第三十二話 座席一台分の距離
車を用意していた。町の城壁外にまとめて格納さている共用車、先日ロゼがしたようなレンタカーショップと同じやり取りを済ませている。
昇りかけた陽を遠目に睨みながら、つい弱音を吐いていた。
「逃げて、それで遠ざかり続けているとして、今から追いつけるものなのかな?」
脱走があったのは、およそ二時間前のことだ。相手も車で移動していることを考えると、すでに百キロ以上は走行してしまっている。対向車もなく道も開いており信号すら存在しないここら一帯において、飛ばした車の障害となるものはほとんどない。
しかし、それは元の世界の車を想定した話だ。
「いいえ、あなたが思うほど遠くには行けていないわよ」
彼女たちの言う車は、それら馴染みのあるものとは大きく異なっている。エネルギー源や動力源が魔力に根差したものであることもちろんだが、その性能にも差があるのだ。
二つの世界を比較して、どちらの技術が優っているのかなど考えるのは抵抗を覚えるし、判断できるだけの専門知識も持っていない。それでも述べるのであれば、走行可能距離において大きく劣っているという事実がある。
だから実際は、今からでも追いつけるような逃走距離だとユーリアは言う。
「でも、それならこの車だってそう遠くへは行けないことになるんじゃない?」
「いいえ、奪われた車には意図的に少量の燃料しか積まれていなかったはず」
防犯ゆえの措置。脱走などあり得ることではないとされていたにせよ、想定されなかったわけがない。
魔力をエネルギーとして稼働する機器は町に溢れている。しかし人が魔力を持つからといって、それを何かのエネルギーに変換することはできない。電気や電池を買うように外部から調達しなければならない。
魔力とは個人個人の魂であり、万能ではなくむしろ不便。電気に代わる万能なエネルギーとしてこの世に定着させるには、相応の設備と技術が必要になる。
当然、周囲に魔力燃料を積みなおせる場所などラックブリックの町以外にはない。
「だから、追いつこうとする車で追えば追いつけるわ」
「そっか。道理で、いかついと思った」
彼女が選んだ車は大型であった。
小型バスほどの幅があり車高も高い。重厚感はあるが追跡に適したようなスピード感は感じられない。燃費も悪いだろうに。
ユーリアが理由をもって選んでいる以上、疑う気もないのだが。
しかし、
「え?」
気づけば、彼女は後部座席の乗り込んでいた。当然、運転席ではない。では、誰に運転させるつもりなのか。
この場には二人しかいない。
「あの……」
いつまでたっても車に乗らない廉太郎に向けて、ユーリアは当たり前のような顔で声をかけている。
「頼んだわ」
「えぇ、俺が運転するの……? 無理だよ」
ハンドルを握ったことなど一度もない。当然、免許も持っていない。
それでいきなり大型車を、しかも人を乗せて運転する気にはとてもなれなかった。借りた車と他人の身体、それをどう転ぶか分からない素人の運転に付き合わせることなど出来はしない。
「……だめなの?」
困ったように見おろされても、その期待にだけは応える気になれなかった。頼みを断るのは胸が痛むが、何より優先すべきなのは相手の安全である。
「その、君は運転できないの?」
「……多分あなたに怪我させるし、途中で車を壊すかもしれないわよ?」
「なるほど」
自信満々にそう言われてしまえば、彼女に運転を任せることもできなくなってしまう。まだ自分で運転したほうがマシ。廉太郎が事故を恐れているのは予防線の話であり、多分
「そ、そっか……全然分からなくても仕方ないのよね」
「いや、俺の世界にも車は……本当によく似たものがあるよ」
見た目の構造は驚くほど似通っている。鉄製の車体、ゴム製のタイヤ。それでもやはり別物で簡素、というよりチープにも見えてしまう。
それでも、運転の勝手はそう違わないはずだ。
運転席を覗くと、日常的に見慣れたものと変わらないだけの機能が揃っているようで、勘でどうにかなってしまいそうな気にもなる。
自然とそのまま座っていた。できそうな気がしてしまった以上、背伸びしてでも期待に答えたくなる。
当然安全第一でスピードは落とす。シートベルトもついていない上に、車体を覆っているのはテント状の帆でしかなくオープンカーに近い。
「たぶん、無理しなければ大丈夫だと思う」
「ありがとう」
そう言うと、ユーリアは後部座席から身を乗り出して運転方法を伝授してくれた。それらは抵抗なく理解できるもので、それまでにあった不安は期待へと変わりつつある。
余裕が出ると、意識もまた、徐々に別のものへと向いていく。
彼女の顔がすぐ傍、後ろ隣りにあるということ。廉太郎は前だけを向いていたし、振り返ることもしていないが、気配だけでそれは分かる。
声が耳に直接届けられているような距離。ふとした拍子に、その髪さえ首に掛かってしまいそう。
実際そうなっているのか、こそばゆい。
少しも触れてはならないと意識しているだけに、逆にその距離が気になってしかたなくなる。
「ん、聞いてる?」
「あ、うん……覚えた」
ごまかすように、慌てて車体を起動していた。キーを差し込んで捻る。振動も音も発しないが、活動状態に入ったことを示すような光が点灯していた。エンジン等の仕組みなど知らない。だが、それは元の世界でも同じことだ。
妙にこそばゆかった首元の気配が遠ざかっていく。それを惜しむことなく、車体を前に滑らせていった。
町を出ると、極端に人の気配がしなくなる。当然の話で、そもそもこの土地は人が住めるような土地ではないのだ。そこでの生存を可能にするために、あらゆる種族の知識と能力を駆使している。
他にこの一帯を走る車など、皆無ではないにせよまず見ない。事故を起こす確率は限りなく低いといえる。
運転しながら、周囲を観察する余裕すら生まれていた。
上空にはロゼからもらった眼球が浮かび、車の周囲を旋回している。それは申し訳程度に形を変えられており、鳥の玩具に見えなくもない。
それでも、眼球だ。
ユーリアの瞳に収まる疑似眼球は魔力によって形成して制御し続けているものであり、実体を持つものではない。
しかし上空に浮かぶ眼球には実体がある。本物の人の眼球と変わらない物質構成。ロゼは右腕を作り出したように、眼球も作り出してみせた。
その眼球にはロゼの魔力が込められており、ユーリアの周囲上空を旋回するという命令に従って自動飛行を行っている。誰の制御下にあるわけでもなく、いうなれば充電された飛行ロボットに過ぎない。
その眼球が得た上空からの視覚情報は、ユーリアの視神経とつなげられている。ロゼが彼女の眼球を直に触れていたのはそのためだ。随分と融通の利く制御、ドローンを偵察に飛ばしているのに等しい。
つまりユーリアはその視程距離を格段に高めている。それによる索敵は単なる視覚によるものだけではない。彼女は人の魔力、つまり魂を感知する力を持っているからだ。
上空からの監視だが、例え屋内に隠れていようとも見逃すことはない。
予想される逃走経路を車でなぞっていくだけで、おのずと彼らを発見できるという算段がたっていた。
つくづく彼女の力に関心させられる。しかしロゼだって凄いのは変わらないし、むしろ不可思議さではより強い。
「ロゼさんの右腕が再生したのは分かったけど、それって普通のことなの?」
一瞬空いたのは、そんなことも分からないのかとでも言いたげな間。
「普通、ではないわ」
ユーリアは『普通』という言葉をやけに強調しながら問いに答えていた。
「悪いけど教えないし、聞かないであげて。平気そうに見えて、すごく気にしているようだから」
ちくりと胸が痛む。気にしているなど当たり前の話だ。人間の在り方から大きくかけ離れた事象を起こしているのだ。
魔法などという超常の力を突き付けられているせいで、感覚がマヒしている。廉太郎は魔法に一切の知識がなかった。何が出来て何が出来ないのか、そろそろ把握しておかないと会話すら覚束なくなってしまう。
「変に追及する気はないんだ。ただ、事情も知らずに無遠慮に聞いてしまったから……」
「あぁ、その点で心配する必要はないわよ。ロゼはそんなことで人を悪く思ったりしないから」
容易に想像ができる。面と向かって失礼なことを言われたとしても、笑って受け流してしまいそうな懐の広さを感じる人だった。
「そうだね。人がいいからな、君たちは……」
「ん、私はよくないでしょう?」
風が吹いていた。むき出しの車内を、空いた窓を抜けるように風の音が通過していく。
「ははっ、本気で言ってる?」
「まぁ、自分でも好きにはなれない性格だからね」
自己評価がどうであろうと、自分から人が良くないと訂正することはまずないはずだ。それを自覚していたとしても公言して認めるようなことではない。
あえてはっきりと言ってしまえるということは、何か思うところがある。
別に、彼女が万人に好かれる人だとは言わないが、卑屈になっていいような性格ではない。
「そうなの?」
引き続いて、何でもないことのように軽く聞いていた。
自分のことのように胸の内がもやもやとうずいている。
「最近ね、どうかと思うようなことが増えたし……」
出会う前すでに、彼女に何かが起こりそれに苦悩しているのはわかってはいる。それを聞けるような仲ではなかった。
それでも何か言おうとして、
「少なくとも俺は、君の性格を好ましく思っているんだけど」
気取った言い方だなと自分でも思ってしまう。伝えたかったのは、自分は彼女の性格をロゼと変わらず人がいいものだと思っていること。本人はそう思っていないようで、確かにロゼと同じような方向を向いているわけではない。
しかし、確かに彼女は……。
「単に親切にしてくれるからってわけじゃなくて……なんだろうな」
なんだろうな、の先の言葉の発言権を失うくらいに間が空いてしまった。無味無臭の出し物を前にしたように感想が浮かばないわけではなく、しっかりとした感情はあるというのに、それらは靄のように掴みどころがなく言葉に当てはめられない。
「好ましい性格だよ、友達になりたいくらいには」
それは、とても頑張って発した言葉だったのに、
「……私、友達でもない相手を家に入れたりしないのだけど」
返ってきたのは湿ったような声。非難と、気落ちしたような色が込められていた。
まずいことを言ってしまったのだと、すぐに理解した。
「あー……」
彼女はすでに何度も、友達なのかという他人の指摘に同意していた。
それなのに、廉太郎の方では友達とは思っていないと言ってしまったようなものだ。
気まずい空気が車内を通り抜けていく。
「う……っ」
軽く、座席を後ろから蹴られていた。
それはじゃれているような可愛らしいものでしかなかったのに、重荷となって背中に纏わりついていく。
二人だけで話をする機会は何度もあったのに、車内のような限られた空間ではそれが途端に別物になる。真に二人きりで逃げ場がなく、気まずさに窒息してしまうような密室。
廉太郎は他意がないことを示すように、努めて明るい声で話しかけていた。
「いや、俺にとってはまだ友達じゃないかな。まだ二、三日しか話できていないし」
引っ込みがつかなくなってしまった。
その勢いのままに言葉を選んでいく。友達という段階を気安い間柄の一つ上の段階に押し上げてみせることで、話の整合性を合わせていった。
単にうまく付き合える相手を友達とは呼べない。それは廉太郎が個人的に持っている価値観でしかなく、本来他人に強制するつもりもなかったものだ。
彼女は、純粋に疑問に思ったような声色で言葉の真意を問いかけていた。
「……友達って、日数の問題なの?」
「いや、もっと重いものなのかも」
何をもって友達とするか。友達とはいったい何か。
それは人によって個人差がある。それでもきっと敷居が低い人のほうが人として上等なのだと、廉太郎は思う。
こんな面倒な友達観など植えつけられたくはなかった。
「じゃあ、あなたにとっての友達ってどんなものなのよ?」
「なんでも打ち明けられたり、力になろうと思えたり……相手のためになら死ねるくらいの――」
酷く重い。
言っていて自分でも嫌になる言葉の羅列だったが、聞かれたのなら嘘なく答えずにはいられない程度には拘っていた考え。
「ん、じゃあ私にとっては友達になるわね」
「――えっ?」
当たり前のように。
「当然でしょう? 友達のためなら命くらい捨てるわよ、私」
心なしか明るい声でそう言われてしまい、面食らっていた。
嘘偽りでも気の迷いでもない声色。そこまで他人のために言える彼女の人格に、どこに非があると言いたいのだろうか。
「いや、俺のためになんて死んでほしくないんだけど……」
苦笑しつつも、見られていないのをいいことに顔がほころんでいくのを抑えなかった
友人と呼ばれるだけでも、たとえそれが気軽な思いからであったとしても嬉しいというのに。そこまで言える中に自分が含まれているという事実は、胸が熱くなるような感動を与えてくる。
照れくさくもあり、また身に抱えきれないど重い情でもある。
「何よ、私のためには死んでくれないの?」
ユーリアは冗談と分かる声色で、からかうように迫ってくる。わけもなくそのやり取りが心地よくて、もう一度座席を蹴ってもらえないだろうかと期待せずにはいられなくなる。
だから楽し気な気持ちで、当たり前のように答えていた。
「そりゃあ、死ぬけど」
「――えっ? あ、ありがとう……」
彼女には予期せぬ答えだっただろう。そうだろうと思ったし、それでいいとも思う。
しかし釈然としないのか、彼女は首をひねるように言葉を続けていった。
「ん……? あなた、言ってることおかしいわよ?」
「えぇ?」
言われて気づく。これでは自分が彼女のためになら死ねると言っているようなものだ。それでは口にした奇妙な友達の定義に一部合致してしまい、友達だと思っていそうにもなる。発言を指摘されるくらいの隙は見せたことになる。
しばし考えて、そもそもが根本的に異なるという結果に至っていた。
相手のために死ねるという気持ちは同じだとしても、そこに根差すものは天地の差があるということに。
「いや、違うよ。君は俺のために尽力してくれると言っているけど、俺は君が俺のせいで死ぬくらいなら俺が死ぬって言っているだけだよ」
自分のせいで誰かが死ぬようなことがあってはならない。それはユーリアが示した慈愛や親切心、友情によるものとは一線を画している。他人に迷惑をかけたくないという、狭い道徳心にすぎない。
ユーリアは情に厚い、そう感じる。友人とみなせばきっと理由なく命を張れる人なのだろう。しかし、廉太郎はそうなれなかった。自分が原因でさえなければ、命を張ってまで力になることは恐らくできない。
「何か違うの? それ?」
その違いを説明するのが怖かったから、
「だ、だから……俺は君より全然、性格なんてよくないやつだってこと」
そう言って結論づけ会話から逃げようとしていた。運転に集中しようとしたその矢先に、
「なに卑屈になってるのよ」
再び感じる座席へのじゃれたような衝撃。
今度は拳の側頭部で座席のヘッドレスト付近を小突かれていた。ノックでもされたように伝わる頭部への振動に、やはり心地よさを感じてしまう。どうしたって触れる機会のない彼女から与えられる衝撃というだけで、こんなつまらないことでも妙に感情がかき回されてしまう。
座席を介しているだけで実質触れているようなものだよな、とか。
そんなことを意識すると、自分で驚くほどに鼓動が早くなっているのが分かった。
「友人が卑屈だと苛々するの。明るいことだけ言ってなさい」
そうは言っているが、彼女だって自己評価の低さを漏らすことがあるのだ。性格がよくないだとか、自分でも好きになれないだとか、異性として見られてしまうのは相手に悪いだとか。
そのたびに廉太郎が胸に抱くような気持ちだって、苛立ちではないにせよ穏やかなものではなかった。