第十四話 奉仕
一体自分がどれほど家に帰れていないのか、廉太郎は把握できていない。
しかし、先日洞窟で気が付いた時からまる一日が経過している以上、最低で二夜は家の寝床を開けてしまったことになる。
親に連絡もせず帰らなかったことなど一度もなかった。二日も連絡を途絶えてしまったことで、確実に家族に心配をかけてしまっている。警察沙汰になっているかも知れないし、学校にまで話が出回っているかも知れない。
どれだけの人間にいらない迷惑をかけてしまっているのか、脳が想像を拒むほどだ。
親の心情を思うと、迷惑どころかこれ以上ない親不孝。
妹だって、いくら絶縁状態とはいえ家族が一人消えて無関心でいれるような人間ではない。身の回りで起こる些細なストレスに弱い七見にとって、家族の失踪は相当な心労になっていることだろう。
コップが一つ消えただけで大騒ぎするような妹なのだ、あいつは。
もしかしたら、怒ってさえいるのかもしれない。それを思うと、少しだけ嬉しくもなる。
残してきた家族はそんなにかき回されているというのに、当の本人は何不自由なく、こうしてもてなされている。
二つの世界で、自分の存在が負担になっている……その事実だけで、どうしようもなく心が苦しい。
「――駄目だな。一人になると」
悪い事だけが浮かんでくる。
柄にもなく、誰か隣で寝てくれないものかとさえ思っていた。日が経つにつれ、きっと眠ることすら難しくなっていくのだろうから。
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「ここは夢の世界だとでも思ってくれ」
ロゼは開口一番にそう言った。
廉太郎は傍に現れた彼女の姿に、我を忘れて動転してしまっていた。
「――よ、よかった! その、なんて謝ればいいか……っ」
無事を喜び、ひとしきりの謝罪を述べ続けていく。
彼女はしばらく一言の言葉も発しようとはしなかったが、頃合いをみて口を開いた。廉太郎が落ち着くのを待ってくれていたようだ。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。怒ってないし、事故だからね。ずいぶん心を痛めてくれていたけど……逆に私の肩身が狭くなってしまう」
そう言ってもらえるのはありがたかったし、何より彼女ともう一度会えたことが嬉しかった。関わるなとも釘を刺されていた以上、見舞いにも謝罪にも行きづらかったからだ。
「ありがとうございます……」
落ち着いて、安堵したところで現状把握するとともに、妙だという疑問が浮かんでくる。
夢と言われるには意識がはっきりしすぎていたが、確かに眠ったのを覚えていた。だから、これが夢だとも納得できるし、ただの夢ではないとも確信できる。
目の前のロゼは自分の罪悪感から見せた夢幻ではない。一個人としての確固たる人格を感じさせられるものだ。
「そうだよ。……少し話がしたくてね」
「わざわざ夢の中にですか? 別に明日だって……」
「いや、今じゃなければできない話なんだ。本当の私は、何が起きたのかさえ覚えていないから」
機関の人間が、彼女の精神を守るために記憶は削除すると言っていたのを思い出していた。しかしそれならば、こうして会いにくるのは説明がつかないことだ。
廉太郎のことも、事情もすべて分かっているような様子さえ見せている。
「あの、本当の私って……どういう意味ですか?」
「私はロゼの一部でしかなくて、本体とはもう別の存在なんだ……伝わるかな?」
「いえ、まったく……」
だろうな、という顔で笑っている。彼女の様子はどこまでも気さくで、会話の内容が不穏なものでも落ち着いて聞くことができてしまうようだった。
「私の魂は二つに切断されてしまったんだよ、君の魂に深く侵入した時ね。で、片方の魂はそのまま君の魂に置いてきてしまった……それがこの私」
「……大丈夫なんですか、それ?」
魂が分断されたらしんでしまいそうにも思える。彼女はまだしも、現実に肉体を持つロゼの方ははたして平気なのだろうかと疑ってしまう。
「大丈夫だと言っているのに……私の魂はとても丈夫だから」
心配をよそに、彼女はまるで平気そうに笑っていた。その口調も態度も、すべて廉太郎を心安らげようと意図しているようだった。
「私は魂が再現した疑似人格で、こうして君の意識に干渉することしかできないが、あっちは肉体も魂も無事だし何も変わらないよ。魂なんて消耗と回復を繰り返すものだしね」
魂が分断されて、彼女は本当に二人になったのだ。現実世界にいるロゼと、独立した魂の一部が形成した疑似人格である彼女に。
「だから本体のロゼは、私がこうしていることさえ知らない」
「そうですか、なら本人の方にも謝りに行かないと……」
「それはどっちでもいいよ。……そろそろいいかな、本題に入っても?」
本題。
こうしてわざわざ会話の機会を持とうとした、その理由。
「君の中で目覚めた私は、仕事を完遂しようと君の魂を調査していたんだ。……いろいろ見せてもらったよ」
彼女はもう何もかも理解しているのだと、そこで確信させられた。含みを持たせたようなその表情は、言うべきことの多さを物語っていた。
「先に謝っておくけど、君の過去やら考えやらを勝手に覗いて悪かったね。君の性格も分かってしまったから……とはいってもこの私は人ってわけじゃないし? 気楽で居てくれると助かる」
廉太郎は確かに、心の内を気軽に曝け出せるような性格ではない。しかし、
「そんなこと気にしないでください。……どうでもいいんです、俺のことなんて」
思わず、言葉を急かしてしまう。
「まさか別の世界の人間だったとは――」
「お、教えてください! 俺はどうすれば帰れるんですか!?」
食い気味に詰め寄ってしまった廉太郎に、彼女は複雑な面持ちで返答を返していく。
「すまないが、力になれることは無い」
「そう、ですか……」
「――あっ……」
期待した分落胆は大きかった。そんな風に項垂れてしまった廉太郎に、消え行ってしまいそうな声が届く。
「ごめんね……嫌わないでほしい」
頭を上げると悲しそうな顔が目に飛び込んできた。憐れんでくれているのだろうかとも思ったが、どうやらそうではない。
彼女は泣き出してしまいそうですらあったから。
その理由を、廉太郎は敏感に察することができていた。
「そんな、嫌う理由なんてないですよ」
身勝手に感情を出してしまったことを反省しながら、彼女を安心させるように笑いかけていた。今度は反対に。
「むしろ俺のほうこそ、あなたに嫌われて当然なのに……」
彼女は一言すら廉太郎を責めようとしていない。
きっと、とても人がいいのだろう。期待に添えなかったというだけで、本気で心を痛めてしまうほどに。
「心細いだろうね。……よりによってこんな世界に」
彼女は調子を取り戻したのか、また穏やかに語りかけてくれている。ゆっくりと廉太郎に手を伸ばすと、優しく頭をなで始めていた。
夢だからかその感触はとても希薄。それでも照れくささよりも大きい安心感に包まれているようだった。こうして対面して並び立つのはこれが初めてで、彼女のほうが背も高いのだということを唐突に気づかされる。
「はっきり言ってこの世界に未来はないよ。それでも、元の世界に帰るのはあきらめた方がいい」
「……どうしてそんなことを言うんですか?」
「あぁ、嫌わないで。君のために言えることが他にないんだ」
頭に置かれた手の力が僅かに増したようだった。責めるように聞き返したつもりは無かったのだが、本当に気話割れてしまうことを恐れているようだ。
「私は広く知識に明るいし、いろいろな人の頭を覗いているけれど……それでも世界間を移動する方法なんて見聞きしたことがない。それに、そんなものを探そうとすることが危険だ」
「ユーリアも言っていました、悪目立ちするって」
「別の世界に逃げたいと思っている人は少なくないから……」
そんな中で大真面目に方法を探そうとすれば、人によっては目障りに映るのかもしれない。ユーリアもロゼも本気で危惧している以上、それには本当に起こり得るのだろうという説得力がある。
「最悪殺されるかもしれない。ユーリアは君がどうなっても守れると過信しているだろうし、実際それだけの力はあるんだけど……絶対じゃない」
彼女の強さ、その片鱗を目にすることはできた。実際にどれだけの力があるのかは知らないが、町の最高戦力とまで言われているのだ。確かに傍にいるのは心強いのだが、四六時中身が守られているわけではないし、そんな負担を彼女に押し付ける気はない。
「そうなったら絶対に自分を責めるだろう。……まずいんだ、彼女はいろいろと不安定だから。それも、昨日の今日で」
「昨日? 負傷していたことですか」
「まぁ、色々だ。……本当に色々」
ユーリアの特異性を考えれば精神が不安定であってもおかしくない。ロゼの意図するところは正確には分からないが、それでもそんな風に気苦労を与えることはすまいと心に決めておいた。
「この世界で生きていくなら、君にとってもこの町にいた方が幸せだろう。それに、別世界人の君は瘴気の影響を受けたりしない。それは保証してあげる」
「――帰る方法を探そうとしても、目立たなければ大丈夫ですよね?」
少し意地悪な言い方になってしまっただろうかと、冗談かのように笑いながら反応を伺う。すると彼女も笑みを浮かべ、頭に置いた手を頬に移し子供をあやすようにつついてくる。
「君にしてみれば当然だよな。それでも、危険性は知って欲しかったんだ」
冗談めかしてすねた様に言ってのける彼女が可笑しくて、ついつい和やかな気分にさせられてしまう。夢の中とはいえ子供のように扱われるのは照れ臭かったが、抵抗するのも意識しているようなのでされるがままに笑うしかない。
「すいません」
「いいんだ。あぁ、それと――」
間を置いて。
「危険性と言えば、二つほど忠告してやれることがある」
「え、まだ危険なことがあるんですか……」
しかも二つも。
ロゼが親切にもこうして助言してくれなければ、どれだけ足元を掬われることになったというのだろう。
「一つはあの男だ。君が事情聴取を受けた男、あれは信用するなよ」
「確か、ルートヴィヒさん……でしたか?」
「私の上司としか名乗らなかったが、あいつは機関のトップだ。この町の事実上の支配者でもある」
世界復興機関は魂と魔力の研究機関であり、町の政治運営とは独立しているようだったのだが、やはり武力を一手に握る以上支配力が強いのだろう。
ただ者ではないと思っていたが、気軽に話していた金髪の壮年の男性を思い出して身じろいでしまう。
「はっきり言ってしまえば、あいつの一存で何もかも動く。私とユーリアにも大概な権力があるが……あいつには逆らえない。君の事情もバレたくないな……一目で魔力を見抜いていたし、もう遅いかもしれないが」
それはまるであの人が別世界について何か知っているような口ぶりだ。だとすればぜひ話を聞きたいのだが、同時にその危険性も諭されてしまっては身動きが出来ない。情報があるかもしれないのに何もできないことを歯がゆく思う。
「――あっ、もちろん私がこうして忠告したこともばらすなよ? あまり言えないけど、実は限りなく背信行為に近いんだ」
「あ、ありがとうございます」
そんなリスクを背負ってまで、ただ出会ったばかりの――それも、自分に危害を加えた相手を思いやるなど、
「優しいんですね」
「うん?」
「その、俺にわざわざ助言してくれただけじゃなく、いろいろ気までつかってくれていたし……」
そして、ユーリアの事まで気にかけていた。人の心に触れる仕事柄、気配りに長けているのだろう。
人の顔色を伺うことぐらいは、廉太郎もよくやっている。
しかし彼女は、他人の心に踏み込んだ上で寄り添おうとしている。それは大変なものに思えるし、自分には到底できないことだと痛感させられるようだった。
そんな廉太郎の視線に、彼女は笑って返していた。
「今持ち上げても現実での好感度は上がらないぞ。本体には届かないんだからね」
だからこそ、踏み込んだ一言が言えたのかもしれない。
後腐れなく、その場限りの本心を口にできた。
それでも照れ臭くはあった。なれないことをしたからだ。
「さて、二つ目の忠告だけども」
まだあったのか、そういえば。
忠告と親切が終わりそうにない。
「いや、これはもっと深刻なんだよ。君の魔力量は膨大だとあいつに言われたな? それを使う機能に障害があるとも」
「はい」
「正確には、君の魔力量は膨大で……なおかつ増大し続けている」
「増大してるんですか?」
魔力があると言われるだけでも落ち着かないのに、それが増大し続けている。
それを吐き出す術がないのであれば、
「いずれ許容量を超えて死ぬ。あまり猶予もないようだ。実感ないだろうけどね」
「そもそも、俺にどうしてそんな魔力があるんでしょう? 魂が歪んで魔力になるなら、俺もだいぶおかしくなりはじめているということなんですか……?」
魂を歪める瘴気の影響を急速に受けているのだろうかと思うと、やはりこの世界にいることすら恐ろしくなってしまう。すでに、思考言語が汚染されているような実感があるのだ。
しかし、そんな廉太郎の不安を、彼女はただ困ったような顔で眺めて言うのだった。
「いや……詳しくは言えないんだけど、君は瘴気の影響は絶対に受けないんだ」
「え、なんでですか?」
「別世界の人だから、魂の質が違うんだよ」
疑うわけではないが、やはり懸念事項と不安が重なっていまいち飲み込むことができない。すると彼女は、
「ううん……話せないのが心苦しいけど、とりあえず信じてくれないかな? 私の顔に――この綺麗な顔に免じて」
「あ、はい……」
追及する気も疑う気も何も無くなってしまった。
まぁ、彼女が悪意を持って情報を隠したり誤魔化したりするようにはとても思えないのだが。
「しかし、となるとどうすれば助かるんですか?」
忠告だと言うからには対策があるはずだ。
「うん、君の魂は穴が開いていないようなものだ。かといって、無理に開ければただ死ぬだけ」
漠然と、自然に膨らんでいく風船を思い起こしていた。空気孔もなく、ひとりでに膨れ上がっていくゴム製の球体。
それを魂だと仮定すれば、針で穴を開ければはじけ飛んでしまう。そう思うと、危険性が実感として湧いてくる。
「だから、魂に無事に穴をあける技術が必要なんだよ。人形を手に入れろ」
「はぁ、人形ですか?」
「――あぁ、これ以上はユーリアに聞け。もうすぐ君が目覚める時間だから」
この夢の中での密会が終わろうとしている。夢が開けるというのは自然な事なのだが、それを自覚して迎えるとなると少し恐ろしくも思える。
「はは、彼女には存分に頼ってしまえ。迷惑だなんて考えなくていいし、そのほうがあいつの気もまぎれる。弱みを見せようとしない娘だけど、だいぶ参っているはずだから」
「参っている……あなたのこととか、怪我のことですか?」
「……だから、色々あるんだよ」
そう口にしたのを最後に、彼女の姿が透明度を落としていくように薄まっていくのが分かった。
それを認めると、彼女は名残惜しさを欠片も見せることなく気楽に別れを告げようとしていく。
「ん、ここまでだ。じゃあな、もう消えるから安心しろよ」
まるで厄介者でも立ち去るかのような台詞に恐縮させられてしまう。これほど面倒を見てもらったというのに、少なからずそう思っているのは間違いがないからだ。やはり心の中に誰かがいるというのは、落ち着き切ることができない異常事態。
本来なら態度に微塵も見せるべきですらような、人として最低の類の態度だと我ながら思ってしまう。不可抗力でどうしようもないとはいえど。
彼女が、そんな不誠実な心にも気を害さない人でよかったと、心から感謝していた。
「ありがとうございました。その、最後に……消えるっていうのは」
「だから、君の魂からは居なくなるよ。いつまでも私が中にいたら気持ち悪いだろう、君も」
廉太郎はそこで、何か言葉をかけようとしたのだった。言わなければいけないことはあったはずなのに、それ以上考えることはできなかった。
夢が、ただの夢に戻っていく。
自分を自分であるとさえ認識できないまどろみの中に、廉太郎の意識は急速に落ちていった。