第三十五話 二つの銃口
銃弾を避けられたのは、構えてから発砲されるまでの間が十分すぎるほど与えられたからに過ぎなかった。傍から見れば滑稽なほど、廉太郎は銃口と見つめ合っていたはずだ。
実銃など見たこともない。無縁の国で暮らしていた。ゆえに突き付けられたところで、とっさに危険だと判断することができなかった。
とはいえ、その凶悪さは一目瞭然。見ず知らずの兵器や魔法を目にするより、遥かに理解が及ぶ脅威でもある。
それでも呆けてしまったのは、人形に攻撃されるなどと、僅かにも警戒していなかったからだ。
「う、うぁ――ッ!」
鼓膜を裂く発砲音と、肝が冷える着弾の衝撃。
気は動転して、身を躱した勢いのままに、部屋の隅に積まれた椅子の山へと倒れ込んでしまう。
突起した椅子の足に後頭部と背中を痛めつけられ、体が一瞬だけ動かせなくなる。気づけば不安定な土台となった椅子の上で手足がとられ、迅速な身動きを封じられていた。
「い、痛っ……なんで、急に――」
この期におよんで、廉太郎は攻撃されたことを理解していなかった。何かの間違いだと、そう思っていた。
覚えがなく理由も分からない。
その甘さをあざ笑うように、人形は一歩ずつ廉太郎に近づいていく。手にはmだ、拳銃が握られていた。
撃ち殺したいだけならばそこから撃てばいいというのに。近づく必要のない距離で、標的は無様に転がっているだけ。
そこには、再び眼前で発砲するという意思が感じられる。
今しがた浮かべたばかりの笑顔が、固定されたように張り付いている。
「くっ……」
恐ろしく、不気味。
人でないものを、人の形に似せている。ゆえに人形は、恐怖の対象になりえるとともに、意図的に用いられることもある。
笑いながら銃口を近づけてくる様は、まさにそれらしい。
人に限りなく近い存在が、決定的な差異を持っているという嫌悪感。
しかし、
「来るなよ……っ」
作り物のような恐怖であるからこそ、廉太郎は状況を飲み込むことができた。
恐怖は、敵愾心に変わっていく。
倒れたまま周囲の椅子の足を掴み、人形に向けて放り投げた。姿勢が悪く大して力も込められないが、小柄な体を怯ませるには十分。
「よし……いや、怪我はしないでくれよ」
立ち上がりつつ警戒し、人形の様子を伺う。
子どものような体に物を投げつけて心が咎めるが、幸いなことに当たり所は悪くなかったらしい。
痛む様子もなく、表情も変えない。
無害だと思いこんでいた。持ち主であるグライフが自我を失っているように見えたから、人形には操作も支持も下されないだろうと。
グライフが操れるような状態で無いのは確か。ならば、これは人形による自律行動に他ならない。
「やっぱり、お前……それ、自我があるんだろう?」
思わず苦笑が零れていた。
誰がなんと言おうと、人形に自我があるように思えてしかたない。
初めて目にした時から、人と変わらないではないかと疑っていたし、当然自我もあると思いたかった。
その自我によって今、襲われている。
ならば、どういう意思がそこにあるのか。
「――そうか、あの人の物なんだから……敵同士になるのか」
グライフが暴れているのに理由はあるまい。異形に身を落とした人間の行動に理由はなく、自我も残っていない。それらは理由なく人を襲う。廉太郎たちと敵対するのは当然のことだ。
その所有物である人形が、共に敵対行動をとっている理由は分からない。しかし、所有者に付いて敵味方へと分かれているのは明白。
廉太郎とユーリア、人形とグライフに。
「……仕方ない」
銃を睨む。
銃など何も知らない。しかし拙い知識でも、リボルバー式の拳銃であることくらいは分かる。銀色に光る回転弾倉には、数発しか弾が込められないはずだ。
今一発撃ち、おそらくユーリアに向けて撃っただろう一発の音も聞いている。
あと四、五発か。
「なぁ、落ち着いてくれ。争う気は……無いんだけどッ――」
問答無用で銃口を向けられて、それ以上の対話が望めなくなる。
身を隠して射線から逃れ、隣の部屋に駆け込む。間取りを仕切る壁越しに様子を伺うと、人形は緩やかな動作ながら依然後を追っていた。
見逃す気はないようだった。殺意を捨ててもくれない。
それでもやはり、人形は走れない。ならば、このまま外へ逃げてしまえば銃口から逃げることは容易い。
「――いや、駄目だ」
ユーリアが人形を託してくれたのは、グライフとの戦闘に巻き込まないためだ。人形から目を離してしまえば、ふらふらと危険な戦場へ近づいてしまわないとも限らない。
人形は見張っておくか、動けなくする必要がある。
そのために、ユーリアを呼んで助けを――。
「馬鹿な話だな、それこそ……」
ユーリアが手一杯なのは、見ていなくてもわかる。
人形から銃を奪い取るくらい、あの速度で動ける彼女にとっては容易いのかもしれない。それでも、命がけで戦ってくれている彼女に、余計な負荷をかけることはできない。
なんのためにユーリアが戦っているのかと言えば、それは廉太郎のためだ。廉太郎が人形を手にいれるという目的のためだけに、彼女は戦っている。
思えばこの四日間、ユーリアには世話になり続けている。
だというのに、さらに問題を丸投げにしていいはずが無い。
――それに、手伝えることがあるなら……何でもしたいと思っていた。
外の化け物を相手することに比べたら、拳銃一つ持った小柄な少女など大したことはない。
加えて、動作とは裏腹に殺意は感じられない。構えてから発砲するまでも、あまりに遅かった。わざと見逃されたのかと疑いたくなるほど。
やはり人形。自我はあれど微弱なのか、知性も低いのかもしれない。
そこまでの脅威ではない、そう判断した。
「勝てるだろ、流石に……っ」
問題は、力任せに殴りつけでもすれば、勢い余って殺してしまいかねないという事。
人など殴ったことはない。それでも体格差を考えれば、加減をすることさえ難しい相手だ。
それに小学生のような相手を殴る気になど、とてもならなかった。
ならば、
――奪いとるしかない。
人形の身体能力は知らない。
しかし銃の反動や立ち振る舞いを見る限りでは、見た目通りのか弱さだと推測できる。
組み付きさえすれば、銃を奪い取ること自体は容易い。
問題は撃たれかねないということだけ。
最悪、手足に被弾するのはいい。その程度の覚悟は必要になる。それでも、急所だけは死守しなければならない。
「急に、洋画みたいな目に……」
異世界まで来て。
それがおかしくて、一人で脱力しそうになる。
緊張はなかったが、高揚していた。
人形は二メートルの距離まで近づいていた。迫る危機と強いられた行動を前に、廉太郎の心は驚くほどリラックスしている。
覚悟さえ出来れば、大抵のことに諦めがつくのだと知った。恐怖が、心地いいだけのスリルに変わっていく。
仕切りを跨ぐまで一メートル。入り口から視覚になる角に隠れていることなど、恐らくバレている。
――よしっ!
引き付けた気配を取り押さえるべく、タイミングよく襲いかかっていく。
のぞき込まれたのは、少女の体でも頭でも視線ですらもなく――銃口。
「くぅッ――!」
発砲は早かったが、それは狙いなどつけられていない一発だった。
今度は、硬直することなく身をかがめることが出来た。直撃こそ免れたものの、射線は右肩を掠めていく。刃物で撫でられたような不快な痛みが、傷口を通して脳に焼き付いていった。
「痛ッ――!」
それでも、自分でも意外に思う程に怯まなかった。
痛みと音にも驚いたはずだ。
ただ、それらよりも衝撃が勝った。発砲自体に驚いて、感覚が麻痺している。過剰分泌された脳内物質が、根拠の無い万能感を高めあげていた。
自分がこんなに蛮勇であるなど、思いもしなかった。
これまで異様な世界に対してはあれだけ怯えていたのに、いざ舞台に立てば恐怖など容易にしまいこめてしまう。
怯えている余裕がない。
「このッ――!」
血を流す肩の痛みを無視し、発砲の反動で跳ね上がった人形の右腕を取り押さえていた。
無抵抗なのかと疑うほど、か細い力だった。銃を受け取るように奪い取り、刺激しないように一歩ずつ下がりながら距離をとっていく。
実銃を握るなど初めてのことで、人差し指など恐ろしくて引っかけることもできない。
それでも形だけ銃口を向けながら、じっとしている人形に言葉をかけていく。
「動くなよ、撃ちはしないから……おとなしくしていてくれ」
人形は銃を奪われて憤るわけでも、銃口を向けられて怯えるわけでもなく、やはり変わらない笑みを浮かべているだけ。
言葉や状況を理解しているのかさえ、心配になってしまう。
どうしたものかと途方にくれる廉太郎に対し、人形は不意に両手を挙げた。
「……え?」
降参でも示すのかと思われたその腕は、胸の前で止まった。かと思えば、手のひらを合わせて打ちならしていく。
あまりに軽い、機械的な拍手だった。
状況だけ見れば、称賛しているようにも思える。
しかし、まるで意図は分からない。
「な、なに? 喋らずにそれだと……不気味なだけなんだけど」
機械的なのは、それこそ人形のようであるが。
しかしそれは、人らしい所作の一つではある。何かしらの意思がなければこんな真似はすまい。
人形は人と変わらない体内構造を持っていながら、人工的に造られているというだけで生き物だとすら認知されていない。自我も魂も何も無いと。
しかしこうして相対することで、人と変わらないのではないかと思える根拠だけが増えていくようだった。
「無理があるだろう。これで、自我がないなんて」
その言葉を境に、拍手は鳴り止んだ。
やがてその右手を前に伸ばすと、人差し指を廉太郎に向けようとする。
「なにが言いたいんだ……本当に」
怪訝な顔でその脱力した指先を見つめていた。
そして、
「……ん?」
唐突に、指を指されているわけではないことに気付く。
投げ出された他の指がゆっくりと握られていき、一つのハンドサインを形成しようとしていた。
とても馴染みのある、ピストルのサインへと。
横向きの人差し指が、相も変わらず銃口の様に廉太郎をとらえている。
「な、何でそんなに……」
執拗な殺意に悲しみすら覚えてしまう。
一方でその仕草は子どものようで、微笑ましくもあった。
六歳の弟と、同じようなポーズで遊んでいたことが思い出される。
「もういいだろ……? 少しくらい、話をしてくれたって」
口は利かないと言われていたが、現に無いはずの自我を感じる以上、話ができないほうが不自然に思える。
笑う人形の口元から、声が漏れたような気がした。
同時に、
「――ぁ」
瞬間、心が冷えていた。
周囲の環境が急変したような、目の前の人形が別物になったような……そんな、畏れにも似た感覚に襲われていた。
それが形となって現れたように、人形の周囲に淡く輝く光が生まれていく。
空に浮かぶイルミネーション――それは綺麗なだけではないのだと、既に知っていた。
魔力で、魔法。
人間の扱う魔法は、殺傷に特化している。
そんなことを思い返した時には、それらは透明な塊へと変化していた。
こぶし大で、空間に固定されたように浮かぶ無骨な塊。
説明されずとも、それが襲いかかってくることくらい想像がつく。
――弾丸の代わりとして。
「だ、駄目だろ……それは」
魔法に対する知識があまりにもなさ過ぎて、その脅威の度合いすら分からず、銃を向けられた時より無防備を晒してしまっている。
全てをあざ笑うように、人形の手首が上に跳ねた。
その意味を理解するや否や、廉太郎は必死に飛びのいていた。
即座に、魔力の塊が射出される。
「うおッ――!?」
廉太郎のすぐ傍で、銃弾を越える着弾音が唸る。
直撃を免れたことに安堵しつつ、急いで立ち上がり態勢を整えて――
「あ、危な……い」
驚愕する。
射線上にあった壁に風穴が空いていた。拳が通るほどの綺麗な穴だ。
銃弾より遥かに大きな塊が射出されたのだ。大砲を撃たれたようなものである。
それが、銃弾と変わらぬ速度で襲ってくる。
掠めただけで、致命傷を負ってしまうだろう。
そして、それはあまりに露骨な温情であった。あの芝居がかかった仕草が無ければ、到底反応できたとも思えない。
理由は分からないが、確実に舐められている。そして、遊ばれてもいる。
人形の態度にはあからさまな余裕がある。
それは最初からそうだった。
殺意など感じなくて当然だ。
今しがた必死で奪い取った実銃など玩具のようで、軽く思えて仕方ない。