を置いて、言った。
「――ありません」
「なんでだよ」
気の利いた冗談でも言ったかのように満足気だった。
ひょっとするとこれがずっと言いたかったために、聞かれなかったことが不服だったのかもしれない。
「私は人間ではないですからね。人としての名前はありませんよ」
こうして会話していると嘘のようであるのだが、人形は人ではない。何度も聞いた話だし、そのたびに強い違和感が廉太郎を襲う。
しかし名がないというのは、不憫を通り越して不便ではないのか。
「人じゃなくたって……例えばペットにだって名前はつけるだろうが」
「私は生き物でもないんですって」
――またその話か、気持ち悪い。
「でも、お前は人と変わらないだろう?」
人工的に創られたとはいえ、肉体は人と変わらない。血も流れている。
加えてこの少女にはどういうわけか、ないとされている自我まであるのだ。
それで生き物でないと、人でないというのはあまりにも無理があるのではないか。
「自我ですか……あるように振る舞っているだけなのですがね」
「振る舞っている……?」
言葉が理解できず首を傾げた廉太郎に背を向け、人形は言った。
「人の言動を真似ているんです。私はそういう存在です」
そのまま、帰路に向けて足を踏み出す。
廉太郎は、その背を自然と追っていた。
「学習して、模倣している……そう、人工知能に近いのかもしれませんね」
噛み締めるように吐かれたその言葉を、彼女がどういうつもりで口にしたのか。表情すら見落としたことで、少しも伺うことが出来ない。
「……よくわからないよ、俺には」
この世界の価値観も。彼女の主張も。
自分には自我がないのだと言う女の子の気持ちが、廉太郎には想像することもできなかった。
急に、これから彼女と行動を共にすることが不安になってくる。
「まぁ、私を人だと思いたいのは自由です。好きにしてください」
そんな気配を察したのか、少女は後ろを振り返り、明るい口調を晒してきた。
これで自我がないと言い張るのだから、そんなことを信じてもいない廉太郎の目には、とても奇妙に映るのだ。
悪い冗談なのかそうでもない話なのか、判断に困る。
「だけど、名前くらい何か名乗ったらどうだ?」
もしかしたら名前を得ることで、少しはアイデンティティを得られるのではないだろうか。
「名前ですか?」
「うん。何でもいいから好きな言葉を、自分につけてみなよ」
それを聞いた人形は足を止め、しばしの間考え込んだ様子をみせる。
すぐに、怪訝そうな顔で問いかけてきた。
「――えっ? これって普通、私が名前をつけてもらうイベントになるんじゃないんですか?」
「なんで俺がつけるんだよ」
親でもなければ保護者でもない。行動を共にする以上衣食住の面倒をみることにもなるが、それを提供するのはユーリアだ。
保護するという感覚は微塵もなかった。
「考えてくださいよ。自分に名前なんてつけるやついないでしょう?」
「いやぁほら、ペンネームとかハンドルネームだと思えば」
「本名がいいです……」
いつの間にか彼女の方がその気になっていた。強請るような視線にたじろぎ、軽々しく振ったことを若干悔いてしまった。
「えっ――俺が決めるの? 急に言われても……」
人への命名は重い仕事である。
わざわざ本名をくれと言うのだから、一生使うことにもなる。
しかも、犬猫や赤子相手ではないのだ。反応が目の前で返されることになる。
――気恥ずかしい。
「あなたのセンスを試しているんですが」
「よ、余計に気恥ずかしくなってきた……」
なぜ試されているのだ。
――よし。
「さ――」
「サ……?」
「――桜子」
反応まで、一瞬の間があった。
「日本語――ッ!? センスが死んでますよ!? 絶対いやです!」
必死の主張と共に、本日一番の感情を見せている。
絶賛されるとも思っていなかったが、ここまではっきりと拒絶されるとも思っていなかっただけに自信をなくす。
全名付け親の苦労が知れた気がした。
「センスって……仕方ないだろう? こっちの人名の語感に明るくないんだよ」
「だからって、私のどこに日本人感と桜感があるんですか……?」
空色の髪に真っ白なワンピース。ささやかな桃色の髪飾りが、かろうじて桜の花びらを連想させなくもない。
桜と日本が既に伝わるのなら、そう悪い名とも思わないはずなのに……。
「……じゃあ参考程度に、お前の好みの名前を教えてくれ」
名前は、親が子に与える最初の贈り物だともいう。
本来子に聞けることではないが、贈り物は何がいいか、本人に聞いてしまうのも常套手段ではある。
「とか言って、私が出した案をそのまま採用する気なんでしょう? バレてるんですからね……」
どこかつまらなそうな人形の声。
やがて「――クリス」と、ぽつりと呟いた。
「あっ、うん……良い名前だな」
思ったよりは普通だと、廉太郎は思った。
その評価に食いついた、「えっ――普通ですか?」という人形の驚くような声。
妙な反応だった。
その気のない提案が、うっかり受け入れられてしまったような……そんな、間の抜けた反応。
「私が名乗っても、変ではありませんか?」
またしても、意外なことを言う。
名を名乗るのに、変ということは何もあるまい。あまりにも大層な名前であれば、名前負けという点を気にする者もいるのだろうが。
「いえ……女が名乗ってもいいものかと」
「そんなことないだろう。たしか、男女共通の名前だったはずだけど――」
――否。それは、廉太郎のいた世界での話だ。
だからこの世界において、『クリス』という名がどう通るのか廉太郎はしらない。
両方の世界で共通の人名があることには、そう驚きはない。所詮は音でしかないのだから、偶然はある。
例え元の世界では宗教聖書由来の人名だとしても、こちらに同じ宗教があるわけでもあるまい。
「そう、でしたか……ふふっ」
だから廉太郎のフォローには根拠などないのだが、少女の反応を見るに、それ以外の案はもう考えにすらないようだった。
「では、クリスで生きます」
いつものように笑っている。それは心なしか、いつもより嬉しそうな表情だった。
それに水を差すようではあるが、
「お前の言動、ひっかかるな。女の名前か不安になるってことは、男の名前だと思って言ってみたんだろう? なんでだ……?」と、問うた。
「えっ? そ、それは……」
廉太郎の疑問に、言いづらそうに口を閉ざす少女――クリス。
「それに、俺に太鼓判押されたって、なんの保障にもならないだろうが……」
思いついた疑問が、そのままに口からこぼれていく。心が読まれているせいで、疑問一つ一つに気兼ねがない。
するとクリスは、目を明後日の方に泳がしだした。言葉を繕うように、もごもごと言い淀んでいる。
それはこの短時間での付き合いでも分かるほどに、らしくない姿だった。
「あぁー……えぇと――そう! あなたが無意識の内に挙げていた候補の中から、適当に選んだんです! ……綺麗な響きだったので」
口ぶりに違和感はあったが、理解はできた。
納得はできなかった。
「――え? それ……実質俺が名付けたようなものじゃないか」
『クリス』という名前は廉太郎の感性にとって、どこか遠い外国の、あまりに可愛らしいものだった。入るのに躊躇するような、女子が好む喫茶店のような、そんな馴染みのないものの類いにだ。
それを目の前の女の子に名付けてみせるなど、とても素面でこなせることではない。
名は、本人を表す。
この人形に、それだけ可愛いらしい印象を持っているという事実が、自他共に発覚した。
それは意外なほど気恥ずかしいもので、羞恥に顔が熱くなる。
「男性名でもあるのに、そんな可愛いらしい名前なんですか?」
そんな動揺を無視しながら、クリスは問う。
「いや、男だったら反対にめちゃくちゃかっこいい印象になるんだけど……」
俳優みたいだ、とは思う。
元より海外の名前の印象など、そのような有名人から受けるものでしかないのだが。
クリスは「ほう……」と、満足げに笑みを浮かべて、言った。
「では、これから私はクリスと名乗りましょう。私に用があるときは、必ず名前を添えてくださいよ?」
「……ん」
誰かの名前を口にするのが、廉太郎は好きではない。互いの呼び名は、その距離感を示すものだから。
故に廉太郎は、家族であれ友人であれ知人であれ、面と向かって名を口にすることは殆んどない。その場にいない者の名を口にすることさえ、憚られる。
「で、なければ反応しません」
見透かしたような念押しに、廉太郎は諦めをつかされた。
「分かったよ――クリス」
口にしてみれば、それは驚くほどすとんと胸の内に落ちていって、収まりのいいところへとはまった。
本人も気に入ったらしいその名は、自他共に受け入れやすいほどに、彼女によく似合っている。
名前負けもしない良い名前だと、廉太郎は思った。