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ワールド・ブラインド   作者: 宝の飴
第三章 「」
141/149

第三十八話 旅先 〇

 今日のユーリアは張り切っている。 

 もっとも、普段の様子からして目を見張らされてばかりで、『いつもそうだろ』とでも思い直しそうになってしまう。が、その実、彼女はあれで自然体なのだ。

 ひとたび心を許し友達と見なしたなら、あの手この手で親愛を示してくる。心から友達を気にかけ助力を惜しまない。自分のことなど二の次に、ただ想うままに行動する。

 見返りを求めていたことは一度もない。

 好きでやっているだけ、自分のためだ――とまで言ってのける。

 そんなユーリアが張り切って見えるのは、いつにまして、そこに熱意じみたものが感じ取られるということ。

 ――今を逃さない、という熱意。


 一言で言えば、はしゃいでいる。

 はしゃいで見せている。


 サングラスにしてもそうだし、服にしてもそうだった。

 普段はあまり、はしゃいだりしないユーリアである。少なくとも他所よそでは、人前では――だが、素の顔というものを取りつくろう。赤の他人だろうが知人だろうが、人の目を気にして大人びた印象を与えるよう、すまし顔程度に抑えたがる。

 気が短かったり頑固だったり、だいたいボロが出てしまっているけれど、基本的に彼女が自由に振る舞うのは気を許している仲間内でだけ。

 それを――。

 この町に来てからというもの、ユーリアは表情も声も飾ろうとしない。惜しげもなく、ところかまわず振りまいているのだ。

 その変わりようは、廉太郎れんたろうの目には極端に映った。

 彼女の言うところの『こだわり』、それを一時忘れているかのよう。

 自由で伸び伸びとしていて、文句などあるはずもない。だが、それでもやはり――らしくないとは言えてしまう。

 クリスさえ乗り気になったなら、温泉にも足を伸ばそうとしかねない雰囲気だ。

 ポイントは、別に、無理をしているわけでもなさそうだ――という点である。


「――クリス?」


 ふと、クリスの視線に気づいたユーリアが足を止めて振り返った。

 芝生道を共にふらりと歩いていたクリスが、一人、あさっての方向へとじっと目を向けている。その顔をユーリアに覗き込まれ、何でもないと首を振ってごまかしていた。

 わざとらしいほどのすまし顔で。


「気になるものでも、何かあった?」

「い、いえ別に」

「――あぁ。……ふふっ、あの屋台ね」


 そういうことかと微笑んで、ユーリアが指をさした先。芝を縫う石の順路が合流し、多少開けたところに構えられた屋台があった。

 こぢんまりとした移動式の屋台。高く掲げられた看板には、派手な色合いのアイスクリームが周囲に馴染まない絵柄ででかでかと描かれている。

 ――目ざとい。

 クリスではなく、ユーリアが。

 視線をほんの一瞬向けただけのクリスに、あからさまなアピールをしたつもりなどなかっただろう。それでもユーリアは見逃さなかった。

 その意図はすぐ察せられ、そして嗜好はとっくに気づかれている。

 ややお節介とも取れる厚意、彼女の言動にしては珍しい。だからこそ、張り切っているように感じてしまう。

 さながらお調子者、ムードメーカーをあえて買って出ているかのよう。

 空気を明るくしようとしている。

 だがその裏を返せば、明るくするだけの必要性をユーリアは感じている、ということでもあった。


「……誤解ですね」


 心外だ――とばかりに、クリスは反抗的な態度でむくれてしまい、


「景色として目に留まっただけです」

「いやいや……」呆れて、思わず廉太郎が口を挟み「それって、つまりそういうことだろ」


 すると、クリスは恨めし気な目で廉太郎を見上げ、


「フレーバーが奇抜だったせいですが? 目を引かれるのは人の心理で――」

「後出しでボロが出てるぞ」


 付け足された証言に矛盾がある。

 そもそもクリスが否定したいのは食い意地ではなく、食欲の元となる感情、人間の自己意識そのもの。

 それを『人の心理』と口にしている時点で、もう内面こころがあるのを認めてしまっているようなものだ。自分の設定には大層なこだわりがあるくせに、徹底できたためしがない。

 悔しそうに苦虫を噛んだクリスが、苦し紛れに舌打ちを返し、


「……あんなもの、嗜好品でしょうに」

「甘いものならいつも食べてるだろ。さっきの店でデザートまで付けたの、お前だけだぞ」

「食事の栄養補完としての甘味は必要なものですぅー。――私が、一度でも、食の快楽に興味示したこととかありました?」

「諦めろよ。そう思われてるから、もう……」


 いつにもまして食ってかかるクリスに、つい一言以上に多くを返してしまっていた。

 面倒に思ってしまうほど不可解で理解の及ばない言動ではあるが、やはり無視はできないのだ。歪で哀れだと、心の情緒的な部分が否定したがっている。正されるべきだと感じている。

 しかし、クリスの主張自体は初対面のときから一貫して変わらない。

 言動が伴っていないとはいえ、それもまた事実。 

 ――自分は人間でなく、人間扱いも望まないという。

 穴だらけの、痛ましい主張。


「勝手なイメージ付けないでください。別に、甘いものなんて――――ユーリアさん!?」


 二つちょうだい――。

 廉太郎とクリスの言い合っていた隙をつき、向こうへ一人買いに行ってしまっていたユーリア。驚き口の開いたクリスをよそに、両手に菓子を手にした彼女が意気揚々と二人のそばへと戻ってくる。


「……攻めてるなあ」


 このくらいなら誰でもできる。

 しかしその姿勢、攻めの姿勢まで真似できる者などそうはいまい。

 今日のユーリアの言動に、その姿勢はたびたび顔を覗かせていたから、廉太郎にはそれがわかる。


 ――廉太郎。昨日の夜は敵を殺す役を任せてしまったけれど、辛くなったらいつでも言ってね。


 ――クリス。敵に対して熱くなっていたようだけれど、相談に乗れることとか……ないのかしら?


 ユーリアなりに、思うところがあったのだろう。

 当然だ。

 昨晩の一件は、手放しに無事で良かったと流してしまえるようなものではない。被害は大きかったし、下手をうったという心残りもある。

 そして何より、事情を共有し合えていないということが大きい。

 クリスはそっけなく躱していたが、ごまかすのに苦労したのが廉太郎だった。

 ニコラス殺害の片棒を担いでいるのは間違いないけれど、指摘されたような精神的動揺、罪悪感は廉太郎にない。たぶん、その辺りはまた『ロゼ』が上手いこと鈍感にして、忘れさせてくれているのだろう。確認はしていないが。

 その『ロゼ』の存在をユーリアに隠している以上、事実は告げられない。かといって「平気だよ」などと言ってしまえば、人格に問題があると思われてしまう。そして、嘘もつきたくはなかった。

 結局、曖昧な言葉でごまかすしかなく、ごまかされてくれた事実が胸にささる。

 心配してくれているのに、隠し事というかたちでそれを裏切っているかのよう。

 廉太郎自身にそのつもりがなくとも、そこはクリスと同じように。


 触れてほしくないのを察してか、ユーリアがそれ以上追及することはなかった。

 彼女でも、踏み込もうとはしなかったのだ。

 容易には踏み込めない、何もできないと気づいたから。代わりにせめてもと、明るく振る舞おうと張り切っている。


「し、しかたないですね。無駄にしてしまうわけにも……」


 だが廉太郎なら、そもそも切り出すことさえできなかっただろう。


 ――人を殺した相手に『大丈夫か』などと。

 ――特殊な出自の相手に『秘密を教えてくれ』などと。


 他人の繊細な領域に、投げる言葉も伸ばす手も廉太郎は持ってはいない。

 たとえ、それが友達と呼び合って構わない間柄であろうとも、踏み込まないし踏み込めない。傷つけてしまう予感があるからだ。そして相手を傷つけたという事実は、自らの痛みとして返ってくる。

 それが普通。

 通常使われる『友達』という言葉の限界点。仲が良いだけで、心の距離には目をつぶることを良しとする。

 人は、自分は――ユーリアにはなれない。

 だから、廉太郎がクリスを相手にできることなど、せいぜい小言を言う程度。年下に、妹や弟に、先輩気取りで口を尖らせているだけ。

 その奥にある『何か』になんて、決して触ろうとも思えない。

 ならばクリスの矛盾にいちいち茶々を入れているのなんて、ただの意地悪にしかならないのだろう。


「はい、どうぞ」

「どうも」

 

 差し出された白と赤の二種類のアイス。捻りのある方を選んだクリスは渋々といった様子だったものの、齧りつくのは早かった。

 混ぜこまれた果肉が、シャーベット状の音を立てる。


「……ふっ、屋台価格でしたね」


 一息ついて飛び出した、眩暈のしかけるような感想。

 こいつ、どうしてくれようか。

 これにはさすがのユーリアも苦笑いで、廉太郎へ困ったように目を合わせてくる。それが不憫に思えてならず、つい顔を伏せてしまう。

 すると、そんな廉太郎の目の前にもう一方の手が差し出されて、


「あっ、俺の分か――」

「要らなかった?」

「いや!」一転して不安がるユーリアに、身振り手振りで下手な礼を伝え「ただ、買ったのは君なのになって思って」

「ふむふむ」

「せっかくなのに、何か残念……な、感じで――」


 まず目を疑う。 

 会話の最中、廉太郎が言い終わる前に、おもむろにユーリアの手が動いていた。アイスの盛られた焼き菓子が、子供から取り上げられたかのように遠ざかっていき。

 ぱくりと。

 あまりにも自然に、ユーリアがそれをんでいた。

 クリスと揃って呆けた顔を晒す廉太郎。それを気にも留めず、彼女は事もなげにゆっくりと口を動かしていく。それも真顔で。試食に臨んだ審査員のように。


「……まぁ、シンプルね。余計なものも入ってないし、癖も少ないし、噛まなくていいし……悪くないわ」


 次に耳まで疑った。

 体を張った悪い冗談か何かに思えて仕方ない。それほど、ユーリアの偏食と食い意地のなさは徹底して一貫していたのだから。

 クリスの自己設定の比ではない。

 その衝撃たるや、心臓がどくどくと音を鳴らされかねない勢いで。


 ――あれ?

 

 一瞬、思考が停止してた。

 そしてふと、自分の手元に覚えのないものが握らされている事に廉太郎が気づく。

 ひんやりとしている。ミルクの香りは濃く甘い。持ち手の焼き菓子は、円柱コーンというよりお椀型に近かった。

 反応どころか理解も遅れてままならない廉太郎の横で、クリスはバツが悪そうにしゅんとした声を絞り出していて、


「すいませんでした。……美味しいですよ、ユーリアさん」

「いい子ね」


 体質やら嗜好やらに抗ったユーリアに、クリスの設定が折られた瞬間である。

 やはり張り切っているのだ。

 張り切り過ぎである――。

 

「そんなに意外?」固まる廉太郎を、ユーリアは大げさだとばかりに小首をかしげ「甘さ自体は嫌いじゃないわ。普段避けているのは、単に虫歯になるのが怖いってだけ」

「いや、そこじゃなくて――」

 

 まさかまさか。

 気持ちを汲んで一口はもらったから、後はどうぞ――とでも? 

 勝手にシェアされた流れになっている? 

 正気か?

 これが、彼女でもない女のすることか?

 もろもろの異性問題を、相手のために避けようとする女のすることか――?

 否、そして普段なら、絶対に思い至れて自重していたはずなのだ。

 張り切り過ぎているあまり、他に気にするべきところが見えなくなってしまっている。

 暴走、これでは昨日の朝と変わらない。


「な、なるほどなあ……」


 ポイントは、無理はしていないことと、他意が何もないことだ。 


「――これが怖いんですよね、この人」


 クリスが近づき、廉太郎に耳打ちする。背伸びしても届かなかったからか、続く内緒話は日本語に変わり、


「性差への気遣いとか、人に触れないこととか……こっちは『そういうものか』と距離感を想定しているというのにですよ? ふと気づくと――」

「えっ、なに……二つとも寄こせって? しかたないなぁ」

「――もふぁ!?」


 好機。

 これ幸いと、無防備に近づいてきた口の中へと突っ込んでやおいた。手に余る逸品とユーリアの厚意の落としどころとしては、この上なく妥当で健全なはずだ。

 不意打ちで汚してしまったかと思いきや、真っ赤になっているせいで気にならない。

 感情も内面もないと言い張っているのだから、それとこれとは無関係なはずである。身から出た錆だ。悪びれる気もなかったし、クリスも悪い気はしていまい。


「……腰抜け」

「甘党」


 何とも言えない恨めし気な目線に軽口で返してやる。悪口ではないから意地悪には含まれない。

 発端となったユーリア本人、どこまで分かってやっているのか、そんなやり取りを微笑ましそうに眺めながら、


「仲が良いのね、嫉妬しちゃいそう」

 

 冗談めかして目を閉じ頷くユーリアへ、クリスと揃って怪訝な表情を返してしまう。


「そう見えるって? 本当に?」

「それはないですよ、ユーリアさん」


 廉太郎とクリスの仲が、悪いということでは決してない。絶えず反発し合っているわけではないし、むしろ気はかなり合っている。互いにそれを感じている。

 だから、同じように否定した点はそこではない。

 嫉妬される覚えがないのだ。

 この場の三人で組み合わせを作れば、仲の良さの上位二つには必ずユーリアが入っている。

 だから嫉妬なんてしないでほしい。そこを疑いたくはないし、彼女自身にも疑わないでほしいから。

 上位二つ、順列は不同で不確かだ。

 だからこそ、


 ――告白すれば。


 嫉妬があるとすれば、それは廉太郎の方。

 冗談めかしてではとても言えない。クリスとユーリアの関係を、恥じることなく羨んでいる。

 二人の、どちらに対しても。





――――






「あっ……クリス! 捕まえて、代わりに――」

「は、はいっ!」

 

 慌てたユーリアの指示に、クリスが甲斐甲斐しくも応えている。ユーリアから逃れた標的の行く手を阻むよう、先回りをして仁王立ちになっていた。

 なんてことはない、子犬の話だ。

 どこからか芝生に迷い込んだ、体毛の豊かな白犬。惹かれてユーリアが近づくも逃げられ、手で捕まえることもできない自身の代わりにクリスの手足を頼っている。

 行く手を遮られ、子犬は出方をうかがうように動きをとめた。クリスはやや躊躇っていたものの、やがて言われた通りに犬の体へ手を伸ばす。

 子犬は怖がるように首を揺らして避けようとするが、走って逃げようとはせず、大人しくその場に座り込んでいた。


「おぅ……どれどれ」

「ふふ、撫でてみたら?」


 回り込んだユーリアが、クリスとの間に子犬を挟むようにして座りこむ。生命に触れることが苦痛となる彼女は手を伸ばさず、ただ間近で観察しているだけだった。

 特別、動物が好きだという話は聞いていない。ラックブリックの町では、馬を含めた家畜も、ペットも存在してはいなかった。

 どちらかと言えば、犬を通してクリスと遊びたかっただけのような気もする。

 一方クリスはといえば、あの様子ではたぶん、犬は好きなのだろう。あくまで――そして決定的に、人並み程度にはだ。


「よしよし、……こいつの犬種ってなんでしたっけ?」

「さぁ、知らないわ」

「ですか」


 そんな二人の一部始終。廉太郎は数歩離れたベンチに座り、不思議と冷めた気分で遠巻きにそれを眺めていた。

 やはり、仲が良い。

 それは表面上の話だけでなく、相性が良いということ。だがそこまでは、廉太郎と二人の仲ともさほど変わるものではない。

 クリスとユーリアは、噛み合わせが良い。付き合い方の方向性が似通っている、と言ってもいい。心を許し合える仲になるのに、そう時間はかからないだろう。

 クリスは過去を、心を隠したがっているだけだ。

 対して廉太郎は、心を許したいのに許せないでいる。

 天地の差だ。

 言ってしまえばクリスのそれは単純で、人としてあって当たり前のもので、その上に付き合いを乗っけることが前提となるものでしかない。

 だが、廉太郎のそれは悪癖だ。人格、性格的に染みついて成熟しかけてしまっているもの。改善の余地はほとんどない、望んでいるのに諦めている。

 一生、自ら定義した『友達』の域に達する友達など作り得ないと――半ば諦めている。

 諦めきってはいないのは、今はすぐそばにユーリアが居るからだ。


「……だからクリスのことは、任せた」

  

 このままいけば、クリスの抱えるものを解決してくれるのはユーリアだろう。何がどうあれ今が楽しそうなのだ。内面がどうだの、過去がなんだの、いずれ忘れさせてもらえる。いくらでも話を聞いてもらえる。

 自分には、とても――。

 何かをしてやりたい思いはある。だが本人が迷惑そうにするものだから、手に負えそうにないものだから。どうしても、最後には面倒だという思いにぶつかってしまう。

 面倒なのだ。

 他人同士が、これほど密接すぎる関係を結んでいるなどと。互いにとっての重荷、苦痛は、

どうしたって無視できないレベルで絶えず纏わりついてくる。

 いっそ、すべての関係と責任をユーリアに譲ってしまいたい。

 クリスにしてみれば、そっちの方がずっといい人生だ。否応なく廉太郎の事情に付き合わされ、行動を共にしている今よりは、遥かに――。

 妹だとか、姉だとか。そんな風に言い合って、家族みたいに生きていけばいい。共に過ごし続けるという不自由を、幸福に変えてくれると信じられる。

 それだけの自信も、責任能力も、器も、魅力も、生み出せる人生の価値も――すべて廉太郎にはなく、そしてユーリアは兼ね備えているのだから。


「――ね」

「……で、――すよ」


 今日は、やけに二人の仲が眩しく見える。

 疲れているのだろう。体よりはむしろ心が。張り切ったユーリアに表面上合わせようとしているので、なおさら。

 自分の問題ですら手一杯で、他人の力を借りなければ身動きも取れないような状態だというのに。

 それでも、クリスのことが気になってしまう。気にする義務を負っている。

 二人は子犬の相手に夢中になっていて、廉太郎の方へは視線も寄こそうとしない。疎外感は、確かにあった。なのに、どこか相反する心地よさをも感じてしまう。

 勝手に張りつめていたものが、一時安らいだように錯覚する。

 適度な孤独が必要なのだ。

 小説が読みたい。

 ジャンルはホラーで、怪談ものがいい。その他の恐怖分野は廉太郎にとって、一人で楽しむようなものではなかった。

 馳せた思いは錯覚を生む。癖であり宿命、心霊は人の心に宿るのか。

 ふと、背後に人の気配。


「…………ん?」


 振り向くことに馬鹿馬鹿しさはなかった。何も今日、初めて視線を感じたわけではなかったからだ。

 そして、またしても杞憂に終わる。

 何もない。誰もいない。

 背中合わせのベンチは変わらず無人で、目についたのは明らかに無関係だと分かる思い思いの方向を向いた他人だけ。

 肩を透かされ、そしてその後に安堵する。

 視線を前へ戻そうとして、廉太郎の目の端に覚えのない何かが留まっていた。

 白い、布。


「あれ、ハンカチ――」


 座った廉太郎の腰のそば、下ろした手がいつ触れてもおかしくない位置に『それ』はあった。座ってから今の今まで、不自然にも気がつかなかったもの。

 折りたたまれたレースのハンカチ。

 わきに置いた紙袋から、買ったものでも落ちたのだろう。一度はそう思ったものの、どうやら違う。一見して上等ではあっても、新品ではなかった。

 汚れている。

 裏側に、インクでも拭いたかのような黒い染みが透けて見え――。

 

「違う……文字か?」


 名前かなにか、嫌に目立つよう記されている。それも刺繍ではなく、サインペンでも使われたかのように黒々しくて遠慮がない。そのままでは、読みとることまではできなかった。

 ――忘れ物か、誰かの。

 よせばいいのに、つい廉太郎は好奇心に負け、手に取りそれを広げて見た。

 瞬間。

 

「――――ぁ、ああ゛ぁ……ッ!!」


 衝撃。

 痛みだという理解が後から遅れて追いついてくる。

 眼球は潰れた、焼けて溶けて流れている、布から毒針でも飛び出してきたのではないか――そんなあらゆる錯覚が無意識に脳裏を飛び交うほど、形容しがたい異常だと目の奥が全霊で訴えている。

 思考は停止し、外部情報は遮断される。

 押し付けた両の掌の奥でまぶたはきつく閉ざされて、耳は痛いほどなる心臓の音さえも拾おうとしない。

 辛うじて崩れ落ちることはなく、ベンチに座ったままの姿勢で蹲っている。

 いつしか痛みは引き、徐々に落ち着きを取り戻そうとしていた。数十秒か、それとも数分のことだったか――時間の感覚さえ、曖昧にかき回されてしまっていた。


 ――あぁ、な……何、がぁ……。


 廉太郎は未だ動けない。

 頭も上げられず、声も上げられなかった。 

 そんな状態を自覚してから、さらに少しばかりの時間が流れていった。

 その間はずっと恐怖の中に呑まれていた。体の異常は消え去っていながら、感覚か何か、おかしくなってしまったのではないかと。


 だって、ユーリアもクリスも寄ってこない。


 いくら目を放されているとはいえ、数歩先のことである。いくらなんでも気づかないはずがない。わずかでも声は漏れた、病人の体調より悪そうに項垂れ続けている。

 目の端には留まっているはずで、それでなくとも時折は顔を向けてくれているはずなのだ。

 だから、二人の気配も感じず、声も聞こえないのは絶対におかしい。

 なのに、耳が拾い直している周囲の雰囲気は、目が痛み出す前と何も変わらない穏やかなものでしかなかった。


 ――どうした、って?

 ――まさか、二人にも何か……。

 

 心は逸りながらも、頭は落ち着きを取り戻す。息は荒く、長距離を走り終えた後のように鼓動と体温が上がっていた。

 それに気づくと同時に、現状に対する警鐘が鳴り出した。

 これは明らかな攻撃である。

 でなければおかしい。

 始まったのだ――ウィラーたち学団に補足されて、またも先手を仕掛けられたとしか思えない。

 ならば――


「ねぇ、廉太郎」

「ユー。リア……」


 ――無事だったのか?

 ――やっと気づいてくれたのか!?

 ほっとすると同時に、廉太郎は一つ違和感を覚えていた。薄気味悪い、あんまりな予感。それが本当に彼女の声なのかと、心のどこかで疑いかけてしまうほどの。

 おかげで顔を上げるのが遅れ、目を閉じたまま廉太郎は安堵の息を吐き出そうと、


「よ、よか――」

「犬と猫なら、あなたはどっちの方が好き?」

「…………えっ」


 決して、適切ではない感情が廉太郎の内に沸いていた。

 彼女があまりにも、平静でありすぎるものだから。

 反射的に顔が上がり、前に立つ彼女の顔を見上げるように目を向ける。幸いにも無事だった視覚に飛び込んできたのは、正しくユーリアの顔であった。

 見紛うはずもない。

 だが、なぜ――。

 なぜそんな、変わらない笑顔を浮かべていられる。


「……犬だけど。ちょっと、今それどころじゃない」


 か細い声、他人事のように冷静な声が口をつく。息はもう整っていたのだから、少し気合いを入れるだけで普通に喋れていただろう。

 当てつけじみたものだ。

 妙に察しが悪い。

 なにも、言われずとも気づいてくれとは言わないから――ただ、いつもみたいに。


「攻撃された。今、たぶん……」


 確証はなく、証拠になる外傷も残っていそうにない状況とあっては、どうしても歯切れは悪く舌足らずなものになってしまう。

 とにかく伝えることだけはと、縋るようにユーリアを見上げていく。


「ど、どうすれば――」

「あらそう」


 突き返されたそんな言葉。

 その声はあまりにも平坦で、いっそ他人のそれにさえ見えてくるような顔で、


「クリスもそう言うのよ」

「いや、だから……な、なんのこと――」

「犬って、寄ってくるから苦手なのよね。……撫でられるものならね、どちらでも困らないのだけど」


 おかしい――。

 気味の悪さに心臓が振るえる。背中まで伝わった悪寒が、瞬時に脳まで走っていた。

 説明のつかない不合理、現実感など微塵も残されないまでの異様。

 ここに来れば、嫌でも理解は強制される。

 廉太郎を襲った痛みを優に越えるほどの異常事態が、目の前の彼女に起きているのだと確信できる。

 ユーリアの取る態度ではない。

 彼女は人の言葉を無視しない。心と体の具合の悪さを、どちらも見逃すはずがない。

 ただでさえ、今日のユーリアは張り切っているはずなのだから。


「――おっ、オイ大丈夫か!?」


 口元が振るえた。

 ――考え過ぎだ。

 許容し得る想像の範囲を逸脱している、その恐怖を心が認めたがらない。


「猫はねぇ、なんだか放ってられない気にさせてくるのが良いわね」

「ユーリア!!」


 とても座ってじっとはしてられず、跳ね上がるように彼女の前で立ち上がる。気分的には、その肩を掴んで頭まで揺らしてやりたくなるほどで、

 

「頼むよ! ふざけているなら、そう言って……っ」


 まるで、音の出るマネキンかロボットか何かを相手どっているかのようだった。

 彼女の目線は立ち上がった廉太郎の顔を追ってはいたものの、表情や雰囲気が伴っていない。何を言おうと、表情身振りで訴えようと、何も受け取ってくれてはいないかのよう。

 目の前のユーリアは平静そのもの。朗らかな笑みをたたえ、かけられる言葉を待っているかのよう。

 それが、時おり文脈の見えない言葉を放ってくる。見てくれだけができの良いロボット。それと、本当に違うところが見つけられない。

 ――気持ち悪い。


「嘘、うそだ――」

 

 吐き気を堪えるほどの嫌悪感に慄き、無意識にも廉太郎は後ずさる。

 つまづくように、背後のベンチにひざを取られシートの上に崩れ落ちた。

 機械的に追尾してくるユーリアの視線、とっさにそれから目を逸らし、


「……クリスは?」

「こいつ、飼い犬っぽくないですか?」


 呼びかけに応えてか否か、誰ともなく呟いた廉太郎の背後から子犬を抱いたクリスが近づいてくる。


「知りませんよ、後で揉めても」


 ゆっくりと、恐れるように廉太郎はそちらへ首を向けた。

 すでに嫌な予感は、気圧された心の中で肥大化しつつある。

 これは、もしや……いや、そんなはずが――。

 

「異常事態だ、クリス……俺には、何が何だか」 

「愛想もいいですし、行儀も良すぎるんですよねぇ」

「――――っ」


 いっそ、脱力にさえ襲われてしまっていた。

 クリスの注意は完全に腕の中へと注がれている。見た目には、今しがたユーリアに感じたような異様さは見つからない。むしろ心なしか頬を緩ませているクリスに当てられて、沸騰しかけた動揺と恐れの熱が冷めかけていくようだった。少しだけ、気休め程度に。

 それでも、ただ夢中になって廉太郎の相手をしてくれていない――ということではあり得ない。

 それだけは嫌でも断言できる。

 ユーリアと同じように、ただならぬ何か、異常事態に陥ってしまっているのは間違いなくて、


「そうか……」

 

 どうして、どうしようかと纏まらない思考が衝突する。

 実のある考えなど何も浮かばず、そして浮かぶはずもなかった。

 どうしようもない、手には負えない。頼れるものが何もなく、それどころか、頼るべき相手が一番どうにかなってしまっている。

 状況は絶望。

 だが裏腹に、廉太郎の内側にはどこか余裕さえ生れつつあった。

 

「愛想と行儀ねぇ、両方分けてもらえよな」

「えぇ……、急に辛辣すぎません?」


 諦めるしかなかったからだ。

 抱えても仕方のない不安、耐えられるはずもない不安。

 背もたれへと、廉太郎の体が預けられる。そして深々と息を吐き、首を上げてクリスを見た。ちょうど逆さまの顔、奥には雲の隙間から赤みの差しかける空が広がっていた。

 少しだけ、頭の風通しが取り戻されていく。

 それでようやく、まともに状況の整理が進められるようになっていった。


 意思の疎通。

 コミュニケーションが、あらゆる形で食い違いはじめている。

 

 廉太郎の言葉、表情や態度。

 それらに対する二人の反応が明らかに不適切。とても会話できている気がしない。それでいて、向こうはさもそれで正常だとばかりに接し続けようとする。

 二人の見ている廉太郎がおかしいのか、それともまったくその逆なのか

 しかし、今のやり取りだけは。

 投げやり気味にクリスに放った、他愛ない意地悪な一言だけは――。


「クリス」

「はい?」

「……警戒しろ」

「はぁ。この性格は好き好んでってるんです、余計なお世話なんですよ」

「っ、今はどうでもいいんだよ。お前の、それは――」


 自己認識についての、ただの言い合いなんてものは。

 こんなときでさえ、クリスとはそんなやり取りを交わすのか。

 いったい今、クリスの中では廉太郎に何を言われたことになっているのだ。ある程度予想はつく――が、その出どころは何処だ?

 誰と会話させられているのだ。

 クリスは、自分は。

 少し待っても、次の言葉が返ってくることはなかった。


「……分かりかけてきた、少しだけ」


 反応はなし、おかげで仮説も真実味を帯びていく。

 ある種の法則のようなもの。

 意思の疎通ができている場合と、できていない場合との違いについて。


「ユーリア」

「なぁに?」

 

 顔を見て名前を呼ぶ。それだけのことがえらく度胸を要求してくる。

 名前を呼びかけても異常性は生れなかった。クリスに対してそうだったように、正常な反応が返されてくる。

 なぜか。

 意思と呼べる中身がそこには何もないからか。

 だが、一度通ったのは、中身のない呼びかけだけではなく、


「……あぁえぇと、そうだ。この犬はどうするんだ?」

「どうもできないわよ。人のものかもしれないし、そもそも連れては帰れないし――」

「そ、っか……残念だね」

「しかたないわ」

 

 ユーリアの肩がすくめられる。 

 途中で声が振るえてしまったことには、どうやら気づかれていないらしい。


「でも意外ね、二人ともそんなに――」

「クリス」

「小動物が好きだったなんて」

「うぅ、そういうわけではないのですが……」

  

 あえて言葉を被らせた、被らせようとした。

 そして、失敗に終わっていた。

 ユーリアを無視するように割って入った。なのに彼女は不快感も示さず、気づいた素振りもなく、目線もさえも動かさずに言葉を言い切ってしまっている。

 クリスもそれに続いていた。

 今回は、呼びかけにさえ応えようとしなかった。


「クリス」

「はい?」

「俺にも撫でさせてくれ」

「あぁ、どうぞ」

「違う、お前をだよ」伸ばされた腕を無視してクリスの髪を軽く引っぱり「抱えたまま隣に座れって」


 ベンチに座る廉太郎の膝に、ぬいぐるみのような子犬が乗せられた。

 クリスの反応は、特になかった。

 しかしこれでは判断に困る。意思の疎通が失敗したのか、普通に無視されたのか――おそらくは前者だが。

 通じていて無視するくらいなら、冗談に乗って言い返してくるか、真剣に引いてみせるかのどちらかを選んでくることだろう。

 他愛もない、雑談なら不自由なく交わせると――そう思いかけていたのに。

 どうやら限定的らしい。

 そしておそらく、雑談ではないもの。この異常に言及したり、危機を伝えようとする試みのすべては、決して上手くいくことはないのだろう。 

 だとすれば、この異常にもいくらかの合理性が見いだせてくる。人を精神的に孤立させるような、こんな嫌がらせのような攻撃にも。

 敵の狙いは――。


「二人とも。今の俺との会話、繰り返してみてくれよ」

「雑食だったと思いますよ」

「人の食べ物でも、私よりはよっぽど好き嫌いしないのでしょうね」


 廉太郎の言葉が、二人にとっては別のものに聞こえているようなのだ。聴覚だけではない、表情や仕草も正しく認識できていない。

 認識能力が歪められている。

 話を望む方向へと進ませてもらえない。廉太郎のあらゆる重要な意思表示が、どうでもいい『何か』へと置換されてしまっている。


「クリス」

「はい?」

「ユーリア」

「うん」


 廉太郎は頭を抱えた。

 犬など邪魔で手放していた。

 こんな検証に意味などなかった。

 名前だけ呼ばれて、繰り返されて――おかしいとさえも思えないのか。どれだけ察しが悪い奴でも変だと思う、あからさまに含みを持たせた意味深な態度を。

 認識能力だけではなく、異常性は判断能力にまで――。

 

 ――なんで?

 ――もういいだろう?


 早く終わらせてくれ。

 満足したなら顔くらい見せろ。

 これ以上の効果など何も求められないだろうに。

 せめて、今すぐにでも確信くらい与えてくれ。これは元に戻せるのだと。二人の体や脳や心に大した影響はないのだと、後遺症など残らないのだと。

 それさえ確認できれば、後のことはどうでもいいから。

 言うことなど大人しく聞いてやれるのに。

 

「――――『ロゼ』、『ロゼ』? ……ちくしょう。分からないだろうが、お前がどっちなのか」


 ユーリアたちと同じなのか。

 それとも異変に気づいてなお、助言に出てきてくれないだけなのか。

 どちらにせよ、心の内に潜む彼女にも頼れないという事実だけがあった。

 これは学団による攻撃で、その意図は容易に想像できる。

 目的は廉太郎の確保。脅威なのはユーリアで、時点でクリスだ。二人が戦力になって固めていた以上、こうして関係を断絶させてしまうのは無力化という点で効率が良い。

 ならば、今にでも廉太郎へ直接介入してくるのだろう。

 安全の保証されていない二人は、人質のようなものだ。

 顔を上げ、立ち上がり周囲を恐る恐る見渡していく。二人の顔など見ないように、降伏の旗を振るように。

 

「…………あ?」


 求めたようなそれらしき相手の姿は見つからなかった。

 だが、目は合っていたのだ。

 確信はなくともそれを感じる。『それ』が攻撃した本人、敵であるかどうかは分からない。それでもこちらを見ていることだけは確かなのだ。

 廉太郎にはそれが何なのかは分からなかった。

 距離は遠く離れている。距離にして百メートル以上。男か女か、大人か子供かも見分けがつかない。

 そんな人影が、じっとそこに立っている。

 それは明らかに浮いていた。

 ふと見渡してみて、それで自分を直視しているような誰かを見つけてしまうようなことは、通常ない。人は理由もなく棒立ちしない。偶然だと片づけられる人間もそうはいまい。

 なら奴がか――。

 確証はない。だが他に思い当れるものもない。

 

「なんで、見ているだけなんだよ……!」


 監視にしては遠すぎるし、尾行にしては隠れる気が感じられない。

 何もかもが不可解で、いたずらに執行を先延ばしにされているかのような不快感だけがそれを埋めている。

 クリスか、ユーリアかが何かを話し始めていた。

 上手いことそれを聞き流す、それで余計に悩まされずには済んだのだ。またも犬を愛でる二人の様子が、気配で分かった。

 上着は、あってもなくても困らないような季節だった。

 




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