第三十五話 三勢力と個人多数
やった――。
身が溺れるような達成感だった。
後々への影響、廉太郎たちへかかる迷惑。それらを一切考慮せず、我を通してまで成し遂げてしまった。
その事実に、背徳混じりの高揚が抑えきれなかった。
クリスは人形である。
そして、人形は人ではない。生き物でさえない、物であった。
いくら他の固体と一線を画し、人と変わらない言動で振る舞って見せようと、それらはすべて疑似でしかない。模倣、演技――その時々で相応しい所作を選択できる、高性能な人工知能と変わらない。
ゆえに無感情。自我、自意識など初めから存在していないのだ。
そうでなくてはならない。
だが、この熱量。こればかりはクリスにとって例外だった。口癖のような自己否定――自我否定の言い分で、とても誤魔化せるようなものではない。
認めよう。
自分には一部、人間の域に達する領域が存在するのだと。
開き直るようだが、その領域が誇りでもある。
唯一の感情。獲得したただ一つの人間らしさなのだ。
五年、外見年齢の半分ほどしかない人生経験の中、どうあがいても確立できないアイデンティティが、唯一形を示し表したもの。
だからこそ。
決して人間ではなく、またそうあってはならないクリスが、そこに関してだけは例外を許す。
二年前。
あのとき誓った復讐劇。
――否、それは今だからこそ、そう思いたいだけであって、当時のクリスに己を奮い立たせられるだけの気力はなかった。ただ自暴自棄になるばかりで、目標も望みも何も、思い浮かべようさえしなかった。
だから、この憎悪はそれからの日数の中で生まれたもの。誓いなどではもちろんない。実現できるなどと、端から思っていなかったのだから。
叶うはずもないと知りながら、日々漠然と思い描かずにはいられなかった絵空事の願望。
そんなことだから、自分でも呆れるほど、クリスは適当な時間を過ごしてきた。
今日この瞬間、ことここに至るまで。
奇しくも『あの人』と同じ存在――『故郷』に由来する再現者である廉太郎と、再び魂を繋げられるような機会を得て。やはり同じように、学団――同類を囲わんとする異常者の集団に目をつけられることになろうとも。
――不味いことになった。不憫だ。廉太郎も、私も。
そう嘆くばかりで、とても復讐などと――頭を回せる余裕がなかった。
だが、蓋を開けてみれば。
あれよあれよと流れのまま、まったく期待してなかった戦果が二つ。
クリスにとって親の仇に等しい敵の首、その二つを落とすに至った
できすぎた結果だ。
戦力差のみならず、学団の単純火力は核にも優る。国家どころかこの星そのものさえ容易くどうこうできてしまうような敵。
運や条件が良かっただけで、本来まともに敵対して無事に済むような相手ではない。対立、そんな選択肢など初めから候補にもあがらない。
だが。
それを誰よりも理解していながら、どうしても期待してしまうのだ。
今の自分なら――廉太郎の魂とユーリアの助力。それらを得られるこの状況なら、あるいは、と。
――――
町中に確保された機関の拠点、隠家。
廉太郎の慌ただしい足取りでクリスはそこへ運び込まれ、ほどなくしてその目を覚ましていた。一見して派手に見えた怪我にも関わらず、「んん……」と身じろぎ目をこする姿は、まるで朝方にでも寝ぼけているかのよう。
その呑気さに、ほっと胸を撫でおろしていた。
だがそれでも、『ロゼ』の指示のもと、拙いながらも適切に巻いてやった包帯姿が痛々しいことに変わりはない。本人がけろりとしているせいで、かえってそれが浮き彫りになってしまっている。
ちくりと、廉太郎の胸の奥に針が差し、
「――よお」
「あぁー、どう……もっ」
たどたどしく返された返事だった。痛みで、軽く顔つきが歪んでいる。
そこまで程度の激しい怪我でない、大事ではないし、すぐに良くなる――と、そう分かってはいても、とても直視に耐えうるものではなくて、
「痛いか?」
「それなりには」
「……これで二度目だよ、この部屋でお前の怪我を見るの」
思えば――いつも、クリスが一番酷い怪我をする。
無傷で済んだ基地のときを除いて、その前の地下と、先ほどの戦闘。
自分とユーリアより二回りも小さいこの子供に、それだけ負担をかけてしまっているということだ。
こんな事態、危険に巻き込んでいるのは他でもない自分。廉太郎の都合に付き合わされる形で、クリスは常に矢面に立たされる。
一つ二つ、議論を蒸し返すようだが、この現状が正しいものだとは微塵も思うことができない。
特に今、この瞬間がそう。
彼女自らの意思で付き合ってくれているユーリアはともかくとして、否応なく廉太郎の傍に置かれるクリスを危険に晒し続けてまで、学団から逃れ続けようとしている――などと。
それだけの価値、理由を、いったいどこに見出せばいいと言うのか。
「いつも、お前に……」
「いいんです」
うっとおしいとばかりに、クリスが伸ばされた手を払いのけた。
頬を撫でさせてもくれなかったが、それはたぶん拒絶ではなく、
「どうでもいいんですよ。むしろ……やりましたね!」
「あぁ?」
何事か。
突如、思い出したかのように興奮を顔に出し、クリスは場にそぐわない弾んだ様子を見せている。
いまいち真意が呑み込めない。疑問、心配を通り越していっそ気味が悪いとさえ思ってしまう。
廉太郎はとりあえず――適当にでも話を合わせようと、
「や、やった……ねぇ。状況は、何一つ進んでない感じだけど」
気分は陰鬱で、晴れそうになかった。
要因は複数。クリスとユーリアへの――それからついでに、この町の住人への――負い目と罪悪感。それを除けば、ニコラスが死んだことがかなり大きい。
つい先ほど、敵の一人を廉太郎は殺した。
自分と『ロゼ』の意図を外れ、クリスに先走られた結果だ。とはいえ俺たちにその気はなかったのに――と、その事実をクリス一人に押し付けるつもりは少しもない。
魔術を放ったのはクリスでも、引金に指をかけたのは自分。そもそも、そんな状況に付き合わせているのも自分である。そういう自覚だけが、嫌になるほどはっきりしている。
だが、それ自体をいつまでも気に病み続けるつもりもない。
頭を悩ませているのは、他の、現実的な問題。状況の進展が何も得られなかった、ということについてである。
今夜の戦闘、辛くも二勝したとはいえ、成果があったとはとても言えない。
ウィラー自体に逃げられてしまった。『学団』――彼らの背後にある事情、情報を、何一つ得ることができなかった。
戦闘不能にしたわけでもない。極端な話、今この瞬間にウィラーからは再度仕掛けられないとも限らない。連れてくる仲間だって他に居る。せめてその頭数、組織の規模くらいは聞き出しておきたかったものを――。
状況は当初と何も変わらず、何も解決していない。
それどころか、悪化しているとさえ。
なにせ彼らの仲間、その一人を殺ってしまったのだ。互いにもう、後には引けない。廉太郎に対する対応も変わってくるかもしれないし、単純な恨みを買っただけに終わるかもしれない。仲間としての勧誘、拉致など白紙になり、ただ命を狙ってくる可能性も十分ある。
交渉など、穏便に丸く収めるための道は、限りなく困難なものになってしまった。
誰も――『ロゼ』を除いては、誰もクリスを責めたりしない。
だがニコラスを殺してしまったのは、明らかな失敗だったと言えるのだろう。
「何考えてるのか、分かりますよ」
「……ごめん」
「別に、いいじゃないですか」
失敗した料理をいつまでも煮込んでいるように、頭の中はまとまらず先が少しも見えてこない停滞状態。
果たして何を優先として動いているのか、それさえも今はあやふやになっていた。
責任的にも、感情的にも、倫理的にも。
まず第一にクリスに、それから知り合になった人たちに、迷惑をかけずに済む選択を取り続けていくべきだ。なのに、それができていない。
足を引くのは、ユーリアの向けてくれる友情に期待して、依存している心の弱さなのだろうか。
あるいは――。
「殺すだけの必然性はありました。ユーリアさんが危なかったあの状況、手加減なんて……できたにしても悠長でしょ」
場をかき乱したほどの、クリス自身が持つ私情なのか。
「助けたんですから。それ以上に重要なことって、あなたにあります?」
「……助かったといえば、クリスもそうだろ。危なかったんだ……あぁ、どうでもいいな。お前が無事なら」
「照れ隠しに人を使いますねえ、相変わらず」
クリスの言い分は極論にも聞こえた。
確かにあの状況、一発で決めなければならなかった。手心など気にしてはいられない。人道も、それによる不都合な展開もすべて無視して、敵を仕留めにいっただけの価値はある。
だが、染光の本来の威力は全員が理解していたし、他でもない『ロゼ』がそれで十分と判断したのも事実なのだ。魔力運用の専門家で元は魔術師でもあった彼女の判断、必死ささえ感じられる指示だった。
それをクリスは無視した形。いや、信用しなかったのか。
だからこそ先走ったように思え、その言葉も自分を正当化しようとしているように聞こえるのだ。
人を一人殺すだけなら、あんな威力など必要なかった。明らかに過剰、異常な出力だったと、素人目の廉太郎でさえも理解している。
私怨――。
これまでのクリスの言動にも、今目の前のクリスにも、そんな何らかの黒い感情が状況証拠のように纏わりついているようで、
「お前、やけに上機嫌だな」
「えぇ、キルスコアが二に増えましたからね」
「……へぇ」
意外と少ないんだな――てっきり道具としても個人としても、最低二桁くらいは軽くやってると思っていたのに。
思いがけない、子供に相応しい健全さ――言うほどでもないか。それで機嫌が上がってしまうあたり、むしろとんでもないほうだ――に安堵するより、そんな失礼な感想が浮かんでしまう。
微妙な戸惑いが顔に現れた廉太郎に、クリスは「違います、違います」と半笑いで、
「奴らの……学団のメンバーに限った話ですよ」
奴ら。二人。
ニコラスと、後は――数が合わずに首を捻ると、クリスは「あれ、言いませんでしたっけ?」と事もなげに涼しい顔で、雑談の延長か何かのように口を動かす。
「前に基地で襲ってきた男。あれもメンバーの一人でしたよ」
「あぁ、道理で――」
メインデルト。
三日前の早朝、廉太郎とクリスが泊めてもらったあの前哨基地を強襲した男。
先の一件の黒幕とも言うべき奴もまた、ウィラーたちと同じように異様な能力を振るっていた。この世の基準から逸脱した、人の身に余るような超常の力。
人の心、そしてその場のすべてを支配するまでの他人の魂への干渉力。それらの詳細は、未だに鮮明に頭に残っている。
メインデルトの考えは分からない。まともなコミュニケーションは何も取れなかった。それでも、奴がそのとき基地内に居る者を皆殺しにしようとしていたのは確かである。
打破できたのは、とんでもない幸運だったろう。
そのきっかけになったのも、奴の能力を看破したのも――それどころか、前もって知っていたかのように、悠々と解説してくれたのも。
――『ロゼ』だった。
そしておそらく、今回もそれと同じなのだ。
「……奴は」
自然と、クリスの顔色を窺うように見下ろしてしまいつつ、
「確か、ユーリアの友達の――トリカちゃんに目をつけて、あの町にけしかけようとしたんだったか」
「ですね」
「目的は?」
そのときの話では、その辺りは分からないという結論に終わったのだった。
当然、聞かれても困るとクリスは「さぁ?」と眉をしかめている。それでも、何かの引っかかりを見つけたかのようにしばし言葉を詰まらせつつ、
「何かしらの用があったのでしょう。で、奴の死後その用を代わりに果たそうと町に来たのが、あの男ってわけで」
「……で、ついでに俺が見つかったと」
「災難でした」
にやりと笑うクリスに、まったくだ――と、疲れたような顔を返す。
ついてない、不運にもほどがある。面倒に巻き込まれ殺されかけた上に、よもやそれをきっかけに、別件でスポットライトへと引きずり出されてしまうとは。
そのせいで――。
「……あぁ、そういえば」
後ろ向きで不毛な気分を少しでも振り払ってしまいたくて、話を変えようと無理に話題を探してくる。
「怒ってたぞ、『ロゼ』が――」
「知りませんよ、あんな人!」
クリスの反応は激しかった。名前を出されただけでその有様。だがそれも一瞬のことで、すぐにバツの悪そうな顔を作り感情的になってしまったことを恥じていた。
多少の反発は予想していた。だが、ここまでだとは夢にも思わない。クリスの『ロゼ』に対する不信、確執が、ここまで育っていたなどと――。
「あー、その」
驚き、気まずく、ただ廉太郎はたじろいだばかりではない。
情けないことに、委縮さえしてしまっていた。
見かねたのか、自身も気まずさに耐えかねたのか「はぁ……」とクリスの溜息が場を切り替え、
「あの人、明らかに敵の能力まで知っていましたよね。なのに、土壇場のぎりぎりまで助言、忠告の一つもしようとはしてこなかった、なんて――」
実際。
『ロゼ』の助言や指示は適切で、それは確かな情報や知識によるものでなければあり得なかった。
その事実と、彼女の協力態度には隔たりがある。いざという場面まで、出し渋られていた感が否めない。そして、それがまた彼女の性格と矛盾しているのだ。
「二度目ですよ、おかしいでしょ。信用できません、少しも」
「クリス……」
クリスを宥めるのも、『ロゼ』を擁護するのも難しいほどに、彼女の態度や言動は不可解なものになっていた。
まず第一に知り過ぎている。いつ、どこで、何故にそれらの情報を知り得たのかという問い、疑いが、どうしても頭の隅にこびりついてしまう。
次に、それを黙っていようとする理由。不都合か、うしろめたさか。そうでもなければ口を閉ざしたりはしまい。
廉太郎にも、うっすらと想像できてしまう。単に知っているのではなく、何らかの関係があったのではないか、と。
クリスはもう完全にその線で彼女のことを捉えているし『いっそ、仲間なのではないか?』とさえ疑ってしまっているようで、
「仮に、あの人に奴らとの関係があろうとも、百歩譲ってそれはいいんですよ――いえ、私的には業腹ですが――ともかく、今この瞬間にこっちに肩入れしてこない意味って何かあります?」
「……それは」
「味方じゃないって、そう言ってるようなものでしょうが」
そんな風に思いたくはなかったし、思うこともできない。少なくとも、屋上から落下した二人を死なせまいとした『ロゼ』の態度は混じり気はなかった。
確かに、全面的に手を貸してくれるわけじゃない。今だって二人の会話は聞いているはずなのに、一言さえも否定や弁解の言葉を告げにこない。
しかし、だからといって味方でないとは限らない。
ましてや敵などと――クリスに目の敵にされるような謂れなど、本当はないに決まっている。
味方。そんな大仰な言葉からは目を背けたとしても、少なくとも、友人であることだけは変わらないではないか。
「でもクリス。お前だって、言わずに黙っていることくらいあるんだろ?」
「……重要なことは話してますよ。わざわざ言う必要もないような、プライベートを除いては」
気は進まず心苦しくもなろうとも、ここは突かなければ公平ではない。そんな思いで指摘してみたところで、挑戦的な目で返されてしまうだけだった。
どんな事情があったのか。そこまでの頑なな意思は、いったいどこからきているのか。
何も聞くなと、無言の空気が圧力をかけてくる。
ならばもう――だからこそ、何も聞けない。聞けるはずがない。
「――だとしても、あの一発で『ロゼ』があそこまで苦い顔した理由とか、それくらい教えてくれよ」
「はぁ」
「あるだろ、思い当る節くらい」
『ロゼ』の口ぶりから察するに、だ。
何らかの副作用、あるいは不味い事情がある力。これまでは意図的にその使用を抑えていた。クリスと『ロゼ』、共に暗黙の内にそれを了解していたものの、やむを得ないと必然性を――私怨混じりとはいえ――認めたクリスによって、それが破られてしまった。
「えぇと。まぁ、それはですね――」
どうあれ、煩いことを言うつもりはなかった。
自分の魂に関わることだから、喉につかえた小骨のように気になって確認しておきたかっただけ。
クリスのように『ロゼ』へ不信を向けるつもりも、反対にクリスを諫めるつもりも廉太郎にはない。というより、どういう立場でその二人へ物を言っていいものか、分からなくなってしまいつつある。
だが。
原理的には、あいつらのそれと同じものですよ――と軽い調子で思いのほか大それたカミングアウトをされてしまい、気持ち的には『ロゼ』の言葉を借りたように一緒になって声を荒げてしまっていた。
だが「ユーリアさんの危機を前にして、こだわるようなものですか?」――と繰り返された物言いに、またしても、何も言えなくなってしまっていた。
――――
廉太郎と別れ、ユーリアは現場となった屋上へ。
むろん、正規の階段を上ってだ。崖下りじみた命がけのアクションなど、一度経験したら十分である。といっても、天地関係の修繕された今となっては単なる壁上りにしかならないのだが――難易度はむしろ上がっている。
ともかく、問題なく足で地面を踏み歩けるというのは、もうそれだけで安心感を与えてくれる。本来なら。
「……うっ、もう無いと分かっていても寒気するわね」
完全に絶命し横たわる敵を尻目に、それでもまた身体が浮いてしまうのではないかと変にぞわぞわさせられてしまう。
一人で、格好を気にすることもないのだが。いまいち締まらないな――と、愚痴を零してしまうのだった。
ニコラスの頭部は欠損していた。残された胴体は被弾した上部を中心に黒く変色し、肉や骨ごと焼失した衣服がそれを露わなものにしている。
落下する最中、視界の端を掠めていった一撃。
魔術の中でもかなり強力な部類。廉太郎の補助ありとはいえ、クリスが魔術を扱えることは知っていた。どこで、なぜ――疑問が尽きないほど、それは驚くべきことであったはずなのに、そもそも自我も人格もないはずの人形の女児があまりに可愛らしく、また好ましかったもので、ついぞろくに気にかけないままここまできてしまった。
だが、これはさすがに看過できない。
はっきり言って異常である。対人間、対魔術師を想定した火力を優に超えてしまっている。
合理的な攻撃ではなかった。
ならばそこには理由がある。あるいは、感情が――それもたぶん、クリスの。
「……考えてみれば、あの子のことなんて何も知らないのね。私」
クリスの素性や生い立ちは不可解で、出会ったときからずっと謎めいたままでいる。謎のままで済ませてきた。周囲との関係は上手くいっていたし、あまりにも自然に生活に馴染んでいたものだから。
それは、だけど構わない。
敵、学団への最小限の情報を持っていたりと、何か重い事情を抱えているのは明らかだが――構うものか。
気になるから、後で聞いてみよう。
現状がどうとか情報がどうとかではなく、単純にあの子のことがもっと知りたい。話したくないと渋られたのなら、それでもいい。人格、秘密に触れようとしただけでも一歩、心の距離を詰められる。隠し事を前提にできる関係と、隠し事が見えているのに見て見ぬふりする関係とでは、天と地ほどの差があるのだ。
「……っ!」
浸りかけた意識に、人の声が唐突に割り込んでくる。 ユーリアに向けたものではなく、あちらこちらで徐々に人の動きが活発になっているようなのだ。
周囲一帯、無関係な住民を丸ごと巻き添えにした異常が収まって、ただ呆然と身を任せるしかなかった人たちが混乱を表に出せるようになってきている。
集まり、無事を確かめ合い、口々に『あれは何だ』と、『何が起きた』と興奮気味に喚きあっている。
必然、立ち直るどころか未だ恐怖に捕らわれたままの住民だって居るわけで――。
「……だめ」
意図して目や耳に入れてしまうと、他人事として処理できなくなってしまう。
用は済んだ、敵の生死など確かめるまでもない。早いところこの場から離れてしまわねば。
戦場をここに選び、大勢を巻き添えにした罪が間違いなく自分にはあるのだから。
――罪、か。
ふと、踵を返そうとした足が止まる。
「……」
死体は見慣れていた。
赤の他人であれば、殺したとしても死んでいたとしても、無理やり割り切ってしまうことがユーリアにはできる。
だが、あの二人はどうか。
それも人形、平気であるクリスはともかく、廉太郎は――。
染光。先の一撃、クリスが撃ったにせよ主導権を握る廉太郎が無関係である、などと本人だって思うまい。
彼の生前――それが適切な言い方だとは思いたくないけれど、ともかく以前、故郷で彼がどういう暮らしをしていたのか、大まかに話を聞いている。
無縁だったはずだ。
自らが関わるどころか、体制的な争いも、刑事罰としてのものでさえ、実生活からは切り離されているほどに。
それが、この世界で生きるようになって早十日。
その間に彼は人を殺した――殺させてしまったのはこちらの不手際、見込みの甘さが原因でもある。
一人、二人――そして今ので三人目か。
すべて正当防衛である。彼自身と、クリスと、ユーリアと、あとは基地の皆を守るための。
それを踏まえてなお、廉太郎の表情や態度から感じ取っていた印象には疑問がある。
報告を聞いて、心配したよりもずっと――あまりに平気そうだったからだ。
『生死を確認してくるわ』
と、先ほども重い雰囲気で告げたつもりだった。それが「分かった」の一言で返されて、思わず聞き間違えられたのかと狼狽えそうになってしまったほど。
「……」
罪。
廉太郎の持つ、彼の『故郷』の倫理観や慣性が、ユーリアの持っている領域から大きく逸脱しているとも思わない。むろん、この世の他人種族、欠落を抱えた同種に対する浄化思想を持たないこと――などの、あまりに好意的な違いはあるのだが。
要らぬ心配をかけぬよう、隠しているのだろう――と、そう考えるのが腑に落ちるが、それならそれで驚かされる。
隠せてしまっているのなら。
一人で眠れなくなったらしい――。
そうクリスから聞いたとき、初めてのその経験が、尾を引いているせいだと思った。
だが違った。
現に今夜、「部屋は分けないのか……」などと、危機感の方さえも忘れてしまったかのような発言をしていたのだから。
あれから数日。切り替えが早い――わけではないのだろう。
ならば、眠れないほどの心労とは、一体――。
「……まぁ、いいわ。それも聞いちゃおう」
一人で悩むことではない。
人の死に参っているにせよ、ないにせよ、はたまた別のことで苦しんでいるにせよ。あらゆる手を尽くして楽にしてやろう、意地でも。それが友達というものだ。
できるだけ、自力で接してやりたいのはやまやまだが、いざとなればロゼも力を貸してくれる。
彼女のメンタルケアは完璧だ。ユーリアのような熱意と厚意だけでなく、理論と技術に基づいたサポートをしてくれるはずだから。
だけど、
「今どうしてるかな、ロゼ……」
本当は、今のロゼ本人にこそ、親身なサポートが必要なはずなのである。
心身にも、魂にも。
不調――そう呼んでしまうにはあまりに重い。
二日前見舞ったばかりの、顔さえも合わせられなかった親友。その快復を願いながら、ユーリアは静かにその屋上を後にしていた。
――――――
「壊されちまったよ、ビデオ――」
ウィラーの第一声は、努めてあっけらかんと意識されたものであった。
「悪いな、見せられなくて」
無理もない。
内心、冷や汗ものの大嘘。学団と機関との間で対等に結ばれた協定の、最重要事項とされる部分を踏みにじってしまったのだ。一時の感情に流されて、突発的に。
事の大きさがどれほどのものか、正確なところを把握しているわけではない。組織としての学団に属しているとはいえ、その実、上と横が何をやっているのか良く知らない。聞かされるほどの重要なポジションに居なかったとも、本人に興味自体がなかったとも言える。
ましてや外部との関係、協力体制についてなどなおさら。
それでも目の前の男に、馬鹿正直に今夜の一連の流れを打ち明けてしまったなら――どうなるのか、どれだけ自分の立ち位置が危うくなるのか。
それだけを理解してここに来た。
「そうかい」
世界復興機関、執務室。
ウィラーが廉太郎たちと一戦を交えてから、ほんの数時間。彼はすでに西のオーテロマから姿を消し、車両で半日以上の距離を隔てたラックブリックの町へと出現している。
足早の報告、それも虚偽の。
それに対する、男――ルートヴィヒの反応は淡白であった。
ユーリアへの接触許可、その交換条件ともいうべき動画撮影。口約束では済まない組織間レベルのその契約を、軽く反故にされた形である――にも関わらず、だ。
「結論だけ言うと俺たちの負けだよ。惜しかった……というより完全に想定外だね。ノーマークだ、あの子――人形ちゃん? 知識不足だった!」
話をまとめてしまいたくて、自分でも不自然だと思うほどに饒舌になってしまっている。詐欺師や占い師には到底向いていないことを痛感した。これが仕事なら確実に転職を考えている。
ならば、これは何だ。こんな役回り、望んでやっているはずもないのに。
動画など見せられるはずもない。報告など、まっとうにできるはずもない。
よりにもよって、あの少女――お姫様だの、最高戦力だの、何だのと――ともかくこの男が、他の何よりも優先し考えている存在を、例のユーリア・ヴァイスを。運よく未遂で済んだとはいえ、意味もなくただの癇癪で殺しかけてしまった――などと。
――死んでくれや、あの爺ぃ。
「というよりあの人形、うちと揉めたのか私怨があったな。……ついてねぇ、キレて廉太郎をむりくり使ってきやがった」
「ふむ、まぁいいとも。そういう事にしておこう」
人のよさそうな面構えをたたえ、その実相対する者に目を逸らさせようとしているかのよう。無関心なのが伝わってくる。相手にされていないような、期待もされていないような。
見透かされている。
そう悟ったウィラーへと、僅かにルートヴィヒは緩んだ気配を垣間見せて、
「見せたまえ」
「……っ」
「約束しよう、ここで私が何を見せられようと問題にはしない。告げ口もしない。だから、君を罰する者など現れない」
かなりの温情を与えられている。
だが断言されてなお、生きた心地はしなかった。
渋々、恐る恐るとハンディカメラが手渡される。処分はとてもできなかった。保身を考えた場合、自分個人にだけは過失がなかったと弁解するために。
「ふふふ……」
再生モードでの視聴を終えてなお、ルートヴィヒの態度は変わらなかった。何が面白いのか、何を観察したいというのか、むしろ機嫌は良くなっているくらいに。
不気味に思うと同時に、ウィラーは一人安堵していた。計三台分、余すところなく無事にチェックされてなお、文句の一つも飛んでこなかったのだから。
「よくやってくれた」
だが、代わりに飛ばされてきたのは理解の及ばない言葉の数々で、
「期待以上だ。たまらない。今夜の経験をあの子が忘れることはないだろう」
言葉など返せない。反応もできない。分からないのだから。
発言の内容ではなく、何を期待しているのか――が。
ただ不憫だと思った。
例の少女――ユーリアが、ただ私兵として目の前の男に使われているだけではなく、本人の知らないところで並々ならぬほど異様な関心を向けられていることを。
――変態が。
顔に嫌悪が出ていたのか、そんなウィラーは不意にじろりと一瞥され、
「君は……私の趣味に付き合わされ、振り回されているつもりなのだろうが、それは違う」
「あぁ?」
「私も同じだよ、振り回されている」
「だから――」
「そもそも、今回の発端は君たちだ」
正しい。
用がある廉太郎に手を出せない人物がくっついている、だから何とかしてほしい。そういう要求を持ちかけている。上手く手引きしてくれれば良いものを、それに余計な見世物としての側面を求められてしまった、というだけの話。
そして、それ以前。
学団として許された範疇を超え、同盟相手に手を出したのはメインデルトの独断だ。廉太郎という同種の存在が発見できたのは、そこから波及した結果に過ぎない。
そこで一つ、借りを作った。
そして今夜、仲間の一人がまた一つ大きなミスを侵したことになる。
勘弁してくれ、俺だけが糾弾されている気分になる――。
「この町を中心に、各勢力が各々互いに自分の都合を押し付け合っているのだよ。そして偶然にも、その三つ巴の渦中にあの子がいる……あぁ、素晴らしいな」
「あぁ、三つ巴だぁ――?」
「あぁいや、これでは私だけが独り勝ちで、まるで黒幕のようではないか……誤解しないでくれ、偶然だよ。私も困っているのだからね」
会話の途中に引っかかりを覚えたものの、それこそ自分の都合だけで盛り上がり始めた男を前に、苛立ちが優り聞き流してしまっていた。
――知らねぇよ。
「……じゃあ帰るぜ。この余興、もう俺は参加できない決まりだ。後釜に引き継いでやらねぇといけねぇ」
「良い人選だったよ、君とニコラスは。私も、初手で決まると思っていたのだがね。彼が死んだのは残念だ」
――死んでねぇよ、大して悼んでもないだろうが。
半死半生だが。
死体に扮して置いてきたのはウィラーの能力で生み出した分身。倒れたニコラスを引きずり逃亡するための、時間稼ぎと目くらまし。
意味もなく微妙な反抗がてら返答を拒否。そうして一戦を終えたあの町へと、一瞬思いを馳せていたウィラーは、
「……あぁ」
一つ、気がかりを思い出す。
背を向けかけた身体を留め、
「せっかくだ。久々によ、ロゼちゃんの顔でも拝んてこうかなぁ」
「……気安く関わってほしくないね、彼女にも」
反応を見たくて、それで放ってみた軽口だった。
返された言葉は当たり前のものであり、予想通りで――そして、余計に不可解に思わせてくるものであった。
「駄目だ。彼女はしばらく動けない。確か先日、そう伝えたつもりだったのだが?」
「……だったな、残念だ」
つい先ほど。
あの町で、ウィラーは目撃していた。
正確に言えば、他人の自意識の中に精製された彼の分身体が伝えてきた視覚情報である。
何故か、フィードバックに歪みが生じていて、確かな情報であるとは断言できない。
それでもあの町で見た女の姿は、確かに、ロゼ・ヘルホルスのものであった。衣装は見慣れたものと正反対のいで立ちであったが、あの整いきった顔立ちを見間違うはずがない。
この町から出ていないどころか、部屋で寝込んでいるはずの――ロゼが。