第三十七話 重み
一度踏み込んだ以上、引くに引けなくなる。怯む余裕はなく、自らを鼓舞するように繰り返し蹴りを放っていく。
結果は変わらず、攻撃は当たり前のように届かない。
いくら狙う場所を変えようとも、次々に現れる氷の盾が正確に人形の足を守ってしまう。
「だめかっ……」
銃も効かず、触れることもできない。少なくとも廉太郎には、その人形を攻撃する手段が何もなくなっていた。
であるなら、こうも接近するのはいたずらに身を危険にさらすだけ。そう悟り、後ろ足のままに距離をとる。
至近距離で攻撃されれば、躱す余裕がない。
ただでさえ、これまで躱せているのは、手心が加えられているからに過ぎないというのに。
「手を抜かれてる理由も謎なんだけどな……そもそも」
所有者の精神が正常でなくなっているから、攻撃の指示が飛ばされたとしても不確かで、手段も目標も曖昧になっている。そう考えることもできる。
しかし廉太郎には、明確な意思の元に遊ばれているような気がしてならなかった。
それは相対した敵の様相が幼い子どもであり、それに翻弄されている現状への歯がゆさ、憤りに起因している。
つまり、からかわれているようで、いい気がしないのだ。
「楽しいかい……?」
子どもと遊ぶのは慣れているつもりだった。それでも相手の態度しだいでそれを疎ましく思う自分に、軽い嫌気を覚える。
すると肯定するかのように、人形は反応を返した。
「うッ――」
大気が震え、塵が舞った。
人形を中心に、魔力の光が収束していく。
綿を集めるように大きさを増していき、やがて家一つ飲み込む巨大な光へと成長する。
大きさに比例するように眩しい。肌を焼くような熱を感じる。
氷弾と比較にならない脅威を前に、足がすくんで動かない。
動けたところで、躱せはしないと確信した。
「ぐぅゥッ――!」
放たれた魔力の塊が迫るのを、廉太郎ははっきりと目にしていた。
氷弾より遅いのか、或いは死を前に脳が麻痺しているのか。
視界を埋め尽くす眩い光源と熱が、廉太郎を飲み込もうとした時、
――目の前に、人影が躍り出ていた。
「ユ――」
反応する余裕もない一瞬、その体に光熱が触れた。
目を開けていることすらできず、身を強張らせる。
しかし、被弾の衝撃は届かない。痛みもなく、熱も気配も消えている。
恐る恐る目にしたのは、かばう様に目の前に立ったユーリアの姿だけだった。
――――
攻撃をその身で受け止めたユーリアは、人知れず奇妙な余韻に浸っていた。
「見境のない……」
その一撃には、あまりに過剰な魔力が込められていた。虫一匹潰すために、拳の骨を砕くほど強く打ち付けるような行為だ。
非合理で、非効率的な攻撃。
理性的な人間であれば無駄だと知り、そんなことはしないし、指示も出さない。
それが示しているのは、人形の制御が不完全だということ。
そもそも持ち主であるグライフの自我はすでに崩壊している。それを思えば、僅かにでも指示が飛んだこと事態が驚愕であり、想定外のことでもある。
「でも、飛んでこれたのはそのおかげだわ」
ユーリアは目の前の敵に集中していたし、人形と距離を取っていた以上、それが発する魔力を感知できる状況になかった。廉太郎が襲われていたことに気づけなかったのはそのためだ。
しかしその一撃による反応はあまりに大きく、見落とすことは有り得なかった。
――おかげで、助けられた。
魔力崩壊。
魔力攻撃を無効化する絶対防御。
魔法により外界に具現化した魔力は、使用者の制御を失うことで消滅する。
ユーリアの魔力崩壊により、彼女に触れた魔力はその制御下から強制的に解放される。その際の破壊力は、そっくり魔力に押し付けて共に消えてもらう。
「だ、大丈夫……?」
そんな能力など知る由のない廉太郎の、気づかうような言葉が背後から聞こえる。
それが面白くなくて、ユーリアは振り返ることなく口を開いていた。
「ごめんなさい……」
失策を痛感していた。
人形を預けたのは、明らかな判断ミス。
まさか異形化した人間に、僅かでも操ろうとする力があるなどまるで考慮していなかった。抵抗手段の無い子どもに、制御の利かない兵器を押し付けてしまったようなものだ。
少しでも掛け違いがあれば、とっくに死なせてしまっていてもおかしくない。
「ごめんって……何――」
返事を聞き終わる前に、ユーリアは動き出していた。
――――
人形との距離は、二十メートルにも満たなかった。
一歩踏み込んだ瞬間に、氷弾が発射された。加速された視界の中で、その照準が自身の足を向いていることを視認。回避しても背後の廉太郎には当たらないことを確認した後、銃弾に勝る速度で疾走する。
起こった攻防は一瞬だった。廉太郎の反応速度では、結果としてユーリアが人形を取り押さえたことしか分からない。
ユーリアは一息で人形に迫ったが、敵が無抵抗だったわけではない。距離を詰める最中、疾走する彼女に向けて合計三発もの氷弾を撃ち込んでいたし、その照準は全て急所を狙っていた。
ユーリアの運動速度が音速の氷弾と同等であった以上、その射線は彼女の動きを予想した上で放たれたものである。
その全ては回避され、空を切った氷弾は地に着弾痕を残すのみ。
「す、すごい……」
残像の様に残った、ユーリアの体から排出された魔力が疾走の軌跡を残していた。
それは直線でなく、攻撃を回避するために身を捩った痕を残している。攻撃を躱しながらも、その速度を全く殺さなかったということ。
異常なのは彼女だけではない。人形の攻撃技術もそれに劣らない程の格がある。躱されたとはいえ、音速で迫る敵に照準を合わせ続け、一瞬の間に数発の氷弾を放ったのだ。
ユーリアほどの実力者でなければ、同タイプの魔術師を捉えかねない攻撃。
視認できなかった廉太郎にも、人形が本気を出したことぐらいは分かる。
これまで見せたものとは明らかに物が違う、隙の無い殺意。
それは、人形がこれまで意図的に手を抜いていたことの証明でもある。
――――
ユーリアが近づいたことで、人形は無力化する。
敵の魔力結合を妨害する能力の効果範囲は、腕が届くほどの接近距離。
その妨害能力により、あらゆる生命は一切の魔法を使うことができなくなる。抵抗手段も、身を守る手段も断っている。
接近するだけで魔術師でさえ詰みに追い込む力だが、今回はとどめを刺すわけにはいかない。
人形はできるだけ無傷なままに、廉太郎に渡してやりたい。
逃亡を防ぐように腕を回し、しっかりと抑え込む。
生物ではない。
触れることに抵抗はなかった。
「グゥゥッ――!」
地響きと共に、獣のような唸りが迫りつつあった。廉太郎がその方向に視線を向けると、両目から赤い血液を流した化け物が木々を抜けて現れるのが見えた。
グライフは、さらに変異を続けていた。
もはや、それが人であった面影はどこにもなかった。黒々とした木が、根を引きずり出して動いているのかと思うほど。四肢と胴体の線引きなどできそうにない。無数の綱のように絡まり分かれた体が、時折末端としての役割を思い出したようにうごめいている。
この世にあるはずの無い化け物を、形にしたようだった。
「――さて、この人形……どうしたものか」
勝手に動かれてしまうのでは、放置することはできない。グライフとの戦闘は俄然不利で、人形の自由を許しながら巻き込まずに終える自身はユーリアにない。
拘束と見張りを続ける必要があるが、そのまま戦っては本末転倒。巻き込むリスクをあげるだけだ。
廉太郎に託すこともできない。
ここで無力化する必要がある。
しかし、意識だけ奪うような器用な技術は持っていないし、経験も自信もなかった。
ゆえに狙うのは。
――目……いやいや、足よ。
行動手段を奪う。再度グライフを引き離してしまえば、巻き込む可能性がなくなる。
合理的な策、他に妥当な手は何もない。
ユーリアは構えたナイフの刃を、人形の足へと向けた。
薄く、黒いタイツを履いている。すでに負傷を追っているのか、それは少しだけ血が付いているようだった。
修復不可能な傷をつけずに、しばらくの歩行だけ封じるダメージを思い描くことは容易い。そのくらいの知識はあるし、似たようなことは経験があった。
しかし、
「なッ――なによ……?」
ユーリアの腕は動かなかった。
――躊躇する理由は、何もないはずなのに。
思考に、空白が生まれる。
「ぐぅ……ッ」
そんな硬直など意に介するはずもなく、男の勢いは止まらない。
たかだか道具。傷つけるのを躊躇うほど、殊勝な心は持っていない。人を模しているために気分がいいとは言えないが、必要に迫られれば霧散するような道徳心だ。
なんの思い入れもなく、ましてや現に敵対しているモノにすぎない。
それでもユーリアは、構えた武器を少しも振り下ろすことが出来なかった。
動かない体に教えられる、その一切を傷つけることが出来ないという確信。同時に、その原因にも思い至ってしまう。
その人形が模しているのは、単なる人間ではなかった。似せている姿が、よりによって少女の――それも、よく知った相手に重なるから。
――トリカ……。
四日前に死んだ、ユーリアの友達。
心を許した希少な人間。自分を慕う妹分。
あの日洞窟で起きたことは、今でも鮮明に思い出せる。
虚空から現れた絶望と、溶け堕ちていくような理性も。
彼女を刺した刃の感触、触れた肉と血の温度も。
何もかも、忘れることができない。
あれから人知れず、無力感と自己嫌悪に苛まれ続けていた。
誰にも悟られたくなくて、顔にも態度にもまるで出してはいないけど。
自分の負傷だけは嫌になるくらい綺麗に治ったのに、心は変わらずに瀕死のままだ。
事実を知る者はほぼいない。だから誰に責められることもなく、必死で忘れようとするしかなかった罪。
それが、唐突に現れたようだった。
「――ぁ」
左手で人形の首元を掴み、引き寄せるように抑えこんでいる。
触れて、腕の中に収めている。
抵抗はない。
――少なくともユーリアにとって、それはあの時と酷似した状況だった。
人の姿かたちを腕に抱えるなど、誰にも触れられないユーリアにとっては稀有なこと。ゆえに同体験は易々と想起され、決定的に結びついて離れなくなる。
その葛藤はほんの一瞬だったが、機を逃す一瞬だった。
敵はすぐそばまで迫り、既に二人をまとめて吹き飛ばす腕を振りかぶっている。
「ちぃィッ――!」
人形を左へと突き飛ばし転倒させ、自身は後方へ回避。
いくらユーリアが速く動けるとはいえ、他人を抱えて動くことはできない。単純に筋力が足らないからだ。
巨腕の攻撃は人形を掠め、直前まで立っていた場を抉り飛ばしている。ユーリアは飛び散る地表の土から身を躱し、慎重に距離を取った。
そのままグライフの注意を引き、人形から引きはなそうと試みる。
しかし、敵は動きをとめた。
「……なに?」
その傍で、ゆっくりと人形が立ち上がる。傍らにそびえる巨腕を、手すりのようにつかみながら。
人形とグライフは共に並び立つと、ユーリアを見据えている。
――離れなさいよ、危ないんだから……でも。
妙だと、ユーリアは感じていた。
グライフは人形の傍を離れようとしない。そうなってしまえば、人形を軽々しく無力化するのは難しくなる。
それがおかしい。
まるで、戦況を理解しながら人形を守ろうとしているかのよう。見境なく暴れていたかと思えば、傍らの人形を害する様子がない。
未だ自我が残っているとでも言うのか。
――親子。
自然と、そんな言葉が頭をよぎっていた。
「――まったく、やめてほしい……やりづらい」
グライフは生前から人形に対し執拗な執着心を見せていた。それが錯覚の印象を生んでいるだけ、そう結論づけ、深く息を吐き、次々と湧きだしてくる雑念をまとめて頭から放りだす。
その気の緩みを突かれていた。
「なッ――!」
蚊帳の外にいた廉太郎を狙い撃った、完全な不意打ち。
人形はそちらに目を向けることもなく、無造作に氷弾を放っていた。
空を切る音速の直線を、常人が見て躱すことなどできない。
案の定、廉太郎は反応すらできていなかった。
考える余地もなく、ユーリアの体は動いていた。
瞬時に音速を越えた体が、氷弾と並走。追い越す形で廉太郎の目の前まで到達する。
速度を落とさないまま、躊躇うこともなくその頭へと手を伸ばしていた。左の手の平を顔に押し付け、背から地に倒れるように射線から逃がしてやる。
いくら意識の外から加える力とはいえ、対格差のある相手を単純な腕力だけで退かすことはできない。
なりふり構わず、半ば抱きかかえるような姿勢で共に地へ倒れこむ。
「――ぐぅゥ……っ」
申し訳程度の受け身を、倒れることすら認識できない廉太郎の代わりに肩代わりする。
廉太郎は殺人的な速さで地に叩きつけられたことになるが、ユーリアの生み出す運動速度は保証された結果に過ぎない。早送りにされた映像に巻き込まれたようなものだ。
むしろ、下敷きになったユーリアの負担が大きい。単純な重量による肉体への負荷。痛みは脳を素通りするとはいえ、圧迫された体が客観的な損傷を主張している。
「生きてる……?」
呟いて、間の抜けた台詞だと気付く。
あまりになれないことをしているせいで、心が上ずっているのだろう。
「あ、うん……ありがとう」
廉太郎が返す言葉もまた、悠長なものだった。
氷弾が放たれてから仰向けに倒されるまで、僅かコンマ数秒。反応どころか現状把握にさえ追いつけない。
しかし次第に状況を受け入れる中で、廉太郎の心臓は凍りついてしまう。
血の気が引く。
「ご――」
言い切ることもできず、慌て飛びのいていた。
あまりに強い、畏怖と罪悪感。その前では、下敷きにしたことなど霞んでしまう。
より重い事実がある。
再三繰り返して人には触れられないと言っていたユーリアに、無理を強いてしまったということ。
「ごめん……」
「いえ」
ユーリアは変わらぬ様子でそう返し、静かに起き上がった。
心中、穏やかではない。しかしそれは、他人に触れてしまったからではなかった。
――自分の能力が、人を守るのに決定的に向いていないというもどかしさ。
それは戦闘技術を一点に集中させたが故の弊害で、仕方のないことではある。それでも、力不足を責めずにはいられない。
「さっきみたいに攻撃を打ち消すのは、もう無理。燃費悪いのよ」
攻撃を無力化する魔力崩壊の使用には、膨大な魔力を消費する。そのため再度の使用は避け、廉太郎に直接回避させるという手段をとったのだ。
「だから……隙を見て離れていなさい」
廉太郎を庇いながら戦うことは難しい。
離れてくれれば枷が無くなる。当然の、最善の手のつもりだった。
しかし。
「いつもそう言うんだな、君は……」
背中越しに、そんな言葉が耳に届いていた。