第四十二話 遅延
敵を待ち構え続け、何も起こらず訪れた朝に絶望し、それから再び日が落ちようとしていた。
すでに夕方だ。
異変に襲われたまま、丸一日が経ってしまったことになる。
事態は悪化こそすれ、何も進んではいない。
敵は変わらず遠巻きに監視してくるばかりで、接触してくる気配すらなかった。廉太郎から接触を試みようにも、近づけばすぐに逃げられてしまう。煙のように消え、どこへ隠れたのかも分からずじまい。
そしてまた、じっと見られていることに気づかされるのだ。
今もいる。
いい加減、振り返る気にもなれない。
「二人とも、そろそろお腹空いたんじゃない?」
ユーリアの問いを受け、合図でもするような視線がクリスから廉太郎へと飛んでくる。
――自分で頷けばいいものを。
食欲など皆無でしかなかったが、部屋に戻るのも早まってくれるともなれば、それに乗らない理由もない。
「そうだね」
「結局、今日も何もなかったわね……」
それでは解決に近づけないからと、苦々しくユーリアは顔をしかめている。それでもやはり、そこにはどこか安堵がある。
無理もない、自然な心理だ。
咎めるようなことじゃない。
「良くも悪くもだけれど」
「…………でもそのおかげで楽しかったよ、今日は」
「ふふ、本当にね」
地獄のような一日だった。
現実に過度な名前をつけたがるのは軽率で、思考の放棄でしかない。ある種の慰めで、逃避。実際にはそこまででもないはずだと、保険をかけるように言い聞かせている。
それが大げさでなくなるのは、極限状態における話である。
熱に浮かされた病床でも、休めもせず夜通し続けるような活動でも。それに慣れた身体でもない限り、人間は充分な休息を取れていないだけで地獄を見る。
単なる眠気であろうとも、そこに疲労や緊張や不快感が足されていくとなると、精神状態は容易に通常時とかけ離れていってしまう。義務や仕事があるとなれば、なおさら辛い。
その状態が続くのは、拷問を受けているのに等しい。
「雨も降りませんでしたしね」
「えぇ、温泉にも行っておけばよかったわ。寒いわけでもないんだし――」
ちらりと落とした目線の先、クリスの肩にそっと手が乗せられて、
「明日に備えて買っておきましょうか、水着」
「いやぁ、私のはいいので――」
「なんで遠慮しちゃうのよ」
傍から見てユーリアの手つきに圧力を感じる。遠慮は要らないというよりも、遠慮などさせないとばかりの強引さにも思えてくる。
若干、歩きづらそうにクリスが顔を逸らしている。それを面白がるように、距離を詰めたユーリアが耳元で小声を呟いてやる。
「それとも、恥かしいのかしら?」
「ちが……その、単に公共の問題でですね」
幾度となく目にしたやり取りだ。構いたいユーリアと、それをあしらう満更でもないクリス。日に日に親密にはなっていくものの、二人の関係性は初めからずっとこんな感じ。
それが、今日はやたらと癇に障る。
内心に抱える、どんよりとした気分を表に出さぬよう廉太郎は二人の会話を眺めていた。
この一日、ユーリアとクリスの二人は朝からやたらと元気だった。それと対照的な意識はぼやけ頭もろく動かない廉太郎を、あちらこちらへと連れまわしてしまうほどに。
ソルムラは観光地というだけあって、見て回るものに事欠かなかった。
広場では芸人が見世物を披露し、劇場に入れば演奏でも芝居でも高水準の興行を一日中見続けていることだってできる。
それだけで済むならまだよかった。
ユーリアは一所に留まろうとせず、好奇心旺盛とも飽き性ともとれるような足取りで、次へ次へと移動を続けた。
慣れることのない酩酊感の中、ふらふらとそれについて行っただけで廉太郎は背一杯。土地勘もない町の中、方向感覚さえも働かず、どこをどう歩いていたのかも覚えていない。
絵画や工芸の展示を見漁り、踏破する勢いで通りを歩き、目につく端から店を冷やかし、あらゆるレジャーに興味を示し、人混みに疲れたら適当に自然を眺めに行った。
たった一日に押し込んでしまうのが惜しいくらいの目まぐるしさ。
平常時であれば、疲れも気にならないほどの充実感だったことだろう。
だが、今日このときに限っては『付き合わされた』という形でしか捉えられない。その無邪気さに付き合うことも、気分転換の厚意を受け取ることも、どうしてもできる状態にない。
想定外だった――この二人が、これほどエネルギッシュだったとは。その旅行気分も張り切り具合も、今となっては恨めしい。
「人形を連れまわして、人前で話しかけてるだけでもだいぶグレーなんですよ? それにこの身体……水に浸かってるのを見られたら、文句とか言われそうじゃないですか」
「格好に気をつけていれば大丈夫よ。今だって隠せているじゃない」
「まぁ、そうですけど……」
二の腕と太もも、喉元。
都合五か所。クリスの肉体の不自然な抉れ、獣にでも食い破られたかのような欠損。治癒するでも負傷のままでもなく、その状態で安定している。
それこそ、傷がついただけの人形か何かのように。
「捻くれてるよな」
「急になんです、廉太郎?」
「……いや、別に」
普段、あえてそれが人に見られるよう肩出しの服を着たがるのがクリスだった。それが、今だけはユーリアの趣味で買い選ばれた清純を絵に描いたような格好をさせられている。
子供が着るにはよそ行きが過ぎるような、金持ちが娘のお洒落に見栄を張り過ぎたかのようなもの。
似合わないではない。
が、見慣れていない上に本人も「首が苦しい」と落ち着けていないせいで、どしても着せられているような感が否めない。
カチューシャ、の上にサングラス。
ユーリアの趣味だ。そこだけはきっとかなりの蛇足。
やはりというか、想起するイメージが人形になってしまうのだが――まるで、着せ替え人形に手持ちの小道具をすべて乗っけてしまったかのよう。クリス本人が良いとも悪いとも、はっきり言おうともしないのが悪い。
「っていうか、温泉なのになんで水着を――」
「いや裸で入れって言うんです?」
「……なるほど、俺の知ってる感じと違うのか」
温泉と聞いてイメージできるのは日本式のものだけだった。他の入浴スタイルなど、知らないどころか端から考えもしていない。
どうにも話が噛み合わなかったわけだ。聞く限りでは、入浴という感覚ですらないのだろう。水着だけに、レジャーとしては天然のプールにむしろ近そう。
ならばおそらく混浴だ。
――危なかった。
「私にはともかく、ユーリアさんとは部屋の中だけにしてくださいね。そういうの」
「なんでお前はともかくなんだ?」
会話を交えてはいるものの、どういう冗談なのかも満足に処理できる頭ではない。
失言か誤解か、何か生んではないだろうか――不安から盗み見たユーリアは、笑っていいものかどうかと表情を堪えているところ。
反応に困っている。少なくとも不快そうではない。
――良かった。
色々な意味で、正解だった。
今日のこの地獄、一番辛かったのはまさにこの点。
二人の会話、テンションに、無理やりにでも合わせなければならなかったこと。
起きてしまう改変を最小限に収めたかった。
本来であれば、何の異変もなければ――廉太郎は徹夜などせず今日という日を二人と同じように過ごせていた。
だから疲れているのも、口数が少ないのもノリが悪いのも、笑わないのもおかしい。異常。
そして異常を察知できない二人にとっては、その廉太郎自体もまた異常の一つであるがゆえに、目も耳も脳も正しく機能しない。
何もなかった場合の廉太郎を認識するよう、改変されてしまう。
それを避けるために、いつも通りを演じていなければならなかった。
食事もいつも通りの量を取った。朝と昼、その半分は一人隠れて吐き出している。
頭にちらつくのは、やはり昨晩のカードゲーム。
実在する廉太郎は目に入らず、存在しない幻影を虚空に見て、それと卓を囲んでいた異様な二人。
その感覚を例えるのであれば、自分の立場が乗っ取られかけたようなものである。ドッペルゲンガー、嫌でも恐怖に結びつく発想が浮かんでくる。
自分がした覚えのない会話を、すでに二人とは交わされてしまっている。人間関係に横入りされた、
泥を塗られたような気分だった。
自分から逸らされた目線の先に、勝手に自分を見られていたという事実が、思いのほか重い。
人付き合い。その確かな実感が、根幹から崩されかけていくかのよう。
一度でもそんな事実を認めてしまったら、同じ部屋にいようが、傍を並んで歩こうが、そこに地に足のついた安心感はなくなる。
目を合わせていても、いつまたその視線が虚空へ向いてしまうのか分からない。
人として相手をしてくれている、向き合っていられるという、確かな実感が薄められてしまったかのよう。
一日それだけを考えていた。敵に身構えるのと同じくらいか、あるいはそれ以上の割合で頭の容量を振り絞り、いつもの自分を演じていた。
「そうだ、二人は泳げるの?」
「泳ぐ気なんだ……」
――じゃあプールじゃん。
「特異な方だよ。君に勝てる自身もある」
「きょ、競泳はさすがに……はしたないから、また今度にしましょうか」
「……冗談だよ」
梯子を外された気分だった。
もう直接見でもしないと実体は掴めそうにない。
「そういう君は?」
「あら、運動神経は良いのよ」
「クリスは?」
「ついでみたいに聞きますね……さぁ、溺れて死ぬんじゃないですか?」
会話の内容など当たり障りなければどうでもいい。間を持たせるように、この日この一日だけを乗り切ることができるなら。
それでも、すべてを覆い隠せているはずもない。
どれだけ言動や態度を取り繕おうとも、疲れや感情が顔に出る。
――酷い顔だ。
目の端にふと鏡を捉えた、一瞬別人じゃないのかと疑いかけたほどに生気がない。自分でそう思うのだ、他人にだってそう思われるに決まってる。
変だと思われる、通常なら。
つまり、この二人の見えている廉太郎の顔はずっと弄られていたということだ。この通りに見えているのなら、あるいは判断がまともなら、心配の一つくらい示してくれるはずだから。
これだけ無様に努力しても、結局のところ無駄だった。
今さらながらそれに気づいて、脱力感で何もかもがどうでもいいと思いかけそうになる。
「……っ、まだだ」
鏡を凝視したことで、そこに映る『それ』に気づく。
昨日からずっと背後を狙い、監視し、尾行してくるものの姿を。
相変わらず遠巻き。だが、もう五十メートルほどしか離れていない。余裕ができたからか、威圧のつもりか、より近しい距離でこちらの様子を窺われている。
相当舐められている距離だ。
日も暮れて街路からは人が減り、その姿はより際立つ。物理的にも視覚的にも障害物はない。今走り出して追ってみたなら、接触して話もできそうなものだ。
廉太郎は追わなかった。
どうせ無駄なのだろうと察していた。
代わりに、メッセージを送るかのようにその顔をじっと見つめている。やつれた顔で目を細めて、睨んでいると思われても仕方がない行為だ。
不要に反感を買いかねない挑発、だが構うものか。
こちらが相手の顔をはっきりと捉えられないように、この距離と暮れの明るさでは誤解もされまい。
依然として、敵の人相すらも廉太郎は掴めていない。性別も動揺、背格好も大まか。隠れる気もないのに、その都度気持ちばかりの変装をしたがるのか、発見するたびに敵は服装を変えてくる。
一から十まで、意図が見えない。
不気味だ。
いっそ、人間でさえないのかもしれない。
廉太郎もまた、ありもしない幻覚を見せられているとも考えられる。消耗を狙うならその効果は充分なプレッシャーに現れているだろう。
背後、後方に何度も現れては棒立ちするばかり。
そう考えると、その状況はあまりに『それらしく』て笑えてしまう。
頭が回らない。
判断能力もまともじゃない。
相談すら何もできないせいで、行動の正しさや合理性を信じきることもできはしない。
「なら少し練習しましょうよ。私も経験はないんだし」
「よく自信なんて持てましたね、それで」
だが、それも今夜までだ。今夜眠れば、少なくともコンディションは取り戻せる。敵に対応するにも二人の安全を確保するにも、どうしたって平静と冷静を取り戻さなければならない。
日中は二人が昼寝でもしない限り、休めたわけがない。
これほどまでに、早く日が経つのを願ってしまったのは初めてだった。
会話が終われと、話を降るなと願ったのも。
「えっと……ユーリアさんって、そもそも他人と同じ水に浸かれるんですか?」
「ん、――たぶん」
すべては気の迷い、不可抗力。
会話はともかく、二人との付き合い事態をおっくうに感じてしまっているのも。
自分ほど人間関係を絶対視している人間など、そうはいないだろうから。
人の気も知らず能天気に、自分たちだけで楽しそうにはしゃぐ二人に苛立ってしまうとしても、きっとそれは許される範囲だ。気づかれなければ、問題にすらない。
それより恐ろしいのは、その苛立ちの先に進んで、この心の中にわだかまりが残ってしまうこと。顔に出て、声に出て、八つ当たりでもし始めるようになってしまうこと。
なんで分かってくれないのだと――。
子供のように意固地になって、二人を嫌いになってしまうことだ。
廉太郎自身――自分自身、それがこの世で最も信用できないものであったから。
数歩先の人間関係が、常に保証されていない状態。これまででさえ、平常時でさえそうだったのだから、なおさら生きた心地もしない。
――――――――――――――
同時刻。
想定しないタイミングで生成された分身体もまた、廉太郎からそう離れてもいない地点にて同じような日の暮れに照らされていた。
駅からほど近い商業施設の四階、そこからせり出すテラス席。ウィラーの仲間――形式上の部下がそこに背を向けて座っている。
他者の認識の中に上がり込めるといっても、それは意識上に現れることを意味しない。現れるのは対象の構築世界上。対象によって直接見聞きされていない事象であろうと、確定する周囲の世界内であるなら、そこを自由に動けるウィラーは観測できる。
精神をのぞき見するだけならこうはいかない、相手に目を閉じられれば収集できる情報は何もなくなってしまうだろう。
そのため、フロアの縁から見下ろせる街路にて移動する廉太郎たちの姿を目撃できた。
一人寛いでいた仲間は、それを監視するでもなく、気づきもせずスルーしている。
その姿を前に怒りも呆れも通り越し、ウィラーはいっそ話しかけるのも面倒な気分になってしまった。
「おいこら、昨晩の報告が今になってかよ」
反応はない。
呼ばれたといっても、これは意図しない偶然だ。不意打ちになるそんな声かけにも関わらず、その背には焦り一つなく振り返ろうともしてこない。
知らない仲ではなかった。
その態度が反抗的な無視ではなく、後ろめたさからくるものだと、ウィラーは何となく理解している。
「生霊を呼べと言っておいただろうが」
「――うっかりだった。忘れてたぜ」
意地でも悪びれる様子はない、反省はしているようだった。
ウィラーの能力の性質上、あらかじめ相手と時間さえ取り決めておけば、それは連絡手段としても機能し得る。発動するタイミングで、ウィラーの存在を思い起こすだけでいい。距離に関係ない会話、密会が可能となる。
とはいえ、かつての電話の代用と呼べるまでには頼りない。
相手から電話がかかってこなければ、電源を入れられるだけのウィラーからは何のコンタクトも取りに行けない。
「てめえ……そんなに夢中だったのかよ、ガキ一人ただ追い込むの」
「いや違ぇんだよ」
含みを持たせ過ぎたのか、否定の口調には勢いがあった。
ようやく振り向かれた顔は得意気に笑われている。今現在のやる気が思いのほか見られないことを思うと、説得力はあった。
「あの日本人な、アレもおもしれーんだけど。実験の芽が出るのは明日だからなあ」
「悪趣味が――」
それと知ってこの仕事を任せたのはウィラー自身、その自嘲をも相まって自然と鼻で笑っていた。
だがその口ぶりとは裏腹に、不快感はさほどない。
変わり者であっても異常者ではない。事態の収拾を任せる人材としては、選べる中では最善だった。
とはいえ、私怨と意趣返しがなかったかと言えば嘘になる。あの男、ルートヴィヒ――裏で手を回したがるユーリアの上司のような何かに対する、嫌がらせ。
このケース、行動を記録させようとしたユーリアはすでに蚊帳の外。提出する動画はこの上なくつまらないものになる。
「……てかお前、ビデオ取ってる?」
「スゲェ本を買ったんだ」
「あぁ?」
「んで気付いたら日付変わっちまってた。……悪かったって」
電源は四六時中入れておけるものでもない。約束の零時を過ぎた時点で、待っても無駄だと諦めたウィラーは接続を切っていた。
約束もしていないこの時間帯に、分身体が生成されて接触でたのは偶然である。
別件の用があったウィラーによって、少しばかり能力の網が張られている最中のことであったから。
――今この瞬間、別のウィラーの分身体は療養中のロゼと会話しているのだ。
「怒らねぇよ、別に」話を遮られたことも含めて。「嫌味言いたかっただけだ」
「おぉ、理想の新上司」
「それで本題なんだが――」
仕事だけやってくれるならそれでいい――寛容にも切り替えようとしたウィラーの話が、またも「見てくれ」と遮られ、眼前に突き出された何かに思わず怯まれる。
「な、んだよ……!」
それは一冊の本だった。
直前に話題に出されたもの、ここでサボっていたのもこれを読んでいたためか。
年代物のソフトカバー。その背表紙には痛みが見え、色も褪せ、第三言語で記されたタイトルすらも判読できない。
古本を漁るほどの読書趣味のないウィラーにとっては、言ってはなんだがゴミを押し付けられたようなもの。
怪訝に眉をしかめたウィラーをよそに、その得意気な持ち主は饒舌に口を回していく。
「『災害後における世界情勢と形態の転換』、『新社会の安定化とその維持について』、『復興の軌跡』……なんて風に書かれちゃあいるが、はっきり言っちまうとここには虐殺の記録も纏めてある」
「ふぅん」
虐殺。
それはこの世界における歴史、今なお現実の一部であり続ける爪痕。
だがしかし、災害――つまり『舞台』が侵攻され崩壊が始まったのは五十年も前の話だ。
今さら学んで、それもこの世界に生きる者でもないウィラーたちが学んだところで、どうなるものでもない。
現在のことならいざ知らず、この世界に対してそこまで興味を持つことなど、ウィラーにはできない。
その災害を機に、魔力を手にした人間が、それまで共存していた隣人である他人種族を一人残さず殺しつくしたことにも興味はない。瘴気で歪んだ者やマイノリティの同族を人間と見なさず、発覚次第社会から排除していることだってどうでもいい。
終わったことで、どうしようもないことだから。
そういうものだと受け入れるしかないのだ。
その変化から、人の社会から逃れた者たちのコミュニティとして、あのユーリアたちの町がある。それを知っているだけでいい。
瘴気の影響を受けるのはこの『舞台』の人間だけ、ウィラーたち『故郷』の人間にとってはどうしたって他人事になる。
なのに、
「こっちに来て二年、オレはこの手の資料を探し続けていた」
「あぁ、そう……」
「出版社も怪しいようなボロ本だが、内容は詳細だよ。書かれたのは災害直後みてぇけど」
それを語るこの仲間からは、口も挟めないような熱意が感じられてしまう。よほど興奮しているのか、自分の趣味都合だけで脱線したような話が延々と押し付けられてくる。
「何が面白いって、分かるか?」
「なわけねぇだろ」
歴史への興味もなければ、悪趣味もないのだ。
そっけない対応にも気を害することなく、くつくつと含み笑いで返されて、
「事実しか書かれていないこと、それほどまでに見つけられなかったことだよ」
要領を得ない話でも、聞き終わるまで先に進めなさそうで渋々とそれに付き合う羽目になっている。
が――確かに、言わんとすることは少し分かった。
――見つけられなかった、って……そんなわけあるかよ。
「虐殺の一点に関して、書き手の思想も被虐殺者サイドへの共感も何もねぇの。他の項目と比べてもな、その不自然さは明らかに分かる」
「……意図的に避けたんじゃねぇの?」
「ざっと三億だぞ? 災害によって激減した当時の総人口、六億弱のほぼ半分。害獣か虫の駆除だろうと、もっと大仰でセンチメンタルな文が書かれんだろ」
たった数年間で積み上げられたその数字。
その人間の変化に、理由や意味を求めようとしても無駄でしかない。この議論もそれを問題にする気はない。
ただでさえ大変だっただろう時期に――何を、なぜ。
縮小する生存領域や資源を争っての生存競争、混乱と不安から生れた集団心理。――合理的な仮説はいくらでも上げられるが、答えはそのどれでもない。
解釈できる範囲にないのだ。災害を機に、何らかの影響が人間の根幹を歪ませ、ただそういうモノへと変わってしまったとしか理解のしようがない。
「当時の人道主義は二百年先取りしていたくらいだ。戦争も一通り終えてよお、人種どころか種族まで入り混じれて仲良ぃ社会を築けてた」
「あーそれ、最近身に染みてる」
ウィラーの本体はこの数日、立場上の権利を乱用してラックブリックの町に滞在している。
当時とはまるで意味合いが違うのだろうが、過去を体現したかのような空気感を味わうことくらいはできるのだ。
あの町は平和だ。
ここが平和でないとも言わないが。
「だからこの虐殺は、それまでの歴史とか文化とかの積み重ねを、根底からひっくり返したやべー大変化なわけ。当時を生きた人間ならそれに加担すると同時にさあ、思想とか、思うところだってあったはずだろうに……」
「いや、一冊で決めつけてんじゃねぇよ。本当にちゃんと探したのか?」
「当時の世論だって残すだろ普通――そう、つまりそもそも世論なんてなかったってことなんだよ、これは!」
本人の中ですでに出ている結論に疑問を挟ませる気はないようで、ウィラーの反応など無視されたかのように、話はひとりでに進んでしまう。
「これでよーく分かった。当時の人間にとって、彼らがどういう存在だったのか。どういう目で見るようになったのか」
「当時っていうか、今もだろ」
「てっきりよお、災害を機に何故か、他人種族を目の敵にするよう心か精神性が変化しちまった――とばかり思ってたんだが」
「おい、語りてぇなら伝えようとしろ」
「だが実際、そこには思想や感情さえも何もなかったんだよ。敵意すらな」
「…………ふぅん」
その主張は、ウィラーにとってはよく分からないものでしかなかった。
だが、聞いているだけでいたたまれない気分になる。
仮想の脳裏に蘇る。あの町にしか居ない、居られない者たちのあり様が。
いっそ、ふざけたモノでいいから『何か』がそこにあってくれた方がずっとマシだったろう。
いずれにせよ被害者は納得できるはずもないが、それでは何を嘆いていいのかすら分からない。理不尽だと憎む相手が、仲間の仇よりも運命か何かになってしまう。
その視点が欠けているのだとすれば、確かに――
「要するに、狂っちまったってことだろ?」
「馬鹿、逆だろうがよ」
「……あ?」
「これほどのことをやらかしておいて、今なおそんなルールを続けておいて。人間性は何も変わらなかったということだ。変わらず穏やかだということだ」
非道、異常――。
これはもはや、そういう次元にある話ですらなくなっているのだ。
「命を奪ったとも思ってねぇよ。畑を耕すのとそう変わらないんじゃねえ?」
「人間じゃねぇな、もう」
「だから。一つ見えなくなっただけなんだって」
だから呵責も感慨もない。
興味がないどころか記す理由からしてないのだから、詳細を突き詰めでもしない限り文にも残ることがなかったのだ。
「……で、結局何が言いてぇの?」
この会話でウィラーが得たものは、ひたすらうんざりさせられた気分だけだった。
着地点が見えたところで、こちらからそれを催促してやる。
「これじゃあ、虐殺とも殺人とも呼べないよなってこと」
「つまり?」
「殺害方法には拘られなかった」
ここが肝要だとばかりに目の色が変わる。
「嗜虐性がないんだからな。これほどヤバい歴史にも関わらず、オレが知りてぇような目新しい拷問は何も生れていなかったってことだ」
「……あぁ、結局趣味に帰結すんのね」
負けず劣らず歪んでいる。
悪趣味の内に収まっているだけまだマシか。これで話が通じる方だというのだから、この学団も終わっている。
「それが確かめられて満足だ」
「分かんねぇな……なんでそれが満足になる?」
「学者を気取っていはいたものの、オレも所詮マニアでしかなかったということだ」
意味が理解できないのは、単に会話が成り立っていないからだと思いたい、そもそも。
学者、拷問。やはり本を出すような頭のいい奴は同時に頭がおかしいのではなかろうか。テーマがそんなものだとするなら、なおさら。
――拷問かぁ。
事の大きさを思えば、むしろ『あった』と見るほうが自然な行為。それが無かったと言われれば、なんら救いが生れるわけでもないのに世界が多少マシなものに思えてくる。
錯覚だが。
やはり、あの町だけが――しかしますます成立する理由が分からなくなる。
「……アイちゃんも大変だな」
「誰?」
「妖精の、なんて言ったっけな……俺らで言うエルフっぽい感じの、人型の子」
こんな雑談にやたらと感傷的になってしまうのも、一度でも関わりができてしまったからか。
「茶飲み友達になったんだよ」
「えっ……あの町って、オレらが関わっと――」
「立場上、許可が出ている」
一時的にだが。期間を定められてない以上、釘を刺されるまで自由にしてやるつもりでいる。もはや用などないのにだ。
「いいなぁ、お前……あの場所、もう絶滅種隔離した動物園みてぇなもんなんだぞ」
「せめて箱舟とか言えねぇわけ?」
口にしてみて改めて、ウィラーはその稀少性に気付かされていた。
これでは接触を禁じられるのも頷ける。こんな調子の連中に、興味本位で何をされるか分かったものではない。
絶滅種、稀少種。
とはいえ、あの町の半数は瘴気の影響を受けたりマイノリティに堕ちただけの人間だ。稀少というより欠落者、脱落者。
あの町で生れた第二第三世代の人間もいる。その内、まだ瘴気に侵されてない者たちは、その実町の外でも生きていける健常者でしかない。
「妖精とか、ちらりと一度見たきりだぜ。どんな奴?」
「ちっこくてエロ可愛い、胸と闇を見せてくる感じ」
「インタビューとかしてこれねぇ?」
「ざけんな、嫌われるだろううが」
何に食いつかれるかと思えば、そこか。
これが喜ぶような何かを、彼女が体験しているとは思いたくない。少し無理のある希望だが。
「おぉ性対象で気になるのか? その嗜好も、ここの人間からは失われた奴だぞ」
「……否定はしねぇけど、ムカつくな何か」
――否定する必要はないよな、別に。何もしねぇけど。
何度か話をしただけの関係、特別意識しているわけでも何を狙っているわけでもない。
しかし、いざそういう風に言われてみるとなると、確かに気になる存在ではあることを自覚させられてしまう。
女なんて大体気になるもので、何もなくとも好意的に思って当たり前ではあるのだが。いい歳をして、免疫がないわけでもあるまいに。
レアな存在だからか?
初対面での泥酔姿が、心配になるほど服装の乱れたものだったもので。そのインパクトが強烈だったせいだろうか?
そもそも考えてみれば、異性として他人を思い浮かべること自体がずいぶんと久しぶりなのだ。
元々、女を囲うくらいの趣味しかなかったようなかつての人生。その付き合いもすべて切れ、失われた。
そのせいで萎えてしまった、枯れてしまったのだろうと、そんな風にさえ考えていたくらいなのに。
これまでこの世界で女性を気にしたのは、ロゼと会ったときくらいのもの。
否――ユーリアも気になっている。
不憫で、気にかけずにはいられないなどといっても、元を辿れば結局違いがあるはずもない。未成年とはいえ女で、それも良い女だったからだ。
そそられないような相手だったなら、ここまで嫌な気分にはなっていまい。淡々と済ませて忘れるような仕事だったはずだ。
所詮男など、この自分などそんなもの。
幸い歪んではいないものの、できた人間性を持ち合わせてはいない。
「ロゼちゃんとアイちゃんとユーリアか……全員あの町の女じゃねぇか」
「なんだよ、誰でも良いんじゃねーかよ」
「いや、お前な――」
違わない。
あの町でウィラーは人探しのため顔を売っていた。転居者、それも若者で珍しいのか、やたら女からちやほやされたものだ。
悪い気はしなかった。
きっとその全員、少なからず気になっている。意識して顔と名前を覚えている。
今になってそれを自覚して、そして疑問の答えにもようやく気づく。
男として、落ち着いてしまっていたわけではなかった。
単にこの世界の女に、人間に――興味を持つことができなかっただけ。
不確かで理解の及ばない、その異常さに気圧されていた。特別や異常を排除する彼ら彼女たちの前に、この世の者ではないという出自はあまりにも爆弾。
――じゃあ、あの子の珈琲の味も特別じゃなかったのか。
かといって、通わない選択肢などウィラーにはなかった。
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――――――――――――――
飢える理由が分からない。
人間関係は円満だった。
家族内でも学校でも、付き合いは平凡を越えてむしろ精力的だったほど。抱えたいくつかの問題など、ごくありふれた些細なものでしかない。
顔を付き合わせて、連絡を取り合って。朝から晩まで大体誰かと繋がっていた。一人の時間を、意図的に作るのを避けていた。
その喪失を嘆くことすらできなかったけれど、充実していなかったとはとても言えない。
なのに、かつてそこに満足を覚えられなかった理由はいったい何だというのだろう。
まず、強固な友情に憧れた。
もっとも、憧れたのは友情そのものでなく、それが描かれた物語の方であったのかもしれない。
童話、アニメ、漫画、小説、映画、詩――幼少から高校生に至るまでの間に見聞きしたそれらの作品は、その対象とする年齢に関わることなく、決まって人間関係の素晴らしさを謳っていた。
家族愛、友情、師弟、主従。
それらは過剰なまでに賛美され、演出で押し付けられ、必要以上に世にあふれていた。
日常の中、付けられたままのテレビが飽和した感動を垂れ流している。
フィクションと現実の分別がつくようになっても、その思想、信仰は植え付けられたかのように強烈に染みついてしまっていた。
道徳や、倫理観の一部であるかのような顔をして。
有意義で物語性のある強固な友人関係。
そんなもの、実際にはそうそう無いと知りながら、虚構に親しみすぎたせいか、どうにも現実の方が色褪せて見えた。
――どうして。
こいつらとはこんなに仲が良いのに、『楽しく時間を過ごす相手』から先に進むヴィジョンがまるで見えない。たとえ深い悩みなどがあろうとも、聞いてみたところで、相手が望んでいなければ困らせるだけ。こちらからの打ち明け話の類いでも、重ければうざがられて嫌われる。
もちろん、試してみなければ分からないことだ。
だが、その一歩があまりにも重い。
かつて踏み込み過ぎた妹に、絶縁レベルで無視され続けていたのもその足枷にはなっている。
現状維持、上手くいく付き合いだけを続けながら、廉太郎なりに友情を『進める』ための思考錯誤を繰り返していた。
馴染みのない遊びに誘ったり、趣味の合わない映画を仲間内で見せあったり、誰よりも熱心に部活に打ち込む姿を見せてみたり。
友達の全員が好きだったから、それだけの関係にとても満足できなかったのだ。
そんな中、つまらない指導で「お前たち皆友達未満だ」などと告げられて、そもそも友人関係自体がすでに高尚なのだと気づいてしまった。
自分たちはただ、過ごす環境が一緒になっただけだった。培った関係とはとても言えない、楽しく過ごすための隣人に過ぎない。
現に――高校で離れた連中とは、半分以上疎遠になっていたではないか。
迷惑だという理由で心を打ち開けられないような自分は、結局のところ他人への信頼が薄かったのだ。関係を望むばかりで、それが壊れるのを恐れるから、本当に『進んだ』ことは何もできない。
上辺だけの好青年。
幻想に取り替えられようとも、さしたる違いなどなかったことだろう。
誰にでも代わりが務められる。疲れてなお演じられるような人間。
無難でありきたり。
クリスにそれを「つまらない」と言われるたび、本気で傷ついてしまう自分を嘆いている。