第二十九話 自我
時は遡る。
廉太郎たちが隔離病棟の一室でグライフと面会し、早々に立ち去ったその直後。
扉が閉まり静まり返ったその一室に生まれた声は、男のものでは無かった。
「いやぁ、すごい顔ぶれでしたね」
女の、それも子どものように幼い声。
その部屋には男が一人、グライフ・ロード以外に誰もいなかった。だからそれは、第三者が聞いていれば耳を疑うような声でもある。
「まさか、ユーリア・ヴァイスまで出てくるとは!」
声を発しているのは、廉太郎たちとの話の渦中にあった人形。その会合の中で一言も発せず微動だにせず、またそれが当然であったはずの存在。
しかし、あろうことかその人形は笑っていた。暑苦しい外套に隠された口元を開け、その絶やさずにいた笑みを晒している。
笑って、口を動かし続けている。
「この町の二大権力者じゃないですか。あの二人に要求されたなら、私の身柄は持ってかれるでしょうねぇ」
その人形はグライフの意思で破棄すると決めたものの、その意思は権力の前に屈することになりそうだった。しかしそんなことはグライフも分かっているようで、難しい顔で虚空を睨み続けていた。
「さて、どうします? 嫌だと言って逃げてみますか?」
人形が問いを発するなども、また有り得ることではない。自我はなく自主的に言葉を操ろうとする知性すら持たないはずだからだ。
その人形はまるで人間のように振る舞い続けている。明らかな異常であり、それは誰の目にも明らかだというのに。
「お前は……どうしたいんだ?」
そのような異常を前にして、グライフは当然のように話をかけていた。
「別に、どうも? あの二人に付いて行けたら面白いんですが、どうやらお相手は一般人のようですし?」
その人形は、次の持ち主に立候補していた少年――廉太郎に興味を示していない。
反対に、傍にいた女二人には焦がれるような興味がある。共にこの町、機関の顔であり町の法よりも絶対的な権力を持っている。
その人形にとって、傍にいるには都合がいい相手はそちらのほうだ。単純に、面白いことが起こりそうだったからだ。
人形は、刺激を欲していた。
身を削るような破滅の刺激を。
「……まぁ、少しは面白いことを言っていましたがね」
人形は、芝居がかかった動作で肩をすくめて、それで笑って見せている。
そんな不必要で人間的な動作をする人形などいるわけがない。仮にしてみせたとしても、それは持ち主の操作や指示による遊びでしかない。一挙手一投足は魔力によるコントロール下にあるか、簡単な指示による自律稼働。
だというのに、男と人形は互いが別個の個人であるかのように会話を進めていく。
「あの少年、一目でお前の人間性を見抜いていたな。人形自体を知らないようだったが、それにしても……」
「どうあれ、私を見て生き物扱いするのはおかしいですよね」
この世界はそのようにできていない。
生物なのか非生命体なのか判別するだけの能力を、先天的に皆が有しているからだ。どれだけ精巧に人に似せた人形であっても、或いはそれが完璧に人の所作を模倣できていたとしても、第六感のように限りなく誤差のない精度で見分けることが出来るのだ。
人工的に造られ人を模しているだけの人形。それを目にして、そこに命を見出すことなど異常事態でしかない。
この場で饒舌に口を滑らしているこの人形の少女のように、存在するはずがない者だ。
「ふふっ……気でも触れてるのか、或いは世界の法則やらをはね除けているのか……」
「案外、お前の古巣に連なる者かもしれんぞ」
一人考え込んでいた人形は、その男の言葉に思わず反応していた。
「まさか」
そのまま、冗談でも聞いたかのように口元をほころばせ、
「だとしたら間抜けが過ぎるでしょう。どれだけ侵入を許してるんですか、この町」
ロゼとユーリアは機関に属する特殊な地位にいる二人であり、共に最高に近い権力を持っている。事実上この町のキーパーソンであり、そんな彼女らと共に侵略者が行動しているとなれば一大事だ。
人形の古巣とはそういう所で、この町と対立関係にあると言ってよかった。
「私のことは気にしないでください。で、どうしたいんです?」
「……わからない」
「はぁ……?」
その言葉に、人形は呆れながらも愉快そうに笑っていた。
「いい歳なんですから、そんな可愛いこと言わないでくださいよ」
「俺はもう……自分の頭で上手くものが考えられないのだ」
歳どころか死を目前にしている。魂が世界の毒気に汚染され、人ではないモノに変わろうとしている。
ゆえに、精神状態と思考が混乱を極めていた。
「……代弁してみましょうか?」
「いや、いい」
わずかに顔を曇らせた人形の言葉にかぶりを振り、両手で顔を抑え込んで己の心理を分析していく。
なぜその人形を譲りたくないのか、そのために今何をしたいのか。それは酷く困難な作業となって、しばし時間を食うことになる。
やがて、その答えの片鱗に触れたのか、
「そうだな、俺はただ……このまま流されて、それで死んでいくのが嫌なだけなんだろう」
異形化末期であるグライフは、これからそう遠くない日に安楽死することになっている。
体と魂が変異していく人間にとってこの措置は概ね、自ら望むことだ。魂が歪んでいくのがそれほどまでに苦しく、恐ろしいというのは誰しもが知っている。避けられない現実を前に、人としての尊厳を失わずに死のうとするのは自然なことでもある。
しかし、グライフにはその恐怖や苦痛など取るに足らないものだった。安らかな死など望んでいないし、こんな部屋に隔離されることも業腹でしかなかった。
だから彼に対するこの措置は、意思に反する安楽死。安楽死としてのタブーにも触れる、殺人に等しい不合理。
魔術師でもない彼に、町のシステムに逆らうだけの力はなかった。
「とにかく死ぬ前に駄々をこねたいんですね? いいじゃないですか」
ここから逃げ出すことも本来は不可能。
収容されるような人間の魂は魔法の使用にも耐えられず、また人形にも機能的なセーフティロックがかけられているからだ。
しかし、この人形は特別。町が想定する以上の力……この病室から逃亡できるだけの力くらいは有している。
あらゆる制限を無視し、誰にもコントロールなどされはしない。
病棟は町からも遠く、警備など無いに等しい。
「俺が大人しく死ねないのは、お前がそういう奴だからだ」
たとえここから抜け出したとしても、男がいずれ命を落とすことには変わりない。時間はそう変わらず、比べ物にならないほど苦しむことになるだけ。
それでも男の心には絶望がなかった。
それ以上に望むことはないと豪語するこの人形に、摩耗した心が順応していくようだった。