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ワールド・ブラインド   作者: 宝の飴
第三章 「」
137/149

第三十四話 異質であるということ

 敵まで近づく時間は一瞬で済む。

 ただし、特殊な地形を考慮する必要がどうしてもあった。

 地形、というより状況。歪みに歪んだ空間の上下、その異常を前に正常な感覚が酔わされてしまいそうになってくる。

 周囲一帯、人の体が宙に浮く。

 上空に構える『闇』へと引き寄せられているようでもあり、重力自体が狂わされているようでもある。はっきりと断言してしまえない。

 奇妙で、抗うこともできない危機だった。

 クリスを除いた、廉太郎れんたろうとユーリア。その他まばらな町民とともに、その二人は底の分からない空へと落ちかけるところだったのだ。

 それを止めたのが、意識を戻したクリスにより精製された、薄氷を模す物質魔力。それは宙に固定化された安全網セーフティネットであると同時に、天地逆転した二人にとっての足場としても機能する。

 薄氷にて体制を整えた二人の頭は地の方を向き、足は天へと向いている。

 いまいち危機を脱せられてはいない、不安定が続くそのような状況に三人はあった。


 ――任せるわね、ここは。


 ユーリアの視線が、一人路上へ降り立ったクリスのものと交差する。それだけで意図が伝わった、そう確信を持つことができる。

 廉太郎を託したユーリアは、すぐさま行動を開始する。

 薄氷はクリスがその範囲を横に広げ、端が近接する建物の側面へ到達している。無力化し、この異常を解除させるべき敵――ニコラスが屋上に待ち構えている建物の、である。

 これで歪ではあれど、道ができた。

 天地逆転したこの空間。屋上など、そう簡単に到達できるフロアではない。だが面同士は陸続きなのだ。直角を二度挟むとはいえ、崖を攻めるような覚悟さえ決めたのなら、その道を辿るのも不可能ではない。


「……よし!」


 薄氷を移動し、建物の壁面へ。その位置に立ったユーリアが、足元を覗き込むように屋上までの道すじを見定める。

 そして、そのまま足場から身を投げた。

 飛び降りる。

 足から、そらへと躊躇わずに。

 ユーリアとて、壁や天井を走り回ることはできない。いかに見かけ上早く動こうとも、彼女の能力に巻き込まれる形で重力はそれに追いついてくる。建物の壁を駆け上がることも、駆け下りることも絶対に無理。

 屋上に向かうためには、落ちるしかなかった。

 当然、足場を経由する。壁の装飾、窓枠のヘリなど、足がかけられそうな突起を順々に。少しずつ、慎重で無理なく――それでいて超速で。ユーリアの自由落下速度もまた、彼女の運動速度の加速倍率に準拠してしまう。

 結果として、


「見つけた――」


 ユーリアが動きだしてから瞬き以下、一秒にも満たない現実経過時間の内に、彼女は屋上へと到達する。下で目視したとおり、移動せずその場に留まる敵の姿を確認できた。

 むろん、もはや足を乗せてくれない屋上そこへ乗り込んでいけるはずもない。

 ユーリアは今、屋上縁の手すりを掴んでいる。その片腕だけが彼女の体を支えており、足は胴体と共に真っすぐ上を向く状態で宙へと放り出されていた。

 わざわざ片腕でぶら下がっているのは、武器を握る方の手が必要だったから。

 普段使いのサバイバルナイフ――ではない。

 銃。

 ニコラスの視界に入ったユーリアを、彼が認識して反応に移すよりずっと早く、引金は迷わず引かれていた。 

 接近が困難なのは予想できた。そのための射撃武器である。不慣れであり、当然私物でさえない。どころか、この世のモノでさえない代物。

 ウィラーを拘束していた際、簡単なボディチェックがてらこっそり取り上げておいたもの。

 銃など衰退して久しいこの世界。自動拳銃など、『……何これ?』と気後れしてしまう程度には開発が先を行き過ぎている。

 見慣れもしない未知の武器。だが、形状からして誤解はない。既存型リボルバーなら、撃ち方くらいは知っているから。

 幸運にも、直感の操作で安全装置は外れていた。


「あアッ――!? ……お、うぅっ!」


 命中。

 その結果を見届けるより先に衝撃が襲う。発砲による当たり前の反動。思わず目を閉じ呼吸は止まり、宙吊りの体が吹き飛ばされかけるほどに揺されぶれていた。


「こっ――」


 これほどか。

 予測を超える手元の爆発に、次の行動にさえ遅れが生じる。痛みを訴える耳や肩が、暴発でもさせたのではないかと悪寒を走らせてくるほどだ。

 思えば未知の武器云々の前に、そもそもこの手の重火器にまともに触ったのはこれが初めて。 

 それでよく撃ちきれたものだ。弾を当てたのも、手すりを離さずに済んだのも、単純な運でしかなかったろう。


「……これを、止めなさいよ」


 騒ぐ心臓を抑えつつ、呼吸を落ち着けるようにユーリアが静かな言葉を放つ。

 意識外からの完全な不意打ちだ。

 片膝をついた敵に姿がそこにはある。当の本人はこの場の影響を受けていないのか、撃たれる前までは屋上の上に直立していた。上下逆転したユーリアとは対象的、両者の顔の先には互いの足がある形。

 出血は、思いのほか少ない。どこに当たったにせよ軽傷、だがその怯んだ姿からしてすぐに大きく動かれるとも思えない。

 片や、こちらは宙ぶらりだ。

 これを優位と言えるのか、ユーリア本人でさえも自信はない。

 それでも、有用な武器を突き付けている現実には違いなく、


「さもないと――」


 葛藤。

 必要だろうか、こんな駆け引き――。

 それほどの余裕は自分にない。クリスは現に死にかけた、その姿も未だこの目に焼き付いている。

 まして、手の内の底も見えない相手だ。何か――更なる一手を仕掛けられる前に仕留めるべきだと、頭のどこかでは答えが出ている。

 この場、身の安全だけを考えるのであれば。

 先を見越すのであれば、それは早まり過ぎた選択となる。

 降伏勧告、交渉――。

 それらは悠長な方の選択だ。許されるかどうか、目の前の男の気質に左右されている。

 はたして話は通じるのか、まともな頭は持っているのか、人間としての危険度は――


「……ん、うぅ」


 身じろぎ、軽く呻いた壮年の男。彼は負傷部を庇うように半身を引くと、ゆっくりと立ち上がり苦痛に歪む顔をこちらによこす。


「な、なるほど。早い、な……あぁ、ッ――」

「どうでもいいのよ!」


 零された無駄口に、余裕のないユーリアからの苛立ちがぶつかる。

 舐められている――癖ではあるが、一瞬でユーリアはそう受け取った。

 不味い。

 脅しが、脅しとして成立しなくなってしまうから。

 こちらは一挙手一投足を封じているつもりなのに、そのくらいの隙はあると高を括られている。敵の力、異常な能力の一切に伴う予兆の有無が分からないユーリアにとって、その認識の差は致命的である。

 撃つべきだ。威嚇としてもう一発くらい。

 だが、そうして再び狙いを定めた握る銃に、どうしても違和感を覚えてしまう。

 身体は空へ引かれていくのに、銃には通常通り地へと向かう重さがある。僅かだが強烈な不自然さ。本能に反する感覚が、どうしても頭を混乱させている。

 それなりの重量の片手武器。

 不安定すぎる体勢。

 錬度不足。

 どれだけしっかり握っているつもりでも、照準はぶれる。ふと、手を滑らせてさえしまいそう。

 否――。

 かなりの割合で、発砲による反動はこの手の銃を取り落させるだろう。

 二度も幸運が続く保証はどこにもない。

 ならば、思うよりずっと余裕はないのか。外しを考慮すれなら、問答無用で射殺しにいくのも最善ではなくなってしまい――


「侮っては、いなかった……が、楽では――」

「黙って!!」


 思わず遮り、続いて失敗だったと口元を噛む。

 何を焦っているのだ。感情的になる場面でもないのに――わざわざ反感を買って、それで意地になられでもしたならたまらないではないか。

 らしくない。

 こんな場面、もっと賢く振る舞えるはずなのに。駆け引きが不要なほどに、場を圧倒してしまわなければならなにのに。

 苛立たしい気持ちが自分に向く。要因は何だと思考を走らせ、そして心当たりへと思い当る。

 単純に、話しかけられるのが嫌だったのだ。独り言だったとしても聞いていたくなかった。

 この男、ニコラスとウィラーとの違いはすでに肌で感じ取っている。あちらはまだ――負けかけたとはいえ――ずっとやりやすかった。あっさりと降伏した、というのもそうだが、まったく異なる種類の差が二人にはある。

 恐怖。

 戦って勝てるという自信とは無関係に、この場の雰囲気に呑まれていたのだ。

 

「――――築」

 

 後のない位置関係。

 実質的な敗北であったウィラーとの一戦。

 頭が追いついていない状況、理解の外にいる敵と能力。

 それらすべての重圧を前に、気づかないうちに気圧されていた。

 認めたくないことに。

 

「――――算。指定変更、知性体から女へ」

「……ぇ?!」


 まず自覚したのは、腕に起こる異変である。右腕。敵に銃を突きつけ、まっすぐ前方へ伸ばしていた腕だ。

 それが、下がってしまう。重りでも吊るされたかのように、下げられてしまって上げられない。ぶら下がり上を向く足と同じく、腰のわきに揃えられてしまっている。

 単純に、上へ身体を引く力が強まっている。影響力が増しているのだ。

 より強い場の異常が、ユーリアの身体を強引に空の闇へ引きずりこもうと唸っている。


 ――つ、掴んでられない……っ!


 辛うじて、手すりは掴めている状態。

 左腕一本に身体を預けているのには変わらないが、先ほどまでとは危機の度合いが桁違いだ。

 ただぶら下がっているのとはわけが違う。天地逆転どころではない、普段の重力より遥かに優る力が自分を襲っているのだと実感する。

 まるで、濁流にでも流されかけているかのよう。

 肩は痛まない。無理をしている感覚もない。

 それなのに、手すりを握る指が剥がされてしまいそうなのが分かるのだ。

 

「っ、くそ……」


 つい、銃を取りこぼしてしまっていた。両腕で手すりを掴もうと、右腕を頭上に伸ばしかけたのが仇となって。銃はやはり地上へと、当たり前の重力の方に従い見上げる先へ吸い込まれていく。

 意識がそちらに逸れ、次いで気づいたのは悲鳴だった。

 甲高い、幼子の声。

 遅れて理解がやってくる。この異常の影響下にいる町の住民、彼らもまた、各々の状況が悪化しているのだと。 

 まさに体感しているからこそ分かる。

 屋内に居る者は皆――壁、天井。それらに押し付けられ身動きも取れない状態にある。

 その混乱、苦痛。

 ただでさえ大騒ぎに呑まれていたこの町が、よりその度合いを劇的なまでに引き上げられてしまったのだ。特に深刻なのは抵抗力のない子供、老人か。


 ――た、めらうんじゃ……なかったわ。


 ユーリアが持つこの世界の人間に対する感情は、無である。 

 他人間種ほかひとしゅぞく、異質な同族。それらの生存を許そうとしない者たちだ。ユーリアにとって、自分の家族や友人たちを迫害し僻地あのまちに閉じ込める敵でしかない。

 それは事実。

 だが、さして思うところは特にない。

 なぜならそれが、彼ら人間たちにとっての当たり前だからだ。

 駆除される虫の視点で人を糾弾するようなもの。そういう共通観念の社会が形成されてしまったのだから、その内に属する者たちをとやかく思うことに意味はない。

 疑問に思う機会さえないのだろう。事実として、そちら側で暮らしていた幼少期時代のユーリア自身がそうだったのだから。

 あの町、ラックブリックの内側を良くも悪くもの例外として――。

 この世界の人間なんてどうでもよかった。

 そういう生き物なのだと諦めている。


「なッ、何をしているのよ――分かってるの!?」


 それでも激情に駆られてしまう。

 力に耐えながら口を突いた言葉は、彼女本人にも泣き言のようにしか聞こえなかった。


「こんな、ことまでして……他なんて、どうでもいいってわけ?」

「……弁えろよ」


 問いに、反応が返ってくる。

 その態度に、一度見せたような恭しさは、その片鱗さえも残されてはいなかった。


「決まっているだろう、が……ああ、我らにとっては虚構で、仮想の世界よ。出鱈目で、気味の悪い――」

「……そう」

「貴様にとってもそうだろう。なぁ、歪な者しかいないのだろうが」


 意図したはずはないにせよ、それはユーリアの負い目を刺激する言葉だった。

 廉太郎を巻き込む勢力の手が自分の町に及ばぬように移動して、たどり着いたのがこのオーテロマだ。そこを戦場に選んだのは自分で、ある程度巻き添えにして利用しようとしたのもこの自分。

 どうでもいいと思っていたからだ。

 ならば、今この場で苦しむ人たちへの罪の一部がユーリアにもある。 

 どちらにせよ、選択を誤ったのだと悔やまざるを得ない。

 想定できなかったのだ。敵のすべてと、ここまでの影響が生じることを。

 心と、それから握力が負けそうになる。 

 それで顔を伏しかけた、――その瞬間だった。


「――死ね」


 背後に、人が降ってくる気配。

 幼くも頑な、意思のこもった声だった。聞き覚えのあるそれが、唐突に耳に飛び込んできて、


「お前、個人に恨みがないのが残念です」

「クリス?!」


 驚愕、精一杯首を回してなんとかその姿に目がとまった。どうして、どうやって――理解の追いつかない状況ながらも、瞬時にユーリアはそれに対応してみせた。 

 ユーリアと同じように、クリスの身体の上下は反転している。自力で上がってきたのではなく同じように、遅れて落とされてきたということだ。

 体についてこれず重力に引かれる衣服を片手で抑え、自在に足場を精製し降り立つ姿はいっそ優雅にさえ目に映る。冷静で、落ち着いた余裕を携えていた。

 だが、そこには殺気が煮え立っているのだ。

 その援軍は颯爽と現れるや否や、ユーリアと同じく目の前の敵へと出会い頭に一撃を叩きこんでいく。


「――ッ、ぁあァ!!」


 『銃口』。撃ちだされた数発の氷弾が、残らずニコラスの肉体を狙い穿つ。その体が繰り返し仰け反り、宙で回るようにして屋上の床へ転がされていく。

 計三発、貫通した穴から血が噴き出す。

 威力は先ほどの実銃と同程度。だが、さすがに精度は優っている。不意打ちでありながら、ほとんど場を決しかける確実な成果を生んでみせたのだ。

 だが、


「き、貴様……は」

 

 狙いが射殺であったなら、失敗だったと言えるだろう。

 敵はまだ生きており、動くことが可能で、意識が残ってしまっているのだから。


「クリス」

「はい――」


 すでに境地は以心伝心。極限の緊張の場面で、身を委ねてしまえるだけの信頼を互いに構築し終えている。

 クリスがこの場にいるのなら、必要になる足場など思うがまま。これ以上頼りになる援軍など、他に存在するはずもない。

 この場でクリスが着地に精製した足場。その薄氷の端が、再び範囲を広げていく。

 屋上の真上にもうワンフロア、浮いたタイルが生み出されたようなもの。

 手すりからユーリアの手が離され、彼女の両足がそこへと降り立つ。

 屋上と薄氷との空間は人の背丈ほどのもの。その上を走り近づいたなら、ニコラスの体へは十分近接武器の刃が届き得る。

 屋上上の床すれすれに頭を掠め、ユーリアの身体が疾走していく。

 決着までは一瞬も要らない。

 回避されようがない状況。動き始めた彼女に対応できるだけの素早さなど、そうそう存在するはずもない。

 王手をかけた、と――そう確信していた。 


「え……なぁっ!?」


 驚愕と同時に混乱、遅れて焦りが襲ってくる。今夜にして何度目か。自分の対応力には限界があったのだと、ユーリアは再び思い知らされることとなる。

 足場は、崩壊していた。

 クリスの薄氷を駆けていた足が、何度目か踏み込んだところで穴を抜いてしまう。魔力制御で固められているはずの薄氷が、本物さながらの脆さで砕け散ってしまったのだ。穴からヒビは一瞬で広がり、気づけばすでに足場ではない。ことごとく、ただ宙を漂うだけのがらくたと化してしまっていた。 同時に、天地の感覚が修正されたのを肌で感じる。

 上へ引かれる力は消滅し、当然のように体は下へ。

 宙から、屋上の床へと。

 体勢を崩したユーリアの体が、勢いづいたまま頭から前のめりで転がりそうになっている。

 思わぬ形でつまづいた瞬間に、ダメ押しのように襲った梯子外し。

 あまりのことに処理能力が追いつかず、それが致命的な隙を生むことになってしまった。


「この……」

「――チっ」


 その一瞬、空に浮いたユーリアの体は等速に引き戻されていたのだ。崩れる地と捻じ曲がる上下、身体運動のコントロールを仕損じていた。

 空中で移動できないのと同じく、途中から自由落下を早めるのも不可能。

 結果として生まれる隙、無防備な一瞬の滞空時間。

 そこを合わせられていた。


「う、ぐゥ――っ!」


 中断蹴り。

 落下する頭部を狙い打った、迎撃としては完璧な一撃。

 回避は不能。できるのは、両腕で急所を庇うことだけ。

 受け止めた腕の骨が、悲鳴を上げているのが分かる。

 ――重い、重すぎる。

 そこまで腰を入れる時間はなかったはず。

 直感で、足に重りか何かが仕込まれているのを理解する。反転した屋上に留まるための重量だ。自らもまた、初めからずっと影響の中にいたといったところ――か。

 

「――ああァ……っ!」


 横薙ぎに一撃をもらった体が、勢いづいて真横に飛び、手すりへと激突。二重の痛みを感じる暇もなく、錯覚のような浮遊感がユーリアを襲っていた。

 不運にも脆くなっていたのか、ぶら下がれていたのが嘘に思えるほどあっさりとそれは歪み、根元から接合が外れ飛んだ。 

 屋上空間からはじき出された形。 

 本来なら詰み。殺されたも同然。

 だが、今の彼女にはクリスが居て――。


「ッ……!?」


 投げ出された空中で、ユーリアは目を疑うものを見た。

 クリスが、そこで血を流している。

 体に、破片となった拳大の魔力塊を突き立てられながら。

 

「弁えろよ――ッ」


 肝まで凍り付いた意識の中、そんな戯言などもはや耳に届くはずもなかった。


「……想定外を俺に示すな。あぁ……詫びに頭でも割ってみろ、どうせ死ぬこともないのだろうが」









――――――――










『あっ……あァ――ッ!!? あのっ、馬鹿が……こらえ性のない!!』


 その一部始終を、いつからか上昇し始めた薄氷の足場の上で廉太郎は『ロゼ』と共に眺めていた。息を飲んで見守っていることしかできなかった。そこに上ずった声を上げられて、ただでさえ凍り付きかけた心臓がさらにぎょっとしてしまう。


『――助けろ』

「……えっ?!」

『死ぬぞ二人が!』

「だからっ――! 『どうやってだよ――』」


 『ロゼ』と廉太郎。二人共に焦りが高まり過ぎていて、意思疎通が円滑にならない。少なくとも『ロゼ』にしては珍しい。当然か。今まさに目の前で、親友と子供が死にかけようとしているのだ。

 

『……い、いいか?』


 僅かに落ち着きを取り戻し、『ロゼ』が話を進めていく。

 それは本来、致命的な悠長となるものであった。空中に投げ出されたユーリアとクリスはものの数秒で地にぶつかる。文句なく即死する高さ。

 会話など、間に挟んでられるはずがない。

 だが、


『ああなったユーリアはもう無力だ。クリスも、今は動けない……意識を飛ばされている』


 見れば、頭上の二人に変化はない。落ち始めている、その状況が続いているのだ。変化がない、何も起ころうとしていない。

 人知れず強制的に弄られた速度の思考、認識の中、時が制止しているかのような錯覚を覚えそうになる。

 分からないなりに状況を受け入れつつある廉太郎に、『ロゼ』は――


『……この足場は上昇している』

『あぁ』

 

 上に上がっていく前に、クリスは廉太郎へ気の利いた足場を残していた。初めに張っていた薄氷に、

穴を一つ開けていったのだ。

 仮に重力が正常に戻ったとき、上側へと移動して落下を免れられるように――と。

 クリスの予想どうりか、ほどなくして廉太郎は真下へと落ちかけ、予め握っていた穴の縁をよじ登る形で難を逃れることができていた。

 足場が上昇を始めたのは、そのすぐ後のことである。

 真上には、今にも墜落死しようとしている二人がいる。ちょうど、拾いに行けるような位置関係で。

 だが――


『それでも、この上昇速度で二人を受け止めるのは到底ムリだ』


 落下と上昇。正面衝突による致命傷は避けられない。


『じゃあどうする?! もったいぶるなよ、何かがあるなら――』

『殺すしかない』

『奴をか!? どうやって……根拠は??』

『おい、落ち着けよ。考える時間は作ってあげてるだろうが』


 言われて、初めて動転している自分に廉太郎は気づく。 

 動転していたから、今の自分がどういう手段で『ロゼ』と会話を重ねているのか、それを疑問に思うことさえなかったのだ。

 口も、喉も。動かしてはいないというのに。

 

『殺す――無力化すれば、この場の異常は消滅する。現時点では魔力体を対象とした一点集約現象だが――あぁっ!! ……つまり、足場の上昇が止まるということだ』


 やけに慌ただしく、そして確信的な口調で『ロゼ』は言った。

 何を、なぜ知っているのか――。

 そこに疑いを挟む余地はあっても、吟味していられる余裕はない。

 足場の上昇さえ止まれば、段階にもよるが受身さえ取ればユーリアが無傷でおり立てる位置。クリスは、廉太郎がどうにか受け止めてさえやればいい。

 問題は二つ。タイミングがシビアであることと、肝心のその手段である。


『それで、どうやってあいつを倒す? ……この俺が!』

『転がってるだろ、それを拾えよ』


 現れた『ロゼ』の姿ヴィジョンが指し示すもの。それは銃だった。

 今しがたユーリアの手から取り落され、足場の上に落ちて乗っかっていたものである。

 無我夢中で、言われた通りに廉太郎はそれを手に取る。 

 思考と違い、体の動きまでは『ロゼ』も弄ることができない。それは魔術の領域だ。銃を拾うために動いた分、現実時間が少しだけ経過する。

 さらに落下を深める二人と、高度を上げた廉太郎の足場。

 見える世界は、そこで再び制止する。

 

『拾った、ぞ……『ロゼ』?』


 緊急事態だ。おそらく、彼女には相当魂の内を弄られている。

 でなければこんな、人知を超えた――万能感すら覚えかねない超速の思考会話は行えていない。

 彼女に判断を仰ぎながら、廉太郎は標的をその目で見据えていた。

 ニコラス――屋上にいるその男の頭部が、僅かに上昇した足場からの角度でちょうど狙える。

 途端に、吐き気にも似た緊張が襲ってくる。余計な気を紛らわすべく、廉太郎は手の中の獲物を吟味していた。

 やけに先鋭化した銃だった。以前から扱っていた回転式ではありえない利便性、存在感が伝わってくるようだった。

 扱い方が分からない。

 当てる自信も、ほとんどなかった。


『安全装置はかけて撃てよ。染光に弾は要らないからな』

『えっ……でも、クリスは――』

『あぁ、意識はない』


 射撃魔術、染光の術者であるクリスが倒れている今、補助にしか回れない廉太郎一人にできることなど、あるはずもなく――。


『――でも、寝ていようが意識不明だろうが、生きている限り魂は常に稼働しているわけだからね……今この瞬間も、私とあの子のコンタクトは十分だ』


 『ロゼ』は廉太郎の魂の内にあり、クリスという人形の器は廉太郎の魂に依存している。廉太郎を介して、二人は常に繋がれる。もっともその主導権を握る『ロゼ』によって、普段はかなり強固な蓋が置かれているようではあった。彼女が自己の存在を明るみにしてから、クリスが廉太郎の思考を受け取ることさえ困難になっているくらいには。


『そ、それならッ……』

『視覚情報は送っている。後はあの子に任せて、君は引金を引くだけだ』


 迷いはなかった。それが廉太郎にはありがたかった。

 動きだした身体が最小の動きで銃を構え、照準を屋上へと向ける。

 撃鉄付近の安全装置をロックして、動かない引金に指をかけた。

 染光は当たる。何回かの経験を経て学んでいる。この引金も、銃口も、クリスのために必要なスイッチに過ぎないのだから。

 魂にダメージを与える一撃だ。頭部だろうと、簡単に即死することもない。

 一発の状況整理に必要な出力は、クリスが調整してくれるはずだ。

 心は恐ろしいほどに無感情。それが『ロゼ』の介入、補助であるのは承知している。


 廉太郎は引金を押した。


「……うぐぁ――アッッ!!?」


 瞬間、目が焼けた。 

 と――そう錯乱するほどの衝撃が、銃口の先から突如生まれたのだ。

 染光に本来反動はない。銃など意識のための補助機、演奏でいう指揮棒タクトの役割に過ぎない。

 だが今、その一瞬で、廉太郎の体は後方に倒され背中を足場へと打ち付けている。

 音、風圧、熱。

 染光ではない。知らない何かが放たれた。あるいは、暴発したのだと廉太郎は思った。

 しかし、事実はどれとも異なる。


「――廉太郎!?」


 聞こえた声にはっとする。

 落下するユーリアの声だった。そして気づけば、足場の上昇は無事に止まっている様子。

 それ以上考えるより先に身体を動かし、何とか意識のないクリスの真下へと移動、怪我をさせないようにそれを無事に受け止める。

 直後に、ユーリアが危なげなく着地を決めていた。

 やったのか――結果を信じきれなくて、確かめるように廉太郎は今しがた銃撃した屋上の方へと目を向け、


「――あ、あれは……今のは……?」

 

 呆然とした呟きが零れる。

 その角度から目にできる屋上の大部分が、黒く炭化している。その範囲、明らかに放たれたのが意図したものではないのが見て取れてしまった。

 染光は、まさに銃口から放たれた光線のような、一筋の直線であったはずなのに。それがあれでは、爆撃したようにしか見えてこない。


『こ、こっちにも居たか……こらえ性のない奴が……っ』


 独り何事かを呻く『ロゼ』が、無事を祝ってくれるより先に廉太郎の抱えるクリスへと神妙な顔を向けている。

 つられて、廉太郎もクリスの様子を確認する。

 意識はなく出血こそ派手にしているものの、深刻な傷は負わされていない。胴体などの急所は辛うじてだが避けられているようだった。

 それでようやくほっとする――というのも、酷い感覚の麻痺。このくらいの歳の子供など、鼻血や擦り傷であろうとも周りをおろおろさせるくらいが当然だろうに。


『やってくれたな、取り返しが……! これまではさぁ、意識してくれてたのになぁ――』

「……えっと」


 彼女の都合でぼやき続ける『ロゼ』を認識できないユーリアは、当然ながらもそれに構うことなく廉太郎に近づき、疲れた表情で顔を寄せ、


「今の何……?」

「――あ、後でクリスに聞いてみようか」


 話はしていたのものの、ユーリアの目の前で『染光』を使ったことはなかった。その上で今の光景、過少報告もいいところだと誤解を与えてしまいそう。

 『ロゼ』の存在を秘密にしているせいで、クリスが起きた後でもしてあげられる説明には嘘が混じってぎこちなくなるだろう。そう思うと気が重くなった。

 言われずと分かる。

 今のユーリアは気落ちしている。それも相当だ、プライドが許さないのだろう。

 助けられたことではなく、助けられなかったことが。


「……廉太郎」

「あ、あぁ……うん。良かった、無事で――」

 

 彼女は無理に笑みを浮かべながら、「話は全部後にするわよ」と一言断り手短にこの後の行動を廉太郎へと指し示していく。


「セーフハウスは分かるわね? 鍵を渡すから、そこでクリスの治療をお願い」 

「もちろん。あぁ、でも……君は?」

「ひとまず現場に戻って、あいつの生死を確認してくる。その後、すぐにここを逃げるわよ」

「逃げる……あぁ。また、仲間が来るかも知れないのか――」


 いつ終わるのだ。

 こんな被害を生んでまで逃亡する価値が、自分一人にあるわけがないのに。

 そううんざりと気が滅入りかけた廉太郎に、ユーリアは「いいえ」と安心させる声で首を振り、


「敵から、というよりこの町からね」

「……あぁ、確かに。この後大騒ぎになるんだろうな――俺のせいで」


 後ろめたくて目を逸らした。

 そんな廉太郎に、「いいえ」とまた彼女が声をかける。


「落ち度なら、あなたより私の方がずっとあるわ」


 同じ言葉でも、受ける印象のまったく異なる言葉だった。


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