第四十一話 腹の内と熱
――どういうことだ!?
無音の叫びに、はっと意識が覚醒する。
夜通し座り続けた椅子の上、ついにはうとうとと、船をこぎ出しかけていた廉太郎の体がびくりと強張りを見せていた。
目覚めていながら、意識はまだ沈黙との間を往復しているようで夢心地にも似た眩暈がする。
だが呆けていられるのも束の間、すぐに現実が追いついてくる。
今しがた聞いたのは自分の声。無意識下で発した、癇癪のような悲鳴の訴え。
口をついて出る愚痴や罵声より、よほど真に迫っている。切羽詰まってしまっている。
ユーリアとクリス、状況に気付けていない二人に対する危機感。対処しなければならないのに何もできないという焦り、無力感。不可解な状況を前にした、疑心暗鬼。
そして恐怖だ。自分はともかく、二人がこの先敵にどう扱われることとなるのか、保証が何もされていない。
それらの不安材料が一晩中、入れ替わり立ち替わるように廉太郎の精神を悩ませ続けていた。
「――うっ、くそ……寝てないけどな」
深く腰を埋めていた椅子から立ち上がると、廉太郎は覚束ない動作で固まった体をほぐそうとする。それは眠気覚ましにもならなず、気分転換にもなりはしない。
最悪に近い気分だった。
徹夜による睡眠不足、倦怠感。頭が重く思考にも霞がかかりつつある。肉体の疲労ばかりでなく、この緊張の中気を張り続けていたせいで、精神の方も憔悴しきっている。
胃が焼けるように熱い、眠気にも優る吐き気を強烈に訴えられているようだ。
過敏になっているのか、気が立っているのか。
カーテンの隙間から部屋に差し込む、朝の陽ざしさえ煩わしいものだと感じられてしまう。
「冗談じゃねぇよ」
そうだ。
朝になってしまっているのだ――すべての予想に反して、何事も起こらないままに。
起床し活動を始めた住民が、通りを行きかい始める気配すらも窓越しに感じられてしまう。早朝ですらない、ゆっくりとした目覚めに当たるような時間帯だった。
夜通しの警戒だと身構えておきながら、――ほんの一瞬とはいえ――寝落ちしてしまった理由がそこにある。
そろそろだ、頃合いだろう、敵は今にでも――。
深夜から繰り返し繰り返し、ずっとそのような思いで今か今かと気を揉んでいたのだ。
憔悴するのも無理はないだろう。
待っていたのは、訪ねてくるはずの友人でも何でもなかったのだから。気力も体力も通常よりずっと早くすり減らされていく。
だから抗えなかった。授業中、寝ては駄目だと知りながら、つい意識を手放してしまう一瞬のように。
「あぁもう、とんだ思い違いだ……この夜だなんて保証がどこにあった?」
少しでも気を紛らわせようと、化粧室まで移動した廉太郎が蛇口を捻り冷水を出す。顔を洗おうとして、わざと服を濡らすよう雑な手つきで水をすくう。喉も乾いてはいるが、飲料水を取りに行くのも億劫だ。
顔の表面を引き締めても、内部は別物の様にやつれたまま。
そうだ――。
敵の選ぶタイミングは、別に『ここ』に限られたわけではなかったのだ。
当初、敵はユーリアたちを無力化した上、さらに二人が寝静まるのを待っているのだとばかり考えていた。事実上孤立した廉太郎への接触に、未だ執拗なほどの警戒を示しているのだろうと。
それが違っていたらしい。
「まさか、俺が起きていたから……?」
実際、夜の襲撃を予測した廉太郎が寝ずに警戒するであろうことなど、敵も容易に予測できる。
ならばこそ、何もしないという手が選ばれたのだ。
その結果がこれだ。依然として無力化されたままの二人に加え、疲弊した廉太郎ができあがるから。
二日連続での徹夜はできない。
敵が待っていたのは、さらに無防備となるよう二人が寝静まることではない。二人だけではなく、廉太郎までも警戒されていたということだ。
――そこまでするか。
過大評価だ。
自衛の能力だって碌にないのだから、見込み違いでさえあった。
「何のつもりだよ、ここまで状況を有利にしたがるなんて――」
意図が分からないだけに、得体が知れない。
事態は思っていたよりずっと深刻であるのかもしれない。自分一人連れていかれる程度ならもういっそ構わないのに、それで済む話に収まっているのか怪しい。
部屋に戻ると、ふと二人の姿が目に留まった。
安らかに寄り添う二人の寝姿は、その格好がもはや気にならないまでに危うい。
まだ何か、している勘違いはないのだろうか。正しく状況を捉えられているつもりで、取り返しのつかない失敗をしかけているのではないだろうか。
危うさを共有できないせいで、余計に焦燥感が募っていく。
二人を起こさないようにか、起こすようにか、廉太郎はふいにカーテンを開けた。こうなってしまえばもう、監視の目を気にして、こそこそするような真似に意味はない。
「――いるな」
窓の外、深夜にも確認したこちらを覗く人間の姿がそこにあった。
まさか一晩そこに待機していたとでもいうのか、『それ』は前回目にしたのと同じ場所に、何をするでもなく突っ立っていた。
通りが明るくなったことで、『それ』の背格好をようやく確認することができた。目を凝らしてようやく、というほどの距離になるため、その顔立ちまでは分からない。
服装だけでは、男か女かも判断しかねる。
なのに、こちらへと向けるその顔とは今、目が合っているような気がしてならなかった。
「ちょうどいい……こっちから話をつけにいく。引き延ばすのが望みってわけでもないだろうが」
敵の出方に任せていては、どんな最悪の結果を招いてしまうかも分からない。それよりは降伏を告げてやった方がずっとマシだ。この事態の収束を、少しでもこちらの意思でコントロールできるようにしなければ。
暖かな光に照らされて、もぞもぞと動きだす二人の気配を後に、廉太郎は部屋を外に出る。
階段を降り、受付への挨拶もそこそこにホテル外へ。
その足取りは軽くない。
だが敵の手に落ちることへの恐怖より、現状の不安定感の方がむしろよほど耐えがたかった。
思っていたより人が多い。上から俯瞰したときはそうでもなかった歩道が、急に混雑したものに見えてくる。
自然と視界が遮られ、捉えていた敵の姿を視認できない。
それを見失うまいと、記憶に新しい目印を頼りに廉太郎が足早に近づこうとする。
しかし、
「どこだ――!?」
上から見ていたその地点に、居たはずの人間の姿は消え去っていた。
一晩、ここを動かなかった相手がだ。
こちらからは近づかせない――そういうことか。
「……たちが悪ぃ」
周囲を落ち着きなく見渡し探す、その背を冷汗が伝っている。
人はどんどん増え始める。その上、ここまで徹底する敵が隠れる気配を見せたのだ。今からここで見つけられるとも思えない。
諦めて戻るか。
それでは何も変わらないにしても、今のあの二人から長時間目を離してしまうのは不味いと感じてしまうのだ。ここに居た敵が消えたのにも、「もしや――」と勘繰らずにはいられない。廉太郎の動いたこの瞬間がまさに、危惧し続けていた二人にとっての無防備なのだ。
それに、昨晩発生したあの問題も尾を引いている。
この隙に二人が起き出したなら、二人が見るのは、部屋に居ないはずの廉太郎だ。普通、一人で勝手に外にでるような真似はしないのだから。
異常事態に対応しようとする行動は、何も起こっていない場合の行動に置換されて二人の目に映る。
勝手にゲームに参加していた『廉太郎』と遊んでいたように、当たり前の朝の談笑を始めてしまうのだろう。
それによる負荷、悪影響を案じているのも確かではあるが――気にしているのは、むしろ感情的な部分からだ。
存在しない何かを、勝手に自分だと思われてしまう。
口にした言葉がときに届かず、覚えのない文脈となって返されてしまう。
まるで自分の立ち位置や居場所が、侵食され、奪われているかのような気分になる。廉太郎の意図したものではない会話が行われ、二人にはそれが現実だと認識される。
隣にいながら、まるで別の世界に生きているかのよう。
「――ッ」
気を切り替え、来た道を廉太郎は足早に駆け部屋を目指す。
じわじわと、冷水をかけられているような思いで感情が逸る。
――となると、……こうなるとどうなる? この後何を……。
二人からは離れるのも不安で、いつまでも解決がこないからこそ二人を危機に晒し続ける。
それがいつまで続くのか、すべては敵の思惑次第。
今夜はきっと廉太郎も眠る。二徹はさすがに不可能で、日中に仮眠を取ろうにも不自然でしかないからだ。
今日の予定は何だったか。
確か温泉は山の方にあると言われた。大したことのない道程も、このコンディションでは気が重い。
幸い、町の空は曇天だ。
雨は降りそうにないが、外出は控えてくれるかもしれない。
一面が白い空。雲は薄く、日の光だけはやんわりと通してくれているおかげか、肌寒くもない。
いつの日か、ユーリアが好きだと言っていた空だった。
――――――
今の状況を整理する。
気持ちのいい朝だった。特別、クリスの寝覚めがよかったわけでも、室温が起きがけにちょうどいい暖かさになっていたわけでもない。
単に、気分がよかったのだろう。
「んん……」
起床したクリスのすぐ傍で、ユーリアはまだ眠っていた。その彼女に抱きしめられたままの形で、今朝を迎えたというわけだ。
眠い目をあけるより先にそれに気づき、次いで盗み見るようにその寝顔を軽く見上げていた。それを目にするや否や、瞬時に昨晩の状況が思い起こされていく。
同じベッドに入り、そこからは毛布でも被るかのような自然な流れで体を引き寄せられ、そのまま眠りについていたのだった。
あぁ、こんな感じでしたね――意味もなく平静を取り繕わねば。ある程度の心の準備はできていたものの、やはり狼狽えずにはいられなくて。
「まぁさすがに、声なんて上げませんけど」
――二度目ですからね。
耐性がついてしまえば、どれほど顔が綺麗だろうとこんなものだ。朝一の不意打ちでとはいえ、そう何度も大騒ぎさせられているようではどうかしている。オーバーだ、人外でもあるまいし。
それに、隙あらばこうして構われてしまっては、さすがに慣れもする。
その顔立ちにも、この距離感にも、関わられ方にも。
「で、でも……これはちょっと……ッ」
だが耐性も慣れも、ちょっと得られそうにない点が一つだけ。
ひとまず――彼女を起こさぬままに、腕の中から抜け出せないものかと身をよじってみる。身長と体格の差で、拘束をとくのは強引にでも難しい。
ユーリアが体を丸め全身で抱きかかえようとしてくるおかげで、添い寝というよりはむしろ、四肢で羽交い絞めに固められているかのよう。
悪くない。
そこまでは良いのだが、問題は――互いにほとんど何も着ていないような格好である、というところ。
下着だけを残す向こうに対し、こちらは治療済みの包帯が手足に僅かに残る程度。
一枚ずつ脱いでいくだけの罰だったのに、勝ち残ったユーリアによって『そのまま眠るもの』だと解釈された結果が、この現状。
昨晩は「そうしたいなら」と好きにさせてやったくらいだが、今は一方的に意識があるせいか一転してソワソワさせられてしまう。
大したことでもないはずが、下手に動くのも憚られる。
残っている眠気のせいか、その体温の温みを求めてしまっていて。
寝息と共に上下する胸のせいか、肌の柔さと骨格をも意識させられてしまっている。
「起きてくれませーん? 力……強いんですよね、私にとってはですけど」
見上げた顔の真下で囁いてみるも、少しも起き出す気配はなかった。困ったとばかりに苦笑しつつ、ついまじまじとその寝顔を観察してしまう。
相変わらず綺麗で見世物のように整ってはいるものの、安心しきった赤子を見ているかのような微笑ましさまでもが同時にある。
ならば脱力もしてくれていいだろうに、クリスを抱えるその手足は意外なまでに力強い。
眠っているのだから、もちろん無意識のことだけれど。そこに、かけらほどの遠慮もなかったものだから。
だからこそ、やたらと気分がよくなってしまう。
抱擁を求めていたわけでも、こんな風にされたかったわけではない。心や体を許されてみたかったわけでも、当然ない。
性関心のないユーリアとは別の方向で、クリスにもまた、他者への特別な欲求がない。異性同性への性愛、どころか他人への関心も何もないけれど――人形ですので――、それらとはまったく別種の感情が、この場に限っては芽生えていたのだ。
「ふっ……こんな体験できるのも私くらい、ですか」
一言に纏めてしまえば、優越感か。
どれだけ親愛を向ける相手であろうと、触れるだけのことが苦痛であり。性には関心も適性もなく、気遣いとリスペクトから距離を置こうと努めている。
そんな特性や個性だらけで構成されている、唯一的な存在がユーリアという人間だ。
だからこそ、今のクリスの立ち位置は得難い。
彼女の肌に気安く触れ、身体を独占し、気を遣われることもなくすべてを晒され、心臓が重なりそうなまでに密着している。
他の誰かがどれだけ望もうと、あるいは彼女自身がそれに応えてやりたいと想おうと、この瞬間が再現されることは決してない。ユーリアが身を切る覚悟で臨んだとしても、こうも安らかな顔ではいられないだろうから。
この寝顔一つにしてもそうだ、この距離で拝める者が他にどれだけいるというのだ。
そのような自覚に浸っていると、とたんに他の人類すべてが哀れなものにさえ思てくる。ご愁傷様、いい気味ですね――そう言って回ってしまいたい。
「それはそうと――」
強いて言わせてもらうなら。
一つだけ注文をつけるなら。
「いっそ邪魔……っていうか、痛いんすよね」
こんなぬいぐるみのように強く抱くなら、せめて下着も外してほしかった。ちょうど顔の辺りが煩わしい。悪気どころか意識もないのだから、言っても仕方はないのだが。
もうここまで来たなら大して変わらないではないか。こっちは気にしないし、本人は気にしないどころかむしろ気楽なだけだろうに。全裸派なんだから。
これ以上の特別をねだるわけではないのだが、無意味に中途半端なのが気になってしまう。
廉太郎さえ日和らなければ。
冗談で提案したような罰ゲーム。それに珍しく乗ってきたくせに、廉太郎は途中から明らかにクリスだけを狙って攻め始めていた。参加した上、下着までは剥いたユーリアをちゃんと確認しておいて――中途半端なことだ。
この先の関係を考慮すれば、火遊びの一線を躊躇うのも無理はないとはいえ。
――余計なことを。
「じゃなくてね……」
邪魔だと言ってはみたものの、改めて眺めてみると目の前の下着はかなり似合っているものだ。確かに目を引くだろう、というガーリーなもの。我ながら、良いセンスで選ばさせてもらったものだと満足な感じで鼻が高い。
もっとも、何でも似合ってしまうのだろうけど。
ユーリアは意外なほど、下着に関して無頓着だった。
家の中ではとことんラフに過ごしたがる彼女だが、外では人一倍見た目や服装に気を使う。だからこそ、見られることもない下着だけは本当になんでもいいと思っているようだ。
外ではルールとして周りに倣うも、家に帰れば拘束具でしかない。
だが逆に言えば、無頓着だからこそ、選んでやったものはどんなものでも着てくれるということであり、ならばこそ次の機会にはさらにかなり攻めたとしても――
「いや、だから――」
おかしい、一度頭を切り替えて真面目に考え事でもしておこうと思ったのに――こんな状況で、真面目も何もあったものではなかったか。
仕方ないだろう、全部この人が悪いのだ。
触れにくい爆弾ばかりの手札を持っているくせに、いつも反則に近い使い方でそれらのカードを切り続けてくる。誰であろうと、親しい仲にあるほど、こうあたふたさせられてしまうのは避けられない。
――廉太郎のことも笑えなくなってきそうですかね、いい加減。
ちらりと隣のベッドへ目を動かす。
そこで背を向けている廉太郎は、まだ眠っているようであった。人の気も知らずに呑気なものだ。眠れなかったくらいで、ちょうど釣り合うような状況だろうに。
さて、と――。
今度こそ状況の整理を始めよう。
まずクリスは目を閉じて、それから考えるべきことを洗いだしていく。
すべては五日前から始まったことだ。
町へ探りを入れた学団の男、メインデルトの計画を潰した。その仕事を引き継いだ仲間であるウィラーが町を訪れ、そこで偶然にも同類である廉太郎の存在に気づいてしまう。
強制勧誘を受けることとなり、そして、クリスはそれに抗う方向へと廉太郎を誘導することに成功していた。
――なにゆえか、『ロゼ』が口裏を合わせるように後を押してきたおかげで。
「……ちっ」
一昨日にはウィラー及びニコラスと戦闘、内一名の殺害に成功。ウィラーは一時撤退。
こちらも態勢を立て直すため、それと実験的に行方をくらませてみるためにアトランダムな町へと移動し、今ここにいる。
そして、昨日は丸一日異常なし。
敵からの干渉はなかった。
あの学団が、一人仲間を失ったくらいで手を緩めるはずもない。仲間意識もなにもないだろうが、単に損失を被ったことで、むしろ躍起になってくるはず。
その事実が意味するのは、クリスの予想に反して、今は敵の追跡を逃れてしまっているということ。
少なくとも、一時的には。
「どうしたものですかね。トラブル大歓迎なんですけど」
軽口では済まない、そんな本音が零れだす。
できることなら際限なく、状況が破滅するまで学団とはやり合ってしまいたいのだ。
その願望を口にしたり、そうなるよう二人を誘導してしまうようなつもりはないけれど、心の奥底から湧き上がる想いそのものは、否定しようにも難しい。
人形にあるまじき執着だ、その矛盾は自覚している。
だがこれは、自らをそういう性格だと定義した、いわば設定の一種のようなもの。間違っているとは思わない。間違っているのなら、変えてしまうべきは矜持の方だ。
現状は、クリスにとっては都合がいい。
直接の因縁はなかったとはいえ、あの集団のメンバーを殺したという成功体験を二度も続けて積んでしまったものだから。なおさら欲が出てしまう。
せめてあと一人でも、一人でも多く死んではもらえないだろうかと。
おそらく多人数で、総力を上げて敵が襲ってくることはない。それほどの事態にみなされる段階とも思えない。
それに、ユーリアがついているとはいえ、彼女の戦力の規格外さを知らない連中はかならずこちらを舐めてかかる。
実際、それは正しい。
対魔術師戦闘にのみ特化したユーリアにとって、奴らとの戦闘は常に、想定していない領域の話となってしまうからだ。
「奴ら全員、先手必勝で状況を支配できてしまうようなものですからね……」
その条件で、こちらは後手に回されているのだ。先の二戦にも、本来であれば勝機などなかった。偶然と敵の油断が功を奏していたにすぎない。
まともにぶつかれば危険なのは目に見えている。敗北した際に命だけは取られずに済む保証など、あるはずもない。
ユーリアの性格からして、容易に最悪の想像ができてしまう。この無鉄砲で、友人のためなら血の気が引くほど命知らずになれてしまう、そんな悪癖を思えば。
引き際を見極められるとは、到底――
「……はあぁぁ」
困った。
長所でもあるのだ。だが尖り過ぎているがゆえに『巻き込んでも大丈夫だろう』なんて楽観視ができないでいる。
学団との争いの中、廉太郎の命は保証されているだろう。学団にとっての利用価値があり、いいように手足に加えたがっている以上、無暗に手は出されまい。
クリス自身の話であれば、一矢でも報いることができるのならどうなろうとも構いはしないのだ。命の使いどころとしては上等な部類である。
――だけど、この人は。
敵にとっての脅威足り得る、邪魔者でしかない存在。最優先で狙われる。後の廉太郎との関係性を、学団側が考慮しないのであれば――だが。
そこまで見えていながら、私怨を晴らすために彼女を利用しようとするような真似は、クリスにはできない。それにはあまりに、心を近づけさせてしまっている。
好きなようにさせていたら、あっという間にこんな風にまでなってしまった。
それを裏切るようで、気が進まない。
廉太郎とユーリアにとっての最善、目的――そもそも、そこがクリスと食い違ってしまっているのが問題なのだ。
現在の二人のプランは、敵と交渉し、少しでも良い条件で互いの妥協点を求めること。
そして、それは最善手。
対立など無謀もいいところだ。
だからクリスの存在は獅子身中の虫。きっと二人にも、そのくらいはちゃんと気づかれている。
露骨に感情的な部分を見せて、勝手な判断で状況を悪化させるような真似をした。敵意をむき出しにして、断りもせずに――
「……おはよぅ、クリス」
「む、ようやく起きてくれましたね」
「ん? あらどうしたの、顔に痕が――」
「これはあなたのせいですよ」
あの夜、後々二人への害になると分かった上で敵の命を奪ったことを、クリスは後悔していない。
だが、結論はやはり出てしまうのだ。
自分自身の無鉄砲を謳いながらも、そのエゴを貫くのは不味いとどこかで分かっている。
この都合のいい状況を、二人を利用してしまいたい。ある程度の範囲で、二人が死なない範囲で、二人のその先に影響がない範囲で――。
――ほら、無理でしょ。
なのに、両立は無理だと知ってなお、どちらかを放棄することもできていない。
何も考えていないに等しい。
優先順位がごちゃごちゃになってしまっているのだ。そのせいで、自分の立ち位置すらはっきり決められないままでいる。
果たして何がしたいのか、優先したいものは何なのか。
現に自分が今している行動の意味も、その実、大した自覚が持てていないのではないか。
「あらら、こんなにくっつて……私は慣れているけれど、体冷やしちゃった?」
「……はぁ」
「ん?」
「いえ、むしろ暖かいくらいです」
「なら良かった」
そう言って、安堵したように触れてくる。抱えるだけだった腕の、その手の平が動きだしていく。
ユーリアの意図する範囲ではないにせよ、その手つきはどこかが恋人のよう。もっとも、普通肌を撫でる相手に恋人以外が挙げられることもないだろうが。
背後に感じる彼女の手が、頭から首筋を指が伝い、背中を通り、やがて大腿部へ。そこに空いた穴へと滑り込んでいく。
クリスの四肢、都合四か所に空いた肉の欠落部位。その内部を捉えられている。
そこでようやく遠慮がちな動きになった。
触り心地なんて良くないだろうに、それでも引っ込めようとはしないようで、
「……クリス、こうして触られて痛まない?」
「えぇ、そう大した怪我でもなかったですし――」
あえてとぼけてみたところ、
「それもだけど……あなたの手足、痛々しいから」
「これは一種のおしゃれなんです」
「何を言うのよ」
本当だ。
信じてもらえそうにはなかったが、一度駄目になった手足を調整してくれた技師の、大元のコンセプトがそれだったのだ。
工芸、趣味という他ない。
それもクリスのではなく、技師個人の意思と望みで。
クリス自身、それに対して良いとも悪いとも思わない。
ただ、そうしたいと言うからそうさせただけだ。自分の前の所有者である、今は亡きグライフ・ロードには。
だからこそ、この手足の負傷ではなく状態そのものに関していえば、クリスは本当にお洒落のように気に入っていた。
グライフと同じように、付き合いが続けばその内この二人も、この体の穴を埋める術を探すだろう。好きにしたいという言うのだろう。
そのときは、同じように好きにさせてやるつもりでいる。
疎ましくも気に入っている身体だが、自分自身に対する拘りというものがクリスにはない。
自分自身、自己というものを確立しないよう生きている。
仕方ない。
確固たる自分も、人格も、自我も感情も。持ってしまったとあっては、あまりにすべてが報われないから。
あるのは、そうあろうと定めた人物像だけ。この内に抱える巨大な憎悪も、その設定に付随したものでしかない。
「気に入りませんか?」
「当たり前じゃない」
むき出しの義骨が、そっと優しく撫でられていく。
慌てて取り繕った廉太郎とは真逆の反応だった。その両方の性格を、それぞれ好ましくクリスは思う。
感じ入るものは何もない。
感情は疑似的なものでしかなく、そうだと錯覚しそうになる中途半端な頭脳がここにあるだけ。
だから、もっと冷めた気分であらなければ――。
「――ッ」
「どうしたの?」
「くすぐったいんですよ」
――やせ我慢だ。触られて痛いのもまた、悪くはなかったから。
今はもう、考えるのもやめてしまおう。
今後のことなど、その場の流れに任せてしまえばそれでいい。
どうせ、自分一人でできることなど何もないのだから。
能力的にもそうだが、人形とはつまるところ道具であればそれでいい。そうあることを望んでいる。
今、抱き枕として使われているように。
おもむろに触り返してやると見せられる、その満足そうな顔が何よりなのだ。
勝手に走りたいのは山々だが、結論は出すまでもなくはっきりしている。
少しだけ考え直すとしよう、無理なことはもう期待しない。
ただ、せめて一人だけは。あの人間が仮に目の前に現れたときは、そのときだけは――
「二人とも」
「……えっ、起きてたんですか」
ぎょっとして声の方へ振り向くと、いつの間にか傍に廉太郎が立っていた。
起きた気配もなかったのに、寝起きとも思えないようなすっきりとした様相で、今しがた顔を洗って着替えまで終えてきたかのよう。
「あら、おはよう」とのユーリアに、照れる様子もなく挨拶まで変えている始末。
昨晩に続き、えらく大胆なことをするものだ。
昨日一日が旅行気分で、二人して開放的になりつつあるとでもいうのだろうか。
まさかこの場で一番バツが悪いのが、人形であるはずのこの女児になろうとは――
「うーん、クリスの手足の話かぁ――」
直前の話まで聞いていたのか、この状況に対する遠慮もないまま話を展開しようとする廉太郎。
人形扱いで好きにされる分なら本望だが、これはおそらく女児扱いの方。その歳で騒ぐなとでも言いたげな顔だ。
ユーリアに対しては、もう、すでに全裸でなければセーフだということになったのか。あの拗らせ方のくせに、耐性がつくのが早すぎる。
「この前ロゼさんにも聞いてみたけど、特殊すぎて難しいんだってさ」
「そっか……顔も広いし物知りだし、体調が戻れば手を貸してくれるとは思うけれど」
なら結構です、とは言えなかった。
『ロゼ』がロゼである以上、彼女と関わるのも業腹ではあるにせよ、廉太郎の顔を立てるくらいのことはしてやってもいい。
それよりも、当たり前のような顔で会話を始めた二人の方が気になってしまう――なんです、この距離感。
早く服を着せてほしい、着せたくないならそれでいいのだが。人形のこの身体を気遣ってくる時点で、それはないのか。
その気遣い自体、気遣おうとしてくる二人のことは、やはり等しく好ましくはある。気遣われたいわけではないけれど、持ってしまう印象とはまた別問題だ。
――だから不思議なんですよね。
二人からはその実、まったく同じような言葉をもって気にかけられているというのに、時々そこに違いを感じている。
性格や態度といった要因を、人間性としての魅力を度外視しての話だから、客観視してみても実際には違いが何もないのに。
二人からのこういうお節介な働きかけ。それをあしらおうとする頭の奥、どうしても心安らいでしまうのは圧倒的にユーリアの方なのだ。
よく分からない。
言葉や想い自体は同等のレベルの話なのだ。廉太郎の自己嫌悪など、よくある杞憂に過ぎないことをクリスは良く知っている。
廉太郎もユーリアも、同じくらいには気に入っているのに。
情はむしろ、廉太郎の方へと寄っているにも関わず。
なぜ――
「それにしても良い朝だ、少し天気は悪いけどな」
欠伸まじりに伸びをする、その呑気な様子に苦笑させられてしまう。昨日何事もなかったとはいえ、一番気を揉んでいてもいいようなのが廉太郎なのに。
――大したものだ。
この数日病んでいた気分も、幾分かは立て直せたらしい。
十中八九、昨晩良いものが見られたおかげだろう。罰といい寝巻といい、少しは感謝してくれていい。
「お腹空いたよ、食べに行こう」
「えぇ」
腕を離してベッドを抜けだす、ユーリアの体温が名残り惜しかった。
単に本当に肌寒くなってしまったからである。
もう少し寝ていてくれてもよかったのに――ちらりと人知れず、廉太郎へは目線で抗議しておいた。
――――
仕事や旅行で海外を周るたびに、現地での食べ物の口の合わなさに辟易させられたものだった。性格がわがままなのか、普段から慣れた味以外に見向きをすることは少なかった。
いつもの店、同じメーカー。
異なる世界で造られ直した今、それらからは完全に縁が切れてしまっている。以降、この数年、口にする物への足りなさをずっと感じ続けている。
旨いものくらい、こちらにだってたくさんある。
だがしかし、感じているのは不満ではなく物足りなさなのだ。あの食材、あの味、あの技術――規制品の砂糖菓子に至るまで、『あれじゃないと』と嘆いている。
かつての生活で享受していたものに対する、未練。
何もそれは、食べ物に限った話ではないのだが。
「――つまり、ロゼちゃんに会いたいのね?」
「あぁ」
周りくどかったのか、アイヴィにそれだけのことを念に押させてしまったようで、照れを誤魔化すようにウィラーは笑った。
気のある女に取り次いでもらおうとする、初心な少年か何かのようで。
この喫茶店に、まさか二日続けて足を運ぶことになるとは思わなかった。午後からしか開けないのを忘れていたせいで、幸運にも静かな店内には二人きり。快く入れてもらった珈琲の香りを、気分よく楽しんでいるところである。
「急用じゃあ……用もないんだ。一言の挨拶だけなんだがなぁ」
結局、ウィラーの生霊は届かなかった。あの白髪の青年――ローガンとかいうらしい――は、予想通り約束を違えてきたらしい。
約束といっても、一方的に言い残してきただけではある。責める気にもなれない。
窓口を開けて待っていたというのに、名前一つ思い浮かべてはくれなかった。
連絡がないのはロゼからだけではない。
廉太郎たちに接触をしかけたウィラーの仲間――部下からの定時報告もまた、滞っている。
中間管理職など割に合わない。なる気もやる気もなかった者にとっては。
「うーん、ユーリアに言えば都合つけてもらえるだろうけど……今旅行中だからねぇ」
「――まぁ、明日には帰ってくるけどな」
「あ、明日って……ずいぶん早いのね」
「俺が迎えに行ってやるからよ」
顔を出すついでだ、門に乗せてやる。
ただし、連れてこられるのはユーリアだけ。廉太郎の方は、用が済むまであちら側へと行ってきてもらわねば。
ユーリアを送り迎えしてやる義理も理由も別にない。だが廉太郎へ差し向けた『あれ』の特性上、状況が終わってしまったことにユーリアが気付けるのは彼が消えた後になる。
事情も分からず動転することだろうから、最初に関わってしまった身として、事後説明くらいしてやりたくもなる。えらく気を落とすことだろうから、可能な限りの情報は開示して安心させてやるつもりでもあった。
今ですら険悪なのだから、心象は余計に最悪になるだろうけど。
――めちゃくちゃ揉めそうだ。
「……うわ、告げ口でもされたらあんたにまで嫌われるわけか」
嫌な役だなぁ。
思わず嘆きを零したウィラーに、ちらりとアイヴィは目を傾け、
「よく分かんないけど。ならお礼に、わたしが取り次いであげましょうか?」
「いいんすか」
「怪しくないわよ、って保証してあげるから」
昨日に引き続き、いい話を持ってきているからなのだろうが――妙に気に入られている感じがする。
困るわけもなく素直に嬉しいのだが、その分反動が怖い。廉太郎には後で恩でも売っておいて、口裏を合わせてもらえるようにしなければ。
ようやく引けた当たりの店、こうも早々に出禁になっては痛すぎる。
「助かる……あぁいや、そこまではいいや。ちょっと名前だけ伝えてきてくれれば充分だ」
「あら、そうなの?」
「俺が来たから、察してくれって」
密談しようぜ――と。
「んんっ、知り合いみたいな言い方ね」
「知り合いなんだよ、実はな」
隠しごとのある疚しさからか、どうにも要領を得ない思わせぶりな会話になってしまっていた。
しかし細かいことが気にならないのか、「そういうことなら、お店開ける前に行っちゃおうかしら」とテーブルを立ったアイヴィが使用したカップを片付けて、
「ローガンくんも、わたしには苦手意識あるからねー。さすがに門前払いはできないでしょう!」
「お、なんでだ?」
「ものすごく年上だと思われてるから」
「あぁ……確か、六十を越えているんだったか」
それでこの見た目なら、正直かなりの得した気分になれる。現地の味どころではない異郷感だが、これに関しては文句などつけようはずもない。淘汰されつくした被迫害種ということもあって、これまで気が引けて交流してこなかったのがもったいないくらいである。
褒めた意図が伝わらなかったのか、アイヴィは不満そうに「人間単位なら三分の一よ」と小さい頬を膨らませ、
「わたしたちはね、心も体もそんなに早く変化しないの」
「なら二十代前半あたり……ちょい年下くらいかあ」
見た目はもっと幼いくらい。背丈も娘よりずっと低く、知らなければ年下の友人か何かと勘違いしてしまいそう。義理とはいえ、親子だと言われたときには思わず二度聞きしたほどだ。
その辺りがお得感、目を見張らされる付加価値がある。
思われるほど大人になっているわけではない――という感覚には、一部共感するところもある。
だが、彼女がいくら近しい歳の感覚で接してこようとも、そこに積み重ねた年月があるのは変わらない。だからこそ、人間として敬わずにいられない部分がどこかにある。
それで同年代かのように接せられてしまえば、確かに戸惑ってしまうのも無理はない。
「じゃ、行ってくるわ」
そう言って、鍵をかけるでもなく店を後にするアイヴィの背中をぼんやりとウィラーは眺めていた。 店番を任された風でもない、無防備を晒されるほど信頼されるような覚えもない。
多分、この町の治安がいいせいだ。
良すぎるといっても過言ではない。
やはりというか、この町はどうしても不自然である。どういう絡繰りで成り立っているのか、関われば関わるほど疑問が増えていってつきそうにない。
こんな世界で、人間と他の人種族が手を取り合えているなど、どうかしている。
その必要に駆られるまで追い詰められたコミュニティだとはいえ、迫害されてきた側の気持ちはどうなる。葛藤に、どう折り合いをつけているというのだ。
世代交代もあるとはいえ、迫害してきた人間の側にだって葛藤はあるだろうに。
割り切れない確執で埋め尽くされているはずのこの町が、なぜこれほどの纏まりを得られているのだろう。
アイヴィは六十年以上を生きている。
この『舞台』が侵攻によって致命傷を受け、その影響で人間が非人間を殺し始めるようになったのがちょうど五十年前だから、彼女にとっても最も多感な幼少期を絶望と憎しみの中で過ごしていたことになる。
そんな彼女が、自称二十歳そこそこの若さにして、後に人間の子供を養子に加えたという事実。
それを、どう解釈したらいいものか。
「……気になんなぁ」
出会い、動機――ここまでに育まれた関係性。
そんな言ってしまえばどうでもいい、他人様の事情が気になってきてしかたなかった。
あまりに不憫に思えたユーリアの立場を、一度気にかけてしまってからというもの、彼女周辺に対する疑問や好奇心が鳴りやむ気配が見えてない。
野次馬根性丸だしではあるが、加担した負い目があるにせよ、とても見て見ぬ振りができなかったという話でもある。
知ってもどうもしないが。
知りたかったのはユーリアに関することだけだったのに、気づけばこの手に余るほど巨大で、複雑な枠組みに触れつつあるような思いだった。
(次回更新 今週末)