第三十一話 粘土細工
逃げたグライフと人形を追うのであれば、少しの時間でも惜しい。
ユーリアが――自分自身にさえも――人知れず意気込んで腰を上げたところで、ロゼから横やりが入っていた。
「私は仕事があってついて行ってやれないが」
さらりと口にしたその言葉に、廉太郎は状況を一時忘れるほどに驚かされてしまう。
「え、お休みって……昨日だけだったんですか?」
自我を失って肉体も変貌して暴れまわり、右腕まで一時的に失うような目にあっておきながら与えられた休養は一日。だが、本人が元気そうでいるのでそれで問題ないと判断されているのだろう。
それにしたところで、もう少し気分だけでも安静にしておいたほうがいいのではないか。
ロゼはそんな視線を含みをもたせた笑みで受け流し、口を開いた。
「代わりにこれでも持っていくといいよ」
そう言って懐から取り出したのは、白い粘土のような塊。右手の上に乗ったそれは一見して陶器のようにも石鹸のようにも映る、正体不明の小物だった。
「何です、これ?」
「んー、右腕のあまりだよ」
ロゼは件の右手ごと上下に軽く振って遊ばせながら、面白そうにそう口にした。
「えぇ……?」
どうも別世界では冗談なのか真実なのか、判断基準が不確かなものになってしまう。冗談のようでもあるのだが、そもそもロゼの右腕が再生しているという事実がある以上そのあまりが発生し、切り離されているとしても
変に驚くようなことでもない。
粘土で作品を作ったあと余った材料を丸めておけば、ちょうど彼女の掌の上にある物体のような造形になる。しかし、それは腕が再生したというには奇妙な感覚を受けるものだった。
むしろ欠けた分より多くの肉体が新たに発生し、それを人の腕に模っているよう。でなければあまりなどとは言うまい。
妙に肉々しい想像にその白い塊が急に肉塊のような脂に見えてしまい、失礼だと思いつつも心理的抵抗感が湧いてくる。
そんなものを人に見せてしまっていいのだろうか、と。
「ちょっと、いいの? それを話してしまって……」
やはりというように、ユーリアは諫めるように問うていた。
「なんだか、黙ってるのも可哀そうでね。腕の方にも興味津々って感じだったし」
そう悪戯な笑みを向けられてしまい、廉太郎は気まずい思いで苦笑していた。信じられずに右腕を観察させてもらったことが、こう蒸しかえれてしまうと恥ずかしくてしかたなくなる。
無遠慮に聞いて確かめてしまったが、そのあたりの事情は思えばデリケートな話題だったはずだ。本来秘密にしておくような、あまり公言したくないような事情の類。
一般的に考えて、それは気持ちが悪いことだから。
「あー……私の体は再生できるんだよ。だから、肉体の異形化が進んでも人の体に無理やり戻れるんだ」
「へぇ、すごいんですね」
だから、努めて平静に答えていた。
ロゼはなんでもないことのように言おうとしているが、それでも歯切れは悪かった。
「えっ、反応……薄くない?」
ユーリアはそんな反応を怪訝に思ったようだった。それを見て、
――あぁ、やはりこの世界でもロゼの再生力は異様なことなのだと、そう理解していた。
本当はロゼも右腕のことなど黙っているはずだったのだろうが、それを一度落とす原因となった廉太郎があまりに気にかけていたから、少しでも罪悪感を和らげようと打ち明けてくれている。
救われる。その力にも、心遣いにも。
「つまらないことなんて気にしない人なんだろう、廉太郎君は。だから君も家に泊められるんだろうしね」
「そうね、人がいいものだから」
言葉は返せなかった。
照れくさいからではない。
「あー……」
いかなる理由で人柄を褒められようが、そんなのはとても身に合う評価ではなかったからだ。
人がいいのは自分の方ではなく、むしろ遥かに二人のほう。つまらないことなんて気にしないのだろうとロゼは言うが、どんなつまらないことでもその実気にはなっている。詮索したい気持ちも湧いてくるし、失礼なことを思ったりもする。
それらを気にしていると思われたくないから、意図して触れないようにしているだけだった。嫌われたくないからことを荒立てないようにしているだけだった。
自己嫌悪にも似た居心地の悪さから逃れるように、話を断ち切って先を促していく。
「それで、それを持ってどうするんです?」
そう問うなり。
ふわりと、
驚くほど抵抗なく、その白い塊は風船のように宙に浮いた。かと思えば頭上でぴたりと停止する。それは、目の錯覚を覚えるほどの違和感を持って宙にとどまっていた。空簡に固定されているように微動だにしなかった。
「君たちの周囲上空を機械的に飛び続ける。索敵範囲が格段に上がるはずだ」
ロゼが自分自身で飛ばしているらしい。飛ぶというより、浮いているといったほうが適当である。
魔法とはすごいものだ。
「索敵……目になるんですか、これ?」
「あぁ、よく分かったね」
とたんにその肉塊は脈を打ってその姿かたちを変えようとしていた。それこそ生き物のように表面が波打つと黒い染みが生まれ、凹凸と光沢を帯びていく。やがてそれは、眼球としか形容できない器官へと変態を遂げていた。単に右腕のあまりというだけなのに、やけに応用が利く。形だけではなくその機能も働いているはずだ。
空に浮かぶそれ単体の眼球がどうにも奇怪で珍妙で、どうにも生々しい不安を与えられてしまう。
無防備で痛々しい。特に最近、目という器官には注意が向きがちなのだ。
「ユーリア、目を出せ」
一瞬、猟奇的なことを言っているのかと思った。
この場の絵面が酷いだけに、もしや文字通りの意味ではないのか……と疑ってしまっても仕方がないだろう。
「……分かってるわよ」
彼女はわずかにためらう様子を見せながらも、おとなしくロゼに顔を預けるように向けていた。何をするのだろうかと訝しむ間も与えられず、その右の眼球をロゼの右手の人差し指が貫いていた。
躊躇なく。
「なっ!? え、えぇ……」
はた目には猟奇的なシーンにしか見えない。にもかかわらず、ユーリアが痛がっている様子はなかった。そんな行為を前に可笑しな話ではあるが、ロゼの指つきはどこか優しい。
根本まで刺し貫いているわけではない。そんなことをすれば彼女の眼孔に残っている盲目の裸眼を傷付けてしまう。ロゼが触れているのは、ユーリアの疑似眼球だ。
肉体の一部ではなく、それは魔力によって形成されたヴィジョンに過ぎない。
痛みもなければ触感もない。彼女の体には触れていない。
まるでゼリーにでも指を埋めているかのよう。
どろりと、疑似眼球を形成する魔力の一部が液体物質のように彼女の頬を伝っていく。保持者の制御を失った魔力が世界に溶けていくまで、それは涙に酷似してそこにあった。
彼女の創り物の瞳はルビーのように赤々しく光り、その残滓が作り出す涙は血液のように鮮明で美しかった。
それは、ユーリアを始めて目にしたとき彼女を染め上げていた色だったから。
無意識のうちに、とても赤色が似合う人だと思っていた。