第三十三話 自由落上
何者だ――。
声は頭上からのものだった。直感的に、廉太郎とユーリアの目はその位置を探ろうと彼らの真上を追っていく。
屋上。
長く開けた通りの両側に立ち並ぶ建物群、その片側の一件。五階ほどの高さの屋上に、一人佇む見知らぬ男の姿が見て取れる。
声など、張り上げられなければ届きようのない距離だった。にも関わず、二人が確かに聞いたのは、静かに横やりを入れてきた男の声。
黒く、厚手のコートを羽織った男だった。顔つきも、時間帯と位置関係のせいで窺えない。それでも男の印象が、無条件にそれを見上げる二人へと押し付けられてくるのだった。
不気味なほど落ち着いた佇まい。一目でただならぬものだと教えられた。
圧を感じたわけではない。ただ異様さがそこにあるだけ。
ウィラーを抑えたことで芽生えかけた安心感、その一切は僅かな時間で二人の中から掻き消えてしまっていた。
動けずにいる廉太郎だったが、ふと頭の中に声が響き、
『あ、あいつまで――』
「……知っているのか?」
唐突な『ロゼ』の反応に内心で驚きつつ、廉太郎は不安混じりの問いを投げてみる。返答は、半ば予想した通り返ってこない。それきり、『ロゼ』はそれまで通りに何も言おうとしなくなった。
今夜の一件――思えばより以前から、ウィラーに絡まれるようになってからというもの、『ロゼ』は静観する姿勢を崩そうとしない。クリスよりも事情に精通していながら、それを語らない。助言さえも言い渋っている。ただし、手助け自体はしたがっている。そういう本心を、彼女はちらつかせ続けている。
そんな『ロゼ』が、思わず素を垣間見せ口を滑らせてしまったのだ。
それほどが動揺せざるを得ない。そういう存在、そういう相手。彼女は明らかに男の『何か』を知っている。
「仲間ね?」
廉太郎たちの事情など知らず、ユーリアは捉えた手中のウィラーに問いかけていた。
返されたのは無言の反応。駆け引きを早々に諦めたユーリアは、頭上の男へ見せつけるように手元のナイフの刃を晒す。
――余計な真似をすれば、仲間の無事は保証できない。
路上で人に刃を押し付けている手前、人目を引くのは都合が悪い。声を張り上げ警告するような真似はできなかった。
得体の知れない不可解な状況を、訳もわからぬまま脱した直後。いくら彼女でも、またも直面した不穏さを前にすれば、こう慎重になるのも無理はない。
そんなユーリアを余所に、屋上の男はそこで何かを作業していた。あらかじめ用意していたと思しき何らかの物体――直立する棒状の集まりのようなものを、屋上のへりに設置しているようである。
警戒させられないはずもない。
自分と、それから気絶させられたままのクリスの身を守るように、クリスを背負った廉太郎が離れていたユーリアの傍へと近づいていく。
すると。
「『驚いたな』」
「……ユーリア?」
空を睨んでいたかと思えば、彼女は唐突に脈絡のない言葉を呟いて、
「『そうか……今の原因は彼女では……』。情報共有でもしているの?」
「痛っ――」
ウィラーが呻き、びくりとその身をすくませる。
妙な真似だと疑われたのだ。彼の背に当てられていたナイフの刃が、脅しではないことを冷たく鋭く主張し始めている。
密接する二人の足元に、数滴の赤い雫が落ちた。
疑似眼球の感覚器官としての性能は、人間以上にまで調整可能。常に倍率可変の双眼鏡を構えられるようなもの。この程度の距離であれば、読唇術めいた真似などユーリアにとっては容易いというもの。
「反抗できる立場じゃないでしょ。余裕ないのよ。次は――」
「わ、分かっ……敵わねぇなあ」
看破されたとあっては続けられるはずもなく、あっさり白状したウィラーは露骨に焦った様子を見せ始める。
現状で推測できる彼の異様な能力をもってすれば、離れた地点に居る仲間の元へ密かに分身体を送ることも可能なはずではある。秘匿性は高いが、命を握られている状況で易々《やすやす》と取れられていい行動ではない。
舐められている。そう受け取られかねない態度をウィラーは誤魔化すかのように、
「だけどついでだ、あの人と話させてやるよ――」
この場の本体と分身体、視聴覚や思考を共有できるのか。
一度背中越しの目線でユーリアに許可を求めると、ウィラーは宣言通り屋上の男の言葉を、中継役として代弁しだして、
「お初にお目にかかります、希少なる『舞台』の姫君殿」
「はぁ――!?」
馬鹿にされているのかと、彼女は呆気に取られかけていた。不可解、苛立ちからその表情が僅かに強張っている。
それを知ってか知らずか、ウィラー越しの男は構うことなく話を続け、
「私はニコラス・オストロム。学団を代表し御身に御挨拶申し上げる」
「……それはどうも」
「本来であれば許される身分にない我々ではありますが、此度は許可を得ておりますゆえ」
一度、ユーリアはすべて聞き流してしまおうとしたのだろう。
どうにも話が噛み合わない。こちらの得ていない情報の中だけで、関わりのない事情の中だけで、その男――ニコラスの話は進んでいく。
しかし、その妄言とも呼ぶべき口ぶりの断片に、耳障りの悪い単語が含まれているのだ。
彼女自身も無意識の内に、体が緊張をほぐそうと佇まいを正している。
「ゆえにどうか、御友人を引渡してもらいたい。御身の精神に傷を付けかねないような、無用な不幸を避けたいのです」
許可。
でたらめにせよ気分が悪い。自分に関する対応に、そんなものを勝手に出している者が居るなどと。
話が見えず、得体が知れない。そんな不快感を噛み締めるユーリアは、しばし沈黙の後「そう」と一言断って、
「どこかの何者かさんと取り違えているようだけれど……少なくとも、私のことなんて何一つ知らないのでしょうね」
「やれやれ、誓って善意でありますのに。――って」
途中でウィラーの口調が変わり、背中越しに目配せを送るように首を傾け、
「よお、俺の聞いてた話とちょっと違ぇんだが」
割って入られた形の無駄口を「黙って」とユーリアは冷たく制す。
彼女自身にも、会話を聞いた限りの廉太郎にも、屋上の男と話が通じるとは思えなかった。
得体の知れない相手。何を口にしようとも衝突するのは避けられない。どうせやり合うことになるのだ。何より、現時点で明らかな先手を打たれてしまっている。
「そんなことより、何なのよアレは」
ウィラーの髪を後ろから引き、その目を頭上に向けさせるユーリア。その先にあるのは町の上空、その一帯に現れている謎の闇。
真上である。立体感と位置関係は共に掴みにくい。
地上数十メートル、少なくとも町すべての建物より高い地点にそれはある。黒い影、巨大な絨毯の
ような異様なもの。
ただの空間異常ではなかった。
ユーリアの疑似眼球をもってしても、その場に影響を及ぼしているような魔力の流れを確認することができていない。
「出口だ」
と、ウィラーの返答は一言だった。
「キミらにとっては入口だな」
「……どこへの?」
「楽しいと思うぜ」
怪訝に思う暇はなかった。
まず感じたのは不安。出どころの分からない頼りなさ。
その正体はすぐさまユーリアの知ることとなる。警戒態勢を取っていた彼女の思考、認識速度はすでに速い。
不安感ではなく、浮遊感。
地を踏む彼女の足先が、浮き上がりかけようとしていたのだ。
――――
――こ、これは……ッ?!
異常発生から瞬き程度の時間経過。
加速した彼女の主観の中で、現実の時を制止させたかのように認識している。足――正確には靴。接地面はすでに無くなりかけ、指が入りそうなほどの隙間が空いてしまっている。
敵の――ニコラスの干渉だとその場でユーリアは確信した。ウィラーがそうだったように、この世の理解が及ばない枠外の能力をぶつけられているのだと。
すでに足を伸ばそうとしても接地しない。僅かとはいえ、浮きかけとはいえ、半ば空中にいるようなもの。取れる身動きなど、ほとんど残されていなかった。
いくら彼女が早く動けようと、空中においてはすべての身体運動が無意味となる。
この事象、途中で中断されようはずもない。すでに地面と足底の距離は拳大にまで引き離されている。
詰まされている――。
まただ――。
そんな不安を振り払うように、ユーリアは周囲を観察しようと目を走らせる。状況を把握しないことには落ち着くことさえできはしない。
――ウィラーも、廉太郎とクリスも私と同じ……上に引っ張られている。上、あの黒いモノが……。
『出口』。否が応にも、その発言が事実なのだと理解させられてしまう。
学団の目的は廉太郎の確保。ならばこれは、強制的に奴らの元へと引きずりこもうとする攻撃だ。
自身の体に、介入されているような感覚はない。体感重力にさえ異常はない。上昇してはいるものの、吸引力のような力が働いているわけではないようだ。
ゆえに気持ちが悪い。まるで体から抜け出て浮遊する精神に、肉体が付いてきてしまっているかのよう。
ふと。
目の端に信じがたく、そして当然の光景が飛び込んでくる。
この場の争いに関係のない、部外者であるこの町の住人。たまたま同じ路上を同じ夜にふらついていただけの通行人。
その男もまた、ユーリアたちと同じようにこの場の異常に巻き込まれていたのだ。
彼らもまた、浮き上がりかけている。
穴に落ちかけた人間がそうであるように、まだ反応できているような顔ではなかった。当たり前だ。身構えていたユーリアでさえ対処に遅れたほどなのだ。
あぁ、嘘――。
現実問題、もう抵抗など間に合わない。走ることさえできないのだから、逃れる術など存在するわけがない。
自分の能力が、驕って当然なほどに完成されていたはずの魔術が――完封されている。
もはや無縁だとばかり思っていた、そんな無力感が切ないほどに胸に湧いた。
「……ちくしょう」
おかしい、あり得ない。
あまりの歯がゆさに癇癪を起こしそうにもなってしまう。
相性が悪い、悪すぎると言ってもいい。
そんな相手とぶつかるなんてことが。それもウィラーとの一戦の後、立て続けに――だ。
次第にじわじわと、一つの確信が湧いてくる。
ウィラーとニコラス、彼ら二人には勝算があったに違いない。私を知ってるに違いない、と。
それ以外で説明がつけられてたまるものか。
私を。
――知っている?
挨拶。許可。大仰な敬称。
まさかそれら、人違い、勘違いではなかったとでも――。
万が一にもそうだとして、ならば誰から許可など得たのだ。どんな理由で、どんな立場で。
しかし、そんな己を管理しているかのような存在など居るはずがない。たった一人の心当たりを除いては。
「えっ……う、おぁ――!!」
「……ぐっ」
思考の外で驚愕する廉太郎の声を耳に捉え、強制的にユーリアの意識が現実の方へと引き戻されていく。
周囲に目にできる人間、みな地を足が離れ子供の背丈ほどにまで上昇している。
そんな廉太郎の反応からも、上昇速度の予測が立つ。加速度は未知数だが、少なくとも自由落下以下ということはないのだろう。
聴覚を強化し、周囲から音をかき集める。
廉太郎に次いで反応した者、慌てる者の声や物音が、あちらこちらから聞こえてくる。その総量からして、周囲一帯の民家、建物の中にまでこの現象の効果は及んでいるに違いない。
無差別の範囲攻撃である。
完全に三人を狙い撃っていたウィラーと違い、部外者の配慮などお構いなし。騒ぎになることさえ、気にも留めていないのだ。
「そうビビんなって。俺たちの場所に招くだけだ」
現実の時間経過を無視して、ユーリアの頭に叩きこまれたウィラーの声。
またも分身体を他者の意識の中へと送り込み、彼女の体感世界で紡いで残した言葉である。むろん、彼の能力の詳細など知らないユーリアにとっては、更なる混乱要素でしかなく、
「……チッ」
落ち着け、この男もまた例の闇へと引かれているのだから――。
廉太郎にも用がある以上、あれに呑まれて即死という事態にはならないはず。
だが、
「れ、廉太郎――!」
絶対という保証はなにもない。このまま放たれた風船のように無抵抗でいるなどと、あまりに愚策ではないか。
できる抵抗なら、まだあったから。
「クリスを――」
声を届かせるのがもどかしい。加速した動きでは声も人の認識領域を振り切ってしまう。
自由落下の最中において普通に話しかけているのだ。当然、伝えきるころにはかなりの高所へ上がってしまうことになる。
それでも間に合うという判断だった。
だが。
――起こすな!!
同時に、ユーリアには知り得ない領域で異なる忠告が廉太郎へと向けられていた。
それはユーリアの意図する指示と、正反対に位置するものであった。
――――
「起こして!」
『起こすな!!』
ユーリアと『ロゼ』。友人として信頼の置ける二人から相反する指示を受けた廉太郎は、ただでさえ状況が呑み込めていない中で更に混乱が加速してしまうのだった。
『駄目だ……殺されるぞ』
ユーリアの肉声より、頭に浮かぶ『ロゼ』の虚声の方が伝達されるのがずっと早い。そのせいか、後出しされた忠告のような制止の方へとっさの心は傾いてしまう。
「魔力で! 足場を作ってもらうのよ――」
『いいか、君はまず殺されない。ユーリアは……自力でどうにかできるはずだ。だけど、クリスはそうならない』
学団、彼らにとっては興味のないモノ。邪魔となれば真っ先に躊躇うことなく排除される。
そういう状況なのだと、言外に『ロゼ』は言っていた。下手な抵抗は自分たちの首を、そして誰よりもまずクリスの首だけを絞めることになるのだと。
大人しく、彼らに従うしかないのだと。
二人の意見、どちらも間違っているとは言えないものである。
とても咄嗟には決められないというのに、与えられた猶予など微塵もない。
ただでさえ覚束ない体の感覚が、頼りなく、文字通りに浮遊していくようだった。
だから気が抜けた、という訳ではない。
錯覚してしまったのだ。
自分たちは皆――浮遊している状態なのだ、と。
「なっ、何――!」
落としていた。
上着の懐からは硬貨を。ポケットからは差していたペンを。
そして、腕で抱えていたはずの、意識のないクリスを。
「そ、そんな馬鹿なっ……しま――」
物のように落ちていくクリスの姿を見て思い知る。
これは単なる重力の反転などではない。特定の物体――人間の身体だけを引き上げている非現実的な現象なのだと。
服や靴に重さを感じているように。所持品だけが当たり前に地表へ落ちていったように。
見れば、路上には今なお元通りにあらゆる物体が散らばったままだ。転がる瓶、踏みつけられた新聞、立て看板、撒かれた水だまり――。
だが、なぜ。
クリスだけが影響を受けないのだ。
まさか人形、クローンだからだとでも――?
こんな現象のようなものにまで、人として、生物として判定してもらえないというのか。あの子供は。
「く、クリ――ス!!」
声を張っても起きなかった。
落下の高さはさほどでもない。足から落ちれても最悪痛めるだけで済む。
だが、今のクリスの体制は最悪だった。頭から、それも受け身など少しも取れない状況で。
肝が冷え、生きた心地が消えかける。
そんな刹那。
不意に、顔の傍を高速の物体が横切っていった。
「――!」
視認できない。それほどの速度。拳ほどの大きさの物体は、頭上から真下へと空中に描かれる直線と化す。
狙い撃ったように、クリスの頭部へとそれは当たる。
しかし。
――え?
傍目に見ても、それで怪我をしたようには思えなかった。
弾道からして即死は免れないはず。実際、廉太郎は『ロゼ』の忠告が現実になったのかと恐怖した。
だが、そんな砲撃並みの一撃を叩きこまれたにも関わず、衝突による破壊がない。
どころか、まるで嘘のようにぴたりと『物体』の動きが制止する。それで、『物体』の正体とともに状況を理解できてしまう。
飛んできたのは――投げられてきたのは、ユーリアの私物である財布だった。
かつて彼女との試合の最中目にしたのと同じ、彼女の魔術運動に巻き込まれたかたちでの物理運動。見かけ上の早さに破壊力は伴わず、結果として離れた距離から瞬時に頭部への気つけに成功してみせたのだ。
確実に起きるという保証はない。かなり乱暴な賭けではある。
だが、大声などよりは遥かに可能性のある一手で――
「……んッ!?」
幸運にもクリスの目が薄く開き、すぐさまそれが見開かれる。
瞬時に高速で思考を巡らせて、状況把握と正確な判断行動を終了させる。
魔力現出。自身の周囲に粘性のある水体として魔力を配置、落下の勢いを緩やかに殺すとともに頭を下にした体制を修正する。
直後、廉太郎の身体が上昇を止める。身体が固いものへとぶつかっていた。クリスが薄い膜状に形成した魔力氷が、天井の足場となって天への落下を遮ったのだ。
ユーリアも同様、同じ高さで氷の薄氷に助けられたかたちである。お互いの目線で、何よりもまずクリスの無事を安堵し合っていた。
魔力に形を与えて物質化し操る水体操作、その射程範囲ぎりぎりでの救出劇。上昇と落下で二人とクリスの間には距離がある。重力――もとい体感する天地が反転しているため、合流するのは困難だった。
「ユーリア……」
「ほ、褒めてもいいのよ。ほらやっぱり、私って本当は凄いんじゃない……ねぇ?」
「え、うん。確かだけれども――」
台詞とは裏腹に、珍しく気弱な表情を見せる彼女ではあったものの、廉太郎はそれを尻目に周囲を見渡していた。
自分たち以外の、一般の人間の安否が気になってしまったのだ。
しかし魔力操作に長けているわけでもない一般人が、日常の中予想だにしない異常に対応できるはずもない。足場としては下となった空へと薄氷越しに目をやると、案の定、闇へと呑まれる人の姿がそこにあった。
「……っ」
思わずそこから目を逸らす。一人二人、などと断言することはとてもできない。
彼らの不幸は自分のせいだ。廉太郎自身も被害者とはいえ、予想を超えた被害とはいえ、この町を巻き込んだのは間違いがない。
幸いにして、外をうろついていた全員がどこかへ消えてしまったわけではなかった。自分たちのように、自力で空間に固定した魔力の足場を精製している者もいる。
とはいえ、何の慰めにもなりはしない。
ふつふつと怒りが湧いてくる。それは八つ当たりのようだとも、正当な感情であるとも言える憤りであった。今さらながらの当たり前に、無意識に抑制していたこれまでの積み重ねも追いついてくる。
そもそもが、訳の分からない集団に目をつけられたこと。世話になり続けた町を盾に脅しをかけてきたこと。クリスを巻き込んでいるのは自分自身だが、結果としてそれを死なせかけたこと。
それらすべての不条理に、腹が立ってしかたない。
彼ら学団は『故郷』を滅ぼした神を憎むと大言していたが、そんな見もしない大仰な存在より遥かにずっと、廉太郎の中での明確な憎悪対象は『学団』そのものになりつつあった。
だからこそ、その背を見逃さなかったのだ。
「逃げるぞ!」
「させるか――」
ユーリアより先に気づいたのは、二人と同じく薄氷に上昇を遮られていたウィラーのことである。彼にしてみればこれは不都合。すでに戦意を喪失しているのか。帰還から一転、捕らわれの状況に逆戻りしたウィラーの取った行動は逃走だった。
空中の薄氷、天地逆転したその足場を逆さに走り、足場の途切れた地点まで逃れようとしているのだ。
足場さえあるのなら、ユーリアが遅れをとるはずもない。
一瞬で追いつき、警告なしの攻撃を食らわせていた。足への一撃。殺さず、だが確実に逃走手段を奪おうと。
しかし――。
「……残念、俺は偽物だ」
そう笑顔で言い残すと、転倒しかけたウィラーの姿は消滅する。
いつの間にか生み出した分身と入れ替わっていたのか、本体にはその隙に乗じて忽然と姿をくらまされてしまっていた。
だが、最悪ではない。
態勢を整え、屋上の男と共闘されようものなら目も当てられない状況だが、どうにもそういう雰囲気ではなかった。ウィラーはすでに逃走した、あの闇へと素直に身を投げたのだ。そういう確信が不思議とある。
奇妙なことに、学団はともかくとして、彼のことを廉太郎は嫌えないでいる。結局のところ、まだ彼からは実害の一つも受けていないからかもしれない。
そんな廉太郎はともかくとして、
「わ、私を虚仮にして……二度も三度も――」
納得できないのはユーリアである。
取り逃がした失敗に責任を――むしろ憤りを募らせているようだった。無理もない。プロの魔術師としての誇りを持つ彼女が、これまでずっといいように振り回されているのだ。ウィラーに対しても、その実、打ち倒したなんて実感も持てていないに違いない。
「――クリス!」
「えぇ!」
息の合った掛け合いと共に、言葉のいらない連携がその場に生まれることとなる。
クリスの精製する薄氷の足場が形を変える。中心から徐々に凍っていく湖のように、薄氷がその範囲を広げようとしいた。
地表と水平に創られる足場が、路地の左右の建物の中ほどに橋をかけたような形となる。
屋上の男、ニコラスが構える建物へと、薄氷の端が届いたのだ。
その瞬間、足場はただの足場ではなくなる。
空中に放り出され無力されたはずのユーリアを、敵の元へとたどり着かせてくれる道の一部となったのだ。