第三十話 足止め
それから、ほぼ丸一日。
町を発ったのは朝食を終えてすぐのことだったから、日はすでに沈んでしまっている。車内はだんだんと冷えていって、替えの服も上着も持ってこれていないユーリアはそれを口実に終始クリスに引っ付いていた。
人肌恋しさ、むしろ飢えか。歳が逆転したかのように甘え過ぎて見えた。
そんな道中、特に気がかりになることは起こっていない。
ラックブリックの町から敷かれた、『外』と繋がるために活用されているルートの一つ。廉太郎も一度往復したばかりのその道を、再び西に走り続けた。
そして、一行はひとまずの目的地へとたどり着く。
前哨基地。むろん、数日ぶりの。
その基地が位置するのは、この世界における一種の境界線の付近。
瘴気に呑まれ死んだ土地と、真っ当な人間の支配する生存可能領域。ユーリアたち『町』の住人にとっての『内』と『外』。その境目のことである。
基地の主な目的は、『外側』からの干渉を監視すること。『外』で生きる人間にとって、こちら側は近寄ることさえ躊躇われる忌地。ゆえに攻め入ってこられる心配も少ないのだが、それでも侵入、接近への警戒は不可欠だ。
また、社会を追われ否応なしに逃げ延びてくるような同胞を見つけ、保護するのにも一役買っているらしい。
瘴気は大陸を塗りつぶす規模で広がり続けている。ゆえに境界線の範囲すべてを監視し続けることは不可能だが、『町』への最短ルートとして想定し得る範囲は、どうにかカバーできているようだ。
よって、
――『あれ、誰かと思えば』。
当然、『内側』の『町』からやってきた廉太郎たちの車も監視の網にかかることになる。事前に知らせも届けていない不審車両。近づくなり、すぐさま羽妖精のフリムがふらりと偵察に現れ、そして驚いたような声でそう告げてきた。
前回とは異なり、ユーリアは仕事で来たわけではない。完全なるプライベートだ。基地の職員にとってみれば、相手をする必要は何もなく、むしろ勤務中に余計な手間を持ち込んできたような部外者でしかない。
しかもユーリアの地位を考えれば、無下にもできない厄介な話。
だが、
――えー、何しに来たの。昨日の今日だよ?
――まぁいいだろ、泊ってけよ。
にも関わらず、基地の職員はそろって迷惑そうな顔一つ向けてこようとはしなかった。
そしてそのまま、快く歓迎されてしまったのである。
これには、さすがにユーリアも気まずそうであった。職権の乱用、どころか圧力に近いから、と。
しかし先の一件で、基地の面々からは三人とも、それぞれかなりの好感を持たれているようだった。
ユーリアに対する対応が特にあからさまで、初めてここを訪れたときとは大違い。彼女もまた、それを邪険にあしらうこともない。愛想よく振る舞うことができている。
関係は良好。
互いに積み重なったもののせいか、完全にはぎこちなさが抜け切れていないようだったけれど。
――――
『いつでもいいよ』
フリムからの合図に、ユーリアは軽く深呼吸をしてから声を発する。
「あー、聞こえるかしら」
『聞こえているとも』
「……どうも、こんばんは」
入れさせてもらった通信室には二人だけ、ユーリアとフリムしか居ない。
だが返された言葉は、ここではない向こう側――『町』に居るルートヴィヒからのもの。
正確には彼の言葉が、彼の代わりに届けられている。それでもユーリアの頭に響く声や口調は、彼のそれに良く真似られたものであるのだ。
超遠距離の思念通話。
テレパシーの能力を有する二人の羽妖精を介して、疑似的な会話通信を実現させるもの。要するに、離れた仲間と話しができる存在に協力してもらって、それぞれ傍らに立った第三者から預かった言葉を、代わりに伝え合ってもらうというもの。
伝言ゲームのような仕組みである。
当然、いくらなんでもその通信距離には限度がある。この基地や『町』の機関本部にはその問題を解決するための設備があり、その間の道中には思念を中継するための拠点が点々としている。
「悪かったわね、急に呼び出したりなんかして」
『構わないよ』
――そう。
なにもこの基地に立ち寄ったのは、休憩のためでも、顔見せの挨拶のためでもない。
ユーリアにはこの基地に、この通信室に一つの大事な用があった。
直属の上司に対する、長期休暇の要請である。
機関に属する魔術師、その義務として、彼女は町の待機戦力となっていなければならない。指令が下っていない状態の方が多いおかげで、町では基本自由にしているが、それも半ば勤務状態のようなもの。
無断でどこかへ行ってしまえるほど、気安い立場にはいないのだ。
「……ごめんなさい」
とりあえず、ユーリアは初手で謝っておいた。
とにかく印象が大事である。殊勝な態度を見せることで、少しでも成功率をあげてしまいたい。
「事後承諾になってしまうけれど、私にはこれからするべきことがあるの。だから――」
『休暇がほしい、というんだね?』
「そ、そうよ。……なんだ、話が早いじゃない」
動揺するほどの、強い違和感。
いくらなんでも理解が早い、早過ぎである。ルートヴィヒはここまで察しのいい男ではない。言わずとも伝わることを、懇切丁寧に口にさせたがるような、脳構造と性格の両方に欠陥があるような男なのだ。
これでは普段のもどかしく、苛立たしい会話が嘘のよう。ユーリアはかえって身構えてしまい、
「で、どうなの? 言っておくけど、私――」
『いいとも』
「そのくらいの権利はって……え?」
『好きにしなさい』
それで、今度こそ面食らってしまっていた。
何もかもが予想外で、上手く言葉が続いてこない。許可は下りないだろうと思っていた――少なくとも簡単には。だから、無理やりにでも押し通してみせるつもりだったのに。
話しが旨過ぎる。
何かの食い違いがあるのか。どちらかが勘違いをしているのか。それとも、騙されているのだろうか。
ユーリアはそんな不信感をぬぐうように、
「ほ、ほんとに? 何も言うことないの?」
『もちろん』
「え、えぇー……」
何だかもう、気分的には初対面の相手と話しているような感じだった。気分も妙に上ずったものにさせられてしまう。
誰だ、この人のいい上司は。
もしかして今日はいい日なのかと、どきどきしながら問いを重ね、
「ねぇ、どのくらいお休みもらえるの?」
『好きなだけ。帰りたくなったら戻っておいで』
「それは、また……」
『なにせ、そう長いこと離れてはいられないだろう? 君は、私から』
ユーリアの口元を、歪に笑みが走っていた。
冗談と受け取ったからではない。誰と話しをしているのか、よく思い出させてもらったからだ。
「……ありがとう、とだけ言っておくわ。今回はね」
――でも、そういう言い方は他人を怒らせるだけだって、いい加減覚えてしまいなさいよ。もっとも、あなたはわざと私を苛立たせたいのでしょうけれど。
顔を付き合わせていなくて良かった。せっかく取った言質を、気まぐれで反故にされてもたまらないから。
『それだけの用なら、私はこれで失礼する。客人を待たせているからね』
「客……。あっ、待って――」
一瞬、引っかかるものを感じたユーリアだが、通信を切られる前に言い残すべきだった情報を思い出し、
「これは独り言なのだけれど、明日は町の警戒レベルを上げておきなさい。……一応ね」
『心配ないよ』
再び、違和感。
妙な言い方だな、と思ったのだ。
何のことだとか、必要ないだとかではなく――心配ない。
そんな言葉が選ばれるのに、いったいどういう思考の組み立てと前提があったというのだろう。
――まぁ、いっか。
結果だけ見れば万々歳。もちろんダメと言われても行ってしまうつもりだったのだが、お咎めはないに越したこともない。
罰則を恐れているのではなく、単に小言がうっとおしかっただけなのだが。
『――あ、帰っちゃったって』
向こうから解散の合図を受け取ったフリムが、自身の声質に切り替えユーリアを労う。『お疲れ』と、立場上その気苦労もよく分かってくれている。
共感で仲間意識が自然と高めあえている。そんなフリムに、ユーリアはためらいがちに微笑みかけ、
「えっと、もう一件用事あるのだけど……いい?」
『いいよ』
気のいい返答に、緩みかけた気持ち引き締める。本題は今済んだ方だが、個人的な重要度が高いのは、むしろこれからの方の用事。気の重くなる度合いとしても、やはり遥かに高いもので――
「私のお母さん、呼び出してもらえるかしら」
――――――――
待合のホール、廉太郎はクリスと共にそこに待機させてもらっていた。
やがて、その入り口の戸が横に開き、通信室から戻ってきたユーリアが一仕事終えた調子の声で戻ってくる。
「おまたせ……」
その顔に、廉太郎は嫌な予感を浮かべてしまいながらも、
「あっ、どうだった?」
「うーん」
「まさか……」
なにせ急な話。
労働の常識から考えて、こんなユーリアの自由行動などそうそう許されるものではあるまい。それでも通信室に行く前のユーリアは勝算がある様子だったが、現在の彼女の表情にはやや浮かない影が差し込んでしまっている。
ダメだったのか。
ならそれでもいい。ユーリアの安全を思うのであれば、むしろほっとするべきでさえある。
だが、気持ちはどうしても、はらはらとさせられてしまうのだった。浅ましいことに。
「あっ、心配しないで。承認自体はちゃんともらったし、しばらく私は自由にできるもの」
「……そう」
幸か不幸か。そんな風に、複雑にさえ感じてしまう。
そんな自分の心に折り合いがつけられない、選択は正しいどころか最悪を選んでいるような予感がある。
そんな廉太郎を前に、ユーリアは「でも――」と言い淀んでみせ、
「その、意外なほど……あっさり許されてしまったものだから」
「おや」と、クリスは意外そうに「良いことじゃないですか、職場的には」
「そうなんだけど、あまりに話しが早すぎて。……ねぇ?」
不意に同意を頭上に求めるユーリア。気づけばそこには、寄り添うようにフリムがくっついて浮遊している。フリムは『確かにそうだ』と応えるように、自身の身体の光を何度か点滅させていた。
『なんかね、気持ち悪かった。どうでもいいよ、って言われてたみたい』
「そうなのよ。まるで……」
――まるで、元から知っていたかのよう。
そんな呟きを口元で呑みこむユーリアに、いまいち彼女の上司の人物像が――前に一度会ったとはいえ――掴みきれていない廉太郎は、「あぁ、そうだ」と言って話を切り変え、
「ユーリア、その……アイヴィさんとは?」
「ん、そっちは完璧よ。上手いこと言ってごまかせたわ」
うって変わって朗らかになるユーリア。よほど口が回ったのか、自慢げに片目を閉じて誇らし気であった
「あなたの事情をだしにしてね」
「俺の?」
「えぇ。『どうしても今、このときを逃せないのーっ』とかなんとか、ね」
アイヴィにはまだ、知られていない。
廉太郎が故郷に帰れないどころか、帰る『故郷』さえ亡くしてしまっていることも。家族や友人、自分自身の命さえ、すでに元のかたちではなくなってしまっていることも。そして、それを含めた面倒ごとに巻き込まれてしまっていることさえも。
だから、アイヴィの中で廉太郎が帰る方法を探していることになっている以上、これは決して不自然ではない。何らかの手がかりを不意に見つけ、それを追うため、直接の報告をする間もなく遠出をする羽目になってしまったのだと――そういうことになるからだ。
「……ごめん。お母さんに、そんな嘘をつかせてしまうなんて」
「いいのよ。親なんて、一番嘘がつけちゃう相手じゃない」
思わずどきりとさせられる。
あぁ、そういうものなのか。
むしろ親にだけは、絶対に嘘をつけないものだと思っていたのに。
「ふふ、仕事じゃないってのは嘘じゃないしね。変に心配させることないわ」
「そうだね、それは良かった」
――良いわけがあるか。
仕事じゃないから、危険な目には遭わないから。そう思ったからこそ引き留めることなく送り出してくれたのだろうに。
嘘ではすまない、欺いている。裏切り。子のユーリアではなく廉太郎が。親としてのアイヴィに対し、これ以上の不義理も他にあるまい。
誰も彼も、自分自身さえも裏切ってしまっているような気分だった。
果たして、友情とは。
誰かが向けてくれるそれに甘えて、受け入れてしまって、それで相手を危険に巻き込むことをも良しとしてしまえるものなのだろうか。
『んー分かんないけど、遊びに行くの?』
能天気な声が、流された放送音声のように聞こえてくる。通信役になった都合上、断片的に事情を知るはめになったフリムが、好奇心を滲ませながら『熱い仲だね』とユーリアに近寄る。
羽妖精の姿は宙に浮かんだ光のようにしか見えない。どこに視線をやっているのか雰囲気でしか読み取れないが、含まされた意図からにやにやと眺められているような気になってしまう。
「ユーリア、もう訂正していいんじゃないかな」
「ん、なんだかそれも面倒になってしまったわね。思ったより影響があったみたいだし」
元の世界に帰る云々の話が白紙になったことで、遡って、ユーリアの近くに居るための言い訳、男女の仲であるなどという嘘も不要になったはずなのだが。
――いつの間にか、会う人会う人がみなそれを前提にして接触してくることにも慣れてしまっていたような気がする。
それもまた嘘、裏切りの、ツケのようなものなのか。
損や面倒に後になって襲われるのはユーリアの方だと分かっていながら、彼女の計らいにただ甘んじるだけで、そんな想像を怠ってしまっていたことの。
――――――――
それ以上の長居をすることなく、廉太郎たち三人は基地を後にしていた。
フリムをはじめ、顔見知りの職員たちにいろいろと面倒を見られかけはしたものの、何とかそれを断りきる。最低限の見送りに留めてもらったのだった。
ろくに休憩もとらずそそくさと基地を抜けたのは、むろん、敵の追跡を考慮してのことである。
現時点で、ウィラーにどれだけこちらの行動や意図が把握されているのかは不明だが、警戒はいくらしても足りないくらいだ。
急いでいる都合上、そして勤務中の者の手を煩わせるわけにもいかない以上、魔動車から馬車に乗り換えることはできなかった。『外』の世界での普及率から、どうしても目立ってしまうというリスクを抱えることにはなる。だが、背に腹を代えられる状況ではない。
「汽車に乗るわよ」
ユーリアは初めにそう言った。行動の指針を定めてくれたのだ。
基地を抜けて車を飛ばし、瘴気エリアの境界線を抜けた先の目的地はオーテロマ。基地から最も近い、人の集まりのいい大きな町。ゆえにユーリアたち機関の職員もその都度利用している、いわば『外』の拠点とも言える場所。
廉太郎たち三人にとっては、基地と同じく数日ぶり。
前回は気づかなかったのだが、この町には鉄道の敷かれた駅があった。この町がこの大陸における生存可能領域の最東端である以上、当然『境界』をまたいで瘴土に向かうような便は動いていない。
ちなみに、ユーリアたちにとっては動いてもらっては困るという事情もある。隠れて身を守っている以上、敵の侵攻を手助けする手段を放置しておけるはずもない。かつて使われていた不都合なレールは、すべて破壊してしまっている。
代償に、自分たちの交通の便も悪くなってはいるのだろうが。
「車の移動だと限界があるもの。色々とね」
小回りは利くが、やはり目立つ。
なにせ廉太郎たちは、一般の人間たちに対する警戒もしていなければならないのだから。
三人に――少なくとも表立った――異常性はなく、人の社会から排除される理由は本来ない。だが、あくまで『外側』の社会は敵地そのもの。油断はできない。
それに、馬車だろうが魔動車だろうがその移動にはどうしたって孤立を伴う。襲われやすい状況を作ってしまうようなものだ。
その点、一度汽車に乗ってさえしまえばあらゆる問題が消滅する。ゆえに敵にも読まれやすいだろうが、乗る駅はともかく降りる駅が特定されることはない。足取りを掴まれやすいのはこの町までで、それ以降のリスクはかなり低いものとなる。
――と、そういう手はずになっていたのだが。
しかし。
「えぇ――っ、今日はもう乗れないの!?」
「すみませんね」
当てが外れ、弱った表情のユーリアが駅員の男に詰め寄っている。男は対応にも慣れた様子で、言うほど悪びれた素振りもなくやってきた客を片手間に宥めはじめた。
さほど広くもない駅の構内には、確かに。他の利用客の姿はない。ガス灯は薄ぼんやりと灯りをつけていたが、人の気配はすべて他の駅員によるもので、運営している様子はみられない。
現在の時刻を換算すれば、二十一時過ぎに相当している。
だが、ユーリアの乗るつもりだった便は寝台夜行の汽車である。毎日深夜に始点扱いでここを発つ、乗りなれたやつがあるのだ、と。
「どうしてよ、もう! 今日に限って……」
「見てのとおり、朝まで見合わせですわ。最近は物騒なものでして」
詳しく話すつもりも、ていねいに対応するつもりもないのか、駅員はぞんざいに壁の掲示板へとくすんだ指を指し示し、
「数日前にもいろいろあったでしょう? 人死にが出たり。で、制限してるわけですよ」
「うっ……」
思い当る節がある、どころではない。
三人とも、それぞれ当事者として一枚噛んでしまっている。肩身の狭い思いで、そのままそそくさと身を引いてしまうしかなかった。
特に、ユーリアは危ない。
廉太郎とクリスは地下でのトラブルだったからまだしも、彼女は白昼堂々と目立ってしまっていたはずだ。誰かに顔を覚えられていたとしても、おかしくはない。
心なしか、駅を後にする足取りが身を隠したがるものになる。まばらに人気の残る夜の町に戻されて、計画を狂わされてしまった三人は行き先を見失っていた。
「残念でしたね」苦い顔で、クリスは例の一件を思い浮かべつつ「ユーリアさん、これからのプランとか浮かびます?」
「うーん、……翌朝まで、待機するしかないと思うわ」
「ふむ、仕方ないですかね」
そんな二人の会話に、廉太郎は一抹の不安を覚えてしまい、
「……大丈夫かな」
「え?」
「俺たちがここで鉄道に乗りたがるのは誰でも予想できる。そしたら、今夜の便がないのも、足止めを食らってるのだって――」
当然、すぐに気づかれる。
一晩の間に探されてしまうか、あるいは翌朝の駅を見張られてしまうか。そうやって、発見される可能性はどうしたって高いように思えてならない。
ならばいっそ、多少のリスクや不便を背負ってでも身軽な車両を使うべき。それで別の駅まで移動し、改めて乗車を試みるのだ。
今、この町は最も注目度が高まっている。そんな折に、一晩も留まっているようではあまりに悠長ではないか。
「宿でも取って立てこもってしまえば、そうそう見つかることもないんじゃない?」
「……どう思う、クリス」
自信を見せるユーリアにもいまいち納得させてもらうことができず、廉太郎は判断を隣に任せてみた。クリスの表情はどちらともつかない渋いものであったが、否定や代案を口にするつもりはないようで、
「悠長だとは私も思います。ですが、それが逆に良いのかもしれません」
「はぁ?」
「意表をつけるかもしれない、ってことです」
「……あぁ、なるほど」
脅しをかけて町からすぐさま逃げ出したような相手が、まさか足止め一つで一晩もゆっくりしている――などと、そんな悠長な真似をするとは敵も思わない。そういうことだ。
だが、それは楽観的な推測でしかなくて、
「でも通じるか、そんな小細工みたいなの。現にウィラーは、俺の頭にいつでも入れるだとか言ってたんだぞ?」
「そんなの、はったりに決まってるわ」
口にした廉太郎の不安を、不確かなものだとユーリアが強く一蹴し、
「あれから今まで、一度も干渉してこないのがその証拠よ」
「そうだ、ね……確かに――」
頭の中に入られたのは事実である。現実での一瞬の間に、あれこれと話やら映像やらを見せつけられてきたのである。
ならば『いつでも』というのが誤りか。
でなければ困る。四六時中思考を読まれてしまうようなものなのだ。そうなれば逃げることも隠れることもできないし、精神的にもっと追い詰め抵抗する気力を奪うことだってきっと容易い。
能力の使用に限界があるのか、それとも有効範囲の問題か。
そもそもが謎の能力。奴の――廉太郎たちの旧『故郷』を出自とする能力。その一端であることを仄めかされてはいるが、その全貌は一切が不明。
対策の立てようがない。
「……それに」
「ユーリア?」
ふと言いかけ、それきり言い淀んでしまったユーリアに不思議そうな目を向ける。率先して行き先を決め二人を引っ張っていた彼女だったが、そんな廉太郎に向き直るように足を止めると、
「それに正直に言うと、私は見つかってしまっても構わないって思ってる」
「――え?」
何を言い出すのかと驚く廉太郎を、じっと真剣な目が見つめていた。
思わず、たじろぎかけてしまう。それでも目をそらすことは、その表情がさせてくれなかった。
それから、ユーリアは唐突な話を切り出しはじめ、
「ねぇ廉太郎。あなた、これからの人生どうするつもりなの?」
「人生、か……どうなるんだろう」
思えば。
元の生活に帰るという目標を失ってから、一度も考えたことがない。
人生。そもそも、そんなものがあるという至極当たり前のことさえ忘れてしまっていたかのよう。
死んで蘇ったのか、死んだままなのか、それともまったく別の存在になってしまったのか。それさえ断言できないことだから、いつ覚めるかもしれない夢のように、先の未来を考える余裕があまりない。
知らされた衝撃と、直面している問題に気圧されているばかり。
でも、生き方を選ぶのが許されるというのなら。
望むことはただ一つ、誰にも迷惑はかけたくない。特にユーリアと、彼女の大事なものすべてに。
後はクリスと、それから『ロゼ』のこともある。
だがその二人は廉太郎と密接に繋がり過ぎていて、迷惑をかけないで今を過ごすという方法さえまったくもって見えてこない。
『ロゼ』に関しては、自身の魂ど同化している。最悪、死ねば解決するという言い分さえも通用しない。
それを踏まえて人生を思うと、あまりに肩には荷が重い。かつておぼろげながらも描けていた人生設計とは、比べ物にならないほど不鮮明。
人生のレール、その質が別物になっている。先は薄暗くて見えないし、荷物は何を落とすか分からないほどに酷い揺れが続いている。
「よく考えなさい」
それでも、彼女に諭されるまま思い浮かべてみるとなると、不思議と、全然悪くないもののように思えてくるのだった。
それどころか、幸福か安心か、そういうものだけに溢れているような、気楽なものを期待できてしまうような気さえしてきて、
「いつまでも逃げ続けるなんて絶対ムリ。仮にできるとしても、あなたにそんな生き方をしてほしいとは思わない」
「そりゃあ、俺だってそう思うけど……あぁ」
だから想像できないのか。これからの先の人生など。
逃げ切れるなんて思ってない。思えないほどに、敵やその背景は得体がしれない。それが仲間、同類だと言ってくるのだから尚更だ。
「今の私たちは逃げているのではなく、場所を変えているだけよ。私の町を巻き込まないように、あなたは遠ざけようとしてくれただけ」
その気持ちはとても嬉しかったんだけれどね――と、少し皮肉の込められた笑みが向けられ、
「弱みのなくなった今、私たちには考える時間と選択肢がある」
「選択肢……逃げる以外にってこと?」
「そうよ。一番良いのは、問題を解決してしまうことよね」
だから、いつか敵と接触するのであれば、ここで見つかってしまってもいいというのか。ならばむしろ早い方が、収集のつけようも残されているというもの。
「ユーリアさん、それは……」その発言にクリスは鋭く反応し、「こちらから、やり合うということですか?」
「ん、事情は世界の枠組みを超えて混み入ってしまっているようだけれど――でも、廉太郎は単に変な連中に絡まれているだけよ。反撃するのは当然だわ」
「ですが、いくらあなたでも――」
不安そうにおずおずと言い淀んだクリスに、「えぇ、薄々分かってる」とユーリアは謙虚な口調で笑いかけ、
「まずは冷静に、真っ当な話し合いで説得するか……あるいは交渉して、何らかのかたちで納得してもらうか――」
そして、最後の手段が実力行使なのだ。それをユーリアは否定していない。得体の知れない、自らの力が通用する保証もないのは分かっていても、それでも刃を交える気概が彼女にはある。
だがそれだけは、廉太郎が自ら回避しなければなるまい。敵の目的が自分の存在である以上、態度しだいで最悪の状況は回避できる。そのはずだ。
「いずれにせよ、敵を知らないままでは作戦の練りようがないもの」
「その通りだ。いつまでも君に、心配させ続けてるのも申し訳ないしね」
遅かれ早かれ、接触するのは避けられない。
「……そうですか。なら、この町でかち合うのは好都合です。幸い、警備も強化されているわけですしね」
やや賛同しきれていない思いを滲ませながらも、クリスがさらりと言い放つ。
だがそれは、初めから戦闘を前提にした意図での発言ではないのか。
『幸い』とは、利用でもするつもりなのか――とは、とてもではないが言えなかった。