第三十九話 二つの終幕
無用になった己の瞼を閉じて、ユーリアは走っていた。
未だ、なかなかに疾い。それでも普段の戦闘状態に比べれば遥かに劣る速力。
当然だ。
頭部から見渡す通常の視界を失えば、たとえ自分の姿が上から見えていたとしても自己肉体の動作はおぼつかなくなる。
足元まで、はっきりと見えていない。
無理に体を動かせば、容易に足がもつれて地に倒れる。
迫るグライフを背後に、追いつかれそうな距離をぎりぎり保っている。
――誘導している。
「あぁ、見つけてしまったわ……」
それを捉えてしまったのは、視界が広範囲に開けたからだ。
自前の視界では到底目にとまらず、意識にものぼることはなかったはずのモノ。
ユーリアの表情には躊躇いがあった。
――果たして、それを利用してしまっていいものか、と。
やがて、ユーリアはそこへとたどり着いた。
足を止め、目的の金属体に触れる。
戻って来たと言うべきかもしれない。
「し、仕方ない……私は悪くないわ」
それに背を預けながら、誰にでもなく言い訳を吐く。
グライフは、数瞬も待たず追いついてきた。
足を止めて無防備を晒すユーリアに、巨腕を体ごと打ち付けるように飛びかかる。
「ごめん、廉太郎――」
言い捨て、その一撃を回避し――同時に、限界の力をもってその場から逃走。
ユーリアを仕留め損ねた大木のような腕が、空を切ることもなく背後の金属体に亀裂をもたらす。
鉄のひしゃげる、耳障りな破壊音が響く。
同時に、
「グゥ――」
慟哭さえあがらない閃光が、周囲を飲み込んでいた。
大型車に積まれた魔力タンクの破損が引き起こす、魔力爆発の前兆。
――帰りは、歩いて帰りましょう……。
振り返ることもなく、身を強張らせながら衝撃に備えていた。
――――
「なッ――!?」
思わず身をすくめ、振り向いてしまうほどの爆発音が耳に届く。
集落の方から感じられた異様な反応に、廉太郎は状況を忘れて注意を向けてしまった。
本来、それは致命的な隙でもある。
ユーリアから再び人形を請け負って、数分の攻防が続いていた。
相対する廉太郎には、それが遊戯に等しいことが分かっている。
見た目より幼い子どものように、手の指で模した銃口を向け、跳ね上げる。
それが、射線と発砲のタイミングを知らせている。
絶対いらないだろう――そう思わずにはいられない、笑ってしまうような動作。
おかげで、気を張っていれば常人であろうと十分躱せる攻撃になっていた。
それでも、ほんの数秒でも人形から目を離す余裕はない。
しまった――焦り、恐怖すら覚え、再び人形へと向き直る。
「えっ……?」
隙を晒していたのは、廉太郎だけではなかった。
人形が、地に膝をついている。
「な、なにを……」
表情が、苦痛に歪んでいるのが見えた。
これまで、人形は徹底して無表情でいた。笑みを浮かべてはいたが、張り付いたように変わらないそれから感情を見出すことはできなかった。
それが今にも倒れそうな、弱々しい姿を晒している。
一目で異常だとわかる。
「おい、大丈夫か!?」
思わず案じた声をかけてしまう。
近づいた廉太郎に返されたのは、ぞんざいな氷の一撃。
「おいおい……」
そんな虚を突く一撃を危うく回避する。
慣れてしまったのか、頬を軽く割いたそれに、さしたる恐怖も湧いてこない。
不敵な笑みを絶やさない人形の様子に、怒るでもなく呆れそうになる。
そして、これでいいと思っていた。
廉太郎が人形を引き受けたことには、彼なりの必然性がある。
グライフと人形の姿を同時に観察していた時に、気づいたことがあった。
人形が魔法を撃つたびに、グライフの動きが止まったこと。一時的に弱ったような、ダメージを受けているような様子を見せたこと。
人形の使う魔法はグライフの魔力を源にしている。
そして、魔力は魂と同一である。
極限まで擦切っているグライフの魂は、僅かな魔法の使用でも悲鳴を上げているに違いない。
ならば、人形を引き付けて攻撃を誘い、魔法を使わせることができたのなら。
間接的に、グライフを倒す手助けになれるのではないか。
そう、廉太郎は考えていた。
「――ァ、うゥ……ッ」
不意に、人形が声を漏らした。
明らかに不調の声。
やはり、疲労しているのか。
戦闘に、限界があるのか。
地に膝をついたまま、立ち上がることもできていない。
しばらく両手で喉を抑えていたかと思うと、脈絡なく静かに地に倒れた。
そのまま、身を休めるように蹲っている。
様相を見て、察するものがあった。
「息……できてないのか?」
危険を承知で駆け寄り、間近に観察することでそれを確信する。
口を動かしているものの、呼吸音はしないし、胸も上下していない。
顔色は蒼白。
「なんで……意識があるのに、呼吸できないなんて……」
疑問を持つ余裕はない。
人が呼吸を止めていられる時間は非常に短い。ましてや子どもの体となれば、肺も相応に小さいはずだ。
今現在、誰の手も借りることができない。
思いつく限り、取り得る手段は二つしかなかった。
人口呼吸と、胸骨圧迫。
救命のために、仰向けに転がそうとその肩に触れた。
瞬間。
「なっ――?!」
指先に感じた、弾けるような熱。
まるで感電したかのよう。
そこから生じた眩い光が、周囲を広く飲み込んでいく。
目を開けていられない。
目を閉じる。
その中で、その一瞬の内に、廉太郎はある実感を得ていた。
人形の、何か尋常ではないものに触れた感覚。
それを、きっとこの世界では魂と呼ぶのだろうという確信がある。
どうやら、人形たちには魂がないとされているようだけど。
そもそも魂自体の定義なんて、どんな世界でもつけようがないだろうとも思うから。
「何だったんだ……今のは」
再び目を開けた時、目に飛び込んできたのは困惑したような人形の姿だった。
その様子からは、呼吸の乱れや体の不調は見られない。
かといって攻撃を再開するでもなく、廉太郎の接近を大人しく許している。
もとより殺意は感じなかったものの、敵対する意思まで抜け落ちてしまったようだった。
「な、なんだか……反抗しなくなった動物みたいだな、お前」
倒れたままの人形に向けて、手を差し出してやった。
「もう平気か? 立てるかな……」
人形は、その手を取らなかった。
地に手をついて上体を起こそうとして――腕の骨が折れた様に失敗、崩れ落ちる。
そんなことを再度繰り返して、やがて諦めた様に地を這いだした。
元から足を痛め走れないようだったが、ついに歩くこともままならなくなったらしい。
「ど、どこ行きたいんだよ……? ほら、手を貸すから」
まさか、触れられたくないなんてユーリアのようなことは言うまい。
興味を失ったように向けられた背をそっと抱え、子どものように腕の中へと抱えてやる。
その姿勢に少しだけ不満そうな表情を浮かべられたものの、人形の視線は変わらず一点に向けられていた。
「……あぁ。ユーリアと、グライフさんのところか」
先ほど廉太郎も注意を奪われた、激しい爆発音の聞こえた方向。そこで何か、幕を下ろすような事象が起こったのだろう。
合流したところで力にはなれず、むしろ邪魔になるとは思うものの、確かめずにいることはできなかった。
廉太郎は人形と同様に、逸る気持ちでそこに足を向けた。
――――
数百キロの車体が宙に浮き、原型を保てないほどに溶解する。
爆発に巻き込まれた巨体が、共に地に崩れ落ちていた。
魔動車、動力源は搭載された結晶魔力。
誰の制御下にもないその魔力は、ある種の危険物でもある。
本来、衝撃を与えたくらいで爆発する代物ではない。
しかし、異なる魔力は反発し合う。
異形者の変異した肉体の元は、暴走した魂であり、魔力そのものである。
その身で車体を破壊するのは、自ら起爆のスイッチを押すようなもの。
ユーリアの疑似眼球が崩壊したのも同じ原理である。その際、必死に構成魔力を制御しきれていなければ、眼孔の中で同じような光爆発を引き起こしていただろう。
実際に目の当たりにすると、血の気が凍りそうになる。
「さて……」
どれだけの効果があっただろう。 致命打になるとは思っていない。
躊躇したのはそのためだ。
「――ウゥ」
やはり、グライフは絶命には至っていない。
爆ぜた肉体に損傷は見られるものの、再び立ち上がったその姿に淀みはない。
いくらかダメージを負ったところで、死んでいなければ動き続ける。どれだけその体が壊れていようとも、それを気にするだけの理性も、生き延びようとする野生もない。
「まぁ、そうでしょうね……」
一歩、踏み込まれる。
その動きに感じ取れた、僅かな淀み。見た目以上には、疲弊していることが分かった。
しかし、
「あぁ――」
追撃することができない。
体が硬直している。
肉体と魂の疲労。それと、精神的な麻痺によるもの。
自分の姿を外から捉えて動いたことなどこれまでにない。少し動くだけでも奇妙な違和感が全身を襲っていた。
一度戸惑ってしまえば、体の動かし方すら一時的におぼつかなくなってしまう。
それが、余計な混乱を招いている。
――あぁ、ほんとに……不良品みたいな体だ。
元より魔力に頼らなければ、満足に生きていくこともできない。
グライフは一歩ずつ、緩やかに、確実に間合いを詰めてくる。
「くっ――」
ようやく動こうとして体が反応し、しかし歩行すらままならず地に足を取られてしまう。
転倒したきり、立ち上がることも難しくなる。
無防備を晒していた。
獣の前に放置された赤子のように。
殺される実感すら、乖離したようだった。
――動け……少しでいい。
今なら、歩くだけで容易く逃げられるというのに。
それすらままならない。
歯を噛み、かろうじて地を這うことしかできなかった。
――脈絡なく。
ぷつりと、ユーリアね魂に伝播していた上空からの視覚情報が途絶えてしまう。
借り受けた浮遊眼球が壊れたのか、その情報を読み取る力も残っていないのか……それすらも、ユーリアには分からなかった。
もう、何も見えない。
――。
また、一歩近づかれるのが分かった。前に倒れこむだけで、ユーリアの体を押しつぶせるほどに、迫っているのを肌で感じる。
踏みしめた巨体が揺らす振動が、地を通じて伝わってくる。
俯瞰視点を捨てたことで、五感が自我に統一される。今ここにいるという実感が強烈に湧いて、ついぞ感じることのなかった恐怖心に飲まれかけたとき――
「――え?」
不意に、強い振動が地を突いた。
後に続くのは、耳を劈く咆哮。
「――ア゛ッ……ァァアアアァァッッ!」
それは、ユーリアからほど近い頭上で放たれた苦悶の叫びだった。
その位置関係から、敵が膝を着いたのだと分かる。
騒音のような、耳障りな刺激。
残された魔力では五感制御が追い付かずに、生命線のようなフィルターが破壊されてしまった。
煩いものを、はっきり煩いと実感してしまう。
直に脳に突き刺さる音の暴力。
気づけば、出どころの分からない涙が流れていた。
「ぐ、うゥッ……」
何が起きたのか、目が見えないままでは判断がつかない。
逃げようにも、体が強張って言うことを利かない。
何から逃れたいのかといえば、その慟哭から。
音が痛い。
――両手で耳を塞ぐ。
吐き気と眩暈に襲われて、思考がまともに働かなくなる。
――無意識で、体を丸めていた。
感覚制御を失うとはそういうことだ。
魔力に頼らねば生きていけないというのは、彼女に限りこういうことだ。
――。
混沌とした暗闇の中に、ノイズのような情報が浮かぶ。
触覚なのか聴覚なのか、嗅覚なのかすら判別がつかない。
ユーリアにとってあらゆる五感情報は危険物。制御無しにそれらに触れるのは、彼女の精神を傷つけることにつながる。
だというのに、そのノイズには不快感がなかった。
思わず、それに意識をしがみつける。
――。
どうやら、名前を呼ばれているらしい。
安堵する。相手は知れていた。
何を問われているのかに当たりをつけ、かろうじて言葉を返してやることができた。
「大丈夫、生きてるから」
――――
「よかった……」
一目で分かった。
ユーリアが何も見えておらず、生きるための魔術も使えていないことが。
その姿が、初めて出会った夜の様に弱々しかったからだ。
瞳を閉じて身じろぎもしないその姿に、一抹の悪寒が走ったものの、最悪の事態は免れたらしい。
「廉太郎……あなたは」
「無事だよ。人形の子も、大人しくここにいる」
「そう……」
ユーリアは寝床に伏せていた病人のような頼りなさで身を起こそうとしている。手を貸したい気持ちはあるものの、それが叶わないことはよく知っていた。
「その、この人は……」
すぐ隣で地に伏せた、かつては人間だったグライフのことを尋ねる。
手負いの獣のように呻くそれは、制圧したと言っていいだろう。
であれば、ユーリアは打倒したのだ。
本人も酷く消耗しているが、目立つ負傷はない。
「まだよ。とどめを……」
「とどめって、どうすれば……?」
手立ては思いつかない。
しかし、逡巡は断ち切られた。
腕の中から聞こえた、幼く澄んだ声によって。
「聴こえてますよ。かつてなく、はっきりと」
抱いていた人形が、そこで初めて口を開いた。
驚く暇もなく、腕の中で身を捩り、ひとりでに地に降り立つ。
「お前……」
「消化不良……そうでもないですか? それはよかった」
廉太郎の問いかけなど気にかけることもなく、その人形は一人呟き続けている。
そのまま、グライフの傍まで歩いていく背中を、ただ見ていることしかできなかった。
「あぁ、はいはい……お疲れ様でした」
その言葉と共に、男の体から火が起こった。瞬間的に男の体を包み込むと、傍にいるだけで肌が焼けるような火力で燃え上がった。
まるで火葬するかのように。
周囲を巻き込む熱が、肉の焼ける異臭を放ち始める。
「うっ……げほっ――」
むせかえるような不快感に、せっかく身を起こしたユーリアがせき込むままに崩れ落ちていた。
廉太郎はただ黙って目の前の光景を眺めていた。どういうわけか、そうするべきだと強要されているような気がして。
やがて燃え盛る火が消え去り、痕には塵一つ残らなかった。
骨や遺品も、何も見当たらなかった。
「……ええ、さようなら。短い間でしたが、それなりに楽しかったですよ」
それでも、人形は会話を続けるように惜別の情を語り続けた。
それが独り言ではなく、彼女とグライフの間に確かな人間関係があったことも察することができる。
ならば、辛い仕事を任せたことになるのだろう。
背を向けた人形の表情は、その時ばかりは分からなかった。
やがて、糸が切れたかのようにその体が崩れ落ちる。
地に転がった二人の少女を残して、廉太郎はただ一人その地に立ち尽くしていた。
共に意識を失っているようだったが、確認するまでもなく、生きているであろうことは疑わなかった。
第一章・完