第三十二話 世に沸いた闇
神という概念を置くとする。
単純な話ではない。何を指してそう呼ぶつもりなのか、そもそもの根幹に関わってくる。あらゆる宗教や哲学の中で、人々は神、あるいはそれに近しい上位存在をそれぞれの形で定義している。
世界の成り立ち、構造を納得するために。
だが大前提として、それらは到底人の身で知り得るような領域ではなかったのだ。
信仰や信念でいくら己の思想を固めようとも、客観的な事実としてそれらを証明する術など一つもない。
信じてはいても、不確かではある。
――実在するのか否か。
――実在するとして、どういう形であるというのか。
――理解の及ばぬ超存在か、人に似た精神性による思考を行う者なのか。
――創造主なのか。
――この世は管理されるものなのか、だとしてどれほどの干渉がなされ得るものなのか。
何も分からない、知るための術が存在しない。
それは科学がどれだけ成熟しようとも、人の知能がどれほど発達しようとも変わらない。所詮は形而上の学問、妄想の域を出ることは決してない。
死後の先には何かがあるのか、その類いの問い。答えが用意されているかどうかさえ確かめようがないもの。
どれだけ疑問に思い、不安や恐怖を覚えようとも一生の内には逃れられない。
それが、人類にとっての当たり前だった。
以前までは、の話である。
なにせ『彼ら』は知ってしまった、その身をもった体験として。
死後の続きがあり得るという事実を。
他にも、あらゆる知見を広めることとなる。
複数の世界。肉体の死とは無関係に保持される魂、そこから生み出される魔力――等。
すべて、本来の『故郷』の人類には触れることさえできなかったはずの領域。滅びたことで皮肉にも生じた絶対的なパラダイムシフト。
他の一世界に滅ぼされ、宇宙と共に死を迎え、別の他である『舞台』への攻撃に駆り出された。その過程を経て、既存の常識、理論、価値観は別物へと塗り替えられてしまっている。
生前では不確かで、形などないと見なされていた領域も――。
その実、追及の限度がなかったのだと。
ならば神も居るのだろう。唾も吐ける、仇も取れよう。
もはや妄言ではなくなった。妄言とは思えなくなってしまうところに、彼らは触れてしまった。
ゆえに、学団。
故世界で身に着けた常識と理論のアップデートを図る組織。
憎悪の入り混じる歪んだ知識欲に取りつかれた、学び直す者たちの集いである。
――――
「馬鹿げた力だわ」
いっそ笑えてくるほどに。
現実感が希薄になっていくようで、脅威に思うよりも気味の悪さが優っていく。
詰み、お手上げ。
そんな現状にありながら、未だユーリアは打つべき手を逃すまいと注意を周囲へ光らせていた。
「容姿によほどの自信があるようね」
「は――」
「気がおかしくなるわよ、こんな数。自分の面でも他人の面でも……」
周囲を埋め尽くすように取り囲むのは無数のウィラー、それも三人にしか視認できず触れられもしない幻想の分身体。抵抗できる戦力差ではなく、また抵抗しようものなら逆に自分たちの首を絞めかねない。強化されている警備を、逆に利用されてしまっている。
虚勢でそれらを見渡し、辛うじて分析を試みるユーリア。
この能力、単純な幻を見せるものではない。実体がある――ように錯覚させられてしまっている。既知の術でいえば妖精のものに近いが、やはり毛色が違い過ぎる。出力量も系統もあり得ないモノ。
この世にない、彼らの『故郷』に由来するものなのか。
「遠慮するな。もっと驚いてくれていい」
「無理よ、斜め上過ぎ。……どういう絡繰りになってんの、これ?」
苦し紛れにも似た強がり、詮索。
それらは微笑ましいとばかりにウィラーに軽くあしらわれ、
「神」
「はぁ?」
「そいつから奪って……掠めとっている力さ」
敵、神。一世界そのものを意図した発言。
廉太郎と同じく、クリスからの情報共有を終えているユーリアはしばし固まった頭を働かせ、
「神。――あぁ、私たち共通のってやつ?」
「ま、だなぁ」
「……それはまた、仰々《ぎょうぎょう》しいこと」
予想に収まるべくもないスケール、理解の及ばない枠組みに触れている、その実感がある。
さすがに、ユーリアの顔も強張りを見せ始めていた。
神。
廉太郎たちの『故郷』とも、この世『舞台』とも異なる第三の世界。『故郷』を滅ぼし次いで今なお『舞台』を攻め立て続ける共通の敵。三頭目のクジラ。存在、意思。あるいは現象、システムか。
「廉太郎」
「あ、あぁ」
ユーリアの問いからの文脈を引き継いでいるのかいないのか、ウィラーの話は脱線する。
為す術なく背中合わせに縮こまる三人に向け、彼は講釈を垂れだすように、
「俺たちはその神、敵の捕虜で道具だった。見えない鎖で繋がれて、思想も言動も縛られてるみてぇに」
それが侵色者。『故郷』と共に滅びた知性体、一惑星の一人類。それを、侵攻に用いる駒として何らかの作用が魂を抽出し精製してみせたもの。仮想の復活者。
捕虜兵。
差し向けられた先は、やはり彼らの故郷と酷似した一惑星。
枠組みの大きさに比べて、その話のスケールは非情に小さい。
ものの考え、発想が、人による戦争のレベルに留まってしまっている。人を、それもわざわざ死人を使うか。たかだか人類に、宇宙規模の何某かが期待する役割があるというのか。
いずれにせよ、どこかが俗。情報さえ集まればいっそ理解さえできてしまいそう。
間違い、はずみ。ちょっとしたきっかけで、そこに手が届いてしまいそうな感が、確かにある。
「影響薄いみたいだし、実感ないんだろうがよ。キミの方は今でも繋がれたままなんだよ」
「……蒸し返す話じゃない。今のところ、それで困ったこともない」
己の自我を信じるとして。
自身の性格や気質、思想に至るまで、生前と変わったところがあるとは廉太郎は思わない。ほんの少したりとも。生前との連続性を確信している以上、自覚がないだけという線はあり得ない。
自らを縛るモノ。第三者、神。何モノの存在をも、感じ取れたことはこれまでなかった。
「おいおい、でも気持ちわりぃだろ?!」
「……ま、まぁそれは確かに」
「俺たち学団の面子は、それを断ち切ってやるとこから始まるんだ。だから――」
悪い話じゃないだろう。
そう続けようとしたウィラーを遮るように「ちょっと」とユーリアが断りを入れ、
「無視しないで」
「あ?」
「質問に答えてもらってないわ」
「……あぁー」と、とぼけたウィラーが思い出し、「これはまぁ、その断ち切った繋がりってやつをあえて再接続してんのさ。一時的に」
「…………」
「で、いいようにリソースだけ抜かせてもらって使ってんの」
だから、このくらいのことはできてしまう。神、一つの世界そのもの。一宇宙が内包するエネルギーが、極々一部とはいえ個人の魂に無尽蔵に引き出されようとしているのだから。
逆に言えば、この程度のことしかできていない――とも言えてしまう。
魔術を扱うには適した魂を有する必要があるように、無尽蔵の外世界エネルギーをもってしても引き起こせる現象には限りがある。良くも悪くも、個人の魂の質に何もかもが左右される。
ゆえに。
侵色者、外界の神との繋がりを持つ者どもには、それぞれ固有の異常現象を発生させ得る可能性が秘められることになる。
その異能のすべて、この世そのものの質を歪めるもの。元来より与えられし天命、この世を蝕む毒としての役割に帰結する。
「――なるほど」
「分かったか?」
「考えても無駄、ということはね」
短いやり取りを早々に投げ出し、ユーリアは苦い顔で被りを振る。この世の枠組みにない能力。魔術師としての矜持と秤にかけてみても、悔しいと思うことさえ難しい。それほどの得体の知れなさが、その場のすべてを支配していた。
ただ不甲斐なくて、傍の友人に顔を向けることもできそうにない。
「はっ……律儀に答えて、なんのつもりなのかしら」
「ん、まぁ廉太郎への初期説明も兼ねてるが――」
悪態をつくしかなくなったユーリアに、顎に手を当てたウィラーが一歩近寄り距離を詰め、
「キミへの情けもあったかな……いや、興味か」
「な、何よ……?」
「何も知らされずにいる哀れな子供に、ちらりと覗かせてやったらどうなんのか――って」
警戒し一歩身を引いたユーリアの、その背後を別のウィラーが捉えていた。気配はなかった。彼女が気取れないほどの唐突さで、無防備なその背が羽交い絞めに襲われていた。
三人がはっとしたのはほぼ同時。気づいたころには時にすでに遅く、なされるがままに、ユーリアの動きが封じられてしまう。
「ちっ、誰が――」
「ユーリア!?」
軽く身をよじったところで微動だにしない、妥協のない拘束だった。体格差、筋力差。一度固められてしまえば、見かけ上の動きの早さも無意味でしかない。
反射的に廉太郎が声を上げるも、軽々しく割って入れる状況ではなかった。
人質に取られたようなもの、不用意な行動を示せば何をされるか分からない。それに、一人をどうこうしたところでウィラーの手数は無数に周囲に控えている。
「わ、分かった!」
口にするべき言葉が、廉太郎にはもうそれくらいしか残されておらず、
「言う通りにする。そこまでされたらもうダメだ……関係ないんだろ、その女は――」
「安心しろ。怪我もさせねぇよ」
薄ら笑いで言い放つウィラー。彼は信用ならないその態度のまま、手中に抑えたユーリアの耳元におもむろに口を寄せていき、
「……何せ、できねぇことになってるからな」
「――え?」
囁き。本人にしか聞かせるつもりのないような、密談。
傍らで目にしただけの廉太郎も、意図の分からないユーリアも、混乱するほかのない行動。
次いで、そんなユーリアと彼女を抑えたウィラーを囲うように、他の分身体が集いだしていく。わらわらと、廉太郎とクリスの視界からユーリアを隔離し覆い隠していくように。
幻想の肉壁による分断、さらなる無力化が三人を襲う。
「おい、何して――」
「付いてきな廉太郎。それであの娘は開放してやる」
いつの間にか、廉太郎の肩に置かれていた手。また新たに代表顔で話しかけてくる分身体の一個体。
いくら疑わしかろうとも従うしかない状況に、廉太郎は縋るようにクリスの顔を窺う。痛ましく口元を噛みつけるクリスは、先ほどから一言も発しようとしていない。声をかけるのもためらわれる様子だった。ただ悔しさに耐えているのとは違う、複雑に煮詰められたような感情が溢れだそうとしているようで。
――俺ら揃ってあの男に――余興か茶番のどっちかだぜ――うちらの頭はやる気がねぇから――過保護なのやら鬼なのやら――くそ、言ってやりてぇことは全部口止めされてんなあ。
「い、一片にしゃべるなぁ――ッ! 頭がおかしくなるのよ!!」
突如上がったユーリアの叫び。
くぐもった声に心臓が縮む。だが見えずとも無事は確かなようであった、少なくとも今はまだ。
ウィラーの言う安心がいつまで保証されるかも分からず、廉太郎は無言で背後のウィラーに同意を示す。恐る恐る、睨みつけるように。首を縦に頷かせていた。
「よぉし。じゃ行くぞ、近くに扉を開いてある」
「……ゲート、ね」
ただでさえ得体の知れない行き先に、抱いた不安がさらにかき立てられていく。
肩を押され、歩かされる。分身体の雑踏が一部消滅し道を示していた。
「ちょっと、私も連れて行きなさいよ――!」
背後からそんな声が聞こえてきた。
勘弁してくれとばかりに、ウィラーは鼻をならしそれに返し、
「……脅し過ぎたし焦り過ぎたか。別に監禁するわけでもねぇのにな」
「そ、そうなのか?」
「あぁ、用が済んだら帰してやる。ひとまずな」
それが嘘でないにせよ、気が楽になるわけでもなかった。仲間にされるということは、今のウィラーのような活動を強いられるということだ。他にも、馬鹿馬鹿しいほど壮大な何かに付き合わされるに違いない。
望まないことを。
クリスが必死に引き留めていた理由を、そこで味わうことになるのだろう。
不意に、廉太郎は足を止めた。
「あ?」
「その……クリスは連れて行かせてくれ。首元を見れば分かるだろうが、こいつは――」
焦れたように急かそうとするウィラーだったが、示されるままにクリスの身体を目に留めると、その意味するところをすぐさま理解できたようだった。
人形、人の魂に繋がれ動く道具。
魂を持たない彼らは魔力を外部に依存していて、特に生命維持に魔力を必要としているクリスの身体は、繋がりのある廉太郎と長距離を離れて生きることができない。
一瞬、ウィラーの表情が苛立ちに歪み、
「……ちッ」
舌打ち。
直後、クリスの背後に他の固体が現れ立つ。悟られぬまま、低いクリスの頭をわし掴むように片手を乗せてしまう。
それだけ、何をしたというわけでもない。廉太郎の目にはそのように見えた。
だが次の瞬間に、クリスの身体は声もなく路上に倒れ込んでいた。呆然としながらも廉太郎はそれを抱え起こし、震えた声を周囲にぶつけ、
「子供相手に!」
「うるせぇな、こいつが一番敵意あんだよ。そのまま連れてけるか」
悪びれるどころか開き直った態度で、ウィラーは「どういうこった」と怪訝そうに首をかしげる。
「人形……クローンねぇ。いかにもウチの連中が目をつけそうなテーマだが……何か恨みでも買ったのか?」
当の本人は応えられない。
目覚めているときでも、きっと答えようとはしないのだろうと、廉太郎は密かに思った。
――――
「……痴漢しかしてないな、あの男」
最近、独り言が増えた気がする。
それも無理からぬこと。
想像してみてほしい。
割と新しくできた気になる友人と、気は合いそうな彼女の友人たち二人。そんな彼女らが、面倒な危機の真っ只中にいながらも楽しそうに談笑している様子を、間近で眺め続けていなければならないラヴィの立場を。
声をかけても目の前に立っても、絶対に気づかれることがない。
この世――学団が『舞台』と呼ぶ眼下の世界から、存在を失っている今のラヴィは幽霊そのもの。見守ることしかできていないのだから、分類としては背後霊だ。
役に立つような干渉は、一切してあげられないのだけれど。
「うわ、きついな。これ」
一時的に実体化させてもらい、ユーリアを焚きつけて町を去る廉太郎を追わせた後、ラヴィは彼女らの車に同乗する形で、結局ずっと付いてきてしまっていた。
意味はなく、ただ気になってしまって帰るに帰れなかったというだけのこと。
そして今、オーテロマの町上空に立つ彼女が見下ろしているのは、廉太郎たちが陥っている危機そのもの。虫のように地表を埋め尽くす、同じ背格好の分身体。
この場に関わる勢力は大きく分けて四つである。学団、町、個人としての廉太郎。そして元凶となってしまった図書館。
混み入った事情はラヴィも知らない。廉太郎たちから盗み聞いた以上の知識を持ってはいない。
元より知っていたのは、自分の父親と同じく町の頭が異物であること、異物――別世界を由来とする者たちで構成された組織が存在するということだけ。
ラヴィとアニムス、彼女たち図書館に目的ははない。ただ存在するということ以外に望むものはない。
だからこそ、厄介な他の勢力との接触を避けてきている。
巻き込まれているという点でみれば、やはり立場は廉太郎ととても近い。
そして、この場において最も部外者であるラヴィだけに理解できている事実が一つある。
――ウィラーの能力、その詳細についてである。
「あー、……何だあの子?」「見えてんかよ、俺たちが」「俺が知らねぇのに?」「じゃ、なんにせよ仲間か」「……何がしてぇの」「気味悪ぃな」「見えねぇや」
地上、大通りに立ち並ぶ無数のウィラーの分身体。
魔力の足場で町の上空に現れ立ったラヴィの姿を、そのほぼすべてが見上げていた。
口々に、その異様さ、奇行めいた謎に眉を顰めてざわついている。
繰り返すようだが、今のラヴィは誰にも知覚できるはずがない。図書館に連なるいかなる事実も、現在及び過去から物的、記憶的、記録的存在証拠を喪失させているはずなのだ。
そこに生じる、矛盾。そしてこれまでのウィラーとの接触の中で覚えていた違和感の数々から、一つの気づきをラヴィは得ていた。
「やっぱり。あいつの能力は他人の意識に自分の存在を送り込むこと。それも自動的に。スイッチは目視か、意識を向けることだけかな」
他人の意識の中に、自分自身を――ではない。
眼下に群れる分身体のような、いわば仮想人格をだ。
ウィラー本体が入っていくのではなく幻を送り込むようなもの。そこで対象と交わした会話、得た情報は本体にフィードバックされていくのだ。ラックブリックでやっていた聞き込み調査から、それがわかる。少し目だって町を歩きまわっているだけで、短時間で同時的にかなりの住民とコンタクトを取ることが可能だった。
初め、存在を消していた幽霊状態のラヴィに声をかけられてしまったのもそのためだ。
あのとき、ウィラーには彼女の存在など認識できていなかった。無差別に撒かれた罠を踏んでしまったようなもの。自動的に、この世の外にいるラヴィのいしきの中に仮想の人格が創られたのだ。
だからこそ、そこでの会話は本体に還元されていなかった。
後に実体化した姿で廉太郎の手助けに入ったとき、初対面だと思われたのがすべての証拠になっている。
「変な光景」
深夜に町の上空に突如降り立つような奇行。それを知覚できる分身体が、こぞって上を見上げているのも無理はない。
奇妙なのは、異様な数の人の群れが一様に空を仰いでいるにも関わらず、廉太郎たち三人がそれに何の反応も示そうとしていないことだ。
不自然、異様。何もないと分かっていたとしても、つい目がつられてしまうのが人の習性であるだろうに。
通常、今のラヴィを認知するすることは、あらゆる角度でできなくなっている。
仮にラヴィを認知できる者が現れたとしても、他者はその気づきに気づけない。指を指し声を上げて知らせようとしても、他の誰もが話しかけられた事実にすら気づくことはない。
世界はそのように修正される。
つまり、今ラヴィが見聞きしている分身体の言動と、廉太郎たちが見聞きしている分身体の言動にはかなりのズレが生じてしまっている。意識に送り込まれる分身体が、その実全員の主観に共有されているために、互いにとってのイレギュラーな事態が生じているのだ。
今の『図書館』を覆っているのはそういう能力。
他人の認識機能、個人の世界を書き換えるのはそれら侵色者にとっての十八番だから。
「となると、一人だけこっち見てないあれが本体ってことになるけど――」
そこまで看破しておきながら、どうしたものかとラヴィは一人途方に暮れる。
本体であるウィラーの立場は廉太郎たちと同じ、どうあろうとラヴィの存在に到達できない。修正された現実の中で生きていて、分身体の違和感に少しも気づけた様子がない。
仲間外れ探しの絵のように、一人だけ周りに同調を見せない固体が居るのだ。
集団に紛れて、遠巻きに三人を観察している。
――隙だらけだ、こっそり背後からやってしまおうか。
「いやムリか。ムリだ」
上手くはいかないと彼女は自分自身で断言できる。そういう荒事には向いてない。闘争意欲というより気概がない。虫も殺せない人間というのは実在する。例え自分や友人の身を守るためだろうとも、殺さずとも意識を奪い無力化する程度であろうとも。
確実に手がすくんで動けなくなる。想像しただけでも気分が悪くなる。
そのくらい頑張れと、見上げてくる敵にも言われてしまうような気もする。が、したくないことはしたくないのだ。
そもそも、攻撃を当てるためには実体化する必要がある。しくじれば、唯一にして最大のアドバンテージを失ってしまう。簡単にオンオフを切り替えられるような能力ではない。
「んん……せめて伝えられたらいいんだけど」
しかし干渉する術のない今のままでは、簡単な一言さえも仲間の耳に届けられない。実体を取り戻したとしてもだめだ。こうも似た顔が並んでいては口頭、指さし程度の指示では正確さに欠けてしまう。その一瞬のごたつきで、どうしたってウィラー本体は移動して身を隠してしまうだろう。その後、再度見分ける術は残されていない。
――子供相手に!
「うわ」
聞こえた声にふと視線を中心に戻してみたラヴィの目に、地に倒れかけたクリスの姿が飛び込んでくる。
一瞬肝が冷えかけたが、死んでしまったような反応は上がっておらずに胸を撫でおろす。意識を失っているようだが、確認できるような外傷はない。
殴られでもしたのか、それは良くない。
気分的には一発かましてやりたいくらいなのだが、度胸も腕力も持っていないがゆえに歯がゆいとすら思えなくて、
「……ん、そっちか」ふと発想が転換する。「偽物の方なら私も、まぁ」
いける気がする。そのはずなのだ。
抵抗を覚える方がどうかしてる。なぜなら、あれら無数の分身体には実体どころか何もないから。幻影、妄想の類い。存在さえしていない者ども。
本体を攻撃するのとはわけが違う。そもそも攻撃とすら呼べはしまい。あれらに銃口を向けたとして、それは射撃訓練にも満たない試し撃ちでしかない。
都合がいい。
この場に限り、他の誰をも差し置いてラヴィにこそのみ適性が生じる。
死体が残らないのも確認済みだ。致死の攻撃を受けた分身体は瞬時に消滅。ならば、事が済んだ後に障害物が邪魔になるということもない。
攻撃対象は眼下の路上。そこを埋め尽くす幻影、そのすべてである。
一息に一掃してしまおう。
意味のない報復などではなく、状況が解決できるだけの一手を打つ。
さすれば、後には本体だけが一人残され、その位置は他の者の目にも筒抜けになる。状況を理解せずとも好機であるのは伝わるだろう、あのユーリアが、その一瞬をみすみす逃すとも思えない。
「これは――さすがに気持ちが良さそうかな」
珍しく、自然と上がった口の端が歯を覗かせ。
周囲に魔力を展開する。現出する形は捻りなく氷体。回路、陣による『銃口』を添えたオーソドックスな遠距離攻撃を開始する。
それ以外の手札は持っていない。試したことも一度もない。
人は、彼女に限らず殺傷以外の無暗な魔法を行わない。
だが、その瞬間のラヴィを指して平凡と嗤える者など存在しない。
滞空した空中にて彼女が展開する魔力の武器、氷に見立てた物質の弾丸――その数が異様である。眼下を埋める分身体の群れ、それに劣らないほどに。
この世における人間。訓練されていようがなかろうが、一度に現出し得る魔力の総量など知れている。人の魂には限度がある。出力量、負荷、制御力――ラヴィのそれは自殺そのもの、それも実行不可能なレベルでの、だ。
攻撃宣言の後、まさに一息で、町の上空は槍の雨を降らせる雲に覆われていた。一面の曇天、とまではいかないものの、雨から逃れ得る敷地がどこにもなくなるほどのもの。
一瞬にして、自分を見上げる同じ顔の群れが一様に驚愕に染まっていく。
なかなか悪くない気分だった。
「お互い様だね、規格外は」
本体を除くすべてのウィラーは、ラヴィを認識した時点で彼女の世界に触れている。こちら側は『舞台』の外。名で示すのであればまさに『図書館』。
総人口三人の極小の宇宙だ。その内に侵入した外敵に対して、彼女が振るえる力に確かめられ得る限度はない。
威嚇射撃くらいは経験があっても、的に当てようとして氷弾を放ったことは一度もなかった。
特段、困ることでもないだろう。
――――
何の脈絡もない驚愕が、その場の全員を平等に襲っていた。
失神したクリスを除く、廉太郎、ユーリア、ウィラーの三名。果たして何が起きたのか、地上にて相対していた彼らには僅かも理解することができていない。
「な、んだ……これ?」
呆けたような刹那の静寂。零されたウィラーの声がやたらと路上に響いていた。
閑散とした夜の町。
そこが同じ人影で一瞬前まで埋め尽くされていたなどと、当事者にとっても信じがたい。それほどの異様、異常がないという空間に変わっていた。
目の前の絵が突如切り替えられたかのような現実。当然混乱する。即座に対応できる者など居るはずがない。
ただ一人、ユーリアを除いて。
「――ッ!」
事態を呑み込むより前に、彼女の体は動いていた。
行くしかない。とにもかくにも唯一残されたあのウィラーは明らかなる特別。遮るもの、惑わすものがないのなら先手必勝。
肉体の運動速度が瞬時に音速を振り切るまでに倍加され、それに追いつく思考と反応速度が時の制止した世界を彼女の目に幻視させる。
数十メートル離れた地点、すでにウィラーの背後は取られていた。
彼は瞬きすらも終えておらず、ユーリアが動いたことにさえ気づけていない。
コンマ一秒にも満たないその疾走の中、いまだ認識不可の異常は続いていた。
氷弾の雨は降り注ぎ続けている。それは勢いあまった攻撃のなごり、標的の数を超過した余分のおまけの時間である。
――ラヴィの放った多量の氷弾は、上空から直下へと一斉に降り注ぎ、ウィラーの分身体だけを瞬時に滅ぼし尽くしていた。他世界への干渉力のないラヴィの攻撃は、認識上の存在にのみ殺傷効果を生じさせる。
仮想の肉体を貫通し、地面へと着弾した氷弾は、まるでそこが水面か何かのように音も衝撃もなく通り抜けていったのだ。
建物の屋上を、フロアを抜けて地表へ突き抜け。
屋内外を問わず滞在する、すべての住民の身体を傷つけることなく透過して。
何者にも知覚されることなく、ラヴィの密やかな介入は終了した。
この世の誰にも認識できず、この世のあらゆる物体が影響を受けることのない攻撃。
かつてウィラーが廉太郎に見せた、その実許されていなかった脅し。その光景を体現するかのような、本来であればこの町一つ壊滅せしめたはずの絨毯爆撃。
「終わりよ」
自身も未だ混乱覚めやらぬまま、ユーリアは再びウィラーの生殺与奪権を握りこんでいた。背後からナイフの刃を背中へと押し当てている。その冷たさが伝わるよう、服を切り裂き素肌を狙っている。
遅れてウィラーが気づいたのは、訳の分からぬ内に逆転してしまった互いの立場の意味だけだった。
密接していて、周囲からは凶器も隠れている。
まず、不審に思われることもない体勢であった。
「釈然とはしないけれどね。……どうしたのよ、調子でも悪かった?」
「か、かもな……ぅッ」
刃が軽く肌を滑る。急所、心臓の位置にとても近いということを、はっきりと分からせてしまうように。
「あ、あぁ――やめてくれ!! 俺は俺だよ、死ぬわそれは!」
固唾を呑んで見守る廉太郎と警戒を緩めないユーリアをよそに、ウィラーにはもう敵対するだけの気概が残されてはいない。
あっさりと上げられたその両腕も、その声色も、余裕のない恐れに震えている。
本体であることの自白に等しい。これ以上のない降伏宣言。
「……そう。なら、これから拠点に連れていかれるのはあなたの方ね」
いまだ油断はできない。
妙な動きは少しでも見逃すまいと目を光らせながら、頭の中でユーリアはこの先取るべき行動を整理していく。
第一に無力化。現時点でそれが十分だとは言い難い。
まず目指すのは、この町に確保された機関拠点、そこに常備された薬品で意識を奪う。次いで、前哨基地まで移送しつつ仲間に完全拘束してもらおう。
情報を吐かせるなり交渉するなり、先を見据えた策を練るのはそれからでいい。
「良いわね! 私こういうの慣れてないんだから、もたもたしてると殺しちゃうわよ?!」
「な、何になら慣れてんだ……物騒な」
なおも返される軽口に、苛立ちというより焦りの方が刺激されてしまう。理解を超えた能力、常識。それらに当てられて、変に舞い上がってしまっているのかもしれない。
倒されたクリスの件もある。
あまり時間をかけたくない。何より気を落ち着かせたかった。
「廉太郎! クリスを――」
撤収の指示をだそうとして、
「ユ、ユーリア……」
視線をウィラーから外した彼女は、思わず息を呑んでいた。
見上げて目にする夜空は黒い。しかし、そこには星が点々と白い輝きを刻んでいるもの。
だというのに、その一部の星々が喪失している。
否、覆い隠されているのだ。
夜空の黒色とは別の、空中に生じた正体不明の歪み――闇そのものによって。
「――選手交代だ」
どこからともなく、聞いたことのないしゃがれた男の声がした。