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ワールド・ブラインド   作者: 宝の飴
第三章 「」
148/149

第四十五話 半直り

 ほんの偶然だった。

 ただ、入る部屋を間違えただけかのような。

 そんな気軽さで廉太郎れんたろうが立ち入ったのは、町はずれのとある施設。薄暗い路地裏で開けた扉は、勝手口だったようで、横へと短く延びる通路に面していた。

 施錠や警備どころか、人気ひとけすらそこでは感じられない。

 数歩先、通路を挟んだ向かいに一室へと続く扉がある。

 廉太郎がふと覗いてしまったのは、その小窓にはまるガラスの奥。


 ――あぁ、そうか。

 

 そこにあったのは、部屋というより一つの空間。広い。机を並べれば食堂にでもなりそうな、大人数での会議でも開けそうな、余裕のある空間だった。

 そしてそこは、作業場として機能していた。

 仕事なのだろう、十人ほどの工員がそこで黙々と作業を進めている。部屋の中央には移動式の大かごが集められ、その周りを囲うようにしてその工員らは立っていた。

 かごの中には、金属質なカップ状の何か――が、雑多に積み上げられている。

 作業の内容は、それらを別の木箱へと移し替えていくものであるらしい。

 梱包作業である。 

 一つ箱が埋まると、蓋を閉め部屋の隅へ、床の上を押し動かすように並べていく。そして別の箱を手に取って、また同じことを繰り返す。かごが空になるまでか、規定量を積み込み終わるまで。

 それは単純な軽作業だ。特別なんと言うこともない、学生のアルバイトでもおかしくなかろう。

 現に、私語こそ交わされようとしないものの、表情一つ変えず、淡々と仕事をこなす工員のさまはいっそ涼しげにさえ見えそうなもの。

 ただしその全員が子供だった。


「社会の闇ってやつか……」


 それも幼い、十にも満たないような子供たち。

 作業衣に帽子、同じような格好をさせられている。背格好も似通っていて、近い歳の子で集められているであろうことが察せられてしまう。

 クリスより少し、幼いくらいだろうか。あれより五センチほど背の低い年の頃。

 ただその横顔、その仕事ぶりは――子供にしてはあまりに物分かりが良すぎている。労働にもその作業にも慣れているかのように、そのための訓練も教育もすでに終えているかのように。

 目の前の作業に集中している。

 こうして部外者に覗かれているなどと、まったく気づきそうにもない。


 ――見なけりゃ良かった。


 気分が暗い、自然と無言で悪態をついていた。間の悪さと、気の迷いと、不用意な好奇心を持ってしまった自分自身に。

 別に子供が働くこと、働かされることを廉太郎は悪だとは思わない。感情を抜きにすれば――特別なことではない、それは生き方と社会の問題だ。慣れていただけの価値観、他所よその価値観を絶対視するほどの自信は、廉太郎にない。

 かつての『故郷』、その歴史においても、工場制の普及に伴い、安価な労働力として女子供は駆り出された。そもそも児童労働自体が、産業化以前でもむしろ当たり前と見なされていたものでもある。

 機械化によって未熟な体力が問題にならなくなってしまった点でさえ――それを思えば、決して悪影響だけを与えたものだとは言いにくい。

 人類にとっての必然、当たり前の光景。

 法整備なんていずれ進む。

 解決不可能な問題の類いで、いちいち気に留めているようではやっていけない。

 何を働きかけられるだけの力もなければ、その気さえも廉太郎にはないのだから。

 ただ知る必要のないものを知った。後悔だけを抱え、その場を去ってしまおうと廉太郎は顔を逸らす。

 勘違いとはいえ、ふらりと入れてしまったとはいえ――軽い不法侵入だ。見つかっては面倒だし、何よりここに用などない。

 居続けたいはずもない、むしろすぐさま立ち去ってしまいたいくらい。

 なのに、


「…………?」


 体は動かない。 

 戻らなければと考えているのに、関心を興味も意図して捨てようと努めているのに。

 なぜか、廉太郎の体はそこを離れようとしていなかった。視線さえ、むしろ食い入るように小窓の奥へ釘付けになってしまっている。

 何をやっているのか、分からない。

 ただ勢いだけは、このまま扉を開けてしまいそうなまでの有様ありさまで。

 まるでその奥に、何かを探しているかのように。

 何か、納得できないものがあるかのように。

 たかだか子供が働いている、それだけの光景から目が離せない。

 違和感があったのだ。

 いつしか停止していた思考の中、その事実に、ようやく廉太郎は気づいた。


 何かがおかしいのだと。


 ――どこだ?


 これまで見聞きした実態とのギャップだろうか。外には普通に日々を過ごす子供の姿があったものだから、そこまでの貧困と格差があるようには感じられていなかったものだから――?

 教育制度との矛盾点か?

 真っ当な人間にだけは、向けられる人権意識がかなり進んだものになっているはずだったからか?


 否。

 違う、納得できないのはそこではない。それらの疑問などいくらでも解釈が可能なもの。

 おかしいのはそれら事実ではないのだ。

 その光景、それ自体。

 どうしても、目には何か、只ならぬ異常が映されているような気がしてならなくて、


「まさか、いや…………」


 気づけば、動機に襲われていた。

 無意識ではもう、事実に気づいて理解しているのだ。

 動けないのではなく、体までも竦んでいた。頭は混乱して、ただ正体不明な恐怖があることだけを訴えている。

 不思議な感覚だった。

 現実感がなくなって、まるで夢の中にでもいるかのよう。

 ふと。 

 手元で音が――金属が擦れたかのように鳴っていた。手が、知らず知らずのうちに目の前の扉の取っ手を掴んでいる。

 あとはもう、押すだけで入れてしまうまでに開きかけていた。

 魅入られたように体重をかける――

 

『つまらないものを見ちゃったな』

「――おぁ!?」


 うっかり。

 開け放ってしまうところだった、心臓が飛びあがりかけた勢いのせいで。


「お、驚かすなよ……『ロゼ』」


 その緩急で正気に戻り、伸ばしていた手も引っ込めてしまう。

 あまりに突然の、思いがけない語りかけ。『ロゼ』の声は頭に直接聞こえてくるとはいえ、彼女の声には常に出どころが用意されていて、立体的だ。彼女の姿が見える場所から、本当に耳が拾ってくるみたいに。

 そのせいで、気分的には急に背後から咎められたようなものだ。軽い気持ちで忍び込んでいる身としては、たまったものではない。


『おい、静かにな』

「誰のせいだか――」


 真横に現れた『ロゼ』へ、少々恨めし気な目を向けてしまう。

 彼女とは顔を合わせるのも、声を聞くのも久しぶりだった。実に三日ぶりのことである。

 このところの彼女は、すっかり廉太郎の魂に引きこもりがちになってしまっていた。こうして洗わるのも、限られた場面だけになってしまっていたくらいに。

 助言が必要になるほどの、切羽せっぱ詰まった危機的状況。

 この数日『ロゼ』が現れてくれたのは、決まってそんな場面だった。

 ゆえに緊張が走る。

 どう見ても、どう考えても、雑談しに現れたという風ではない。


「どうした急に……あ、ここに居るのは危ないって?」

『騒がなければ平気だろうさ。まぁ、ある意味危なくはあるんだが――』

「どっちだよ」


 その返答に苦笑して、それからようやく安堵した。急に現れた理由も、妙に言葉を濁す理由も分からなかったが、少なくとも多少の余裕がありそうなのは読み取れた。

 焦る必要はさほどあるまい。

 何より、その短い会話は心に沁みた。

 明らかに廉太郎を避けていた『ロゼ』との、久しぶりの交流。加えて、この二日間で積りに積もった緊迫感と孤独感がある。

 閉め切められた部屋が、換気されたような気分だった。


 ――チャンスだ、これは。


 同時に強くそう思う。

 敵を発見するまでの、残り数時間。その中で、彼女の協力が得られる可能性を少しでも上げておきたい。

 せっかく口をいてくれたのだ、これを途切れさせる手はない。


「心配ないよ、もう戻るから――」


 現実的な問題へと頭を切り替え、足を動かそうとした廉太郎。しかし、それを制止するように『待て』との声がかけられて、


『釘を刺しておいてやる』

「……釘?」

『後で、悪い方にこじらせないようにな』

「だから、何を――」

『気づいちゃったろう?』


 怪訝けげんに眉をひそめてしまう。

 そんな廉太郎の前で、『ロゼ』は扉の向こう側を、顎でしゃくるように指し示して、


『あれらは全部人形だよ』


 その言葉と態度で、すべてを廉太郎は納得する。

 覚えていた違和感と、そして嫌悪感の正体をも。

 そう――すべてが同じ人間だったのだ、その部屋の中に居た子供たちは。

 同じような背格好をした、同年代の子供たちなどではなかった。まったく同じ、変わらない人間が十人ばかりその部屋に同時に存在している。

 身長、体形、横顔、帽子から覗かせる頭髪――それらすべての特徴が、合わせ鏡のように変わらなかったから。


「……あぁ、そう」


 人形はクローンとして、人工子宮内部で培養、複製された人造人間ホムンクルス。人と同じ肉と骨と血で造られているのに、自己と自我、心――魂だけが欠けた存在。

 生き物ではない。

 そう見なされてしまった道具モノの総称。


「確かに、つまらない話だな……それは――――クソ」

『察せられるよ、お前の立場と気持ちとか。受け入れがたいんだろうってね』


 思いのほか、動揺させられてしまった自分がいる。その事実に廉太郎は驚いていた。

 子供が働くことを否定できないように、人形の扱われ方だって否定できる立場に廉太郎はない。人として、思うところがあるにしても。

 やはりそれは些細なはずだ。

 正義感で、そこまで思想的にも、感情的にも熱くなれるような人間ではない。

 目の前で働くのがクリスならともかく、赤の他人でしかないのに――だ。

 

「なんだよ『ロゼ』」


 苛立ち。

 八つ当たりのようなその矛先は、自然と彼女へと向いていた。


「こういうのが当たり前か、この世界では」

『うーん、まぁこれはレアなケースだと思うけど……用途としてはそうだな、疑問に思われることではないね』

「胸糞悪いな」


 兵器としての運用以外にも、世に流通する人形は都合よく使われている。

 その事実は知っていた。

 現に廉太郎が、魔力の逃がし口としてのクリスを必要としたように。

 人形が命令通り、機械的に動くのなら、こういう運用はむしろ自然。レアケースであることの方が驚くべきだ。

 ただ、クリス以外の人形を、廉太郎が直接見たのはこれが初めてで。

 実態を目の当たりにしてしまえば、がらにもなく感情が高ぶってしまう。自分の中の、どこに隠れていたのだというほどの嫌悪感が、顔を出そうとして暴れている。

 『ロゼ』との会話は――周囲にとっては独り言だろうが――部屋の中にも聞こえてしまっているはずだった。

 それでも、人形たちには反応がない。

 よそ見一つせず黙々。機械的に動くのが工場での模範もはんに違いないが、その様子は、本当に機械の一部に徹しているかのよう。

 ともすれば、廉太郎の目にさえも人間として映らなくなってしまいそうなほどに。

 みなが口を揃えて言っていたように、クリスが例外中のそれであったのを、今になって実感した。


『だから、お前もあまり考えるな』

「――は?」

『悩むだけ損な話だからね。忘れてしまうのが一番いい』


 そっけない態度だったが、口にする言葉は気遣ってくれているものだとすぐに分かった。普段通りの、彼女がいつもそうするときの顔だったからだ。

 その理由も、廉太郎には分かってしまう。 

 人形を人と思わないこの世界において、相反する価値観を持ち込んできた異世界人だけが――それも最初期に、クリスという例外と接触してしまった廉太郎だけが――この光景に、悲痛なものを感じとってしまう。ショックをあまりに受けてしまう。

 それを察してくれたのだ。

 釘を刺すと言ったのは、つまり「あまり悩んで傷つくな」ということ。


「無理に決まってるだろ……ッ」

『声を抑えろって。しゃくに障ったなら謝るからさ』


 それは自分の台詞だと思った。

 こうまで気が立ってしまう理由が、廉太郎自身にも分からずにいる。


『正直、この件に関してどういう顔でお前と話すべきなのか……私も悩ましい。だから、あえてドライに振る舞ってる』


 作業場の向かい、奥に続く大きな扉が開かれた。目を向けると、そこから新たな籠が運ばれてくるようである。

 その隙間から奥、施設の内部が僅かに覗けた。

 忙しなく動く機械の音と、蒸気の音が漏れ聞こえた。 

 食品加工と、缶詰の工場。

 その観察で分かった事実は他に、奥でも変わらず同じ固体が働き、動いているということだけ。


『酷いことだと思うかい?』

「当たり前だろ、って言いたいくらいには」


 工場法どころではない、子供の権利どころではない。

 だって、人としての扱いですらないのだから。

 機械の一部、ロボットと本当に変わらない。そういう運用がなされている。

 人形には魂がなく、自我ない。人ではなく、生き物でさえない。

 ゆえにその扱いには制限がない。躊躇ちゅうちょからして存在しない。何をしようとも構わない、当たり前だと――そんな理屈がまかり通っている。

 そういう世界だと、改めてこの現実を認識した。

 久しぶりに感じさせられた、この世界への本能的なおぞましさを。人との違いを求めるなら、人造生命のすべてはタブーであるべきだとの確信さえも得るに至った。

 やはりこの世界の在り方は――特定の物の見方だけは、あまりに歪で。

 この『舞台せかい』と、廉太郎の『故郷』との違いは、そういった存在が生み出されたかいなかだけに留まらない。

 もっともかけ離れているのは、この人形が、ここでは誰もに受け入れられてしまっているという点。長いその技術の歴史の中で、疑問を抱かれれるような流れさえ、少しも生れた様子がないという点。

 人格者であるはずの『ロゼ』が、こうなのだから。

 廉太郎の中で、それはあり得ない部類の感覚だ。宗教観とか文化とか、そういうもので割り切ってしまいたくもない。

 根本的に何かが、人としての何かが違っているのではないのか。

 そんな、考えたくもない疑いを抱きそうになってしまう。


『奴隷のようだと思うわけだ』

「より悪いだろ! どうせ休みも、賃金だって要らないってんだろうから――」


 奴隷は社会的弱者であって、必ずしも虐げられる者ではない。虐げられようともあくまで人で、そして人でなくとも扱いは財産。

 その人間性は、打算的にでも尊重される。程度に差はあれど。

 だから奴隷以下だと断言できる。

 扱いだけでなく、在り方もそう。

 彼らの存在理由は他人にとってのものでしかなく、彼らにとっての生れた理由など何もない。考えることも感じることもなく、希望も絶望もない。

 生き物ではないと見なされている。

 だがその是非にかかわらずとも、それで「生きている」とは言えないのだろう。

 人生そのものが、生れる前から与えられなかったのだから。


『でも廉太郎。私には、その視点の方がむしろ残酷だろうと思えるんだけどな』

「なに?」

『あれらに情を抱いてしまえば、抱くべき人間性を認めしまえば……その瞬間、可能性が生れてしまう。内心に地獄を抱えていた彼らと、罪を犯していた私たち――なんていう、確かめようのない可能性が』


 人類が食ってきた魚に、果たして痛覚はあったのだろうか。


 ――そんな問いとよく似ていた。 


 人間によって誰も疑われない間――事実に左右されることなく――苦しむ魚など存在しない。だが、一度疑われれば、その瞬間に可能性が、つまり概念が生れることになる。

 確かめようがないのなら、その概念は事実にとって代われる真実となりえる。

 人の主観において。

 未発達の知識技術では、魚の痛覚の有無など研究のしようがないように、人形に尊重されるべき価値があるかどうか確かめる術が存在しない。

 SFのような人工知能が実現しえたとして、人と変わらない振る舞いができたとして、それが従来通りの「統計データによる機能」の延長でしかないのか、「超常的・超科学的に与えられた自我」なのか――確かめる術がないように。

 自らをその前者だと言い張る、クリスなんていう存在さえも身近にいる。

 

「……心がないから、誰も苦しんでいないって?」

『あぁ。だからお前が思い悩む必要も、ショックを受ける必要もない』

「心がなくても人は人だろ」


 虐げて良い理由にはならない。

 この扱いに何も思わずいられる理由には、到底足りない。そんな理由で割り切れている、ここの人間の方がおかしいに決まっているだろう。


『考えてみろ。本物の子供が、代わりに働かされてたよりは良いだろう?』

「百倍マシだと俺は思う」

『えぇ、……まじで言ってる?』


 呆れ顔など『ロゼ』に見せられずとも、理論で負けているのは分かっていた。

 仮にこれがディベートで、傍聴人ぼうちょうにんをこの世界と『故郷』から半々ずつ選んで座らせていたとしても、投票ではかなり分が悪かろう。

 廉太郎が口にするのはすべて感情論でしかない。認めたくない現実に、解決案も代案も出さずにダメだと無茶を押し付けている。

 

『なあ、こっちが正しいって言いたいわけでも、言い負かしたいわけでもないんだよ。私は』


 納得するどころか、ますます意固地に表情を固める廉太郎に、彼女はふっと顔を和らげ、


『ただこのままだと、三日三晩悩まれるのが目に見えているからな。どうにか落としどころを見つけてやりたかったのさ』

「……気持ちはありがたいんだけど」


 食い下がられて、いい迷惑だろう。彼女にとっては。善意で気を遣ってくれているだけだというのに。

 それでも、廉太郎は食い下がらなければならなかった。そうするべきだと、衝動的に思ってしまった。無意味な義務感に駆られていて、孤独な責任に酔わされていた。

 どんな問題でも、必ず声を上げる人間は生れてくるはずなのに。

 この件に関して異を唱えようとする者は、他に生れてこないような世界であるらしかったから。


「嫌なものは嫌なんだよ、いいだろ。無理に落とさなくたって」

『お前、最近の自分の精神状態考えてみろ。これ以上抱えてられるのかよ』

「それは――」


 確かに、場合じゃない。

 余計な悩みなど、正直言えば遠慮したかったし――それに、状況的にも時間が差し迫っている。

 いつまで油を売っているつもりなのだ、そろそろ見つかって追い出されてさえしまいそうではないか。

 少なくとも今ではなかった、ぐだぐだ思い悩んでしまうのは。

 だがそれでも、廉太郎の注意は未練がましく小窓の奥に向いたままで、


 ――ふっ。


 笑いを帯びた息、いよいよ小馬鹿にされたかと廉太郎は思った。


『……分けてほしいよ、少しくらい』

「え、なんだって?」

『別に。で、他にないのか? 言いたいこととか、聞きたいこととか』

「あるよいくらでも――」


 促されて息をつく。

 でなければ、言葉がはやってまとまりそうになかった。


「だいたい、なんで子供なんて使うんだよ。選べるなら体の育った人形だろ普通……労働にしても兵器にしても」

『コストの問題だな』

「給料も払わないくせに?」

『いや、生産コストと管理――食事量の方だ』

「ケチるんじゃねぇよ、子どもの体の栄養を」

『まぁ、うん……後は、入手経路の問題だな。大々的に購入できるものじゃないし、偶然の伝手つてで手に入った固体を利用するしかないからね』


 女子なのもそれが理由か。

 同じタイプで肉体年齢も同じなのもそうだ、生産ロット単位での取引がなされたというだけのこと。


「……じゃあ髪はどうなってんだ」


 極論を言えば、不要なものだ。頭部を守れるだけの最低限だけを残しておけばいい。

 なのに部屋の中の人形たちは、帽子に前髪をしまわせてまでそこそこ髪を伸ばさせられている。服装の一部のように、同じ髪型で統一されてはいるようだったが。


「石鹸まではケチれないよな、衛生的に。なら伸ばさせるってのは完全に無駄であるはずだ」

『ん、ほんとだね……』

「それは無意識の内に、多少は人間扱いしてしまっている……ってことじゃないのか?」

『まぁ、人は道具のデザインにも凝ったりするものだし』


 こうもからぶって、なお期待していたい自分がいた。

 ここいる人間の良心、価値観の共有を。

 でなければ、世界そのものでなく、具体的にその住人を、見知った相手を、得体のしれない気味の悪さを覚えた目で見てしまいかねなくなる。

 『ロゼ』と、ユーリアと――。


「じゃあ、クリスは――?」


 口が滑ったように、廉太郎は聞いていた。


「あいつのことはどう思う?」

『本当に稀少な例外だよ。本人は否定してるけど、明らかに自我があると私も思う』

「なら、人間か?」

『どうだろうな、定義するとなると。……少なくとも、生きているとは言うべきだね』

「…………そう」


 明確にある違いは一つ、魂の有無。 

 だがそれが何だ、魂なんてもはやただの器官に過ぎないのではないのか。そんなものの存在すら、かつての世界では観測されてさえいなかった。

 人の肉体に宿る何某なにがしか、その概念に対する理解に齟齬があるだけなのではないのか。


『へえぇ?!』


 不意に廉太郎のとった脈絡のない行動が、高い声で驚かれていた。


『ちょっと、おい――』

 

 戸惑う彼女の制止を完全に無視し、廉太郎は開けてしまった扉から部屋の中へと入っていく。

 無遠慮に無警戒に、何を考えてのことでもなく。

 人形たちは闖入者ちんにゅうしゃにも概ね反応を示そうとはしなかった。ただ、その内の一体だけが代表して、作業の手を止めてくれるようであった。


「――どなたですか」


 入り口から最も近くに居た一体だ。振り向いた彼女は廉太郎の姿を認めると、警告するような声と足取りで近づいていてくる。

 小さく、幼い子供だった。

 ただその顔立ちは、機械的に無表情であるがゆえに、どこか凛とした年長者を思わせる。

 顔立ちも髪の色も、クリスとはまったく異なるものであった。人形としての型、複製元となる人間の情報が違うのだ――幸いにも。

 もし、仮にあの少女の面影を、ここで見る羽目になってしまっていたなら――。


とう工場は現在関係者以外の立ち入りを歓迎しておりません」


 髪型は少し似ているだろうか――茶髪の彼女に見上げられる形で目が合わさる。その視線が、毒でも発しているかのように心に冷たく刺さってくる。

 

「どうぞ、速やかな退室をお願いいたします」 

「こんにちは」

「こんにちは。指示に従っていただけない場合、やむをえず警報を鳴らすことにもなりえます」


 会話ができるのかどうかも、廉太郎は知らなかった。

 心がない、人と変わらない肉体を持つだけの存在だなどと言われても、まったくイメージなど持てないままでいたから。

 だが――マニュアル対応に挟まれる形で、余計に機械的なものに感じられてはしまったものの、確かに挨拶は返された。

 返されてしまっていた。

 その事実に、更なる重いショックが心に重ねられていく。

 一体どうして証明できよう。

 この知能に自我は伴われず、単なる機能でしかないなどと。


「名前は?」

「サフラ19021です。当工場または職員に用がある場合――」

「えっと、今日の仕事は何時に終わるの?」

「……の事務室をお訪ねください。労働の概念はありません」

  

 気を抜けば、声も震えてしまいそうになる。

 ただ、辛いのと同時にその会話を有意義にも感じていた。

 もう少し言葉を交わしていたい、視界に入れもらえるだけでも構わない。それが何か、特別で、稀少な価値のある瞬間であるかのような気がしてならず。

 だが、許された時間など限られている。互いにとって。


「以降の応答を終了します」

「――あぁ、邪魔しちゃったね」


 それと分かる目配せに、これ以上居座り続けては色々良くないのを知らされる。

 交わせた言葉は一言二言、何を判断するにも到底足りない。

 名残り惜しい、あまりに――。

 だからつい、去り際にその頭を撫でてしまっていた。

 そして、すぐにそれを後悔する。

 結局、『ロゼ』の言うことが正しかったのだ。

 

「じゃあ、これで……」


 逃げるように、言葉だけ残して背を向ける。

 抵抗も反応も示さなかった彼女から、ずらされた帽子を直す気配だけが伝わってきた。かと思えば、同時に終わりの言葉が投げられて、


「次回の見学、製造体験イベントは未定となっております」


 ――見学か、通りで。


「希望であれば後にご確認ください」

「あ、あぁ……ありがとう。さよなら」


 振り返ってやるべきだったろう、人として見ていたいのなら。

 だが、とてもではないが無理だったのだ。

 何もかもが辛く、自分の感情すら把握できてはいない。期待しているのか、真に迫っているのか、ただ勘違いをしかけているだけなのか。

 いずれにせよ救いはない。彼女たちにではなく、廉太郎自身に。


「……番号まで覚えちゃった」

『だから言ったのに』


 宣言通りに、『ロゼ』は冷たいほどに淡々としている。

 今でこそわかる、その態度に間違いなく助けられてしまっているということが。

 作業場を出て後ろ手に扉を閉めてしまうと、どっと疲れが襲ってくる。小窓はもう覗けない。万が一にでもそれで再び目が合ってしまったなら、二度と立ち直れなくなるだろう。


「悩むだけ傷つくだけだったよ、確かに」

『余計なことしたね』

 

 そうは思わない、でも――


「……あぁ居たなぁ、こんな奴」

『うん?』

「なんでもないよ」


 外への出入口、その目の前にまで近づき待機していた『例の追跡者』を、外開きの戸を利用して押しのけた。体勢を崩したそれが倒れるのも見届けず、工場を後にした廉太郎はさすがに周囲を気にするような素振りですぐにその場を離れに歩く。

 気分は最悪だったが、後悔はない。

 これは言わば、好き好んでつけたような自己満足の自傷の傷。

 痛むと同時に手放しがたい。傷痕が熱を帯び感情がくすぶる、その切なさに酔わねばやってられなかっただけでもあるのだろうが。


『無視できないのはクリスと居るからだろ。気にするのはもう、あの子と私だけにしておけ』

「クリス、と――?」

『冗談だ』


 ここには二度と来られない。来るつもりもなければ、その必要もない。

 施設の連なる薄暗い路地裏から抜け出そうと、日の当たる往来へと足を進める。

 

「なぁ、ラックブリックにもあったのか……こういうの」

『いいや。あの町には人形持ちさえ居なかったはずだ』

「クリスの他には、か」

『いつどんな経緯で渡ったんだか。何もかも謎だな、あの子』


 それでも、未練がましく話を続けようとしてしまう。

 割り切るどころか呑み込むどころか、状態が悪化していくように見えたことだろう。気が気でないのか、ずっと愛想の悪い日が続いていた『ロゼ』も、しばらくはそれに付き合ってくれるつもりらしい。


「ならこの町……こっち側の社会はどのくらい人形に頼ってるんだ? まさか、人形なしには成り立たなかったり――」

『そうでもない。全部なくなってもさほど影響はないかな、損する誰かが出るだけで』


 この体験を打算的に利用するようで嫌になるが、都合が良かった。

 いくら衝撃を受けうようと、現状とは無関係。するべきことは変わってない。

 期せずして叶った、この『ロゼ』とのコンタクトを不意にする手はない。敵を見つけるまで、話ができるこの状態を維持し続けてやらなければ――。


『少し休んだらどうだ』

「えっ? ……ありがとう」


 顔になにか出たのか、一瞬だけひやりとさせられる。

 だが、心を覗かれているこの『ロゼ』にも、ユーリアたちと同じく異常にはたどり着くことができていない以上、それに繋がる意図に気づかれることもまた、絶対にない。

 話がしやすいのはとても助かる――心が筒抜けになっていた、今までの方が異様なのだが。

 唯一今、この状況下でだけは、どこまでも近い彼女と適度に離れた他人でいられる。

 

「気もずっと色々――当たっちゃってたのにな」

『気にするな。お前の立場でなら、きっとそれが正しい』

「……優しいな、相変わらず」


 思いやりがあり、そして思慮深い。

 出会ったその日から、分かり切っていたようなことだ。

 ――なのに、どうかしていた。

 動揺していたとはいえ、あろうことかその人間性、人格を疑い、非難しかけていたなんて。

 たぶん、廉太郎が本当に拒絶してしまいたかったのは、その辺りに触れる点なのだ。非人道的に思えた実態と同じか、あるいはそれ以上にそこを重要視していたのだ。

 自分の好きな人たちまで、この世界と同じように歪んだ何かに見えてしまうようになるのを恐れていた。。

 彼女たちの人間性が疑いようのない確かなものであったとしても、それを思う自分自身は、こうももろくてあやふやだから。

 『ロゼ』と、ユーリアと――。

 

「ここにユーリアが居たのなら、『ロゼ』と同じことを言ったのか」

『あぁ。……でもどうだろ、最近はずいぶんクリスを溺愛しているようだしな――』


 思想に変化があるかも知れない、そんなことを『ロゼ』は言う。

 だが、おそらくそれはないだろう。


 そんなことを考えたこともなかった。

 そんな風に、ユーリアを意識したことは一度もなかった。


 それでも、一つ一つの整理をつけてしまえば、おのずとそのような答えが出てしまう。

 そんなことに思いをはせた瞬間、すべてを察した。

 廉太郎の本心、一番ショックだったのは――たぶんそこだ。

 ユーリアですら、あの彼女ですら。

 何も例外ではないのだと。彼女の人形に対する姿勢は、概ね『ロゼ』の口にした一般論に沿うものでしかないのだと。

 そもそも初めから、それと知って、人形を手に入れるよう廉太郎に促していたくらいなのだ。

 彼女も当たり前の感覚で、人形を人だとは思っていない。


 ――クリスに対しても。

 

 このところの彼女の言動を、振り返れば振り返るほど、それが確信できてしまう。

 この町に来て時間を潰す間、クリスをあちらこちらへと連れ回し、服装に口を出し、目についた食べ物を買い与え――そして風呂場やベッドにまで連れ込んでいる。

 拒否されないのを良いことに、かなりの好き勝手をやってしまっている。

 本人が持ちかけた罰ゲームの結果とはいえ――急遽きゅうきょ翌朝まで全裸でいるのを強要し、その状態で添い寝をさせ、買い与えた服は自らの手で着させてやり、朝から照れのぼせ上げるまで体を洗ってやっていた。

 いくら何でもやり過ぎだろう。

 確実に自制を忘れ、エスカレートしてしまっている。仲の良さ――ではやはり、頷けないほどの付き合いしかまだ築けていないはずなのに。

 ユーリアの抱えた事情を思えば、責められることではないし、そのつもりもない。ただ一人触れあえる友人を得たのだから、どれだけ舞い上がっていようともおかしくない。

 もちろん、無意識のことでもあるのだろう。彼女は彼女で、例外的なクリスを下手に扱おうなどと思ってはいないはずなのだ。

 だが、ユーリアの中にどこか、「人形だから」という感覚が残っているのは否定しようがない事実で、


「……なぁ『ロゼ』」

『うん?』

「クリスは物扱いされると嬉しがるんだ」


 ユーリアのその心理に、クリスはきっと気づいている。

 頑なに人間であること、自我が芽生えたことを否定する。特例な人形にして、不可思議な思想と価値観をも併せ持った人間が、クリスという子供らしからぬ子供だった。

 拒絶していない、嫌がってないどころか、心地良く感じているはずだ。

 ユーリアによって思うがまま、好きなように、大切な玩具ドールかのように扱われていて――その上で、愛されている実感までもが得られるから。

 だから、二重で懐いている。

 その両方が嬉しいのだ。

 打ち解けているのに、廉太郎がどこか一歩引かれているのもそれが原因。

 人形の理解さえできておらず、どこまでも、人間としてしか扱おうとしてこなかったから。


「なんでだと思う?」

『さぁな、何かあったんだろうなとしか……』

 

 『ロゼ』でも、触れられる魂を持たないクリスの心は覗けなかった。

 だが仮に覗けたとして、今のこじれた関係では素直にその先のカウンセリングに応じてくれるとも思えない。むしろ下手に意固地になられるのが目に見えている。

 クリスのことは、ほぼ知らないままだ。

 本人からは言おうともしないし、軽く尋ねてみてものらりくらりとかわすばかり。

 だから、しつこく聞こうとはしなかった。聞かない方がいいのだろうと考えたからだ。

 それが今は、無性に知りたくて仕方ない。

 ずっと、良くしてやりたいとは思っていて、今まさにそれは使命的なまでに後押しされてしまっている。なのに本人のことを知らないままでは、してやれることも、してやるべきことも何も分からないまま。


 おそらく。

 ――ではなく、確信を持って口にできる。


 この世界の中で、クリスのことを一番気にかけているのはこの自分、娵府廉太郎よめくられんたろうであるのだと。

 愛してやっているのはユーリアだろう。人形だとか人間だとか、彼女はたぶん気にしてもいない。ただの友人として見ているだけだ。

 良し悪しではなく、自然体。

 ただ、それでは廉太郎はいられなかった。


「そろそろ聞いてやろうかな」

『んー、はぐらかされそうな話だな』

「手伝ってくれよ、そしたら」

『それ、逆に難易度あがっちゃいそうじゃないか?』


 価値観に順応する前に、一個人としか思えない特例と関係を持ってしまった。問題を捉える前提が違う。

 クリスの幸福を願う者は他にいても、その人間としての在り方と人格に、口を出したくなる者はいないだろう。

 要は、廉太郎は気に入らないのだ。

 世界自体も、それに迎合げいごうするかのようなクリス自体の存在も。

 確かなのは、今この瞬間、居てもたってもいられないのだということ。心を痛めた――などと、一人よがりのお節介でも、それは抑えが利かないまでに耐えがたいほど強い。

 その苦悩の大きさ――価値が、ユーリアの友愛に負けているとは思わない。

 それを思うと誇らしかった。

 あのユーリアに、胸を張って優ると言えるものがあるなんて。それもこんな、他者に対する思いにおいて。

 

「なら仲直りしてもらわないと。いい加減、俺も胃が痛いんだから」

『よく言う……無理だよ、それは』

「こじれたのは説明しなかったせいだろ。まぁ、それはクリスも同じだけどさ」


 事情が分からなければ、判断のしようがない。

 クリスが人間でありたがらないこと、人格や個性を演技演出と言い張りたがること。自我を生むに至ったきっかけ、どのようにこれまで生きていたのか。

 そして、なぜ学団を憎むのか。

 それらすべての疑問や興味に、良かれと思って廉太郎は目を背けてきた。

 クリスの核に迫らなかった。

 そんな立場にもなければ、資格も理由も持っていないと思っていた。

 その事情とやらに不用意に触れて、傷をつけてしまわないか、嫌われてしまわないか――そんな関係への悩みで怯えていた。

 要は、自信の問題で。

 他人に深入りするだけの価値を、自分に見出せていなかっただけ。 

 クリスに対してだけでなく。

 この現状はその結果でもある。なあなあで、いつも物足りなさを感じていた、親密で浅い交友関係そのもののように。


 ――じゃあ、楽しみだ。


 ふと、開き直ったかのようにそう思う。

 いざ触れてやったときの、クリスの反応が楽しみだった。

 面倒そうに顔をしかめて、はぐらかそうとして、露骨に態度を悪くするのが目に見えている。最悪、避けられるようになったり、関係が本当に終わるまでに嫌われてしまうことにもなりかねない。

 だがもう、それでもいい。

 そのときは、元から合わなかっただけだ。

 そのリスクを乗り越えた先にあるものが、廉太郎のこれまで求めていたものだ。

 もはや恐れはない。

 少なくともクリスとの問題に関しては、一度壊さねばどうにもならない事態にまで至ってしまっているから。 

 だから楽しみなのだ。その衝突が、本気で行われるものだから。

 傷つけることさえ、嫌われることさえ楽しみだ。

 クリスの心に、永遠に消えない傷をつけてしまいたい。

 その傷は、クリスの人生に廉太郎が少しでも関り影響を与えたことの証になる。

 その傷をつける言葉、その言葉を発する自分――共に、それだけの価値があるのだと信じている。

 

 突拍子とっぴょうしのない、過激にも思えるロジック。

 それを積み上げていく過程で、廉太郎は悟っていた。

 

 人を傷つけるのは、見方を変えればすばらしいものでもあるのだと。

 傷とは変化で、経験にもなりえる。

 未完成の彫刻に打ち込む刃のようなもの。

 それで完成に近づこうが、クオリティが上がろうが、思わぬ別物に至ろうが――台無しになってしまおうとも。

 他人を思って打てたなら、それは対人関係の理想に違いない。

 何も打ってやれない関係では、互いに変化を、成長を促すことができない。いくら親しかろうとも『仲が良いだけの関係』で終わる、まさに廉太郎の嫌悪した物足りなさ。

 その核心の根拠は、廉太郎自身。この世界に来てから全身、傷だらけだ。もはや別の形に、別物になってしまうくらいに。

 そしてそれらの傷すべて、少しも治してしまいたくはない。一つ一つが、今の自分の人格を形成しているものだから。

 傷の痛みが、より良い自分への道しるべだった。

 

「……なぁ、もう腹を割っていいか?」

 

 声色で感じ取るものがあったのか、反応はなかった。急に無言になった『ロゼ』が消えてしまう前に、廉太郎は強く目を覗き込むように呼び止めていた。


「少しだよ、今はクリスもいないしさ」


 相手を傷つけることを恐れないことが、真に大事な相手と関わることだというのなら、今ここで『ロゼ』にも傷をつけよう。

 傷をつけること、深入りすることは、これまでずっと避けてきたことだ。

 だが自信がなくとも、関係が終わってしまう可能性が怖かろうとも、相手を思うのであれば捨て身でなければどうしようもない。

 自信がないなどと、逃げでしかないのだ。

 傷をつけてやりたいと思う時点で、その価値を確信していることには違いないのだから。


「最近相手してくれなくなっただろ。なんでだ……ずいぶん寂しかったのに」

『ん、あぁ――悪かったよ。むしゃくしゃしててさ』


 会話が続いていく。

 敵を見つけるため、という打算があるにはあるが――それとは無関係に、ただ話していたいという本音が、今はかなりの部分を占めている。

 ここで検閲、改竄が起こらないのはそのためか。

 廉太郎を襲う異常も、追跡者も知覚できておらず、ユーリアたちと離れて行動していることを不思議がることさえできないでいるようなのだが。


「むしゃくしゃって、何に?」

『さぁね』

「言えないことがあるから、じゃなくてか?」


 応えはない。

 何に怒っているのか見当もつかない相手というのは、何にも増して難しい。 


「いや、いいんだ! 学団に詳しいのにも、言えないのにも事情があるんだろうし……クリスと違って、俺は学団にも恨みは別にないからな」


 一応はだ。前回、ユーリアもクリスも死にかけていたという事実は忘れられないし、今回廉太郎を狙い打ったまだ見ぬ敵に対しては依然腸が煮えくり返ってはいるもので、


「『ロゼ』があいつらと繋がりを持っていようと、何かもういっそ仲間だろうとも、大して――」


 目の前で表情はずっと動かない。

 何を考えているのかも、的を射られているのかも分からなかったし、消えずに聞いてもらえているだでけも幸いと言えるような状況だったろう。


「クリスはもう、あんたを敵みたいに決めつけちゃってるけど、俺はもう……要所要所で助けてくれているだけで感謝してるから」


 全面的に立場は協力的で、敵でないのは行動で示している。クリスにも理解できるはずだ、感情的になっていようとも否定しようがないのだから。


『……困らせるな、何も言いたくない』

「言えないことは言わなくていい」


 強く問いただしたりはしない。いくら傷つけることを望んでも、追い詰めたいわけではないのだから。

 これは嫌われる前に、嫌われないようにどれだけ傷をつけてやれるかという行為。


「ただ俺は寂しいだけだよ。このままでいたくない」

『……寂しい、か』

「辛くないか?」


 斬りこむのは、自分にとっての本音だけでいい。

 少なくともこのところの、互いに無視し合うような関係は廉太郎にとって苦痛だった。この二日間の孤独が、それに拍車をかけている。


「クリスとは気まずいだろうけど、俺とは何もないだろ」

『何もって……』

「しばらく出てきてくれてなかったけど、夢でなら落ち着いて話せるだろ。好きだったんだよ映画みるの――! 寝ている間に、何か得しているみたいで」

『映画って……』


 意表を突かれたのか、下らないやり取りを思いだしたかのように『ロゼ』は表情を思わずと崩し、


『いやぁ、気分じゃないな……ホラー以外ならいいんだけど』

「よ、よし……でも、となると記憶のストックなんてかなり少な――」


 そのとき唐突に理解した。

 廉太郎がホラー作品を愛したばかりか、それを他人へ共有したがっていた理由を。

 深層心理では気づいていたのだ。大切な相手に、親しい連中に、特別に信頼し合えるようになるための傷をつけてしまいたいという欲求を。

 代償行為だったのだろう。

 仲間内で映画を見るときなど、もっぱら廉太郎は視聴済みだったのもあるにせよ、意識が向いていたのは画面よりもむしろ反応。

 恐れ、驚き、叫ぶところを見るのが好きだった。 

 それを、つけてやれない傷の代わりに感じて、自分自身を慰めていた。

 きっと陸上を選んだのもそれと同じ。仲間が疲れ、苦しむ様を横目に走るのが、廉太郎は密かに好きでいた。

 

『なんだよその特殊性癖……』

「唐突に心を読むんじゃない」 


 普段は気を遣って覗かないでいてくれるのに――さては警戒してオンに切り替えたか。

 別の意味で不安そうに顔をしかめてしまった『ロゼ』だったが、それで自然と馬鹿らしくなってしまったのか、観念したかのように目を閉じだし、


『――私がねてた理由だけど』


 かと思えば、


『いやいや、これ今言っていいのかなあ――!?』突然、思いだしたかのように目を見開いては頭を抱え、『お前もなんだよなぁ……余裕ないのは』

「な、何だよ……気にしてくれるなら、逆に言ってほしいんだけど」

 

 気になるどころの話ではない。

 そわそわと続きを待っている廉太郎に、『ロゼ』は何やらしばし迷ってみたあげく、やがて覚悟でも決めたかのように、

 

『今、お前はその目で何を見ている?」

「いや、あなたの顔に決まってるだろ……」

『ならば私は?』


 至極真剣な表情で、覗き込むように『ロゼ』は言った。


『私に今見えているものが、お前に分かるか?』

「……だから、俺の顔じゃないか」


 聞くまでのことだろうに。

 だが、違うと――返されるその表情が告げていた。


『私は――実際には、お前の目の前に立ってるわけじゃない。居るのはお前の内側だろ?』

 

 廉太郎の魂の内部、そこにロゼの魂の一部が宿っている。


『私のこの姿は、内側から視覚情報を弄ってお前に映して見せているだけで、幻だ』

「な、なにを今さら……知ってるって――」

『だから私に見えるのは、お前が見ているものだけだ』


 彼女は決して、廉太郎から飛び出した精神のような、幽霊のような存在ではない。ただの演出だ、なくても構わない廉太郎のためだけの映像。

 あくまで廉太郎の中にいる――否、廉太郎の一部でしかない。

 だから、『ロゼ』が知覚できるのも、廉太郎が知覚したものだけ。

 ――彼女は今、自らが映し出した自分の顔を見ているのだ。

 廉太郎と同じように、彼の目を通して。


『これでピンときてくれよ』

「…………分からない」


 要領を得ない、そんな言葉だけで『ロゼ』はすべてを言い切ったような顔をしてしまっていた。

 その表情の意味も、廉太郎には分からなかった。

 ただ、見ていられなくて目を逸らした。穏やかな、柔らかなものでしかないはずなのに――なぜ。

 気づけば噛み締めるように、廉太郎は俯いたままにそんな『ロゼ』へと問いを投げて、


「そもそも、なんでそんな幻を……毎回――」

『魂に他者を宿すなんて、お前でなくとも苦痛だろう。だから、他人と話している感を用意してやってるんだ。頭に声だけ届かせるより、マシだろうと思ってね』

「な、なるほど……」

『それに会話中くらい、私を見ようとしていてほしかったから、さ……』

 

 でないと味気ないし寂しいし――。

 そんな言葉は続かなかったのに、廉太郎には聞こえた気がした。

 分かってしまったからだ。

 その会話への欲求が、自分を向いてほしいという感情が。

 この今に続く異常の中、それさえ叶わなかったのを経験していたものだから。

 『ロゼ』と同じように。


「ごめん」

 

 気づかされた。

 『ロゼ』の真意にも、何を苦しんでいたかにも。拗ねていたなどと、とんでもない。

 頭が真っ白になるほどに、謝罪と、情けない気持ちでいっぱいになる。

 かつて廉太郎は一度、ロゼを傷つけた。魂に触れて暴走させて、一部を欠けさせて――そして、その一部を自己の中へと取り込んだ。

 だが、罪はそこでは終わらなかった。

 ロゼから分かたれた一部、自己意識の一部。『ロゼ』にその後も苦しみを与え続けていたのだ。肉体を失い他者の内部に囚われ続けるという苦しみを。死とは別物の人生の終わりを。

 そして、それを認めようとしなかった――今のこの瞬間まで。

 彼女の現状を理解していたというのに、それがどれほど残酷な意味を持つのか、分かっていなかった。考えようともしなかった、考えないようにしていたのだ。

 気づけば、罪悪感と気まずさを意識してしまうようになって破綻するしかない、そんな関係だと薄々感じ取っていたのだろう。

 不都合だったのだ――罪を認めるようで、彼女の地獄を直視するようで。

 『ロゼ』から追及されないのをいいことに、無自覚にも、なあなあの関係を望もうとした。維持される現状に甘えて、見てみ振りを選んでいた。

 とても謝って済む話ではない。


「今までずっとないがしろに……」


 表面的には親しくしていても、本質的には廉太郎は彼女をずっと避けていた。 

 必要以上に馴れ馴れしく接するのを良しとしたのも、真実から遠ざかろうとするためか。

 彼女を人として好ましく思うのとは別に、心に住み着かれたことを疎ましく思ってしまったのも事実である。重荷に感じて、この付き合いを、この関係を、まるで義務か何かのようにさえ感じていたのではなかったろうか。

 それならおそらく、クリスに対しても同じことが言えてしまえるのだろう。


『正直に言えば、お前を恨まずにいるのが難しい』

「うん」

『あの夜の内に消えられていれば……』


 事件の後のイレギュラーとして、一夜限りの夢で済んだはずだ。そこから覚めること、消滅することに躊躇も恐怖も覚えないままで済んだはずだった。

 死を、意識せずにも済んだのだろう。

 二つの死を。

 すでに経験した一度目の死、現実世界からの転落の死と、これから経験することになる消滅の死。

 すべては――良かれと思って、あの夜消えるつもりだった彼女を呼び止め、繋ぎ留めてしまった廉太郎のせい。 


『色々な……夢の中で、現実で起き上がってる自分の姿を見せつけられるような気分だったよ』

 

 廉太郎が現実の中でロゼに会うたび、『ロゼ』には、これまでと変わらず現実を生きる自分自身の姿を見せつけてきたことになる。

 彼女は削られた魂の一部から生れた存在ではない。元の自己、自我が二つに別れた内の片方でしかない。肉体を失い、他者の世界に捕らわれた方――外れを引いた方。

 これまでロゼとして生きていたところから、完全に地続きでここに居る。

 なのにもう、彼女は――廉太郎とクリスの他には、誰と会話することもできなくなった。

 かつての友人にも、ユーリアにも、恋人同然の相手にも。


 何もなければ、廉太郎との接触がなければ――本当に、あの夜に消えてさえいれば。


 本来の自由な人生に、未練を感じずに済んだだろう。同棲相手ローガンへの想いさえ、ついに自覚できないまま終わったことを、後悔せずにも済んだだろう。

 およそ、人が味わうようなものでさえない苦しみを味わうこともなかった。

 独り、絶望することもなかった。


「俺には謝ることもできないよ。どんな言葉も軽い……何も償えない」

『その顔、多少は気が晴れるけど――誤解するなよ。恨みはしたけど、別に嫌いにはならなかったからさ』


 悲痛な告白とは裏腹に、『ロゼ』は酷く落ち着いていた。感情も涙も枯れるまで、独りでひとしきり流し終えてしまったとばかりに、愚痴だけを零す。 

 そんな調子なのに、彼女は打ち明けたことを心苦しく思ってさえいるように見えた。

 自分をそんな境遇に貶めた相手を、あろうことか労わっている。

 それが、辛い。


『とは言えなあ……全っ然汲んでくれなかったんだもん、お前。いざこうして言ってやるまでだぞ?』

「――そんな奴、口を利いてもらえなくても当然だったな」


 ふと思う、


「俺はあなたに、……名前をあげるべきだったのかもしれません」

『えっ? あぁ――覚えてたのか』

 

 現状、廉太郎が『ロゼ』にしてやれることは何もない。一生かけて償おうにも、取り返しなどつかない。

 唯一してやれるのは、生前への未練を断ち切ること。

 和らげない苦痛と、付き合う術を探してやること。

 傷を与えてやることだった。

 以前彼女が冗談めかして望んだように、かつての名前を捨て去って、別物として割り切れる日がくることを願いながら。


『いいよもう、気分じゃないし』

「その……当然のことだけど言わせてほしい。これからは、『ロゼ』……あなたを第一に考えて生きていく」

『ん、クリスじゃなくてか?』

「……それはちょっと、いったん置いといて……後からまた悩むから――」

『ユーリアじゃなくて?』

「あのひとはただの憧れだよ」

『お――?』


 自然と零れた言葉に食いつかれる、もはやそんな乗りも心嬉しい。

 

「ああいう人間になりたいんだ」

『そっちかよ』


 あぁ、そうだ――。

 果たして、彼女につけてやれる傷なんてものがあるだろうか。

 廉太郎の目に、彼女は非の打ちどころのない完璧なものにしか映らない。こうした方がいい、なんて――思いやれる余地さえないように思う。

 クリスのことだって、その内自覚して自制するだろう。

 あれだけの過去も、独りで勝手に乗り越えていた。

 ならばもう、何もできない。悔しい――特別になりたいがためにつけようとする傷なのに。彼女によって、廉太郎は原型を残さないほどに絶えず細切れにされているというのに。


『私が言えたことじゃないけど、深くこじらせちゃうともう戻れないぞ?』

「ま、まぁこじらせてはいるけど。別にそういうのじゃ……」

『そうだ、私に悪いと思うなら言いなりになれよ。あの子でも気づくレベルで毎日アピールし続けていけ』

「卑怯じゃねぇのかそれだけは――!?」


 拒否する権利はないのかも。

 だが、いくら『ロゼ』に報いるためとはいえ、無関係のユーリアに不義理を働いていい理由には――


「その、無責任に希望を口にするみたいで心苦しいけど……」深刻な話を重ねてうやむやにしてしまうより他はなく、「あなたのその状況をどうにか、何とかできないかどうか……その方法を探すのを許してほしいんだ」

『え、そんなの好きにしなよ』


 苦笑される。

 当てなんてないだろうとばかりに、初めから期待などしていない様子だった。


「絶対に無理か? 例えば、学団に頼っても」


 今度は反応が何もなかった。感情を隠そうとして表情を殺しているものだから分かりやすい。

 少しだけ打ち解けた気がしても、やはりその点においては死守される。

 『ロゼ』の問題をどうにかする。可能ならばその理想は、廉太郎の魂に含まれる『ロゼ』の部分だけを、ロゼに返してしまうことだ。分裂した人格も、統合させてもらう形で。

 あるいは、別の肉体を用意するか。


「そういうの、得意そうだったろ」

『……ま、試すのは自由だ』


 連中に何ができるのかは今だ未知数だが、少なくともこの世界の魔法や技術よりはかなり「何でもあり」の色が強く思える。どうにもそこを開拓している。

 その実態をより知るであろう彼女の反応が芳しくないのを見れば、それでも望み薄なのだろうが――


『いいだろもう、それは今は……』


 彼女はあからさまに会話を逸らしたがり、


『それで? こんな話を引き出させてまで、私と腹を割りたがった理由の方は何なんだよ』

「あぁ……クリスの、あの自己定義の歪みをどうにかしてやりたくてさ」


 クリスの屈折した考えを辿れば、「学団と何があったのか」という話をするのは避けられない。そのとき、『ロゼ』とクリスとの間に今ほどの溝が開いたままでは何の話も進まなくなる。 

 

『うーん、あの子は今のあれで、割と満足して生きてそうな感じなんだけどな』

「お節介がしたいんだよ。後輩とか、妹とか、勝手な口を出したくなるものだろ」


 目標は――決めた、意地でも、クリスに自分が人間であることを認めさせること。

 クリスの人格はそれを認めないところにあるのだから、クリスとの人間関係はそこに「なぜだ?」と傷をつけたときにようやく始まる。

 クリスが認め、そう振る舞うようになったら、きっと周囲の人間の見方や思想も変化する。

 それを期待しているのだ。

 廉太郎が縛っている以上、クリスに人並みの自由はどうあってもない。先ほどの工場の経営者を、とやかく言える立場にすらない。

 それでもどんなに自己満足だろうが、あの愛おしい生意気な子供は人間として生きていくべきだと思っている。

 何も変わらないのに、特別だ異質だと思いこんだまま、不当な在り方に甘んじているのは痛々しいほどの損だからだ。


『とはいえ私には、何も……いざとなれば、少しくらいは――だが』

「できる範囲で構わない。俺と話さえしてくれてれば、あいつとの仲も取りなしようがある」


 仲を修復したいのは、クリスの心に近づきたいからでももちろんある。

 だが、それ以前に、人間関係が壊れかけている現状を間近に見せられて、それが痛ましいだけでもあったのだ。

 ただの、ありきたりな喧嘩を仲裁したいと思うのと変わらない。

 クリスのためにも、『ロゼ』のためにも。

 特に『ロゼ』にとっては、クリスもまた関われる数少ない他人の一人なのだから。


『わかったよ、おいおいな』

「それでいい。でも、俺とのコミュニケーションは無視するなよ?」

『えっ……あぁ、うん。いいけど――』


 頷いていたものの、首をかしげた『ロゼ』はどこか戸惑っているようだった。意外だったのだろう、さっきの今で委縮もせず、強気に物を言う廉太郎が。

 それに確かな手ごたえを感じる。 

 間違っていない。

 ここでおどおどと顔色を窺って、それでいったい何の意味があるというのだ。それは相手への気遣いではなく、保身だ。考えているのは自分のことだ。

 これまでに、『ロゼ』には特大の傷をつけた。望んで打ったものでさえない、最悪の傷。いっそ、殺して内臓を引きずり出したと言い換えたほうがより正確かというほどの。

 だからこれから一生をかけて、その傷に意味を持たせなければならない。

 振り返った最後に、納得できるまでの意味を――何か。恥知らずにも、親しく深い仲を求めていくのだ。そんな未来を信じ続けて。





――――





 それから三時間、結局『ロゼ』とは話し続けた。

 今後のことからクリスのこと、嫌味、愚痴、他愛ない世間話に至るまで。

 共に経緯は違えども、話し相手にさえ飢えていた二人だ。話題にも困りはしない。深い溝が彫られてなお、望んでやりとりを続けている

 刻一刻と、追跡者の位置もその近づけていた。

 話しながら、町も一周し終えてしまった。探すべき場所は探し尽くしたし、今の『ロゼ』の様子を見るに発見した敵に警告もないとは考えにくい。

 それでも諦めず、また焦るようなことさえもなかった。

 結局、『ロゼ』のようなイレギュラーが紛れ込んでしまったことで、この廉太郎への悪意は成立自体がしなくなったということだ。


『――なぁ、暗くなってきたんじゃないか?』


 『ロゼ』の好きなジャンルは、恋愛ものであるらしい。ユーリアは特にこだわりがなく、小説なら万遍なく読むとのこと――ただし、恐怖ものは明確に避けようとするようで。

 なんてことだ。

 彼女も夢の中に招けたなら、ささやかな傷をつけてあげることだってできたろうに。

 それに夢の中でなら、『ロゼ』だって彼女と話ができる。疑似的にでも、会うことができる。


『戻ろう、夕飯の時間だし……それに――』


 そうだ――居たのだ、それを叶えることができる男が。

 ウィラー。彼の能力によって一度、数人がかかりで同じ夢を見させられたことがある。苦い記憶だ、そこで真実を知らされた――だが、『ロゼ』にとってはそうじゃない。

 あの瞬間だけ、友人ユーリアとの再会が叶っていたのだから。 

 だから、ウィラーとは絶対に良好な関係を築いてみせる必要がある。あの夜の夢を再現させてもらうのだ、もう一度。

 一度と言わず。

 どうだ、『ロゼ』――今、ほんの少しだけでも――


『ち、ちょっと! おい、金ないんだろ……やめとけよ、入るなって――』

「お前か」


 その人物に廉太郎が声をかけると、途端に『ロゼ』は静かになった。

 不自然に、突如興味を失ったかのように。

 こうして接触が叶った時点で、異常の影響下に入ったのだ。危機を知らせる警告しかできないのに、いざ危機に接してしまったならもうそれは警告ではなくなってしまうから。

 

「……なぜ分かった?」


 カフェテラスで独り、読書にふけっていたその女は――驚くでもなく、近づいた廉太郎をねめつけるように鋭く見上げていた。

 間近で確認して、その反応を見て、確信に至る。

 彼女の上着の胸ポケットには、明らかに携帯端末と分かる白色の機械物が突き刺さっていた。


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