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ワールド・ブラインド   作者: 宝の飴
第三章 「」
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第四十四話 三者密談

 背後というより死角なのだ。

 窓の外に、ドアの向かいに、ふと視線を横にずらせばその先に。常に意識から外れぬよう、『それ』は現れる。

 移動すれば、何度でも再出現を繰り返すだけ。

 姿かたちはその都度異なる、ただし決まって人の姿。

 廉太郎れんたろうとの距離感覚は出現のたびに狭まっている。今日の夕方には、背に張り付かれるまでに接近されるであろうとの推測が立つ。

 分かりやすいカウントダウンだ、触れるだけで傷を負う。そのとき、今度はもう怪我で済まなくなるのだろう。

 頭に銃口を突き付けられるようなもの、敵の言いなりになるしかない。

 本来、こんな手の込んだ回りくどい真似も、焦らすだけの時間も必要ではなかった。初めから脅し、要求を突き付けてしまうだけで済む話だった。

 後々有利に働くとでも思っているのだろう、精神的な衰弱を期待されているとしか思えない。

 確かに、その効果は認められよう。

 徐々に迫る確実な死を意識させられ続けるばかりでなく、親しい相手へ求めた助けが無効化されるのだ。廉太郎の他の誰もがこの『異常事態』を認識できず、そのための違和感にも鈍感になり、合わない辻褄も合っているよう認知機能か――あるいは現実の方が改変されてしまっている。

 ユーリアたちは目の前に居るのに、交わしているはずの声や言葉が思うように機能しない。

 救ってくれるはずの希望がそこにあるのに、いくら手を伸ばそうとも届かない。

 それは孤立無援で追い詰められるより、よほど堪える状況だったろう。


「時間もないし、探す場所と順番は今決めておかないとダメだろうな」


 だが廉太郎が真に堪えたのは、『改変される』というその一点であった。

 孤立ではなく、その過程と手段に耐えられない。お膳立てされた孤独や絶望などどうでもいい、自分自身とその感情は究極的に取るに足らないものでしかない。

 自分の口にしていない言葉を、彼女たちはそれと思って聞いている。

 その事実がなにより恐ろしく、受け入れがたくてたまらない。その先への影響を、今後の関係や印象に響き得ることを思うと、軽く絶望しそうになる。

 ただでさえ信じきれない人間関係、その責任だけは常に負っていたかった。

 これは敵の意図には含まれない、副次的な効果だったろう。

 しかし、その一点があまりに効いてしまったものだから。その他のすべてが、もはや大して気にも留まらなくなってしまったのだ。そんな余裕はすでにない。

 とはいえ、そんな精神状況になかったとしても、敵の用意したこの状況が効果的かどうかについては疑問がある。

 この脅し、精神的な揺さぶり。

 廉太郎にしてみれば、その演出はすべてが空虚。形だけ整えられたようなもの。それらしい要素で、雰囲気を飾っただけの子供だましのようだとしか感じられない。

 

「……あぁ、かねは部屋だったか」


 廉太郎はホラーというジャンルに浸かっていた。

 中でもオカルト。

 感じていたのは『不気味さ』という未知への魅力。理解不能であり、対処不能な超自然的理不尽に翻弄される人間模様に心を躍らされていたのだった。

 非現実への憧れ、いわばファンタジーに焦がれているのと変わらない。

 異世界に対する憧れも、廉太郎は人一倍強い方だったと言えるだろう。


「最悪合流すればなんとかなる。問題は行動範囲で――」


 小説、映画、怪談の順で好きだった。

 その他の媒体は好みではなかった。例えば漫画やアニメ等、馴染みがない上に毛色が違く手が伸びない。

 特に、ゲームとは相性が悪い。

 何度か仲間内でやらされたから分かる。あれは体験型の恐怖だ、誰がやっても怖いと感じるに決まっている。

 だからこそ、そこに面白さを見出せない。

 プログラミングされたものだから。

 同じ虚構でも一歩劣る。

 想像力の先に見えるものが、どうあっても人の意思で、作り手の意図になってしまう。初めからすべてが創作、虚構であるがゆえに存在し得る純粋さのようなものがそこにはなかった。

 デジタルで、機械的なのがどうにも頼りなく、情けなくなく思えてしまうのだろう。決められた通りに動き、起こると分かった現象が起こる。

 ゲーム上の仕様と都合、そして制限。

 恐怖には神秘であってほしいのだ。


「……よし」

 

 今の状況はそれに似ている。

 これを仕掛けて用意した敵。その存在と、意図までこちらは分かってしまっているのだから。

 それに粗も目立つ。

 何だあの追跡者は――あれで怯むとでも、気がどうかするとでも思っているのか。一見妖しく理解不能でも、近寄れて観察できて悪戯までできてしまうようではもはや不気味も糞もない。人形のような無反応も、意味心を通り越してもはや滑稽。

 動きも規則的で意外性もなく、法則まで見えてしまったとあってはデジタルとなんら変わらない。

 実体があろうとも、その現実感は作り物以下だ。

 まるで照明のつけられたお化け屋敷、付け焼刃でこしらえたような演出。

 子供だましで遊ばれている。

 舐められているのだ、腹立たしい。

 ユーリアとの関係を荒らされた分と合わせて、これでどうこうしようと目論んでくれた敵の顔を見に行ってやらねば気が済まない。


「ちゃんと付いて来てよ、なあ……お前のことだぞ」

 

 手持ちのマップに線を引き終え、廉太郎が町への捜索に足を踏み出す。大元を叩くため、交渉するため、付近に居るのであろう敵を刻限までに探し出す。

 そのための手段、敵にも知られていない廉太郎の武器。

 それは、彼の魂に宿った『ロゼ』の存在そのものだ。

 彼女は何故なにゆえか、学団の情報を握っている。メインデルト、ウィラー、ニコラス。これまで面したその三人、顔も名も能力までも彼女はすべて知っていた。

 『ロゼ』の助言がなかったなら、すべての場面で詰まされている。


 ならば、今回の敵についても彼女が知っている可能性はかなり高いといえるだろう。


 廉太郎は試す価値があると踏んだ。

 現に反応がない以上、彼女もまたこの『異常』に対しては盲目的になっているのだろうが――しかし、状況ではなく『敵』そのものなら認識できても良さそうなもの。

 これから半日、廉太郎が闇雲にこの付近を動き回り、偶然にもその『敵』に近づけるようなことがもしあったなら。

 『ロゼ』が何かの反応を示してくれるかもしれない。近づくなと、離れろと――遠回しの忠告でも何か、それと分からないように囁いてるかもしれない。

 そのとき、それが合図になる。

 センサーのように機能する。

 敵は、顔が知られている可能性など考えない。近づかれようとも警戒はしない。する必要がないからだ。素知らぬ顔でやり過ごそうとするだけだ。

 条件さえ整えば、見つけ出せる可能性は充分にある。


「無視か。それ今一番効くんだよなあ」


 その条件の一つに、『彼女からの協力を得られること』が挙げられる。

 可能か否かではなく、その気になってくれるのか否か。

 『ロゼ』の様子がおかしいのには気づいている。この数日、姿を現す回数は極端に少ない。呼びかけようとも反応がない。声をかけてきたのは、危機的状況に瀕した手助けが必要な場面だけだった。 

 学団との間に抱えた、その秘密が原因なのか。

 クリスの言うように、敵の情報を知りながらぎりぎりまで出し渋る彼女の様子は、どうしても不可解に思えてしまう。

 知り過ぎていて、あまりに協力的じゃない。

 だが、肩入れしてくれているのも事実である。限定的ではあっても、ずっと助言はくれているのだ。

 少なくとも敵ではない、学団との繋がりはあったのだろうが。 

 廉太郎に、ましてやユーリアに悪意を向けるとも思えない。よほどの事情があるだけだ。彼女との関係が破綻したとは、少しも廉太郎は考えていない。

 ロゼの人柄が廉太郎は好きで、『ロゼ』との他愛ないやり取りが廉太郎は好きだった。

 友達という関係を諦めても、完成しないそれを続けていたいとは強く思う。

 信用ならない自分に対し、それだけが信じていられる欲求であった。




――――――――――――――

――――――――――――――




 廉太郎、ユーリアと人形クリスの三人が朝食に入ったホテルの食堂。

 その中を一人の少女が覗いていた。

 入り口に堂々《どうどう》と立ってしまった彼女の姿に、さてどうしたものかと、ウィラーが一歩離れて声をかける。


「どうだ? えぇと――」


 ラヴィ、という少女の名前を彼は聞かされたばかりである。

 今朝の話だ。

 だというのに、『自己紹介は先日すでに済ませている』のだと彼女ラヴィは言った。

 ウィラーの記憶とは食い違う。初対面ではないにせよ、一言も口を利いた覚えはなかった。

 会ったのは三日目、ラックブリックの敷地外での一度だけ、一瞬だけのはずである。ウィラーが強引に連れていこうとした廉太郎を、町まで逃がしてしまったのがこのラヴィであったのだ。

 敵対――といえば大げさだが、廉太郎側の仲間である彼女との間には警戒があり、緊張もある。言葉を交わす理由も、行動を共にする理由も、互いにあるはずがない関係。

 だが今や、ウィラーと彼女との間には極秘の同盟が結ばれているのだった。

 結ばれてしまっている、らしい。


「そうだな。良い身分だね」


 当然、その『先日の自己紹介』とやらの覚えもないウィラーにとっては、乗ると決めてしまった今でさえ半信半疑の同盟だ。ラヴィが勝手に言っているだけで、本当にそんな議論があったのかどうかも疑わしい。

 それでも彼女の口にした内容は、一時的に記憶がウィラーから消えていることも含めてすべて筋が通ってしまっていた。その上悪い話でもなかった。昨日の自分が乗っかっても、不思議ではないと思えるほどに。

 そういうわけで、今ここには同じ目的を持った二人がいる。

 ただ一つだけ彼が気がかりなのは、その肝心の発案者であるラヴィからいまいち意欲が感じられないということであり、


彼女ひとの金で。私は今日、ことが終わるまで飲まず食わずでいるんだけど」

「どうだ?」


 根気強く再度問われる。

 今朝からたびたび、会話が上手く噛み合おうとしない。ウィラーにしてみれば話をしたばかりの相手であり、いまいち距離感や性格を掴みきれていないままなのだ。

 そして、空気がどこかぎこちない原因は他にもある。

 実体が存在しないラヴィとは違い、姿を晒したくないウィラーは入り口のそばで壁の背に隠れ続けている必要があった。自然と二人の距離は開いている。

 その上、この行動にリスクが伴うのも彼だけだ。

 中はどうだ――と投げた視線を、ラヴィはちらりと横目に返し、


「今日のユーリア可愛いな」

「だからさあ……」


 昨日と今朝、続けて選択を間違え通しているのではないか――。

 そんな不安を隠せないウィラーをよそに、ラヴィは好奇の目で廉太郎たちを眺め続けているのだった。

 彼女の目に留まったのは、その服装。

 廉太郎だけは持ち合わせで済ませているのか変わりない。が、他の二人は買い揃えたばかりのように初々しい。共にこれまでの印象にはまったくないもので、むしろ正反対のもののようにもラヴィは感じた。

 ちょうど、それでユーリアとクリスが格好を交換しているような絵面になる。

 出先で緩んだ遊び心か、ちょっとした気まぐれか。

 何やら羨むような気持に襲われつつ、ラヴィはそのあまりのもの珍しさに目が釘付けになってもいる。

 丈の長いカーディガン、白く薄くて透けている。

 

「どんな様子だって聞いてんだよ」

「別に普通の服だけどね、彼女が着てると妙にやらしい」

「何しに来てんだ、キミは」


 不安そうな目を向けるウィラーに、妙な手ごたえ顔が返ってくる。

 現在の彼の主観では初めて同然の会話。だが、ラヴィにとってはこれで二度目、接触自体は五度目となる。

 距離感はともかく、彼の性格についてはラヴィは把握しかけている。この男の気持ちの乗せ方が、これくらいでいいと分かっているのだ。

 とても三十路手前に見えないこの男の内面は、若く作った外見以上にずっと幼い。

 適当なやり取りが一番効く。

 見下げているのではなく、気楽で助かるというだけの話だ。自然体でしかいられないラヴィに、交渉能力は元よりない。


「私に分からないよ。自分で見ればいいじゃん」

「やだよ」

「なんで?」

「キミの能力ってやつ、いまいち信じ切れてねぇからな……」


 今のラヴィの状態は、この『舞台』から完全に切り離されてしまっている。別世界から観測しているのと変わらない。そればかりか、元はここにいたという事実さえも失われている。ウィラーを含むすべての人物の記憶から、完全に消え去ってしまっているほどに。

 幽霊みたいなものだよと、彼女は真顔でそう言った。

 よって誰にも見つからず、そのラヴィの構築世界上に自動生成された『この』ウィラーの存在もまた、他人からは認識不可。同じく世界の外に在って、他に干渉することもない。

 とはいえ、万が一のリスクも無視はできないウィラーだった。

 ゆえにこの食堂には近づけない。

 なにしろ廉太郎たちの近くには、彼らを狙い監視するウィラーの部下が控えているのだから。


「気をつけろよ――」


 隠れたままに忠告を飛ばす。仲間の特徴はすでにラヴィへは伝えていて、ここへ入っていった後ろ姿も互いに確認し終えている。


「なぜか奴がキミに気づきでもして、なぜか俺が入ってるのまでバレちまったなら……」

「うん。いかにも裏切者っぽくてヤバいよね」

「だから、そうならないギリギリの手伝いしかできねぇって言ってんの」

「大丈夫。最悪バレても、目的までは分からないよ」


 この協力関係、すでにウィラーの主な仕事は終わっている。

 彼の役目は輸送係だ。

 今朝、彼はラックブリックからこの町まで、部下と合流するための門を繋げた。その移動の際、ラヴィの同行を許してしまうというのが昨日のウィラーが呑んだ条件。

 同行する直前で、ラヴィはその存在をこの世から消失。

 それに伴い、同盟の記憶もウィラーからは消えた。ゆえに学団側に作戦が悟られることも、部外者の介入が悟られることもなくなった。そもそも、裏切りの事実ごと一時的になかったことになるのだから。。

 記憶、つまりは自覚。

 それが消えるのも、織り込み済みだったというわけだ。


「大丈夫かなあ。俺は俺で、ちゃんとヤバいことやってるしよぉ……」

 

 ウィラーの本体は、この『彼』ではない。本体は、門を繋げて自分の足でこのソルムラまでやってきた方。そっちは同盟も何も、忘れたまま知らずにこの近辺にて待機中であった。

 本体のウィラーは、町に残したロゼへと生霊を飛ばし、連絡を取り合っている。この場の彼は、その能力使用をラヴィに絡めとられた結果生じた存在だ。

 ここまで計画通り。先日のラヴィとウィラーと、そしてロゼの。

 この同盟は、ロゼを加えた三人で成り立つものである。ロゼと先日交わした個人的な約束だけは、このウィラーも覚えている。その記憶から、ラヴィだけが『辻褄の合わされる形で』消えている。それが今の二人の状態。

 本体ウィラーとロゼ、二人が案じていたのはユーリアだった。制限のある中で、取り得る限りの手を打とうと話し合っている。

 ウィラーは学団を、ロゼは機関を裏切れないから。

 なんとかしてやりたいと願いつつ、立場上自由に動けない。

 そんな二人に代わり、直接手を出してしまおうというのがラヴィの役目。

 そしてラヴィが案じているのは、実のところ廉太郎の方。彼女にもまた、図書館の人間としての立場とものの見方がある。

 勢力は三つ、それぞれに属する三人。

 その動機や目的はバラバラでも、この場で取るべき最善への意見は一致している。

 ラヴィに課されたミッション――それは、敵に浚われる前に廉太郎たち三人を奪取し、保護してしまうことである。


「ねぇ、あれがよく見るスマホってやつ?」


 廉太郎たちから離れたテーブルに座る学団のメンバー、その胸ポケットに当たりをつけたラヴィが妙に上ずった声をあげる。

 ウィラーには彼女の性格が掴めない。

 不愛想というか、終始眠たそうに表情を変えようともしない無気力な子供。その割に、話は好奇心旺盛に振ってくる。その琴線を刺激するものに、今朝から当たりもつけらていない。

 

「いやなんで知って……あぁ、そうだったか」


 トリカ。

 ウィラーが動くことになったきっかけでもある、『故郷』に連なる血を引く女児童。ウィラーたちの同類がこの世に来て生んだ子供か、その家系。

 本来、話を持ちかけようと探していたのは廉太郎ではなく、その延長線上に見える誰かの方であったのだ。

 ラヴィはその『誰か』の実子であることを、敵であるウィラーへ打ち明けている。トリカとは、種違いの姉妹であることも。


「貴方も持ってる?」つまり、多少は『故郷』の知識を持つということ。

「あぁ、レプリカだけどな」


 内ポケットから取り出したものを、快くウィラーは見せてやった。

 宣言通り、ここでは電話もメッセージも送れないもの。電波と基地局の問題――ではない。 

 

「盗撮団に名前変えたら?」

「好きでやってねぇよあいつも。やらせたのは俺……っていうかキミんとこの町の頭だぞ」

「ルートヴィヒ。あいつ別に、町の統治者じゃないんだけどね」

「――あれ?」

「力持ち過ぎで口出しまくって、実態はもう独裁だけど」

「就職先が悪かったな、ユーリアもロゼちゃんも」

「貴方もでしょ」

「そんなに悪くねぇんだけどなぁ、こっち……」


 これ以上状況がこじれる前に、酷くなる前に廉太郎を学団の手に――というのが、ウィラーとロゼ二人の立場であり、妥協点であった。

 そこに待ったをかけたのが、強く学団を問題視するラヴィなのである。 


「っと……おい、廉太郎はどんな様子だ?」

「普通だよ。元気に肉とか食べている」


 ここぞとばかりに感情がこもる。恨めしそうだ。

 その様子からして、本当に言葉通りなのだろう。内心ウィラーは首を傾げた。

 状況が、あまりに悠長すぎる。

 

「そんなに警戒して、あの人どんな能力なの」

「構築世界を……まぁ精神攻撃だな。要求を呑ませるのには適してるやつだ」

「うん。全然平気な感じだけど、まだそれ始まってないんじゃない?」

「知らねぇ――」

 

 それか、廉太郎がやせ我慢をしているのかだが――それはあり得ない。

 干渉を受けているなら仲間にそれを隠す理由がない。もっとも、廉太郎へそれを強制すること自体は、部下の能力の自由度を考慮すれば造作もないことではある。

 が、あれは本人の実益と趣味を兼ねたような能力だ。

 その悪趣味を体験している最中であるなら、少しもそれを顔に出さないでいられるとは考えにくい。


「……芽が出るのは今日だ、とか言ってたしなあ」 

 

 指示を出した身として、なおのこと信じがたい話だが、――まだ動いていないのだろう。

 その能力は自由が利きすぎる上、その運用意図も理解に苦しむようなものばかり。そのため、詳細を知っているウィラーでさえ部下が今日、どう動くつもりなのかは分かっていない。

 気が滅入っていて、つい丸投げにしてしまっていたのだ。


 ――つまり、状況はユーリアやクリスと同じく変わらない。その術中にはまっている。


「貴方が与えた期限って、今日の夕方までなんだよね?」

「あぁ、それまでには動きがあるだろうぜ。仕事だけはきちんとやってくれる奴だからな」

「あっそう」

 

 組織に従順であることが、何より特であることを知っているから。

 ウィラーと同じように。

 信念もなく疑問もなく。単なる命じられた仕事として、報酬を得るための損得勘定で動いている。


「思ったより猶予あるんだね。ロゼの仕事が早く終れば、上手く先手を取ってやれるかも」

「……そうだな」


 ロゼからの合図は、ラヴィが動き、その姿をこの世に晒すための条件だ。

 それは、トリカの治療完了の合図である。

 肉体と魂の修復を終えた彼女トリカの、精神面でのメンテナンス。この半日以内にそれを完遂するのが、この場に居ないロゼの役目。

 意識が戻らない身内という弱みをなくさない限り、ラヴィは父親から力を借りることができない。


「となるとお昼、一度帰っちゃってもいい?」

「無理だ。生霊おれには門なんて開けねぇぞ」

「ひもじいなあ」

「……まぁ、食い盛りには辛いわな」

「貴方は何も食べずに居られるの?」

「平気だよ大人なら、一日くらい――」

「一生って意味だけど」

「どんな問いだ」 


 実際は可能、仮想人格に過ぎないこのウィラーに実体はなく、生理現象も存在しない。不可能なのは、長期間生霊を展開し続けようとする方。

 だが実体がないとはいえ、幽霊状態のラヴィとは違い取りついた対象の構築世界上では物理的に干渉する。必要などなくとも、その気になれば食事も消費も可能ではある。

 その点、生身のまま『居なくなっている』だけのラヴィは疲れもするし腹も減る。その上でこの世への干渉能力も失って、触れて口にできるのは隔離世界となった図書館内の物質だけ。

 友人思いのわりにひたすら「貧乏くじだ」と愚痴をこぼ続けるその様子が、いいかげんウィラーにも不憫に思えてしまう。大人心で。


「――ねぇ」

「どうした?」

「あの映像って、一度貴方が預かるんでしょ?」

「あ、あぁ……」

「それ、私にちょっと見せてよね」


 あまりにも真っすぐな視線。たじろぐようにそれを疑い、


「なんでだ?」

「記録に残ったユーリアが見たい」

「へぇ、そういうもんか」


 オーバーテクノロジーであり、そしてロストテクノロジーでもある。

 そこへ名残り惜しく手放しがたい執着を持っている身として、そこに興味を示されたとあっては、ウィラーも自分が褒められたかのように鼻が高く、


「そりゃあ気になるよな、流石――」

「彼女の生足が気になるんだ」


 冗談なのか、それともそういうことなのか。

 一瞬の内に妙に勘繰らされてしまっていた。

 反応に困ったあげく、ウィラーはそれを無視することとした。さすがに倍ほど歳が離れているとあっては、ノリも感性も合うはずがない。

 変に気を遣わされてしまった彼をよそに、ラヴィは軽い趣味でも語るかのようで、


「あれはレアだよ、歴史が変わっちゃったくらいの」

「……あぁそう、それは得したな」

「幻覚じゃないかな、もしかして」

「はしゃいでるだけだろ、キミら全員揃ってよ」


 この二日何事もなかった廉太郎たちなら無理もない。ちょっとした遠出気分で、朝から豪勢にものを食ったり服の趣味を変えたりすることもあるだろう。隣のラヴィよりは二つ三つ歳上だとはいえ、所詮は十八せいじん直前の思考回路。

 それと比べて――幼さないのを加味したとして、これから自分と他人のリスクを背負って一仕事しようとするラヴィまでもがこの調子というのは、あまりに解せない。

 遊ばれているような、おちょくられているような気さえもする。

 あるいは性格が軽いのか、対人能力に難があるかのいずれかだ。


「徹底してたんだよ、彼女。……いや、付き合い自体は……短いんだけど」


 言いながら、ラヴィは気落ちしたように顔を曇らせて黙ってしまう。


 ――事実、二人は顔を合わせていた時間より、こうして一方によって見守り覗かれている時間の方がいい加減長くなってしまっている。

 友人になった直後に忘れられるというのも、自らそうしたこととはいえ、さすがに堪えてくるものがラヴィにはあった。

 寂しさよりも、むしろ切なさが。

 

「正直、全裸のときよりいけないものを見ている感じ」

「……覗いたのか」

「え? 誰でもやるでしょ、透明だったら」


 その苦痛をごまかすように、友人を眺める彼女の視線は屈折していた。

 そんな事情など知らないウィラーは、『やはりか、そういう……』と馴染みのなさから――というより、その赤裸々さに対する微妙な思いで横目に視線を逸らしてしまう。

 が、 


「っていうか、他人のこと言えないよね」

「はぁ?」

「見てたよ」


 何のことだ――それが彼には分からない。それでも内心には焦りがあった。

 覚え自体はあるからだ。覚えがないのは、それを知られている理由の方であり――。


「三日前の夜、シャワー中の彼女を見てた貴方の隣に私も居たから」

「怖ぇよ!」


 ――本当に幽霊やってんじゃねぇか。

 

「それとその後、貴方の分身を一瞬で全滅させたのも私」

「だから怖――ってお前かよ!!」


 謎が一つ解けた代わりに、隣の少女に数万人単位で自分が殺されていた事実を知ることになってしまった。そうなるともう、怖さの種類が変わってきてしまう。


「昨日と同じ反応するね」

「知らねぇよ……っ」


 例によって覚えてない。

 だが、二度同じ話でビビらせられたことになるようだった。

 やはり遊ばれているのでは、小馬鹿にされているのでは――しかしもう屈辱も苛立ちも湧いてこない。それを通り越して、ただただ頭を抱えたくなってしまうだけ。

 

「――なら、不可抗力だったってのも聞いてんだろ、能力的に……ってか、普通に覗いてた奴に責められたくねぇんだけど?!」

「私はほら、守護霊みたいに控えてただけ」

「狙われてんのは廉太郎だろ、そっち守ってろよ!」

「部屋なら安全かと思って。そっちも期待はしたんだけどね」


 誰かが邪魔に入るから――と、そんな非難の目で睨まれて、諦めと同時にどっと疲れが襲ってくる。

 後で、ユーリアには告げ口しておいてやろうとウィラーは心に決めておいた。被害者本人に覗きがバレているのが自分だけだとあっては、何やら不公平で釈然としない。


「でも良いよね、彼女のあの身体つき」

「……触れづらいから止めてくんない? 大人なんだよ、俺」

「変な気分には?」

「なってねぇ」

「本当に?」

「ちょっとだけな」


 容易くごまかせたものを、口が勝手にケチをつけるのを避けていた。

 異性の体など相応に見慣れてる。ましてや未成年など、何を感じるより先にバツが悪くなってしまうだけ。

 それでも目は奪われていた。一瞬のこととはいえ、偽れないほどに。

 男として、人間として感心させれてしまったような一種の芸術。

 華奢ですらりとした体でも、痩せているのではなかった。無駄がないだけで、虚弱さや不安定な感じは少しもない。手足も長く、スタイルが良すぎる。異質なほどの完全。

 少なくとも、歳よりは大人びたものだったろう。

 幼いのはむしろ、雰囲気の方か。


「ふぅ」


 するとラヴィは満足げに、閉じた口の端を上げる。


「ウィラー君。貴方は影でこういう、変な扱いを受けなきゃいけないユーリアが不憫で、義憤に駆られちゃった、熱い男なんじゃなかったっけ?」

「お前、どうしたいんだよ俺を――」


 そのとき。

 メールのやり取りを覗き見るように一方的に傍受していた、本体とロゼとの会話の中。ウィラーはそこに気になる情報を一つ見つけ、


「あぁ。起きたってよ、トリカちゃん」

「意識が? ……早かったね」


 さすがに、ラヴィの目つきが変わる。

 無理もない。行方も生死も不明の状況から、十日以上手をかけて気にかけ続けた妹の吉報だ。それまでの遊び半分なとぼけた態度も、すっかり彼女から消え去っている。

 

「ねぇちょっと、本気で一回帰れないかな」同じ懇願にも必死さが入り、「妹にさ、初めましてとか早く言いたい」

「落ちつけよ……あぁ、すまん。一回起きたようだけどな、どうやらすぐまた寝ちまったらしい」

「え――」


 自分自身相手とはいえ、ウィラーは又聞きの又聞きのようなことを、しかも別世界からこっそりとやっているようなものだ。情報の受け取り具合には、どうしても若干のムラが生じてしまう。


「なんか、それ……」

「安心しろ」

 

 不吉な報告に狼狽するラヴィを諭しながら、脳裏で情報を整理していく。ラヴィを介しているために、ロゼまでの世界構造は三重にまで歪んでいた。


「元から残った問題は精神だけだったしな。起きて色々思いだして、聞かされて、気が疲れたんだろうってさ」

「そっか、そうだよね」


 ほっと胸を撫でおろす父親違いの姉。

 淡々としているようで心根は熱い、損な性格だとウィラーは思った。


「慕ってたユーリアに刃向けて、殺そうとまでしちゃってたわけだから」

「あぁそりゃショックだわな。正気に戻ったってなら」

「『こんにちは、あのとき貴女に片腕切り飛ばされた私だけど、実は私たち姉妹なんだ』」

「とどめを刺してやるんじゃねぇ」


 ペースを取り戻すのもやたら早い。

 だがその不穏な台詞が言葉通りの事実なら、だいぶ体を張ってきたことになる。それも結構な場面で、あの夜といい町といい。

 のらりくらりとした雰囲気と、その見た目からはとても想像がつかない奮闘ぶり。その意外さに、内心舌を巻いてしまう。


「後、気まずいのはあれかな。告白とかもしちゃってたから」

「は――」

「ユーリアに」

 

 不意を突かれて硬直する。

 誰が誰に何をしたのか、理解はしたのについていけない。もう何をふざけて言われようと、まともに取り合ってはやるものかと決めていたというのにだ。


「あんなガキが、その……?」

「無理ないよ。あんなのとずっと一緒にいれば、自然と性癖いじられちゃってるって」

「なんだそれ。いや、お前――」


 もしや彼女、自分もそうだと言っているのか。

 先の発言、やはりそういう感じなのか。

 ――姉妹そろって?

 口を出すつもりなどない。だが、どうしても妙に気分は浮ついて、表情も微妙なものしか浮かべてしまえそうにない。


「私のは違うよ。私は単に、ユーリアの体が好きなだけ」

「……違わねぇじゃん?」

「間違えた。憧れてるだけ」


 すると、何を思ったかラヴィはおもむろに服を脱ぎだしていった。正面の留め金を外し、腹から見せつけるよう晒していく。体に張り付く服の下はほとんどインナーで、普通に際どい。

 恥じらう様子は少しもなかった。

 さすが、幽霊状態なら何をしてもいいと好き勝手覗きをしていた女である。


「私こんなでしょ。細い上にエロ可愛いのって、だいぶ羨ましいんだよね」

「なんだよ。そんな格好しといて、コンプレックスとか持ってるわけ?」

「うん」


 見れば分かる。 

 病的では済まないほどに全体が細い。肉ではなく骨格、浮き出た骨自体に異様さがある。


「生まれのせいでね。私の殺されちゃったお母さん、私の父親の実子だから」

「へぇ――」

 

 ――触れづれぇ、……さっきからどれもこれも。


「ま、まぁつらはいいから気に病むなよ。性格さえ改めればモテることはモテるだろ」

っす」


 不満そうに、それでいて愉快そうに服を着なおしていくラヴィ。

 何か言葉がほしかったわけでも、同情を誘おうとしたわけでもなさそうである。初めから一貫して、彼女は大人を困らせて楽しむことしか考えていない。

 遣ってやった気を損したような思いだった。


「モテたいとかじゃないんだよね。色気とか、あと健康とかがほしいだけで」

「切実だな後半……」

「胸がどうこうとかあるけどさ、服の上から性別分かればもう上等だよね」

「性別くらい分かるわ、どうにでもよ」


 何の話をしているのだ、一体、自分たち二人は。

 いつから逸れたのか、状況も忘れて雑談が止まらなくなっている。眠たそうな無表情のこの少女が、

思いのほか口数だけは多くてついて行けない。

 それも妙に触れづらい話だけを振られ続けている。別の意味で困るセクハラを、延々とされているような感覚にさえ陥ってしまいそうになる。

 分からないでもない。

 ずっと暗躍していたのだ。話し相手にも困るくらいに寂しくなっているのだろう。


「でも貴方、初対面で私のこと男の子扱いしてたけど」

「記憶がねぇけどマジでごめん」

「まぁ許すよ。これは嘘だし」

「自虐で殴ってくんじゃねえよ!」


 それでも勘弁してほしい。

 手玉に取られ続けている。トリカに手を出したのは前任者なのに、その学団への恨みを一心に向けられてしまっているのだ。

 あくまで協力関係にはあるために、ねちねちと言外に匂わされているだけ。

 だがこの話、もちかけてきたのはあくまで彼女の方だそう。ウィラーとロゼとの密会中、話は聞かせてもらったと、意気揚々と幽霊化を解いて現れて。

 割り切れる程度の信頼か、価値を認められてはいるはずだ。背後から刺されるようなことにはなり得ない、と信じたい。

 

 ――すでに滅茶苦茶殺されてっけど。


「お前、強いのか?」

「戦闘能力は皆無だね」

「ならタイミングだけはよく見てろよ」


 首をかしげたラヴィの横を、不意に現れた廉太郎たち三人が揃って通りすぎいった。彼女に気づくことなく。会話にかまけて目を離している間に、食事を終えてしまっていたのだ。

 気づかれはしないと分かっていても、念を押したウィラーがさらにそこから物陰に隠れる。

 その後、ウィラーの部下も同じく食堂から顔を出し、立ち去る三人の後を退屈そうな顔で追いかけていった。

 近い、バレバレの尾行だ。

 やる気が感じられないのも、あれに気づく気配のない無警戒ぶりも、どちらもどうかとは思う。欠けているその緊張感が、この現状の茶番感を際出せているようだった。

 悪意も思惑も、この場にないところでしか動いていない。

 だからこそ、手を出さずにはいられなかったのだ。





――――――――――――――

――――――――――――――





 敵を探し続け、町を歩き続けた廉太郎。

 彼は限界を迎えようとしていた。

 気力的にも、時間的にも。

 時計を見るのも怖い、まだ読めなくて本当によかった。

 いくら休憩を挟もうとも、事態を理解して吹っ切れても、蓄積したものが目減りするわけでもない。

 疲労とは別の、鬱々とした良くないネガティブな感情が、溜まりに溜まって積み上げられている。今回に始まった話ではなく、その前の、真実を知ったあの夜から。真実を得たことで、自分の本質に気づいてから。

 ずっと。

 だから、今日という半日は思っていたよりずっとしんどいものだった。

 一人で動くことではない。

 『ロゼ』を信じ続けることが、である。

 その間、一応はかけ続けていた声にも反応は一度もなかった。となると、果たして効果があるのかどうかも、どうしても怪しく思えてきてしまう。

 徒労なのではないか。

 すでに一度くらいニアミスしているのに、警告の一つもしてくれなかっただけなのではないか。

 それがこの『異常』の一環なのか、それとも『ロゼ』からの仕打ちなのか――それすら判断できないから疑心が募る。

 独り言一つずつ、踏み出す足一歩ずつ。

 それらが自傷行為のように、すり減った神経を削ぎ続けていくのが分かってしまう。

 徒労に終わるのは構わないのだ。駄目元で始めたような抵抗なのだから。

 だが、『ロゼ』との関係を思うと、自分が他人と造れる関係の程度を思うと悲しくなってきてとまらなくなる。

 『ロゼ』とは仲良くなってきた――そう思っていたのは思い上がりで、実際はユーリアさえ絡まなければ自分のことなど必死になってまで、隠したい事情を開示してまで助けてやろうとはしない仲ではなかったのか。

 あり得る。心に住まって、それを見通しているような彼女なのだ。

 むしろ、徐々に嫌われていって当然なのではないのか。話しかけてくれる回数も減ったし、夢でも会おうとしなくなった。それがもう、如実に物語っているのではないのか。

 

「だから嫌だったんだ……覗くんじゃねぇよ、人の心なんて」


 『ロゼ』との関係を疑えば、自然と他の人間との関係までも嫌な想像で塗ってしまう。廉太郎はそういう人間で、だからこそ薄い諦めを常に背負う羽目になっている。

 心に残った僅かな気力が、杞憂に過ぎないと主張している。

 それでも一度生じた疑念が、彼女との関係に影を落とすことを知っている。

 だから憂鬱だった。すべてが終わったとき、彼女たちにどんな接し方を用意しておけばいいのか、考えるだけの余裕もないから。

 感覚的には、午後三時ごろか。

 リミットまで――解放まで、残り三時間弱といったところ。

 それがもう救いに思えるほど追い詰められたところに、とどめとなるような光景が襲う。


「――ぅ」


 ユーリアとクリスの姿だった。

 町を徘徊していた廉太郎と、運悪くちょうど遭遇してしまった形。

 目は合わない。合う距離でも、すれ違う場面でも視線一つ寄こしてはくれなかったから。

 一人二人。そしてその雰囲気から、やはりもう一人見えない何がいるのは廉太郎の目にも明らかだった。

 逃げなければ――。

 まず、いの一にそう考えてしまったのが自分でも廉太郎はショックだった。

 

 ――なんだそれは、俺は死んだ人間か何かか……?


 考える前に体は動き、背を向けて場を離れることしか体が機能してくれない。必要以上に速度を上げて走り去る廉太郎。すれ違う通行人が、迷惑そうに細めた視線を送ってくる。幽霊でもなんでもない、生身の人間なのだと証明してくれている。

 それが逆におぞましい。

 本当に消されてしまうだけだったのなら――いっそのこと存在ごと消えてしまえたものなら、何も悩まずに済んだものを。

 

「……こッ、俺は何を――」


 しばらく、人気が完全に消え去るまで、振り返ることなく走り続けていた。

 今の自分の性格と考えと行動原理、すべて人に説明できる気がしない。伝えて、分かってもらえるとも思えない。

 こんなことがなくとも、きっと自分はずっとくだらないことで悩んでいるのだろう。間違えて解釈したままの哲学書のように、破綻したことにさえ気づけないほど拗らせたものに固執しているのだ。

 どうしようもなく。


「ああもう、考えないで……走ってるのが、一番いいかな……」


 息が上がっていた。

 運動不足だ、信じられない。

 ふと、どこまで来たのかと薄暗い周囲を見渡してみる。見えるのは巨大な建物の壁と、もう数メートルの位置に引っ付くようになった追跡者だけ。

 路地裏だ。

 しかし、やけに人気がない。

 その割に妙に物音がする。まったく静かな感じではない。

 マップを取り出してみても、夢中で走ってきたせいで正確な位置を見失ってしまったことしか分からなかった。


「南の方か――あっ!? うわ、やっば……完全にクリスとの距離のこと忘れてた」


 本当に死んだ方がいいような人間だと思った。今日半日一人で勝手に動き回って、ユーリアたちの動きなどまったく考慮できていなかったのだ。

 仮に、彼女たちがこの付近から離れてどこかへ足を伸ばしていたものなら、魔力供給が滞ってクリスがどうにかなっていた。このソルムラの町中でだって、再両端に二人が離れればクリスの呼吸は不可能になる。


「戻るか? いやでもあの様子なら……今さらか、それに」

 

 あまりのくだらなさに、笑えてしまった。

 そうするしかなかった。

 暗く細い路地の中、廉太郎は目についた建物の戸を開けた。理由はなかった。そうしない理由もなかったからで、入りたかったわけではない。

 単にここが何のか、どこなのかが知りたかっただけだ。

 民家でないことは明らかな造りで、何か――入っても構わないような施設だと廉太郎は思ったのだ。今日の行動で、多少無鉄砲にもなっているのもあったろう。

 鍵はかかっていなかった。

 

「何だ……? 病院?」


 中は小奇麗で、広く、人の気配が少しもなかった。

 店や集会所のような、気軽に部外者が入る場所ではない。それだけは確かなようである。

 すぐに立ち去ろうと考えた。ただその前に、せっかくならという余計な好奇心を満たしておこうと思い直す。

 人もいないのだ。怒られまい。怒られて済むならそれでもいいし、済まなかろうともどうにかなる。

 すでに廉太郎はどうかしていて、これ以上どうかしないために何かをしていないと落ち着かない。

 入った扉から通路を少し進んだ先に、内部へ張られた窓ガラスがある。

 それを少し覗くだけだ。

 そして廉太郎は、そこに恐ろしいものを見てしまった。

 何のことはない工場だった。

 至って普通の作業場で、作っているものだって取るに足らない日用品のようなもの。人気がないのではなく私語がなかっただけで、なんらおかしな点はそこにはない。

 だがそこで廉太郎は、敵の用意した演出どころか、これまで目にしてきた恐怖作品のいずれにも優るほどの、総毛立つ思いをする羽目になってしまったのだった。

 

 

 

 

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