第四十話 蝋燭と嫉妬
深夜。
町はさすがに寝静まり、人の気配は消え去っている。ホテル内からも外の街路からも、物音一つ聞こえてこない。灯りも、主要な通りの街路灯が点々と仄かに見えるばかり。
日中とはうって変わった落ち着いた夜。蝋燭の炎だけが揺れる、寝室の雰囲気によく似ている。
今、起きているのは自分だけか。
そんな妄想にも駆られてしまう。
灯りを落とした暗い部屋、窓側の隅で椅子に座った廉太郎が一人、背後を振り向くように窓を覗く。こっそりとカーテンを捲る様は、人目を忍んでいるようでも、何かを恐れているようでもある。
外が気になったのは二度や三度のことではない。
何度覗いてみても、想定しているようなものは、その予兆さえも見て取れなかった。
未だ、この期に及んで、敵が干渉してくる気配はない。
どれだけ待ち構えようと、早くしてくれと願おうと、何の変化も訪れてはくれない。
もどかしく、気が気ではない。
この部屋に居座っているのが、苦痛に感じてきてしまうほどには。
「おかしくない、別に。寝込みを襲うってのも、タイミングは相手次第だ」
日付を跨いでから、朝方まで。
この場の敵が慎重で、万全を期すつもりなのだと仮定すれば、ターゲットがより深い眠りに落ちた頃合いを確実に見定めようとするはずだ。
事実、ユーリアとクリスの二人が床についたのは、つい数十分ほど前のこと。大雑把な換算で、深夜の一時少し前あたり。
かたや睡眠趣味、かたや子供である二人だ。
かなりの夜更かしで、二人にしてもイレギュラーではあったものが、常識の範囲内。襲う側も、当然のように想定してくることだろう。
だから、接触がないのはむしろ自然。
気を張っているだけ損なのだ。どうせ、抵抗は何もできないし、するつもりも廉太郎にはないのだから。
「堂々としてれば……って、分かっていてもな。落ちつけるはずが――」
今夜。
危機に対処できるのも、敵との対応ができるのも廉太郎だけ。二人へは危機を伝えてやることもできず、ゆえに二人は危機や異変を察知できない。
いたたまれないほどの無防備。
寝ずの番、と呼べるほど頼りになる存在にはなれそうにない。頼りなさと責任感が、不安となって夜の孤独を苦痛に変えてくる。
ただじっと控え、事を待つというだけのことが、あまりに困難でしかたなかった。
今から確実に何かが起こる。
――否、すでに『何か』は起こり終わっていて、後は成果である廉太郎を回収しようとされるだけなのか。
はっきりと分かってしまっているだけに、刑の執行を焦らされているかのような気分になる。はらはらとした焦燥感が、心臓と口の間を往復し続けていた。
独り言の多い夜。
会話ができないのは、二人が眠っているからだけではない。
「やめよう。二人に起きられでもしたら――」
二人を寝かせるのにも苦労したのだ。敵が来るとはいえ、この異変の性質上、起きられていても逆に対処に困ってしまうから。
異変、異常。
廉太郎の言動や態度、立ち位置一つに至るまで。あらゆる発信、働きかけは『検閲』され、敵に不都合のないように、仲間に違和感を与えないような形へと改竄されてしまう。
特に立ち位置、あのときの自分が存在していた場所。二人を放置して横になっていたという事実、姿、場所までもが二人の認識から書き換えられていた。知らないところで、気づかない内に、二人の遊びに加わっていことになるなどと。
看過できるものではない、とても。
事実との乖離が、二人とのズレがあまりに大きく、何事もなくゲームを終えた今となってさえ、元通りにできたかどうかは不確かで、自信がない。
何気ない視線にさえ身が強張った時間が過ぎ、ベッドへ向かった二人を目にした際には「ようやく眠ってくれるのか」と思いさえした。つい頭さえも下げてしまっていた。
ユーリアはもう、それが当然だとばかりに、同じベッドの上で寄り添うクリスを抱き抱えている。
慣れたもので、クリスは抵抗する素振りも見せなくなってきていた。
ベッドの数的にも、スペース的にも文句を言っても仕方ないだけ――という側面は確かにある。
だが。
なにも、そこまでくっついてしまわねばならない理由はないだろうに。
「分からない奴」
些細であっても、廉太郎にとってそれは思いのほか意外な姿であった。他人の、それもあられもない寝姿などあまり見てやるものではない。そう気後れはしながらも、気を紛らわせずにはいられなくて。
顔が自然とそちらへと向いてしまう。
もう少し、――心を許そうとはしない子供だとばかり思っていた。
相手がいくらあのユーリアだとはいえ。足早に距離感や心を詰められて、困惑するほどやられてしまっているのも無理はないとはいえ。なんともなしにそれとなく、慕うようになっていきているとはいえ。
今のクリスの有様や態度は、廉太郎の中のイメージと大きくずれる。
服を剥かれたまま抱かせて、それで眠るのを良しとしているところが――ではなく、それであっさりと眠りに落ちていってしまったことが。
安らかに、普通の子供と変わらないような雰囲気で。
意外を通り越して、いっそ「おかしいのではないか」とさえ疑ってしまう。
陥っている状況だけに、違和感に対して敏感になりすぎているのだろうか。
ユーリアもユーリアで、ほとんど同じような格好でそうしているだけに、余計に異質さを覚えてしまいそうになる。
「二人揃ってどうかしたのか」と。
もっとも彼女の方は、ただ単に羽目を外しているだけなのだろうが。
普段、自ら抑制しているものが多いユーリアのことだ。友人との旅先の宿という特別なシーンくらい、多少の粗相くらいなら許してくれてもいいのでは――と、はしゃいでいる。張り切った様子に伴う、反動のようなものであろう。
接触忌避。
服装制限。
あぁ、ならば――。
前者の対象外であるクリスは、願い通り添い寝を許してやっただけでなく、約束や罰という形で後者の枷を外す口実をも、今夜のユーリアへと与えてやったことになるのか。
服を買わせたのも脱がせようとしたのも、いつもの悪ふざけか悪戯心だとばかり思っていた。
しかし案外、それは気を遣っての計算でもあったのかもしれない。
だとすれば、言葉や態度以上にに彼女のことを慕っている。それに殊勝なほど、とても気を回せる子供ではないか。
「……いや、関心はできねぇ」
二人でやっていてほしい、そういうは。
――俺を巻き込んだのは意図的だろうが……少しは分けてくれ、遣う気を。
冷静になった今にしてみれば、あれは酷い乱痴気騒ぎであった。
誰が負けてもよろしくない、過ぎた悪乗り。
二人の認識とは違い、廉太郎の主観的には途中参加ではあるものの、途中からでも間違いなく止めるべきであった。その時点で廉太郎も同罪には違いはないが、あまりのショックに頭の中はどうかしていて、正常な考えなど働かなかったのだ。困惑と恐怖で、とてもそれどころではなかった。
それまで卓にも付いていなかったのに、二人はそこに、配られた札を握る廉太郎の姿をずっと見ていた。実在しない虚空を、本物の廉太郎だとばかりに扱い、当たり前のように戯れて、たわいもない遊びに興じていた。
例えようもない感覚。
それに圧倒され、理解も及ばないままに震えてしまった。
二人に生じた影響は重く、衝撃は大きい。
そんな風にまで世界が、関係が一度歪められてしまって、はたして自分たちは大丈夫なままでいられるのだろうかと。
「だから、うん……俺は悪くないだろ」
やましいところは、たぶんない。
あのクリスだ、何を言っても無駄だろう。となると、いよいよ考えものとなってくるのはユーリアのあの性質の方。
おそらく、全裸でなければセーフだと思っている。
周りへ気を遣ってしっかり自制しているようでいて、ところどころでボロを出してしまう。無頓着なりに尊重しようと努力している、その真面目さに注文をつけるようで悪いのだが――正直、たまったものではない。
昨日の朝はそれで失敗して、ぎくしゃくしてしまったばかりだというのに。
反省自体は相当しているようで、今夜は一応、何度も顔色を窺われていた覚えはある。
ちょっとだけ薄着になるけれど――。
恐る恐るのそんなサインにも、空返事しか返せなかった。その曖昧な態度のせいで『今日くらい良いのかな』という判断を導いてしまったのだ。
確かに、こんなゲームを了承してしまった時点で、どんな誤解を与えてしまっていようとも弁解できない。
「迂闊だった」
しかし。
廉太郎が異変に気づく前の、二人が観測していた廉太郎の代役。『それ』の行動は不可解だった。
二人の言動からの推測だが、『それ』が二人にとって本物の廉太郎だと認識されるよう振る舞えていたのだとすれば、そんな罰が決められた時点で止めようとしないのは明らかにおかしい。
人格を再現されたわけではない。不都合がなかった場合の、もしもの自分を生み出されてしまったわけでもない。
休憩、不参加。
本来であれば起こり得なかったはずの、それら不自然。『それ』は、その不自然さを消すための、二人の目を欺くためだけの、別の『不自然さ』でしかなったということか。
「…………なら、いいけどな」
人の寝ている姿などそうは見ない。
気持ちよさそうに二人は眠っている。
廉太郎の気も知らず、状況も知らず、葛藤も畏れも不安も知らず。
それを思うと、不躾にも二人のベッドから目を離せなくなってしまう。その内、離す気にもなれなくなって何を思うでもなく見入っていた。
構うまい。
暗いもので、大して見えるわけでもない。罪悪感を覚える必要もないだろう。
ユーリアは眠るのが好きだという。
そんな彼女が眠気をおすほど旅先気分で盛り上がっているところ、眠ってもらうために、早々にゲームの決着をつけてやる必要がどうしてもあった。
当然、勝ちに行けたわけもない。色んな意味で。
再度のルール説明を終え仕切り直した後、ユーリアからは廉太郎へ手心が加えられていた。理由は考えたくない。
それに同調し、狙いをクリスへと絞ってやった。
結果はユーリアの独り勝ち。場はお開きとなり、そのまま良い気分で寝てもらった。剥かれたクリスを戦利品のように抱えながら。
罰の内容的に、ユーリアを負かすよりずっと犯罪的ではあったろう。
だが人を対象とした法は、人形であるクリスには適用されない。人形に関する法の定めなど知らないが、これから従うことになる法はユーリアたちの町のもの。クリスを人扱いしてしまいたいのは山々だが、決まりの上では合法だ。たぶん。
そもそも、「負けたら脱げ」などと言い出したのは当の本人。身から出しまくった錆だと思えば、さして可哀そうでもない。
「まぁ良いだろ、そこまで嫌がってはなかったし……」
クリスにはあれで、人並みに羞恥心がある。
見た目は小学生、実際にはほんの数年しか生きていない。
クローンで、かつ人造生命。
そのため、外見年齢と精神年齢と稼働年数のかみ合わせが複雑になっていて、人間でいう何歳くらいにあたるのかさえ考えにくい。まぁ、中学に行くか行かないか程度だろう――と、大まかに捉えている。
思春期盛りだ。
文句だけは言いながらも、取り決め通りに罰を受け入れていたクリス曰く、「そういう人柄で演っているだけです」
文脈的に強がりにしか聞こえなかったが、クリスはあくまで自分が『人』であることを認めようとしない。
羞恥さえも、そうやって隠そうとしなければならない理由がクリスにはる。
歪で、変わった形。
そしてそれは、一部分だがユーリアにも通ずるところがある。
今夜の彼女が示した羞恥心は、品性と屈辱感によるものでしかなかった。見せること自体には抵抗もないが、自分一人だけがそうなってしまうとなると『馬鹿みたいで格好が悪い』と。
スリルや勝負心と釣り合う程度のもの。こんなゲームにも、軽い気持ちで乗れてしまったわけである。
それに対して、脱ぎたがりだとか、はしたないだとか、危ういだとか――そういう風に思ってしまうのは酷だ。
実際、本質的にはその通りでしかないのだから。
「助かったな、クリスが弱くて……」
一緒に、疑似的なチェスで遊んだことを思いだす。廉太郎は駒の動きもルールもうろ覚えで、定石も何も知らなかった。あらゆる要素がクリスに味方していたのに、自然と完封してしまっていたのだ。
熟練者でもなければ、子供は五つ六つ上の先輩に勝ててしまったりはできないだろう。
それは、クリスの脳が、子供のそれと何ら変わらないのを意味しているのではないのか。
――だからなんだ?
こんな夜に、ずいぶんな余裕があったものだ。
でなければ集中力か、危機感のどちらかが欠けている。
敵からの接触は未だない。
そろそろだろう。
椅子から立ち上がる気になれないように、寝静まる二人の姿から目が離せないでいる。
後ろ手にカーテンを開け放つ。夜灯りが差し込み、寝顔を廉太郎へと見せつけてくる。
不思議と、それを見ていると安心するのだ。
特に、あんなことがあった後だから――。
話をしなくても済む分、今だけは何もかも歪にならない。これまで通りの関係が、問題なく確かに続いているのだと確信できる。
それが何よりも重要だった。
今の廉太郎の世界は、すべて彼女との関係だけで成り立っているから。
それが揺らがされるということは、世の市民権を剥奪されるのと変わらない。
敵を待ち受ける必要がなかろうと、今夜はきっと眠ることができなかっただろう。
彼女とクリスが同じ部屋に居ようとも、心理的に今の廉太郎は一人だった。
そんな孤独が苦痛になる。
いつからか、廉太郎は一人では眠れなくなっていた。
「……そうか、初めてなんだ。完全に一人になったのって」
この世界で目覚めてからは。
正確には、一日目の夜は一人だった。出会ったばかりのユーリアに連れられて、ろくに説明もないままに大層な施設の一室に放り込まれたことがある。
それ以来、孤独感とだけは無縁だった。
今夜は十二回目の夜になる。
――あぁ、なんということだろう。
異界に囚われ、帰る方法も見つけられない。そんな状況にありながら、廉太郎がずっと抱えていたものは寂しさでも孤独でもなく、ただの義務感だった。
早く帰ってやらなければ。
家族に、知り合いに、余計な心配をかけてしまってはたまらない。
一日でも早く。
そんな焦燥からくる不安、強迫観念。
一人になると途端にそれに押しつぶされた。夜の寝室は、気を紛らわせてくれる相手が誰もいなくて。
最初の数日はそうでもなかった。
四日目からはクリスが居た。
そのクリスが別室にまで離れられるようになって、初めて「あぁもう駄目なんだ」と自覚した。親を泣かせるという罪の重さに耐えられず、自己の内面を直視せざるを得ない夜の孤独はあまりに苦痛。
そして、二日前。
お前はもう帰れないのだと、帰る『故郷』ごとすでに失われてしまったのだと。
それを告げられ、すべての肩の荷が下りた。
果たすべき義務が消えたからだ。
おかげで、代わりに自己嫌悪という別の重みを背負うことになってしまったものの。
今夜、廉太郎はまた別の感情に苦しめられている。
純粋に、今度のそれは孤独そのもの。不安などという言葉では収まらない、そんな畏れを抱えて震えている。
極端な性格だと、自分でも思った。
知らなかったのだ。
これほど、孤独に弱い人間であったとは。
皮肉なものだ。
両親、妹弟、親戚、同級生、知人――。その命、築いてきた人間関係。それらを揃って失っておきながら、一度も泣けなかったような奴が。
――『今のお前たちに友達はいない』。
今の廉太郎を形作る言葉。ありがたい説教で、良い教育にもなりえたはずの言葉。
仲が良いだけの、傍に居ることが楽しいだけの気楽な関係を友達とは呼ばない。その程度の間柄に満足し続けているようでは、生涯なあなあな交友関係しか築けない。
他の誰もが聞き流していた、部活動におけるお節介な指導。
だが、その日廉太郎の中で、すべての『友人』は『親しい隣人』へと降格した。
一言一句その通りだと納得させられた。
なんとハードルの高く、価値のある関係性なのだろうと。
そのように憧れ、そしてすぐ、自嘲気味に諦めることとなる。
「……嫉妬するわけだ」
ユーリアとクリス、二人の仲は特別だ。
他人に触れられない性質に生まれたユーリアは、その性格も相まって、十八年近くも苦痛のない人との触れあいを熱望していた。
そこに現れた例外的なクリスが、単なる幼い友人に留まるはずもない。親愛や好感、情とはまた別の何かが、彼女にしか分からないような『特別』がそこにはある。
クリスもまた、そう。
ここまで懐き、心を許しているということは、感じ入る何かがあるに違いないから。
おそらく、運命的に出会ったのだ。
放っておけば、勝手に親友以上の間柄になっていることだろう。
それを手放しで喜んでもやれず、あろうことか妬もうとしている。
二人の、どちらに対しても。
そんな嫌気のする自分というものが分かっているからこそ、初めから諦めてしまうのだ。
誰も特別には思えないし、誰からも特別には思われない。
自信もなければ資格もないから、『友達』だなどと――あまりにおこがましい。
「だからどうしたっていうんだ……そんなの」
考える必要のない雑念ばかりが渦巻いて、ネガティブな感情だけが湧いてくる。
これはもう癖だ。だから夜は駄目なのだ。
寝顔とはいえ、せめてそれくらいは眺めているのを許してほしいものだけれど、今夜ばかりは寝格好がさすがに良くない。
いい加減、後で気まずくなりそうに思えてきて、やはり部屋は暗くしておこうと開けてしまったカーテンを廉太郎の手が掴む。
それを閉めようとしたところで、窓の外に『それ』を見た。
人影。
遠い。外の通りを先に数十メートル進んだあたりで、建物の影から意味深に身を出しているかのように、その頭をこちらへと向けている。
暗がりなのもあって、顔どころか、背格好さえ判別できそうにない。
だが、不審人物には違いなかった。
この寝静まった深夜に、その人影は何をするでもなく、ただただぽつりと立ちつくしている。身じろぎをする気配さえもなかった。芝の広場で目にした、遠巻きに監視してくる何者かと同じように。
同一人物か――?
いずれにせよ、敵であるには違いない。
動揺はない。
むしろ、どこかほっとしてさえいる。
敵が来るのは分かっていたのだから、その様相がいくら怪しかろうとも、不気味ではない。不気味なのは、いっそこの部屋の中の方だ。
それでも、やはり不可解ではあった。
敵の意図がまるで分からない。
監視にしても尾行にしてもそう。寝込みを襲うにしても、接触の機をうかがうにしても、もっとましな監視方法があるだろうに。
しかし『それ』が示し続ける意思や態度は、なぜかあれほどまでに中途半端。
堂々ともしていないのに、わざわざ見られるように姿を晒すのは、単なる脅迫的なアピールがしたいからか。
――いや、考えるだけ無駄か。
あれに対処できる手立てなど、どうせ何もないのだから。
それでも、するべきことだけは山のようにあった。
「まったく、こないだ書いたばかりだって……」
椅子から立ち上がり、廉太郎は二度目の手紙を書きはじめる。
馴染みのないせいもあるが、暗い手元は覚束なくて、格好のつく気の利いたペンを上手く使える自信はない。粗末な鉛筆と、手帳を破ったメモ用紙でいい。
ユーリア当てに、書き残しておくべき情報がある。
おそらくこの後、眠る二人には気づかれないままに、廉太郎だけが連れられていく。ならばせめて、どんな状況になっているのか、後からでも分かるようにしてやらなければ。
ユーリアに心労なんて与えたくない。
翌朝になって、廉太郎が居なくなったことに気づく彼女を想像する。それだけで、叫びあげたくなるほどに心が荒れ、青ざめてしまう。
今は無理だろうが、この『異変』が終了さえすれば、こんな手紙も認識できるようになるはずだ。元に戻る。この影響効果はあくまで、一時的なものだと信じたい。
猶予のなかった前回は違い、言葉を選ぶ筆は焦らなかった。呼吸の仕方に迷うほど気がおかしくなりかけていたものの、空元気で読み手を気遣ってやれるだけの余裕はある。
――あのときは、文法も内容も支離滅裂だったもんな。
気恥ずかしいものを書きなぐっていたらしい、よく覚えていないのだが。
ユーリアに対して、してやれるのはこれくらいだ。これでベストなのだろう。
問題は、クリスの方。
魔力を融通するのに距離的な制限がある以上、離れ離れに引き離されたとあっては命に関わる。なにせ呼吸さえ、廉太郎からの魔力に依存しているような身体なのだ。
「……あぁ、俺の役割は、そのへんの上手い交渉か」
子供一人くらい、何もなければ一緒に連れて行ってくれそうなものだが。
肝心のクリス本人が、彼ら学団に対して並々ならぬ敵意を向けているという事実がある。彼らと相対したときのクリスの様子は、今が比にならないくらいに――らしくないものであった。
冷静さも合理性も失っていた。
何をするか分からない。自分の身さえ顧みず、無謀な行動を取らないという保証はない。
欠損、負傷の絶えないその姿を見ていると、余計にそう思わせられてしまう。
場合によっては、昏倒させて引きずってでも傍に置いていてやらなければ。
だから、しっかり気を張らなければ。
奴の接触は、おそらくもう間もない。
どうしようもないなりに、最低の下の最悪にまで落ちないようにするのが、今の廉太郎の務めだった。
――――――――――――
この身体を捨てたいと、かつての私は思っていた。
いつ沈むかも分からない船などさっさと乗り換えてしまいたいだろう。壊れ続ける肉体を、瘴気にやられた魂を、まったくの別物と取り替えることができたなら、と。
毎日のように、そう望まずにはいられなかった。
だが残念ながら、理論上は取り換えが可能な肉体とは違い、魂というものは残酷なまでに個としての自分と結びついてしまっている。
自我。主体としての、『ロゼ』としての自分であり、人格。
それ自体が不治の病におかされているとあっては、もうどうしようもない。
なまじ私の魂が特別製であったがゆえに、何度も死の向こう側へと突き飛ばされては、そのたびに否応なく生へと足を引きずられることとなった。
常人なら即死であるはずの肉体、それも全身の異形化に、私の魂は抗ってしまう。人の形を、勝手に取り戻そうとしてくれる。
有難迷惑とまでは言ってやれない。
死にたいと思ったことは一度もない。
だが。不定期的に発生する身体の変質とその修復、それを繰り返しながらの人生は、安穏とは程遠いものであった。精神的にも、肉体的にも疲労し続けている。
その苦痛は、生きたいという想いと天秤にかけられてしまうほど。
そうだったのは確かなのだ。
だがどうだ、今の私は。
肉体も魂も、これまでの苦痛からは開放されている。元の自分、本来の自分と隔絶された仮想の存在としてではあるにせよ、私の自我はそれまでの過去から地続きである。
かつての望みは、廉太郎によって叶えられたといっていい。
日常の中で絶えず自分のコンディションへ気を張っていたり、爆破物か何かのように手足を慎重に動かしてみたり、人の目に怯えたり。
もう私は、そんな風に生きていく必要もないのだ。
そうやって、生と死の両方の恐怖を克服した。
そんな私に残ったものは、気がおかしくなりそうなほどの存在欲求だけだった。
――――――――――――
「……朝か」
現実。
『舞台』世界に生きる、二十三年間をロゼとして過ごした彼女の目が、おぼろげに開く。
寝起きのせいか、差し込む朝日が痛いほどに目に染みている。痛むほどではなかったが、その明るさと熱が煩わしい。
顔を背けようとして、自然な寝返りを身体が打った。
その事実に歓喜する。
「やっ――た!」
就寝前には腕すら持ち上げられなかったような身体。それが起きてみれば、驚くほどに快復しているではないか。
まぁ今回も大丈夫だろうと、根拠なく楽観視するしかなかったような状況の中、医者が太鼓判を押してくれたようなものである
骨格や内臓はともかくとして、筋肉や神経といった細部は依然としてでたらめな感じではあったものの、アウトラインを整えるだけなら、朝食までにでも済ませてしまえる。
明後日――よくて明日には、軽い仕事くらいならこなせるようになっているかもしれない。
「お腹空いたかな……うん、空いたということにしよう」
起き上がろうとして、数秒だけ迷った後に、結局ロゼは声を上げることにし、
「おーい」
「――起きたか」
気の抜けた声は待たされもせず、自室のドアを開けさせていた。同居人とはいえローガンの対応のあまりの早さに、思わず苦笑させられてしまっていた。
――ちくしょう、得意気に調子ずいてやろうと思っていたのに。
まるで、そこに待機でもしていたみたいではないか。
家政夫のごとく世話を焼いてくる男ではあるものの、それではむしろ使用人のようだ。
「おはよう、良い朝だぞ」
「お前なぁ、……よく言うぜ」
「ん――なんだ、寝不足か?」
驚くだろう、安堵するだろうと意気込んで半身を起こして見せたものの、ローガンの顔は思ったより晴れない。
酷く疲れたように沈む彼の面を、何事かとぶしつけに指を差してやる。
「もう四日、何も食べてないんだぞ。二度寝するなら朝飯作ってからにしてくれよ」
「四日じゃねぇよ――」
「あぁ?」
「一日足りてねぇ。お前、眠ったの一昨日の夕べだからな」
まじかよ。
言葉もでなかった。顔も、たぶん引きつっている。
まさか丸一日以上眠りこけていたとは。なるほど、見ちがえるほど体調が変わっているのも納得ものだ。
生理的機能まで、こうも唐突に脈絡なくかき乱されてしまいかねないのだ、という事実を直視すれば、冷汗ものでもあったけれど。
「……ま、まぁいいさ。むしろ良いことの証拠だろう、気分的には超元気だよ」
「みたいだな」
ほっとしたように、気難しい顔が緩んでいく。
しかし、かなり気まずい。
自分でもヤバいと分かるこの異常、それを傍らで見せてしまっていたとあれば、その心労を察する。
寝てられないほど気を揉ませてしまっていたとは、もう使用人どころでもない。
「そうだローガン。昨日、私が起きていない間、客はどのくらい訪ねてきた?」
「……六人だ」
話題を逸らそうと振ったロゼへ、事実より一人だけ少ない数が告げられる。
彼女が何も知らないのをいいことに。
ウィラーという男から、名前だけでも伝えてくれとは言われていたローガンではあったが、そんな頼みを聞いてやる義理など彼にはない。
それを受けて、ロゼはただ、
「少ないな」とだけ零していた。
一昨日――ではなく、三日前はその四倍は訪ねて来てくれたというのに。
見舞いか、相談事を持ち込むか、あるいは仕事の依頼かで。
「連日、俺が釘を差し続けてきたからな。休みだっつってんのに働かせんじゃねぇってよ」
「それはまた」
今回のロゼの昏倒は、これまでのものと比べても期間が長い。
ベリルと戦りあった後からだから、五日間、ロゼは本来の仕事ができていない。相当な人数に迷惑をかけているし、かなりの人数を不安にさせてしまっている。
特異性質がゆえに、相手の魂に直接触れることのできる、超万能カウンセラー。
精神と魂の調整を行う。
そのため、この町の人間はすべて彼女を頼っていると言っていい。
皆が一番恐れているのだ、魂が瘴気に侵され切ってしまうことを。
「可哀そうに、怖い顔して追い返しちまったのか?」
「あぁ」
「悪気はないんだから、みんな――」
不安なんだよ。
よく分かる。
自分が隠れてしまっただけで、町の雰囲気が、皆の精神状態が、治安が、看過できないくらい悪くなってしまうであろうことを、ロゼはよく知っていた。
「――チッ、気に入らねぇよ」
「キレすぎだろ……あぁ、さてはユーリアだな。しつこく来たりしたんだろう」
「いや? あいつら、あれから来てねぇな」
「えぇ……」
薄情な。
毎日とは言わずとも、一日おきくらいには会いにきてくれよ。混み入った自分の事情を知っているのは、他にはあの子だけなのに。
忙しいのかな。
「また何か命令でもされたか……やれやれ、日も空けてもらえないなんて。あの子もよく働く」
公私ともに、人一倍。
町の内外を走り回っている。
「働かされてんだろ。あいつも、お前も」
だからこそ苛立つのだ――とばかりに、ローガンの目つきが険しく強張る。
それで良しとする彼女たち二人に対して、そして、二人をそう縛りつけている上司に対して。
世界復興機関。
代表、ルートヴィヒ。
本来の組織体系的には、ローガンにとっても最高上司ではあるのだが、彼らの間に職務上の接点はない。ユーリアとロゼと、他の数人――直接、好き勝手に指示を下される彼女たちの方が、代表とのやり取りはよっぽど多い。
事実、顔を合わせたことさえ数えるほど。
それでも、その男に向けたローガンの鬱憤は、ずっと前から憎悪の域に達している。
「お気に入りの女ばかり囲って無茶させんのが奴の趣味か? なんでンな奴が俺たちのトップやってんだよ」
「ふっ、ふふふ――確かに、私たちを愛人だとする噂もなくはない」
「……ユーリアの奴が耐えやがるからよぉ。俺も遠慮してやってたが、そのうちマジに殺りにいっちまうかもしれねぇよ」
やめてくれ。
なにも知らないんだから。
あいつが居なければこんな町、そもそも成り立っていない。その辺りの事情は最高機密になるけれど、そうやって皆があいつに依存しているように、自分もあの子も、ある種依存しているのだ。
「――なんだよぉ、その意地みたいなの」
「色々あんだって」
「あの子の前だと変に大人ぶりたがるよな、お前は」
「うるせぇよ」
「うんうん、可愛い後輩なんだな。分かる分かるよ」
不服そうなローガン。
それが可笑しくて、いつものようにからかいたくもなる。
「私にとってはそうだな、妹みたいに思ってる。自分の命の次くらいに大事なね」
すると、ローガンはぴたりと顔の動きを止めてしまう。
一瞬凍り付いたような空気を感じ、やがて彼はいっそ気遣うような声色でさえ口を開き、
「…………妹つったら普通よぉ、自分より大事だって思うもんだがな」
「うっわぁ、性格悪いのバレちゃっただろ――」
焦る。
取り繕おうとした軽口は食い気味で、言い切る前に尻すぼみになる。
バカな、――これ以上ない失言だろうに。
そうだ。
こいつは実際に妹を――両親も、兄も弟も。
忘れていた。
家族というものが、自分には生まれつきなかったものだから。ずっと一緒に過ごしている内に、境遇を同一視するようになってしまっていたのだ。無意識に。
これだけの仲でそれはないよなぁ――、合わせる顔もなくて顔を伏せてしまうと、今度は意味もなく涙がこみあげてしまいそうになる。
――卑怯な。こんなの、ただの感情失禁じゃないか。
「……だって」
だって、――なんだ?
謝りようなど、果たしてあるか?
でも嘘をつくのも、場を取り繕うのも、良いように流してしまうのも苦手なもので。
諦めて。
「だってさ、仕方ないだろ……実際私なんて自分が一番大事って奴だし。死にたくないっていうか――」
それは懺悔の皮を被った、ただの愚痴のようなもの。
いい歳をして、情けないとは強く思う。
それでも、一度沈みだした気は止まることはなく、こみ上げてくる感情に呑まれるままに抱えた思いが零れていく。
それに抗おうと、膝を抱えたかったけれど、上手く足が上がらなかった。
「今は気分が良いけど、ほら、次眠っても翌日に目覚められるかどうか……もうそれも、自信なくなってきちゃったし」
「……バカなことを」
そんな言い訳で、叱られた子供のように媚びるロゼに、ローガンはやはり苛立ったように近づいて、
「この間、自信満々に『死なねぇ、大丈夫だ』って俺に言ったじゃねぇか」
目線を合わせるような距離になると、人が変わったように優しい。
「だからそれは気の迷いだ。弱ってんだよ、無理もねぇ」
「……あぁ」
「泣き言があるならいくらでも吐き出せ。俺が適当に聞き流してやる」
その言葉、声色。
ロゼの症状や体質に対し、実際にはできることが何もないという事実を嘆いている。
それがいつものように、痛いほど伝わってきた。
――ふと思う。
私は、こいつが好きなのかもしれないと。
それもまた気の迷いで、錯覚なのだ。心が弱っているというのなら、誰に何を言われたとしても、今の自分はどうにかなる。
いつだって、どうにかなっている。
誰でもいいから、頼りにしてしまいたい。
分からない。
たとえ錯覚でも、少しくらいは、その出どころとなる部分だってあるものだろうか。
ずっと長いこと一緒に過ごしていて、親密と親愛の境界も曖昧になってきているから――分からない。
この曖昧な関係が当たり前で、他人に関係性を聞かれようとも、いつしか「同居人だ」という答えにも困らなくなってきていて。
その上、このまま死ぬまで一緒に暮らし続けてしまうのも、全然悪くないかなとさえ思っている。
どちらかに――こいつに、相手さえできなければ。
恋人でもないのに、こんな家族同然の間柄を周囲へ見せつけ続けていた。無意識のうちに、自分から離れていってほしくはなかったから、この関係を守りたかったから。
そっとしておいてくれと、牽制だけしている。
その気もないのに、ローガンの人生を妨げている。幸せの足を引いている。
――でも、こいつたぶん、私のこと絶対好きだろ。
『一回くらい寝てみようか』
言えない。
『お礼にキスでもしてやろうか』
言えない。
普段、形だけは整えられているけれど、自分の身体はあまりにも醜い。誰にも、素肌どころか身体のラインさえも見られたくなくて覆い隠しているくらいなのに。体臭だって怪しくて、立場や雰囲気を免罪符にきつい香水をシャワーのように浴びているくらいなのに。
それで身体を預けるなんて到底無理。
嫌われたくなかった。
他の誰にも嫌われたくはないけれど、こいつにだけは、嫌われてしまっては生きていけない。
『嫌われるはずはない』という信頼はあっても、そんな万が一を忘れられず、信じきってやれない自分がいる。
死よりもずっと怖いものは、人生の中に溢れている。
子供だって、きっと産めない。産めたとして、それはおそらく人でも生き物でもないのだろう。形だけの肉の粘土だ、私の手足と同じように。
だから、『好きだ』などと、口が裂けても言えはしない。
好きでもなんでもないのだけれど。
たとえ気の迷いでも、冗談でも、それだけは絶対言いたくなかった。
「泣いてんのか」
「……嘘言うなって。鏡でも持ってこいよな」
「お、おぅ――」
脈絡も難しく手鏡を要求され、ローガンは律儀にも席を外していた。
その隙をみて目元をぬぐう。
――良かった。
久しぶりに触れた自分の顔は、いつも通りの形だった。
鏡を見なくても分かる。
自分の顔が好きだった。
首から下はともかくとして、顔の造形だけは一度も歪んだことがない。
唯一、容姿で自信を持てる部位だ。
今回倒れる原因となったベリルとの戦闘で、若干の傷をつけられはしたものの――それはセーフだ、これは自然治癒の範囲内だ。
思えばこうなる無茶までしてベリルを殺したのは、我を忘れるほど激昂したから。
自業自得で、同情の余地もない。
だが、自分が一番大事だと言ってみたものの、実際は命より、きっと顔の方がずっと重い。
花束は、花だけ綺麗ならそれでいい。包みに隠れている部分が、多少痛んでいようとも気付かれなければ問題ない。
かつて、自分のロゼという名と風体が――つまり、身を隠すローブと覗かせる髪色が――、花束を思わせると告げてくるような男がいた。
ローガンではない、残念ながら。
例の世界の、『学団』の奴らの一人である。
「ほらよ」
「ごくろう」
鏡は嫌いだ。
顔は好きでも、見せびらかしたくても、自分で見たいわけじゃない。
容姿だけでなく、嫌いな内面を見透かしてしまうようで。
だからローガンから受け取りはしたものの、その手鏡には一瞥もくれずに彼の顔を見続けている。
彼の方はといえば、一番大事なものなんて分かり切っている。
この私だ。
それ以外のもの、深い情を抱いた家族はすべて失っている。
ユーリアとは、そんな辺りもよく似ている。
だからこそ、この二人は自分にとって一番の大親友であると思えるのだろう。
命や顔が一番だ、などと言って憚らないけれど、一番が他にないと言った覚えは別にないし、頭の中でも決めておきたいわけじゃない。
口にせず、決めてもいないのなら。
真実が不確かである以上、それがどんなものでもセーフであるはずなのだ。
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おはよう。
なんだ、まだ寝ていたのか。
聞いてみたいことがあってね、朝になるのを待っていたんだ。ちょうどいい、クリスもまだ起きていないし。
私が顔を見せては、あの子も朝から機嫌を悪くするだろう。
――あぁ。
ここのところ、すっかりお前の中に引きこもっているからね。悪いな、不貞腐れているんだよ。いや、冗談じゃなくてね。
そろそろ暇をつぶすのも飽きてきて、昨日はお前の国のこととか学んでた。
おっと、昨晩は……ずいぶんと楽しい思いをしたようだな。
からかってないよ。
妬ましいだけだ。
何でもない。
何でもないけど、そうだな……どうやら私たちは、かなり似ていたようだからね。
異性のタイプとか、性格が悪いところとか。
あぁ、ずっと機嫌はよくないよ。不貞腐れてるって言っただろう。
許せよ、少しくらい。
それより、聞きたかったのは花のことだ。
お前の国の感覚で、一番キレイだとだとされる花、その名前と由来とかが知りたいんだ。