第三十六話 旅先 ①
廉太郎が目を覚ますころには、すでに昼も回り切っていた。
なじみの時計でいえば十五時あたりか――いい加減、この世界の時刻制度にも慣れてしまわねば。いつまでも時計の読み方が分からないようでは、生活するのもままならない。
否応なく、この世界に骨を埋めることが決まってしまった以上は。
知らなくていいや、でいられる状況ではなくなっているのだから。
頭に入れるべき知識や常識は山ほどある。世界地理、歴史、宗教、貨幣制度に金銭感覚、普及する理論や学問、技術など――。
「……うぁ」
覚醒しきれていない頭が、明日の先を見据えかけた思考を中断させる。
あれ、なに考えてたんだっけ――などと呆けた年寄りのように、半身を起こしたベッドの上でぼんやりと壁掛けの時計を眺めていた。
体感だが、たった六時間ばかり。揃って泥のように眠っていた。
ユーリアとクリスの二人は、揃って隣のベッドで眠り続けている。よほど疲れているのだろう。無理もない――昨夜の大立ち回りの後、休めもせずにここまで移動し続けてきたのだ。
昨晩。
クリスの治療を終えた廉太郎は、合流したユーリアと共に、大混乱の中にあるオーテロマの町を人目を避けるようそそくさと抜け出していた。
あれだけの被害が生まれたのだ。すぐに大規模な捜査が開始される。人為的要因によるものだ――などと、真っ先に当たりをつけられるとも考えにくいが、念のため。
へたに身元を洗われるのも面倒だと、ユーリアの定めたひとまずの指針が町を離れてしまうことだった。
近隣に隠しておいた魔動車へ乗り込み、南方へ続く道を沿った。
それが日付をまたぐころ。それから朝方前まで廉太郎がハンドルを握ったが、不慮の災難や襲撃に備えた後ろの二人が仮眠を取れたはずもない。
そこからは燃料の切れた車両を隠すように乗り捨てて、徒歩で移動し、道が開けたあたりでしばし待機。早朝の物流で通りがかった馬車と――脅迫にはギリギリならず済むような――交渉をし、積み荷の上に無理やり乗ってしまうかたちで、行き先の小村へと相乗りさせてもらったのだった。
そこで休むことはできなかった。ある程度の大きい町、人の行きかう場所でなければ廉太郎たちの存在が浮いてしまう。
警戒すべきなのは『学団』だけでなく、人の社会そのものでもあるのだ。悪目立ちは不信感、ひいては不要なトラブルにさえ繋がりかねない。
結局、そこから再び移動。ほど近い地方鉄道の無人駅へと。立ち乗りのガタつく列車に揺られながら、どうにかこうにか適当な町へとたどり着いた。
土地勘も皆無、何もかも慣れない移動とくれば、その疲労感は東京の駅で乗り換えをする田舎者の比ではない。その上、徹夜である。
他の二人にしてもそう。
どこにチェックインしたのかなど、誰も覚えてはいないだろう。
「……ん」
動く気配につられてしまったのか、寝ぼけたままに、ユーリアが軽く身じろいでいた。
続いて赤子の反射のように、手の届くところに眠るクリスへと伸ばされた両腕が、そっとその体を抱き寄せる。怪我したての相手なので、休む前は自重していたことなのだが。
それでも二人が同じベッドに入っている理由は、何も、微笑ましいだけのものではない。
二人部屋しか取れないから。
今現在、この部屋には人間が二人しか存在していない、と――それがこの世、この時代における常人の視点。受付に顔を出した三人に対し、確認のため返された数字は二。
思えばホテル二つ、立て続けのことである。
その前後でユーリアが機嫌を悪くしていたのは、絶対に眠気のせいなどではない。
他の一人は遅れてくる、とでも言えば寝床の数を揃えられるが、後々、確認を求められでもしたら面倒になる。それにクリスの手前、取り繕うように嘘で固めてしまうのも憚られよう。
とはいえ、クリス本人は気を悪くするでもなく、かえって満足そうにさえしている様子だったのだが――。
「おはよう」
不意に、ぱちりとユーリアの目が開く。
何となしに顔を向けていたせいで、視線がばっちりとかち合ってしまっていた。首を回しただけで自然とそうなるとはいえ、寝顔を覗かれていたと思われてもしょうがないわけで、
「……うん、俺も今起きたところで」
誤魔化すように立ち上がりつつ、聞かれてもいない事を口走る廉太郎。
にわかに動きだした室内に、続いてつられたクリスも起きだしたようで、
「んん……あぁ!?」
「クリス――っ、怪我はどう?」
腕の中で飛びあがりそうになるクリス。その様子に早とちりしたユーリアは、気遣う声と共に更に両腕を抱え込んでいくのだった。
ダメ押しとばかりに動揺を誘われて、クリスはまともに顔を合わせることもできていない。
またか――さすがに二日前ほどではないにせよ、心の準備もできていない無防備な状態では、どうあれ衝撃は凄まじかろう。
「へ、平気ですよ……痛みません」
「そう!」
あくまで自己申告のその答えに、花が咲いたような笑みをユーリアは浮かべた。そのまま、赤面を隠そうとするクリスの頭を撫で始めている。
「おかげさまで」だの「もう充分」だの、いかにも『うんざりだ』とばかりのポーズをとってはいるものの、抵抗もしなければ、拒否を口にすることもない。
どうしたらいいものか、参ってしまっているのだ。彼女の友情の距離感に対して、廉太郎と同じように。
――ふと。
嫉妬だと、その場で自覚できる気持ちが湧いていた。
どこに対して。
クリスから明らかに心と距離を許されている、そんなユーリアに対してか。
「あら?」
そんなじっとりとした視線を、不思議そうな目で見つけられてしまい、
「わ、分けた方が良かった」
「……えぇと?」体を起こしつつ、ユーリアは小首を傾げていた。
「だから、部屋を。朝は眠くて、気にする余裕もなかったけど――」
実際、その問題について話し合う必要はどうしてもあった。昨晩に泊まりかけた宿は目に見えて危機が差し迫っていたため、部屋を分けようなどと言える状況になかったが、今は違う。
冷静に、男女が同じ部屋で眠るなどどうかしている。一度それでユーリアとは失敗しているのだから、なおさらそう思わざるを得ない。
――もっとも、それは今でなくても別にいいし、切り出し方とタイミングが無粋な上、あまりに格好悪いものであったと自分でも思う。何を意識しているんだ、という話である。場の流れ的に。
「……廉太郎」
「はい」
逃げ出したいくらいには気まずい思いの中、しばし真面目な顔で考え込んでからのユーリアの呼びかけ。思わず背筋も緊張で伸びる。
「どうしても嫌だとあなたが言っても、そうしなければならない理由があるのよ」
「嫌っていうか、いろいろ不味いって話なんだけど――」
「合理的な理由が三つあるわ」
とりあえず聞けと、有無を言わさずユーリアの指が示した数だけ立てられる。
こんな当たり前の――というより些細な感情問題のためだけに、わざわざ三つも理論武装させてしまっていたのか。立場は同じなのに、面倒だけを押し付けてしまったよう。
良かれと思って――ではなく、そうあるべきだとただ思っているだけ。そしてユーリアを見れば、今のところそれが良いように作用しているとは言い難い。
まったく頭があがらない。
ならば、せめて拝聴することとしよう。彼女の論理、物の見方を。
「一つ、安全のため。いつ、どこで何が起こるか分からないしね。警戒能力の高い私が、できるだけ近くに……特に、無防備になる睡眠の隙はカバーしてあげたいのよ」
結局それがすべてであり、それ一つで反対意見など『何を悠長な』と一笑に伏されてしまう。
それは廉太郎も分かり切っていた。
いまだに、気を抜いていいような状況だとは決して言えない。
それでも、わざわざ一度話に上げたのは、人として――異性として果たすべき義務は果たしたのだというポーズにすぎないのだ。
それは自分を良く見せようとするポーズではなく、ユーリアとの関係に負い目を持ち込みたくがないゆえのポーズ。
「二つ、金銭問題。……まぁ、いざとなれば私がスってしまえばいいのだけど、そこはあなたの思いを尊重するわ」
手持ちの資金には限りがある。
ただでさえラックブリックとその外、人間の社会である『こちら側』とは通用紙幣が異なるのに、突然の出発ゆえユーリアには金を準備する時間もなかったのだ。
ある程度の旅費にはなるものの、不測の事態に備えたい以上無駄遣いはよろしくない。
だから、その理由もぐうの音がでないほど正当である。
「……ごめん。考えなしに偉そうなことだけ言っちゃった、そっちもこれも」
「いいのよ。どちらも気持ちは嬉しいから」
意外にも――言うほど意外かは置いておくとして、ユーリアは犯罪行為にためらいがない。優先順位よと彼女は言う。友情の重さが、倫理や法のそれを軽く上回ってしまっている。
それにしたって限度がある――と、そう思うと同時に、それでこそだとも思うのだ。
「そして、……三つ目」
「もったいぶるね」
「昨日の朝をやり直したいのよ、私」
何を言われているのかはすぐわかった。
帰れない、どころか帰る先もないと告げられた夜。何も考えず、考えられずに同衾したこと。それは廉太郎の受けた衝撃を思えば無理もないし、ユーリアの性格からして放っておかれるはずもなかったろう。
だから問題は――廉太郎が問題にしたのは、その翌朝、ユーリアがあまりに彼女らしすぎたということで。
「ちゃんと謝ってなかったでしょう。ごめんなさい、もうしないわ」
終わったことだとばかり思っていたのに、それは思いのほか重く彼女の中に残っていたらしい。その事実がどうしようもなく胸を焦がし、返す言葉が見つけられない。
その顔を見つめたまま、そっと同じベッドに腰を下ろす。
その距離感が、廉太郎なりの懺悔だった。
拒絶ともとれる過剰な反応について、手紙では散々謝罪の言葉を連ね終えている。が、そんなものは血の通った言葉ではない。不十分だったと言える。無言の視線、表情一つに敵わない。
「それも合理的だって?」
「もちろん。私にとっては一番大きい理由だもの」
茶化すような揚げ足取りにも、少しも揺らぐことはなかった。
「友達の傍で眠るの、私は好きよ。眠いのを堪えておしゃべりしたりね」
「そうだね。たまの機会にそうするくらいだから、特別感があるんだ」
「なのに苦い思い出のままでは、ね。寂しいじゃない」
そう言われるまで頭を掠めることもなかったが、一度耳にするなり、とたんに『そうだ』と思わされてしまう。寂しい――いや、惜しいのだ。苦さとは程遠い、代えがたい思い出にケチをつけてしまったことが。
故郷ごと自分の背景がすべて失われていたと知った夜だったが、そこにあったのは空虚や絶望だけ
ではない。劣等感と引け目に苛まれこそすれ、その対象でもあるユーリアからは与えられたものが大きすぎる。
そのときの会話を、今でも一言一句損なうことなく覚えている。
「……うん」
「食事と同じよね。一人より、誰かと一緒したほうがずっと楽しいって言うでしょう?」
楽しい――それも間違いではないが、先に挙がるのは『美味しい』のほうじゃないのかな。
そんなユーリアの特性を不憫に思ってしまいつつ、彼女の食事に求めるモノが実にらしくて、つい廉太郎の顔はほころんでいた。
「――お腹すきましたね、そういえば」
区切りの良いタイミングを見計らったかのように、ぼそりとクリスが零していた。
気分的には水を刺されたようなものだったが、直後に腹の鳴る音が聞こえてきた。堪えきれないと察し、先んじた一声で恥を打ち消そうとしたのだと、それで直後に理解できた。
らしくない真似だが無理もない。この場の三人、丸一日以上ほとんど食事をとっていないのだ。
「そうね、行きましょうか!」ユーリアはやはり、楽しそうに笑いかけ「私も、さすがにお腹がすいたわ」
――――――
その町の名は、ソルムラ。
規模はオーテロマと同程度だが、人の出入りが激しい流動的な町でもある。中枢都市へのアクセスが良く、かつては観光地として国内外から愛されていたという。大陸の東部が瘴気に蝕まれ事実上消失したのち、『境界』にほど近いこの町は禁忌への最前線として急速にその輝きを失うこととなる。
――と、そんな前触れとは裏腹に、ホテルから一歩外へでれば何事かと目を見張るほどの賑わいを見ることができた。結局、人が集まるところには天変地異が起ころうとも人が集まる、ということ。捨てられないのだ、生活を。
ユーリアを先頭に、狭いとすら感じてしまう街路の歩道を行く。多少は勝手を知っているような彼女ではあったが、予想通りというか、食事を取るのに良い店まで知っているはずもなく、
「……安いわね。わりと綺麗な店なのに、なぜ?」
昼時を過ぎているので、ユーリアの選択したレストランの内部はがらりと静かなものだった。
そんな中、不信そうな目でメニューを睨食い入るように睨んでいるユーリア。好きなものを前にして決めかねている、というわけでもないのが涙ぐましい。
「気にしないでいいわ、先に注文しておいて」
そう促し慎重に吟味を続けていた彼女だが、ふとその視線がちらりと上がる。好きに決めようにも、一人がこの調子では気兼ねさせてしまうと案じたのか、「……そうだ、クリス」と暇そうにくつろぐ相手へ話しかけ、
「あなたって何が好きなの? 食べたい物はあったのかしら」
「私に好き嫌いはありませんよ」
いささか食い気味にクリスは答えた。
どこか違和感がある。『待ってました』と言わんばかりで、そう答えたいがために聞かれるのを密かに期待していたかのようでさえあった。
大げさに自分語りを見せようとしていて、芝居がかりすぎている。
「えぇ、食に限らずね。人形ですので」
「またそれか……」
謎に誇らし気な胸を張る子供を横目に、廉太郎の口から苛立ち混じりの諦めが零れた。
――人間でない。自我も感情もなく、それらが在るように振る舞えているだけのレア人形です。
ときどき、思い出したかのようにクリスはそんなアピールをする。
正直言ってうっとおしい。
真偽の確かめようはないにせよ、少なくとも傍から見ている限りそんな主張が成立しているようには思えない。ただの子供だとしか――産まれ方、創られ方が多少先進的なだけで、人との違いが何もないただのクローンだとしか思えない。
もっとも、事実を知れるのは本人のみで、事実を決めてしまえるのも本人のみだ。生い立ちが違うという時点で、理解し合えない領域はどうしてもある。
ただどうしても腑に落ちず、気に入らないのは、クリスがそこに拘っているという一点だ。振る舞えているのなら、そう在ってしまえばいいじゃないか。
人間性を隠さず振りまいておきながら、それを否定するという矛盾。
一体、クリスの何がそうさせているのか、気持ちが悪くてすっきりしない。
その核心に直接触れることなどとてもできなくて、それが、もどかしさに余計な拍車をかけている。
「ですから、別に同じでいいです。ユーリアさ……廉太郎のと」
「いや、選り好みしてるじゃん」
ひょっとして、明らかにジョークと分かる形でそれを持ちネタにしたいのか。などと疑ってしまいたくなるほどに、隠す気のないボロを出してしまうのだ。簡単に。
「どっちでもいいでしょ」と刺々しく返されてしまったあたり、どうやら突っ込み待ちではなかったようだ。
しかし、あれだけ懐きつつあるユーリアなのに同じチョイスは嫌だとは。よほど魅力を感じないのだろう。裏を返せば、廉太郎の方には期待を寄せられている、ということでもある。
自分で頼めばいいものを。
損しかないじゃん、その設定。
「えぇと、ユーリアこそ大丈夫?」思わぬ責任が生まれてしまったが、最悪外してもデザートさえつけておけば文句もでないだろうと廉太郎はメニューをめくる。「本当にダメなら店を変えよう」
「いいえ、この状況で我儘なんて言わないわ。いざとなれば、何でも――」
「これは? プレーンなバゲットが付いてくるけど」
薄味で淡白。普段食べているそれらに近いから、と進めてみたところ、思いのほかユーリアは曖昧な笑顔を浮かべて困った様子を見せていた。
「小麦は、ちょっと」
「っ、あぁ」とっさに数日前に読んだメモを思い出し「そうだった……聞かされてたな、アイヴィさんに」
「ごめんなさい。私、彼女以外が触った生地だと……」
食事の席で仲間の食欲を削ぐようなことを――と、ものすごく申し訳なさそうに消えゆくユーリアの声。
そんなバツの悪い思いをさせてしまった失敗に廉太郎は焦りつつ、
「少しわかるな。俺も、知らない人の握ったおにぎりとか――」
やや無理のあるフォロー。火の入るパン類と素通しされる握り飯では、忌避に対する潔癖の度合いが段違いだ。ざっと思い返してみても、売り物のパンにまで疑いの目を向けていた知人の姿は見当たらない。おにぎりならまだしも。
――おにぎり。
一度思い浮かべたら妙に食べたくなってきてしまう。
生粋の日本人でありながら、もう十日も――体感の日数では――米を食べられていない。
あり得ない。
海外旅行だとしても食事に不満を覚え始めているころだ。
国民性、人種か。単に主食と呼ぶにはあまりに絶対的すぎる。この依存度、おそらく酒や煙草に匹敵する。想像でしかないが。
「あるじゃないですか」と、見かねてクリス。
「え!?」
「いやほら、これ。米料理ですよ、確か」
飛びつくような勢いで示された指の先を確かめる。
そこに写真も挿絵もなく記された料理名、その単語。見覚えはなく想像もできない。ちょっと舌を噛みそうなその字面からして、米だと言われても半信半疑。
だが構うものか。和食だろうと西洋料理だろうと、宇宙食だろうと別世界食だろうと――米は米でありそれがすべて。
カリフォルニア・ ロールの字面が、お菓子にしか見えないのと同じことだ。
「これは――」
そうして注文ののち運ばれてきたもの。
第一印象は、鉄板に乗せられたハンバーグ・ステーキ。かけられた赤いソースが熱せられて、ふつふつと悪くない音を立て続けている。
赤い、醤油ではない。
だが分類的には、大き目なだけで気合いの入った焼きおにぎりである。たとえケチャップであろうと充分日本食だと言い聞かせてやれる範囲だ、自分に対して。
そもそも赤いチキンライス自体、日本食である。
躊躇うどころか、普通に味が楽しみになっていた。
「どう?」
ナイフを通し一口運んだ廉太郎へ、反応を期待したユーリアの物珍しそうな視線が集まる。何か言わなければ、と反応に困った口を開く。
「……悪くないよ」
「いまいちそうね」
そんな風に受け取られたとあってはあまりに感じが悪すぎる。「ち、違う」と廉太郎は取りつくろうように言葉を探し、
「品種……炊き方かな、惜しい。多分、俺に調理させてもらったほうがまだ美味――自分好みにはなる、かなあ」
「贅沢ですね。いけますのに――」
手を進めならがらそう言いかけ、途中ではっとしたクリスが目を逸らす。
「……と、まぁ客観的に分析したらですが」
「すげぇ、データの人みたいなこと言うじゃん」
「だからそうなんですってば」
そこからぐたぐたと、あがきじみたクリスの物言いが続いていった。
人工知能だとかロボットだとか――それらがまるで分からず呑み込めていないユーリアが、疎外感を感じたようにそわそわと、しかし料理を片付けるのに忙しい口に余裕がない。
会話に混ざるため、ついでに量を減らすためにユーリアは小皿を一つクリスの元へと押しやって、
「ね、これも食べてみて」
「――わぁ、甘いですね」
言うことも聞いて感想までこぼして素直すぎる。クリスからの態度の差が目に見えて大きくなっていくようでいまいち釈然としない。自我がないどころか顔を使い分けられている。一体なにが違うというのだ、まさか同性だなんてごく普通の――人形が聞いて呆れる。
そういう詰めの甘さが『なにを言ってるんだ』感を助長させているのに。現にメニュー表を開いて料理名か何かを確認しようとしている始末――。
「主食だったのよね?」
「えっ……」
クリスにつられて無意識にメニューを覗き込んでいた廉太郎を、ユーリアが何やら気にかけている。言動と目線で廉太郎の関心を察していた彼女が、しきりに頭を頷かせ、
「食べなれた物がない……うん、分かるわその辛さ」
「あぁ、いや。君ほど深刻ってわけじゃあ――」
「うーん、確かなことは言えないけれど」
食事の手を止めたユーリアが、上着から丁寧に折りたたまれた紙の束を取り出す。ホテルで配布されていた旅行客向けの小冊子。大まかな町のアピールと、周辺都市への交通の便を兼ねた観光マップが乗せられたもの。
そしてその背面には、簡略化された世界地図。
「この大陸だと、ほとんど産地が残ってないし……拘るならもっと大きくて、かなり食べ物に力を入れているような町じゃないと」
廉太郎の方へと地図を回しつつ、期待を持たせないような声色でユーリアがちらりと目配せをする。
おぼろげにも、贅沢な望みだということを何となく察し、廉太郎は笑い話になるようそれに答えた。
地図には国境と主要都市くらいしか記載されていなかったものの、ちょうど、学び始めようと思っていたところだったので、こんなものでも少し助かる。
「本場はこの辺り……交易海を中心にしていたと思うわ」
「さすがに遠いな」
南西方、ほとんど大陸を横断させられてしまう。東はといえば、陸地の部分が瘴気の関係ですべて黒塗りになっているわけで、そこから続く海路が機能しているとも思えない。
「この町がここだから、俺たちが通ってきたルートは……こんな感じか」
「えぇ、私たちの町はここね。何も描かれていないけど」
「……そうだね」
かなり重いことをさらりと言われ、わけもなくどきりとさせられてしまう。
ユーリアたちの町、ラックブリックの位置する地帯はもはや人間社会にとっては存在しないも同じ。人の住めない場所であり、人の社会を追われた者が死ぬと分かって逃げ込む地。
その地図の黒塗りは、全大陸領土の六割にまで及んでいた。
近年そのペースは低下しているとはいえ、土地の死はインクの染みが広がるように年々拡大している。ここソルムラも、それに呑まれるのは決して遠い未来じゃない。
「あぁ。ちなみに、私の生まれた場所はここよ」
「――っ、ずいぶん遠くから来たね」
深堀りしにくい話題が続く。とても自分から触れられるような話ではなく、本人から振られたとしても反応に困る。いくら故郷にも生みの親にも思い入れがないとはいえ、どうしても緊張してしまう。
「えぇと、その――」あまり自然でない流れでユーリアは相手を隣に移し「クリスは私の町に来る前、どこにいたの?」
「秘密です」
「そう。気が向いたら教えてね、そのうち」
つれない対応にも顔を曇らせず、ユーリアは軽く笑い流していた。
その後、全員が食事を終えたのを見計らって、再び彼女は話を切り出す。
「そうね――数日、敵の出方を見てみましょう」
すなわち、今後の方針について。
「私たちのスタンスはこれまで通り、変わらないわ。逃げているのではなく、移動しているだけ」
「そうですね。ラックブリックは巻き込みたくないでしょうし、オーテロマでは一度騒ぎになってしまいましたから。もはやどうしても動きにくい」
「えぇ、だから次はここで敵を待つ……部外者を巻き込む可能性は高いけれど、ある程度敵の行動を限定させられるという効果を無視はできない」
淡々とした口調ではあるが、平静を装っているだけだ。
ユーリアは犯罪も躊躇わない。だがただ『悪い』と、そう感じていないはずもない。
「数日っていうのは?」
「目安よ。丸わかりだったオーテロマとは違って、この町にはただ無作為に立ち寄っただけ。私たちがここに居るだなんて、敵もすぐには当たりをつけられないはずだもの」
「……あぁ。今日明日でなんて接触されたら、それはもうどこに逃げても意味がないってことだもんな」
その場合、確実に何らかの方法でこちらの位置を把握されているとしか思えない。
今、もっとも欲しているものは敵、『学団』に関する情報。それが何もないままでは、どう行動するのがベストなのかも分からない。考える材料さえ手元にはないのだ。
「交渉、は……限りなく難しくなってしまったと思うけれど。それでも、それなりの対処をしなければ」
「この状況、いつまでも続かせるわけにもいかないしね」
「えぇ。どんな形であれ、あなたが安心して過ごせるように戻してみせる」
「……ありがとう」
あまりにも無粋に思えて、とても口にはできなかった。
本心を言えば、廉太郎はむしろユーリアが日常に返ってほしいという思いの方がずっと強い。
廉太郎が厄介ごとに巻き込まれている以上、ユーリアが動いてしまうのは止められない。巻き込みたくないというわがままは彼女の友情に敵わない。対等ではないからだ。本質と、それと大きさが。
ならばせめて、解決が早まってくれるように願っていよう。
「そう、ね……廉太郎」
ふと、じっと目の奥を覗いてくるように真剣な顔をユーリアが浮かべた。
「うん?」
「全部解決できた、その後の……あなたの人生についてなのだけれど」
出会って間もなかったときのように、それはどこかぎこちない口調に思えた。重ねて一呼吸を置こうとする上に、らしくないほど笑みが固くなっている。
「さっき見ていたでしょう、地図」
「それが、何か気になった?」
「……あの町でしか生きていけない私たちと違って、あなたは自由よ。だから――」
「生きていく場所を選べるなら、あの町がいい」
それで喜んでくれるだろうなと、廉太郎は思った。
友達と離れずに済むのなら。
でなければ話をかぶせたりはしない。言い切ったときの表情など見たくもなかった。
その『友達』だが、廉太郎について動くことになるクリスの方へと、『離れたくない』割合が果たしてどれだけ傾いているのだろうか、などと――努めて考えないようにしよう。
「……君が居るしね」
「そう、光栄だわ」
何よりそれは本心である。
この十日間には彼女から受け取った、大きな恩と友情がある。そのどちらも返さなければならないし、何が何でも返してあげたいという想いがある。
恩はともかく、友情を返すとは。
単に上手く付き合えて楽しいだけの仲ではなく、自信を持って「友達」だと断言してしまえるようになりたいということ。
不可能だとは思うけれど。
ユーリアに対する親しみや憧れは、引け目と負い目と後ろめたさに釣り合ってしまっているけれど。
彼女の隣以外で生きてきたいとも思わないし、生きていけるとも思わないのだ。
「ごちそうさまです」
とっくに食べ終わっていただろうに。
静かに待っていたクリスが早くデザートを運ばせるよう、廉太郎の腕をつついて催促していた。