第三十三話 ――戦闘開始――
病棟から逃げたのであれば、自然と町からも離れようとする。それらが共に海沿いに位置している以上、おおよそどの方向に逃げたのかは予測がつく。ロゼが精製し浮力を与えた眼球とユーリアの探知能力によって、索敵ドローンと化した飛行体を持ってすれば、視認範囲を埋めていくように車を走らせるだけでグライフを見つけることができる。
二人が車をとめたのは一つの集落だった。
民家や建物が立ち並ぶ、町の一角のような様相。周囲は木々に囲まれており、さながら別荘地。
人気はなかった。誰も住んでいる様子がなかった。
家の作りや周囲に散見する日用道具は町でみかけた物と変わらない物で、誰が住んでも不自由なく、また直近まで使われていたことは伺える。それが丸ごと打ち捨てられているのは、とうに持ち主がいなくなったから。
管理する者はいないが、近隣に所用のある者の仮拠点として使われてもいる。
逃亡犯が身を潜ませるには都合がよくもある場所。
すぐ見つかることを除いて。
それでも、どこにも逃げる場所はなかったのだ。
「ここにいるわ。確実に」
ユーリアは一軒の家屋に目を向けていた。
彼女が見紛うはずがない。障害物越しに感知する魂の特徴だけで人物の見分けがつくわけではないが、末期患者特有の弱り切った魂は分かりやすい。
枯れ木のような魂だった。
「あなたは此処にいて」
敵は魔術師でもなければ抵抗も出来ないような死に体の魂。廉太郎を連れて行っても戦闘に巻き込むようなことにはならないが、それでも自分が荒事を起こすとき、隣に誰も置いておく気はなかった。
協力して何かにあたるのも苦手だったし、いざという時に守ることができないからだ。
共闘することと、他人を守るということに関して、ユーリアの力は向いていない。
「……わかった。じゃあ、気をつけて」
人任せになるのが申し訳なく、また、ただ何かを手伝いたいとも思っている。付いていきたい気持ちは強くあったものの、廉太郎はその言葉を飲み込んでいた。
「――ふふっ、誰に言っているつもりなの?」
気をつけろなどと言われて、ユーリアの頬は緩みそうになっていた。彼女の実力を知らない者は町にいなかったし、怪我を負うことなど誰も考えていない。それでもアイヴィは彼女が仕事をするたびに気を揉んでいるが、それは母親の特性だ。家族ともなれば、例えばハンドルを握るだけではらはらするものだろう。
それも仕方ないかと、ユーリアは思った。廉太郎は魔力に関して何も知らないし、魔術師の持つ絶対性を理解していない。
それに、初めて会った時大けがした姿を晒していたのだ。それを思えば無理もない心配だ。
挽回するためにもいつかは力を見せつけてやりたいものだが、そんな状況に彼を巻き込むわけにもいかない。
足音を消さずに二階まで上がっていったというのに、滞在者は寝てでもいるかのように反応を示さなかった。自分のいる建物に誰かが無断で踏み込んできたのだから、声を上げるなり物音を立てるなりアクションを起こしそうなものなのに。気配でも、殺しているつもりなのだろうか。簡単な魔法すら使えないはずの体で、この期におよんで抵抗を試みているようだった。
ノックでもしたものかと、ユーリアは部屋の前で立ち止まっていた。すぐに馬鹿馬鹿しくなって、そのままドアノブに手をかける。
途端に、抵抗なくノブが落ちる。内側からドアが開けられたのだと気づいた時には、もう開いた者の姿が隙間から目に飛び込んでいた。
人形。
ユーリアはそれを無視し部屋の中へと視線を移す。警戒すべきものでもなかったからだ。
ユーリアが敵に接近するということは、それだけで相手を詰ませているに等しい。いかなる魔法の発動をも許さない、魔力結合妨害の効果範囲内に取り込んでいる。
それより注意すべきは持ち主の方――もちろんそれは些細な差であって、どちらも彼女が警戒するに足る相手ではない。死に体の素人と、素人が操る兵器だ。
それでもユーリアは、手を抜くことも油断することも決してない。
そう自負していたはずだった。
しかし、
「――ッ!?」
至近距離で響いた極小の金属音に、考えるよりも先に体が飛び退いていた。瞬間、爆発的な破裂音。
一筋の直線が空間を貫いていた。
――銃……?
人形が着こんでいたコートの内側、その手に拳銃を隠し持っていた。不意をつく暗殺者のように、訪問者を躊躇いなく撃ち殺そうとした発砲。
銃口を押し付けられかねない距離で発砲された銃弾は、彼女の反射に近い回避行動によって標的を逃す。撃鉄の起こす僅かな起動音を、彼女は聞き漏らさなかった。
銃など警戒するような脅威ではない。それでも一瞬とはいえ焦りを覚えてしまったのは、こんな無意味な抵抗をされるとは夢にも思わなかったからだ。
気を抜いていた。
「なんの意味が……幼稚な」
人形の腕を掴み、捻り上げるようにして銃を奪う。そうして拘束を続けたまま、部屋の主の様子を睨んでいた。
こんな冗談みたいな攻撃が通用すると、グライフも本気で思うはずがない。だから、これは明らかな挑発行為。少なくとも、ユーリアはそのように受け取ってしまったし、どうしようもなく頭に血が上ってしまう。
五感の制御にいくら長けようとも、感情だけは制御できない。
思えばずっとこの男には苛立たせられていた。病棟での会話も、脱走も。何を意図しているのかがまるで見えない。
相手が何を考えているのか分からない――それは、ユーリアを最も不安にさせること。
他人の感性は不可解で、なぜか自分だけが理解できないということが常だったから。そんな世界への不貞腐れたような怒りだけが、生まれてからずっと付きまとっている。
ユーリアは、おもむろに銃口を向けた。
これも、幼稚な意趣返し。
「試してみる? こんなもので、人が死ぬのか」
こんなアンティークでは、魔術師どころか赤子すら仕留められない。銃が対人の殺傷兵器足り得るには、人間はあまりに変わり果ててしまったから。それでもグライフほどの末期患者ともなれば、空間歪曲による自動防御が正常に発動するのかどうかは怪しいところではある。
だというのに、グライフはただ神妙な顔で銃口を見つめているだけ。
少し、面食らってしまう。ますます真意が分からない。脱走していながら、何の抵抗の意思も見せないとは。
しかし、そんなことは関係が無い。殺さなければならないし、そのために追って来た。もとより末期患者の思考など合理的ではないのだから、無理に理解しようとする必要などない。
いつもと同じように。
――同じって……あぁ、違うはずでしょうが。
思い起こすのは数日前の、洞窟での出来事。理解できないものを無駄だと切り捨て、何物も顧みなかった故に起きた、取り返しのつかない失態。
その結果、自分は瀕死の負傷を負い、救いたかった命すら自ら奪う結果に終わった。
「……あれからもう、三日も経っていたのね」
思うところがないはずがなかった。悔いれるものは全て悔いたい。
あれから変わろうとして、何一つ変われていない。
ユーリアは頭を必死に切り替えて、目の前の敵と向き合っていた。
理解できないものをそのままにし続けていたら、また取り返しのつかないことを起こすような気がしていたから。
せめて、知ろうとする努力ぐらいはしなければいけないだろう。
「そ、そうよ……危ないところだったわ」
頭が冷静になって、自分に課せられた仕事を思い返す。殺す必要はなく、ただ連れ帰ればいいというだけ。そう確認して町を飛び出したというのに、つい手慣れた癖のように手をかけてしまうところだった。
そうなれば、恐らく廉太郎はいい顔をしないだろう。先ほどまで自分の力を、良いところを見せてやりたいと思っていただけに、そんな失態を起こす気にはなれなかった。
無用に命を奪ったとなれば嫌われてしまうかもしれない。それならばまだいい方で、その結果人形の受け取りすら拒絶されてしまう恐れがある。
漠然とそう思う。
根拠もないし、そこまで意固地な態度をとる男ではないだろう。しかし、どう転ぶか分からない。廉太郎の思考もまた、ユーリアにとっては理解の及ばぬものだ。
それでも彼女はもう、そういうものを尊重すると決めたのだ。
「――ねぇ、聞かせなさいよ。あなたは何がしたかったの?」
手にしていた銃を、がらくたの様に隅へと放り投げていた。
口にした問いは、あの日洞窟で、同僚が敵に投げたであろう言葉。
「人形を渡したくない理由も、こうして脱走なんかした理由も……あまりに難しくて、私にはよく分からない」
「はは……ッ」
不意に笑いだしていたグライフを、ユーリアはいよいよ不気味に感じ始めていく。一人でに満足感を覚えた様に、戸惑うユーリアに向けて問いを返していた。
「俺たちはなぜ生きるのか、考えたことはあるか?」
「え?」
どきりとさせられる言葉。それは何度も自問して、未だに子どもが拗ねたような答えしか出せていない問いだった。
そして、その答えすら未熟な自分は裏切ることになってしまった。
「わ、分からないわよ。それは……誰にとっても難しいでしょう?」
「苦しむためだ」
間髪入れず返された言葉。
呆けた顔しか作れなかった。
「……はぁ?」
一瞬、冗談でも言い出したのかと思った。それほどまでに意味の通らない言葉で、予想だにしない言葉でもあった。
「苦しんで死ぬことが、俺にとっての目的で幸福。だから、安楽死など願い下げだ」
続く言葉によって明確に意思を掲げられ、ユーリアはいよいよ言葉を失ってしまう。
それを前にして、グライフの表情はどこまでも楽しげに歪んでいた。
「最後にぶつかれるのがお前で良かった。その強さはよく聞いているぞ」
「な、何を言って――ッ!?」
唐突に起こった。
立ち上がるグライフから大規模な魔力が放出されていく。それは魔法とすら呼べないもので、己の血肉を絞って捨てるような行為。負担がかかるなどと生易しいものではなく、自殺しているに等しい。
「バカじゃないの!?」
驚愕しつつ、グライフの傍まで駆け寄ってその事象の強制停止を試みる。
だが、その魔力放出の妨害は間に合わなかった。彼が限界まで被っていられた人間という器とその魂は、すでに完全に壊れてしまっていた。
もう人ではいられないし、元に戻ることもできない。
自我を失い暴れ狂う人間の成れの果て。異形の化け物。
この時代、自殺する人間など捨てる程いる。しかし、自ら異形に身を落とす人間など聞いたこともなかった。みな、そうなるのを恐れている。命を断つにしたところで、その結末が恐ろしいが故であるというのに。
「ぐッ……ぐぅぅゥゥおォ――ッ!」
苦悶の様相と共に、肉体が変貌を始めていく。体表には黒々とした鱗が生まれ、鎧となって身を固めている。その体躯も、すでに部屋を埋めかねないほどに膨張していった。魂が歪み狂い、その内包した魔力が肉体の体積を増幅させていく。
その急激な変化がもたらす苦痛に、辛うじて残っているグライフの自我が悲鳴をあげているようだった。
見ていられるものではない。
「い、今楽に――」
出来ない。気づいてしまった。
異形者は肉体が鋼のように硬くなる。爆発的な破壊力を出す普通の魔術師と違って、ユーリアの振るう刃の威力などたかが知れている。
だからそれらを殺しきるには、相手の魂だけを直接破壊するという一手が必要になる。
しかし、その技は封じられていた。理由は、男の魂と繋がっている人形まで壊しかねない一撃であるからだ。
それでは、本来の目的が果たせなくなる。
「仕方ない――ッ」
グライフはその巨体を翻し、部屋の壁を抉りながら突撃を始めた。速い――少なくとも、常人では躱せないほどには。ここまで乗って来た車でも出すことのできない速度。それを、ユーリアはぎりぎりのところで回避していた。傍らに立たせていた人形を抱きかかえ、右側方へと倒れ込ませる。
人間に対する無差別の攻撃。異形者の行動特徴である。
戦おうにも、人形を巻き込むわけにはいかない。
「ま、守らなければ……」
それは皮肉的で、状況も忘れて口角が上がってしまいそうになる。少女一人救えなかった自分が、人を模した物を守る。なまじこの人形が似た歳の頃の少女を模っているせいで、要らぬ思いを抱いてしまう。
「……まぁ、いいわ」
人形を抱きかかえながら共に立ち上がらせる。簡単な日常動作ならばある程度自律して動いてくれるのだが、所有者が制御できる状態にないために一人でに逃げてもらうことすらできない。放置して戦うようでは、知らぬ間に押しつぶされていたということもあり得る。
人形が動かないとはいえ、肩を引けば並走させることくらいはできる。自分よりも小柄なその胴体を窓へと引っ張りながら走っていく。
敵は廊下へ通じる部屋の扉を壁ごと破壊していた。ユーリアが窓から飛び降りる前に、その目がこちらを睨んでいるのが見えた。
「付いてきなさい――」
開け放った窓に抱えた人形ごと身をくぐらせ、そのまま一息に飛び降りていく。この高さから飛び降りたとしても、ユーリアが負傷することはない。しかし、人一人分に相当する物体を抱えた場合話は大きく異なってしまう。自分の体も、人形の体も痛めかねない。相応に重い物を抱えながら、それを傷つけないように扱うのは至難の技であった。
「ぐうゥ……ッ」
案の定想定通りの着地はできなかったが、それでも共に負傷はない。同時に、それまでいた部屋の外壁が粉砕。壁を突き破り空中に躍り出た異形者が、ユーリアのすぐ近くに降り立った。共に降り注ぐ家屋の残骸から身を守るために、多少無理な動作で人形を引きずりながら安全圏へと脱出を試みる。
その勢いのままに、目を見開いて呆けている廉太郎目掛けて、抱えていた人形を突き飛ばしていた。
「なっ……うおぉっ!?」
危なげなく受け止めた廉太郎へ満足げな笑みを浮かべながら、簡潔に助勢を求めていた。
これもまた慣れないことだった。
「ごめん、説明する余裕がない。それを連れて隠れていて」
「わ、分かった……っ!」
それで、廉太郎は人形を連れて遠ざかって行った。物分かりがいい。文句一つ、疑問一つなく素直に言うことをきいてくれる。
本当に助かる。
これで憂いはなくなった。存分に相手をすることができる。
単純だ。少なくとも、小難しいことを理解しようと努力するより、はるかに。
「――あぁ、あなたのことは私じゃなくても理解できそうにないわよ……きっとね」
せっかく、慣れないことをする気になったというのに。
苦しむために生きるなどと、聞いたこともない。理解できないし、したいとも思わない。
そもそも、生きているだけで充分すぎるほど人は苦しむのだ。何をとち狂ったことを言い出すのかと、つい気が立ちそうになってしまう。
「もう少し……あなたの魂がまともだった時に、一言でも会話できたらよかったのかも」
もはや言葉を交わすこともできず、生かしておくこともできない。放置しても誰かに処理されるだけ、無駄に苦しませることになるだけだ。であるから、今ここで命を断つしかない。それは、相手にとっても最善の行為。
唐突に殺さなければならなくなった男を前にして、ユーリアはどんな面持ちで向かえばいいのかさえ迷わされていた。