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ワールド・ブラインド   作者: 宝の飴
第三章 「」
134/149

第三十一話 深夜堂々の白昼夢

「夕食はルームサービスで済ませるわよ。朝まで部屋ここを動かないわ」


 取った宿の一部屋にたどり着くと、ユーリアはなれた足取りで部屋をあらため、受け取った鍵をローテーブルの上に置いた。その隣に、荷物のある廉太郎れんたろうとクリスがリュックサックを並べ立てる。

 ベッド二つ置いて後は足場――といった、簡素かんそながらも不都合のない、八畳ほどの部屋だった。金を出してもらっている身であえて感想を言うのであれば、庶民的な感がある。


「さすがに、眠っておかないと不味いわよね」


 ユーリアはちらりとベッドに視線を落とし、次いで外を窺うように部屋の戸へと目を移動させ、


「本当は、夜通し気を張っておきたいのだけど……」

「うん。明日になってからでは、気を休められるのかいつになるかも分からないし」


 そんな二人をよそに、クリスは「まぁ、そこは心配ないのでしょう」と気を抜いた様子で片方のベッドの上へと倒れ込んでいる。

 無遠慮だなと、ついたしなめたくなってしまう廉太郎ではあるが、その楽観的な態度にきちんと根拠があることも知っていた。


「えぇ、任せて」と、それを受けたユーリアが誇らし気な表情を浮かべている。


 彼女にとっての睡眠には、質の異なるものが三つある。

 一つは、通常人間が行うものと変わらない、何の変哲もないものだ。ただ横になって、目を閉じるだけの就寝。だが、彼女がそれを行うことは滅多にない。

 普段彼女が好むのは、五感制御を駆使し死んだように眠りに落ちるスタイルだ。主に快楽目的で、身に着けた魔術師としての能力を私的利用してしまっている。彼女にとってより好ましい、睡眠の質を追及したものである。

 疑似眼球の展開を止め、聴覚と嗅覚の物理的刺激を遮断、触覚も最低限まで低下させる。脳を介さず、知覚情報のすべてを魂に直接管理させる。その制御を、無意識下で翌朝まで継続させる。

 おかげで、肩を揺すった程度ではなかなか目覚めてくれなくなってしまう。起こさず放っておこうものなら、自力で起きてくる頃には昼が回っている始末。

 それが二つ目の睡眠であり、そして最後の一つが――、


「警戒は保証するわ。物音一つ逃さないから」


 即座の覚醒。

 それが可能な、意識を手放しながらも周囲を監視し続けられる睡眠だ。

 警戒と休息を両立させるもの。野生に生きる獣や、極限の戦場を這う戦士のように、鋭利でひりついた闘いのスキル。 

 どころか、それは欠陥を知らない高性能の防犯システムのよう。

 いっそ、機械的にさえ感じられるほどの超常の能力で、

 

「君にあと何回、こうやって驚かされることになるんだろう」

「ふふっ、魔術師プロだからね。それもとびきり一級の」


 背筋を正し、得意気になって見せるのがユーリアだ。

 褒められ足りるということがないのか、何度同じような賞賛を送ろうとも彼女は機嫌良くそれらを受け取ってくれる。その様子たるや、まるでその都度初回かのようだ。

 お世辞や機嫌取りをする気などさらさらない。だが何やら、褒めがいめいたものを感じずにはいられなくなる。

 そんなユーリアは「さてと」と歌うように一息つき、


「着替え貸してね、廉太郎。売店もやってなかったのよ」

「君がいいなら構わない、けど……」


 サイズとかさ。

 などと余計な思考がちらついたが、『どうせ部屋着にするだけだし気にすることもないか、ないのか』と呑み込むことにしてしまう。変にそわそわした気分にさせられたわけでは、おそらくない。

 何でも構わないのか何でも着こなせるつもりなのか、ユーリアは廉太郎のカバンから無作為にシャツと短パンを取り出してしまう。

 部屋を横切りるように移動し、そして壁端で立ち止まると、


「……ん」


 何を思ったか、しばし部屋の全体を見渡して、それからおもむろに埋め込みのクローゼットの引き戸を開けて。

 一言、


「え、バス付きじゃないの?」

「あはは、そんな上等なとこに見えましたか?」

「なんてことなの……」


 クリスにつっこまれて、目に見えて肩を落としてしまうユーリア。

 期待外れ。思うより低い設備のグレード。

 しかし、それも無理からぬことではある。

 少し前、朝まで身を隠す宿を選ぶ際に、三人は何となしに駅舎に併設するようなターミナル・ホテルを避けてしまった。現状、人が集まるような中央地は心理的にも選べない。

 そんなわけで、門を叩いたのは駅から離れながらも、そこから続く大通りに面するような一件だ。その外観は、ユーリアの目に留まったほどには凝ったものではあったものの、寂れても流行ってもいないような雰囲気であり、選択肢としては無難な宿。もっとも、いざ覗いてみれば思いのほか賑わいがあったのだが。

 本来は機関のバックアップもあり、資金など気にかけず一番良い部屋に泊っているのだろう。そんなユーリアにとってはまさかとも言うべき展開で、その顔には、思いっきり選択を間違えたという後悔の色が浮かんでしまっている。 


「共用のシャワーブースがあるみたいだ。下の階だけど」

「一階かぁ……しかたないわね」


 廉太郎に案内用のボードを読み上げられ、ユーリアは諦めたように息を吐き、


「行きましょう、クリス」

「いや、出るんですか部屋……って、え私――」


 何で、という疑いも忘れるほど戸惑うクリスは手を握られ、あれよという間に引っ張られるように部屋の外へと連れていかれてしまっていた。抵抗したような様子はない。無理もないことだが。

 そう思うのは、何となく、ユーリアのその場の強引さに断りづらいものが感じ取られてしまったからだ。

 きっと受付で、二人分の宿泊費しか払わせてもらえなかったことに、思うところがあるのだろう。

 手早く済ませる、と出ていってしまった二人に取り残され、手持ち無沙汰の廉太郎は一人ベッドに腰を下ろす。

 すると間もなく、部屋の戸を叩かれる音が聞こえ、 


「食事。お持ちしました」

「あっ、はい。どうも……」


 聞いたばかりの声に内側から戸を開けてやると、そこに立っていたのは受付で見たのと同じ顔。壮年の女性である彼女は、軽食の詰められた籠を手にしていた。とたん、に食欲のそそられる香りが漂い出す。

 強い香りだった。下にある、食堂という名の酒場で振る舞われているようなものを適当にこしらえたような一品だ。

 一見して、ユーリアが真顔で食べられそうなものでは、ない。

 ――どうしよう。


「不満が?」とじろりと女にめられて、

「いいえ! その、急におしかけてしまって……」


 普段はしないサービスなのだろう。無理に用意させられたことを快く思ってはいないのか、初めからどこか不機嫌そうな対応の女に、少々ではなく廉太郎の気は引けてしまっていた。

 すると、突っぱねるユーリアとは違う反応に気が晴れたのか、受付の女は一気に強張っていた顔を解き、


「構わないんです。どうせお客さんたちも、駅が使えなかったってクチでしょう?」

「まぁ、そんなところです」

「それは災難。おかげで今夜のうちは忙しく……いや、ありがたいことですが」


 たわいもない、店と客側の世間話でしかないはずだ。

 しかし、そこには妙な違和感があった。何かが隠れているような、何かを聞き逃しているような、もどかしい引っかかりを抱えてしまう。

 そんな一瞬の上の空に構うことはなく、意外にもおしゃべりな女は言葉を続けていき、


「――悪戯いたずらだといいですね」

「ぁー、はい?」

「だから、爆破予告のことですよ」


 それで、またもや気づかされる。

 今度は違和感にではなく、明らかな異常、良くない事態の何らかに。


「……ば、爆破って」


 女は「何をしたいのだか、傍迷惑な」と愚痴りはじめていた。

 そんな彼女に、確かめるよう話を切り出すだけなのに。それは気味が悪いほどの勇気を必要とするもので、


「駅をですか? それとも、線路を――」 

「おや、知らない?」女は周知の事実だろうにと、意外そうに目を丸くし「ちょうど今夜の夜行便、汽車本体にだそうです」

 

 そうかと話を呑み込んで、それから徐々に廉太郎の鼓動が早まりだす。 

 それがどういう意味を持ち、どんな状況下に自分が居るのか、そんな確信めいた予感が、沸騰したように浮かんでくる。

 あの駅員は――運転を見合わせているとだけ言っていた。最近は物騒だから、大事をとっているのだとも。

 だから、勘違いをしてしまったのだ。

 治安の観点から、ここしばらく深夜帯の運行すべてを制限しているのだろう、と。

 だが、違った。

 止められているのは、今日この夜、たった一本の便だけだ。廉太郎たちが乗るはずの便で、そしてその予測が誰にでも立てられてしまう便。

 あまりにもタイミングが良すぎる。

 それが意味するのは妨害工作。これが仕組まれたものでないと、そんな寝ぼけたことなどとても言えない。


「――まずい」


 ウィラーだ。しかし、先回りされたにしては打たれた一手が早すぎる。彼、もしくはその背後にある組織自体が、この町に狙いを定めてきているのだ。

 足止めをするために。

 廉太郎たちが一晩ここに滞在することも、奴らに誘導されてしまっていた結果でしかない。

 ならば。

 ――来る。

 






―――――― ――――――






 同時刻。

 すでにその町にはウィラーが来ていた。いつからそこに居るのか、後発で追って来たにしては随分な用意周到ぶりではないのか――などと、問題に上げることでもない。物理的な距離など、彼らにとってはどうとでもなる問題だ。

 この世界、少なくともこの星の範囲内においての話である。


「そろそろ、仕掛けてやるとするか」


 町内の、適当な建物の屋上に彼はいた。隣に仲間の男を携えて、夜風に背広を煽られながら。眼下、町並みを俯瞰している。

 現段階で目標、つまり娵府廉太郎よめくられんたろうの居場所を把握できてはいない。

 だが、この町に潜んでいることは確定している。予想しているのではなく、確かなことだと断言されてしまっているのだ。

 事前調査は終えている。 

 行動の指針を決めるのは、同行者ユーリア・ヴァイスの方で間違いがあるまい。性格的にも、土地勘的にも、そして関係性からしてもそこは揺らがない。

 彼女の行動パターンは、ほぼ正確に読まれている。

 ウィラーたち『学団』にではない。

 他ならぬ彼女の上司、ルートヴィヒによってである。

 気づけば、この後の段取りさえもその男につけられてしまっているようなもので、


「俺の能力は録画カメラに映らない。……地味な絵面になりそうだぜ」


 妙な話になったものだ。そうぼやきつつ、持ってきたハンディカメラを仲間の男へとウィラーが手渡す。

 むろん、この世、この時代におけるオーバーテクノロジーの塊。一世紀以上もの隔たりを持った、異物としか言いようのない代物である。

 それを渡された男の役割は、録画。これから起こす一騒動、役割分担は決まっていた。

 では何のためにかと問われたなら、その場の二人、まったく同じ言葉を浮かべるだろう。

 ――こちらが知りたい、と。


「そんなんであっちの大将、ほんとに満足すんのかよ」

「奴のことは気にするな。すでに取り決めは終えたのだ」

 

 廉太郎への勧誘や説得が失敗した今、もっとも簡単な手段である拉致を行う段階に至った。そのために不可侵の町から追い出した。

 しかし、その過程で同行させてしまったユーリア・ヴァイスに対して、『学団』側は手出しの一切が許されていない。町自体以上に、である。

 そして厄介なことに、彼女は身体を張ってその拉致を阻止してくるのが分かっているのだ。

 そこで、ここに一つの取り決めが成されている。

 学団と町。長く続く双方の同盟に則り、交わした契約は以下の通り。

 一つ、ユーリア・ヴァイスを殺さないこと。

 一つ、彼女に相対させる戦力は一度に一人。

 そして、それらを動画に収め、報告というかたちで提供すること。

 それら条件下において、彼女に対するあらゆる干渉が認められることになる。


「なぁ、これは余興なのか?」


 つい、触れづらいところへと触れてしまうウィラー。

 だがしかし、それ以外にあり得そうな相手方のメリットというものが彼には思い浮かべることができなかったのだ。

 仲間の男は反応を示さず、かといって否定するでもなく、


「……あのむすめは普通ではない」

「らしいな?」

「この世界の枠組み、魔術師という人間の可能性の基準。それらの中、あの娘のスペックは明らかに桁が外れている」


 規格外。世の常識や理論を見直させかねないほどの、異常な存在。

 異端。異物という点においては、彼らとそう変わるものでもない。別世界に由来し、超位の存在か現象によって手を加えられた存在である、ウィラーたち侵色者と。

 少なくとも、男はそのようにユーリアを捉えていた。

 そう思わせるだけの要因は、やはりルートヴィヒの存在と、彼の彼女に対するその入れ込み具合であるのだろう。


「何故、かは知らん。何を期待してそこまで磨き上げられたのかもだ」


 しかし、よほどの意味がそこにあるのは疑いようがない。

 事実として、ルートヴィヒはユーリアに執心し、その能力――もはや戦闘能力とさえ呼び難いほどの特異性の、更なる高みを望んでいる。

 彼女の安全を約束させながら、彼女への攻撃と彼女の自身の自由行動を許可するという矛盾。

 なればこそ、この茶番は力試し以外の何ものでもない。


「なーんか可哀そうになってきたぜ」


 理解を放棄したウィラーはわざとらしく、憂鬱な溜息で嘆いてみせ、


「知らねぇところで大の男が寄ってたかって……虐めじゃねぇか」

「気を抜くなよ。殺されかねん」


 男は注意を促すも、やがて思い直したかのように顔を伏した仲間の背中をじっと眺め、


「……代わってやってもいい。元より、お前に向くような役ではないのだ」

「いや、いい」


 余計な世話だと、顔を上げたウィラーは一人静かに笑って見せた。腹の据わった顔だった。

 だがそれを見て、傍らの男は余計に増していくような不安を抱えてしまうのだ。


「俺なら、上手くいきゃあ余計な被害を出さずにすむ」

「だから向いてないのだよ」


 異常、その上振れがユーリアならば、その下振れに居るのがウィラーだった。この世という大海を汚染する『学団』という名の一帯において、彼の存在は上澄みでしかない。

 人格、精神。生前のものと比べた、それらの変化がかなり少ない。

 第四種。

 同種同族同類という括りの中で見るのなら、彼の立ち位置と目標――娵府廉太郎のそれは、限りなく近しいものだと言えるだろう。





―――――――― ――――――――





 結局、廉太郎はそこから動くことはできなかった。

 事前に危機を察せられたものの、事態は思うよりずっと敵にコントロールされてしまっている。下手な行動をとってしまうのも逆効果であろう。

 今この瞬間だけは、ユーリアやクリスとも離れてしまっている。少なくとも、その二人が部屋に戻ってくるまでの間は、変わらず息を潜めているしかなかったのだ。


「……まだかな」


 落ち着けるはずもなく、食事に手をつける気にもならない。

 気がつくと廉太郎はカーテンを閉め、オイル・ランプの灯りを消していた。街路と廊下から僅かに差し込む灯りの中、薄暗くもどこか落ち着いた気持ちに包まれる。

 気休めにせよ、幾分か《いくぶん》は身を隠してもらっているような気がしたのだ。

 それで、ほっと息を吐きかけたとき。

 ふと、視界の端に。


「――よお」


 人の気配が。


「また会ったな」

「な――ッ!?」


 視界の外から頭に投げられたボールのような重い衝撃。少しも身構えていなかった廉太郎の体が、弾けたように声へ振り向く。

 部屋の中央、すぐ隣。声の主はそこに居た。ベッドの傍、壁に寄りかかるようにして立っている。

 その顔、その姿。

 まさか見紛うはずもなく、

 

「ウィラー……どうして、いや――」

 

 急に出現した、としか思えない。

 前兆はなかった。気配に気づきもしなかった。ずっと目を向けていた戸も、背後の窓も開いた様子は絶対にない。

 だが、そんな推理めいた思考に意味などない。

 問題なのは現状の方。

 考え得る限りの最悪を引いた。よりによって、些細なことで孤立した今。最大の無防備を晒したかたちでの接触などと――。


「言ったろう。逃げるのはムリだって」

「あ、あんたら……ッ!?」

 

 立ち上がろうとして、その足がすくむ。

 気づいてしまったのだ。

 部屋の中に現れた人影は一つではなかった。否、新たな人影が出現しかけていたのだった。

 もやがかかったように、眼球のガラスが曇るように、視界の中の一点がぶれる。空間に生じたそのもやは、人の形へと広がり、徐々に明らかな物的質感と存在感を形成しつつある。

 初め廉太郎は、それを新手の仲間か何かが現れてしまうような、前兆か何かだと受け取り、身構えようと注視した。

 だが、違った。 

 

「ふ、二人……じゃない! これは――」


 そこに生まれた顔、姿。

 それは、隣のウィラーと同一のものだった。

 どちらが本物か、見分けの一切がつけられないほどの、まったく同じ人間の姿。それが、一人また一人と、同じように部屋の中で増殖していく。

 混乱の中状況を理解する前に、その部屋はウィラーの姿の人影で埋め尽くされてしまうことになる。

 箱の中に、隙間なく人形を詰め込まれてしまったようなもの。今にも身動きさえとれなくなる。

 それらは廉太郎へ顔を向け、目を覗き込むように凝視して、似たような表情を浮かべている。にも拘らず、細やかな立ち振る舞いはそれぞれが独立したものであり、口を開いて発してくる言葉も別々であった。


「取り押さえるのも簡単だな」「さぁ、どうする?」「諦めてくれ」「俺らもろとも圧死する気か?」「居ねぇじゃねぇか、あの女」


 端的に言って、廉太郎が感じたものは恐怖である。

 人の出現、その増殖も異常ではあれど、それ以上に同じ顔が並び立つというあり得ない光景を前に本能的な拒絶をき立てられてしまう。人の顔を持ちながら、とても人には見えてこないような、異物だと。

 さながら人形の群れ、枕元に並び立つ亡霊の類い。


「ぐうぅ、ァッ――」


 とっさに体が突き動かされる。ほとんど本能的な動きだった。

 増え続ける姿に背を向け、辛うじて残された空間をかき分けるように窓際へ。こじ開け、おどり出たベランダの手すりから身を乗り出す。気などとっくに動転している。

 幸い、大した造りのホテルではない。二階、飛べと言われれば飛べる高さ。

 着地。

 なだらかだが、路面は石造りである。痛めなかったのは足腰のおかげか。

 

「く、くそ……」


 そこにも、当たり前のようにウィラーがいた。

 目の前、顔を上げて交差する視線が、再び恐怖を煽ってくる。

 だが、そこで目にする人影の数は一つきりであった。開けた路上、馬車が通える程度には広い通り。走りだせば、この場から逃れられるくらいの自信はある。

 問題はクリスとの距離と、その逃走に意味があるのかどうかも分からない、ということだ。


「うーん、場所はここだったか……」周囲の建物へと、ウィラーはぐるりと視線を走らせて「よし、問題なさそうだな」

「何を――」


 いっそ、大声で危機を知らせるべきか。

 読めないウィラーの言動を前に、とるべき行動を廉太郎が吟味ぎんみしかけたとき。

 

「――おっと」


 ぴたりとウィラーの動きが止まる。腕の動き、手の平の僅かな開閉さえも。

 警告を口にされるまでもなく、明確にそのすべてに制限をかけらてしまっていたから。

 音もなく残像もなく、気取らることなく完全に背後をとり切っていたユーリアと、首元に当てられた彼女のナイフの刃によって。


「さすがに速ぇな。着替えんのも」

「手が早いのはそっちでしょ、この覗き魔」


 目測、センチメートルでウィラーの身長は一八○を超えている。ユーリアとの身長差は二十弱。ナイフの構えなど不安定でしかなく、ウィラーの反撃に対応するより、そのまま体格差で押し切られてしまいかねない様相だ。

 だが、その場の全員が分かっていた。彼女の殺傷性は、そのような差をものともしないのだということを。


「おいおい、狙ってねぇぞ偶然だ。そういう融通は利かせられねぇのさ、俺の能力は」


 それでも、ウィラーは危機など感じていないかのように平静そのものを保っている。背後の彼女を茶化すように、他愛のないじゃれ合いかなにかのように。

 口が回ったことで、上下したウィラーの喉元に血の点が赤く打たれている。それでもなお、彼は顔色一つ変えようとはしない。

 ウィラーの異常性をまだ目撃してはいないのか、能力とやらに言及されたユーリアは怪訝そうに眉をひそめ、

 

「鑑賞料を貰うわよ。次はマシなホテルに泊まるから」

「おいそれ凄めてねぇぞ、ドキドキしちまう」


 ――おかしい。

 想定していたウィラーの性格はこうではなお。確かにその言動、態度には一回りほど年齢を忘れているかのような軽率さこそがあったものだ。だが、それは平常時においての話である。こうも明確に命を握られているような状況で、それを意に介することもなく相手を平気で煽ってしまえるような、そんな常軌を逸した性質など片鱗さえも見た覚えがない。

 どこか俗っぽく、いっそ親しみやすささえ感じつつあった男が、だ――。


「気をつけろ、ユーリア! そいつも多分本物じゃない、偽物なんだ」

「こいつ、も? ……それはそれは」


 ユーリアの顔に緊張が走る。

 あの人影、あれらが幻影にせよ分裂体にせよ、一体をどうこうして場が解決するとは思わない。平気なのだ、この場で目の前のウィラーがどういう目に合おうとも。

 ゆえにあの態度、辻褄の付く考えは他にない。


「ユーリアさん!」


 頭上から降ったクリスの声。見上げれば、先ほどの部屋のベランダから、クリスが眼下を見下ろしていた。

 別れて合流をするつもりだったのか。その様子では、すでにあれだけ増えていた部屋の人影は綺麗に居なくなっているのだろう。

 やはり幻覚の類い、少なくとも実体ではあり得ない。

 夢。 

 思えば、ウィラーの異能は常にそこに関わっていた。


「……と」

「どうも」


 迷わず飛び降りたクリスを呆れる余裕もなく受け止める。こちらの戦力が、更に強化されたかたちとなる。

 そんな三人に対し、ウィラーは面子が揃ったとばかりに「さて」と話を切り出して、


「俺の話は変わらない。廉太郎には俺と一緒に……あー、拠点まで来てもらう」

「そういうことなら、答えの方も変わらないだろうが」


 拠点とやらの場所も、正体も、そこで何をさせられるのかも分かっていない。だがクリスも『ロゼ』も、激しくそれを拒絶させてくる。それぞれの秘密、何らかの事情を抱え、それを踏まえた上での必死の忠告。その二人の判断を、廉太郎は疑うつもりはなかった。

 そんな返答に、「だろうな」とウィラーは軽く笑い、


「だがなぁ……そうだ、お前逃げたろ? 逃げても無効にはなんねぇぞ。今ここで首を頷かせなきゃ、次の瞬間にあの町をよぉ――」

「……やってみろ」


 決して無視のできない脅迫に、ユーリアの身体が強張りを増す。腕は力みがちになり、首に押し当てたままの刃の切っ先が、徐々に点ではない線を、赤く細く刻みこんでいった。

 滲み出た血の雫が、汗のようにウィラーの首筋を伝っていく。


「あの町に手をだしたなら、私は八つ当たりで廉太郎を先に殺す。あんたが連れていく前に」

   

 ――だから、そのつもりがあるなら先に手を出すべきはこの私。かかってきなさい、殺してやる。 

 ウィラーの脅迫に対する、ユーリアからの脅迫の返し。それもまた、同じように無視することのできないもの。真意かブラフかに関わらず、効果があるのも敵と同じ。


「あぁ、そう?」


 しかし意外にも、ウィラーの反応は驚くほどあっさりとしたもので、


「じゃあその話はもういいわ。なかったことにしてやるよ」

「……賢い人ね、素敵だわ」

「あぁ、安堵の吐息がくすぐってぇや」


 感覚があるのか。ならば痛覚もあるはずなのに。その上で傷に怯まないのか、あるいは茶化してやりたかったのか。それとも、単なる強がりなのか。

 どうにも流れが見えてこない。

 事情、状況、敵の性質。

 それらが中途半端に見え隠れして、肝心な答えを示してもらえないものだから。心が疑心暗鬼になりかけている。今この瞬間、優位でいるのかそうでないのか。とるべき最善の行動は何であるのか。それらがまるで分からないのだ。


「ウィラー……」

「なにせ、どの道ここで実力行使よ。もはや悪趣味な脅しも必要がねぇ」


 その発言が合図だった。

 あまりに一瞬の内に起きたことだったために、廉太郎もクリスもユーリアも、しばらく驚くことさえできなかった。

 受け入れがたい現実がある。一瞬で切り替えられた目の前の現実の間違い探し。その相違点があまりに膨大なものだったせいで。


「……なぁ、なんだよこれ?!」

「この、物量は――ッ」


 人や車両の行き来が特に多いその通り。ある程度の幅、長さがあり、見通しも良い。遠くの建物は、カップほどの大きさに見えるほど。

 通りというよりは一つの空間、景色と言い換えてもいいその場所を。

 突如現れたウィラーと同一の例の人影が、あますところなく埋め尽くしていた。


「……はぁ、はぁッ。あぁ――!?」


 荒い息の発信元が自分だと、遅れて気づくしかないような異常な人混み。数万では利かない頭数。冷静でいられるはずもない。ともすれば気が狂いそうになる。なにせそのすべてが同じ顔、同じ背丈で周囲をぐるりと取り囲んできているのだ。

 廉太郎たちから周囲数メートルを円にして空いた人混みの穴。その中心に向かって、一斉に視線が向けられている。 

 そんな生理的な恐怖を払拭したところで、待ち構えているのは現実的な恐怖。

 この人数。戦力差、物量差。

 いくら一騎当千の実力が囲まれた側にあろうとも、波に呑まれるように押し切られてしまう。容易く押しつぶされるのみ。


「――ッ、落ち着いてください、幻覚です!!」 


 突如上がったクリスの叫び。それにはっとした廉太郎とユーリアの、助けを求めるような視線が小さな身体に集中する。


「見てください、あれを!」


 クリスが指で指し示す。その先、無数のウィラーの姿に呑まれ隠れながらも辛うじて目にできたのは、通行人の姿であった。ウィラーより僅かに背が高く、頭髪の色が違っているためにこの位置からでも視認できる。

 酔った男の足取りだった。ふらついてこそいないが、頼りなく、ゆっくりと通りを歩いている。

 この人の肉で埋められた通りを、何ら妨げられることなく。


「――と、通り抜けている! それも躊躇ちゅうちょなく、何の疑問もないように!」


 またも直感的に呑み込みがたい現実だ。叫ぶ廉太郎の声も、が高く上ずったものっとなる。

 あの男、きっと見えていないのだ。彼の目には、何の異常もない普通の通りが映っているだけに違いない。

 そして虚像の人影にぶつかることもなく、触れることさえできていない。

 それに通行人は一人ではない。遠くや建物の窓から通りに目をやる機会もあるだろうに、町は少しも騒ぎ立とうとしていない。

 認識できず、干渉されない。

 さながら、霊感のない者にとっての幽霊のように。

 

「どうやら、見えているのは私たちだけのようね。これがあなたの能力なの?」

「そうだよ」


 さすがに引きつった様子のユーリアに、ウィラーは力を誇るかのように挑発を向け、


「どうだ。この状況で、キミに何かできることでもあるってのかい?」

「……そうねぇ」


 明らかに、ユーリアは答えに窮していた。

 不意に、ウィラーの指がぴくりと動く。それは見逃されることのない怪しげな動作。次の瞬間には、腕の中に捉えられていたウィラーの喉笛が、すっと真横にっ切られていた。


「感覚があった、わ……」


 失意に顔を歪めながら、ユーリアは慣れた手つきでナイフに付着した血を払い、


「少なくとも私たちにとって、こいつらは実体があるのと変わらない……ってことになるのね」                   


 急所を破壊され、ウィラーは体制を崩して地に倒れた。仰向けになりながらも、その表情には苦悶の様子一つ浮かんではいなかった。うめき声も、断末魔さえも上げていない。

 血を吐く口から、やがてウィラーは歌うように、


「良い女に殺されたい、ってのは男の夢の一つだが……叶えたい放題だな。逆ビュッフェだ」


 などと、変わらぬ調子で軽口を残し、そして消えた。消えたとは文字通り――姿が、肉も骨も服さえ残さず消え去ってしまったのである。

 耐久力は人間と同等。殺せば死に、死ねば消える。そして死体は残らない。

 得られた情報に光明はなかった。

 

「……だめか」淡い期待も外れ、廉太郎は呻くように唇を噛む「消えない……こいつら。やっぱり今のも本体じゃないんだ」


 安直な発想ではある。が、この幻覚を生じさせているのがウィラー本人であるのなら、偽物ではない本体を殺害ないし無力化することで現状を打破できるはずである。

 だが、ゆえにこそ本体の姿など晒されまい。この大量のダミーに紛れ、安全な場所から何らかの干渉行為を行っているに違いなかった。


「し、しまってくださいユーリアさん!!」


 再びクリスが声を上げる。ただし今度のものは警告だった。「なんですって?」と、とっさに意図を汲み取れなかったユーリアへ、クリスは焦った調子で駆け寄りつつ、


「ナイフです。……通報されます」

「あっ――」


 そうだ。

 おそらく、標的である三人以外の一般人は、すべてこの異常を認識できない。

 そうした場合、この通りを行きかう彼らの目に映るのは、人混みではなく、いつまでも立ち尽くしている三人の姿。

 そして今のユーリアは、一人路上でナイフを振り回しているような不審人物にしかなっていない。

 言い逃れようのない異常者。特にここは、基準からはみ出した物を容易く切り捨てる人間の社会。治安維持の名のもとに、即座に駆除しにかかられてしまう。


「終わりだ」


 芝居がかかった動きと共に、新たに対話役としての代表となった別のウィラーが、周囲から一歩前に躍り出る。


「例えこの俺すべてを倒そうとも、目立てば警備兵が駆けつけるぞ? この肉の障害物をすり抜けて、キミらを全力で殺しにくることになる兵隊がだ」


 それは勝ち誇った表情に違わぬ勝利宣言。

 クリスのサポートもある。ユーリアの実力があれば、警備兵の一人や二人、それどころかこの町に常駐するすべての戦力を相手どろうとも、遅れをとることはなかっただろう。

 しかし、この状況を前には対応できない、

 今この瞬間、すべての人影がただこちらに向かってくるだけで状況は決してしまう。対人戦闘における彼女のアドバンテージにも限りはあるのだ。運動による肉体の疲労、魔術制御による魂の疲労。一息に対処できる人数は、おのずと制限されてくる。

 切っても切り離せない、人の身であるがゆえの欠点。

 そんな絶望的な不利を抱えているのだ。格下とはいえ、相応のスキルを備えている魔術師の兵隊をさばききることなど到底不可能。 

 どうあがこうとも対応できない。完全に追いやられていたのは、詰みの状況そのものである。



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