第二十七話 脅迫
逃げられない。
そんな不穏な言葉を吐きながら、ウィラーは廉太郎の前でその両の腕を広げてみせる。この空間、夢、精神世界ともいうべき超空間。そこにある廉太郎にとっての脅威、ただならぬ何かを強調し示しているかのように。
「今さら言うまでもねぇだろうが、これをやってるのは俺だ」
昨晩に同じく。
違うのは、今回ウィラーの影響下にあるのが廉太郎だけだということだ。クリスも、ユーリアも居ない。そして、『ロゼ』も存在を現そうとはしてこない。
どこまでも広がるのは不毛な砂の海。空は星のない黒塗りの天井。物理的にこの場を脱するのも、ウィラーの接触から逃れるのも不可能な状況であるのは間違いない。
詰みというなら、先の展開よりも今この瞬間にこそ相応しい言葉だ。
唯一の、そして不確かな望みとしては、これが現実ではないということである。
「……夢、か」
言葉、概念として手っ取り早く捉えられるものは他にない。
だが、廉太郎に眠りに落ちた覚えなどなかった。記憶、意識の連続はほんの一瞬前から繋がったままだ。そう断言できる。
時間は昼の前、居眠りをするような予定もない。
ウィラーに襲われ、町へと逃げ帰り、合流した二人と路上に立って話をしている。
今この瞬間が、まさにその最中であるはずなのだ。
「あいや、違う」
ウィラーは呟いた廉太郎に訂正を入れると共に、心中の疑問にさえも応えるように一瞥すると、
「白昼夢だ」
「なんだって?」
「意識の間隙ってやつだよ。瞬きほどの一瞬に、まぶたの裏に見るような世界」
ならば――なるほど、廉太郎の認識に矛盾はない。
実際、突如として世界が切り替えられたような感覚をあの瞬間には覚えていた。目を閉じ、開けたときにはすべての景色が変わっていた。
白昼夢、空想と幻想で構築された心の世界。
その一瞬が、こうして廉太郎にウィラーとの会話をせしめているのだとすれば、自意識の体感時間は無視され引き延ばされていることになる。現実での廉太郎は、未だ一回のまばたきを終えずにあの場で立っているのだろう。
数秒ほどの寝落ちで、とても長い夢を見てしまったのと同じように。
「無茶苦茶な。そんなものを俺に、他人に見せられる、って――?」
恐怖。
この現状、これから起こりえる事象。何もかも未知であり、ふつふつと湧き上がるのは底知れぬ恐怖だ。
それを麻痺させるように、気安い調子で廉太郎は問う。世間話でもするように、どういう能力なんだよと、興味を示しているように。
そんな廉太郎に、口の端をにやりと曲げたウィラーは歌うように「すげぇだろ」と嘯いて、
「それが俺の能力だよ。キミの頭の中になら、俺はもう自由に入り込んじまえる」
「……いまいちそれで何をするのか分からないけど。確かに、すごいよ」
この世界の基準にしても、かなりぶっとんでしまっている。
どの人種族の魔法であろうと実現するのはおそらく不可能。妖精種の一部超存在でも、他人への精神干渉なんてせいぜいテレパシーが限界だ。
例外は、他者の魂に触れられるロゼくらいなもの。だが彼女にしてみても、ここまでの過干渉、こんな精神的拉致じみた真似など、到底できることとは思えない。
「不思議そうだな」
ではなぜ、目の前のこの男がそんな能力を宿しているというのか。
そんな疑問を顔に滲ませる廉太郎に、ウィラーは、
「だが、これはなにも俺が特別ってわけじゃない」
「そうか……あんたら集団、全員が大層な力を使えてるらしいな」
クリスの話では――あのとき、前哨基地にたった一人で乗り込んできた先の一件の黒幕とおぼしき謎の男、メインデルト。彼もまた、ウィラーと同じ集団に属する者であるらしい。
思えば奴も、不可解な、道理の外れた能力を有していた。
しかしそれは、ウィラーの持つ能力とはまったく異なってもいたはずだ。
「あぁ。俺たちは色々、この世界を弄れる」
「俺たち、って……」
不穏な言葉に眉をひそめた。
『弄る』という言葉の選択もそうなのだが、反応したのはむしろ『俺たち』という枠組みの方。いつの間にか、自分までそこに入れられてしまっているかのような口ぶりに聞こえて、
「――弄るというと、どんな風に?」
「人によるぜ。何でもできるのかも知れねぇ」
さらに底知れぬものを感じ取り、心臓が冷汗をかくように委縮しだしていた。
やはりクリスの言う通り、そして廉太郎が実感した通り、ウィラーたち『集団』は明らかにこの世界にとって外敵である。彼らが敵視しているのは『仇敵』の方であるはずなのに、その過程で大事に持つべきこの世界への配慮がどうしても欠けているように感じてしまう。
根拠はない。
だが、元々自分たち『故郷』の残り香は『仇敵』に送り込まれた外来種であり、侵略者だ。
だからこそ、どこからしいと思えてしまう。
運命から自立し、反旗を翻しているようでいて――その実、結局いいように使われているままなのではないのかと。
「で、だ……。キミの場合は、いったい何ができるんだろうな」
「興味ないよ、そんなこと」
表面上の平静さを、場違いにも思える虚勢で意味もなく取りつくろっていた。
仄めかされる餌に乗る気はない。だがやはり外来種、同類に共通する異常性なのだということが分かってしまう。廉太郎とウィラーの境遇に違いはない。今の廉太郎に自覚できる力が何もないのは、魔法と同じく不可能だからか、それとも指導できる者がいなかったからか。
「もったいねぇな、何でもできるかも知れねぇのによ。……ま、だからこそ見逃してやれないってワケなんだが」
――どういうことだ?
廉太郎がそう問いつめる前に、突如として周囲の景色が歪み始めていた。
流していた映像が急に乱れたかのように、濁流にでも顔から呑まれたかのように。
「うっ――」
だが身構えたのもむなしく、場面はたやすく切り替えられていた。
景色が一変する。絵にかいたような無為の砂漠から、人の営みを感じる建造物に囲まれた路地の上へと。
そこは見慣れた町の中、ラックブリックで見るものと同じ光景が広がっていた。
一瞬、現実に戻ってきたのかと廉太郎は思った。一瞬のまどろみじみた幻覚から、ようやく意識が覚醒したのかと錯覚する。
「ち、違う……おかしい。変だ」
周囲をきょろきょろと見渡して、すぐに空、天井の色が黒いままであることに気づいてしまう。にも関わらず、周囲の景観は真上に上った太陽に照らされているかのように鮮明。
直感的に、廉太郎はこれが先の砂漠と同じく造り物、幻想であると思い至る。
白昼夢はまだ終わっていない。
これはジオラマ、心か頭の上で再現されたにすぎないもの。
あまりに精巧にできていた。廉太郎が今目にしている場所は、この空間に引きずり込まれる直前に居たのと同じもの。当然、その場に立っていたユーリアとクリスの姿もあった。
だが、動く気配はなく生気も感じられない。
造形こそ本物と見分けがつかないまでも、それではマネキンと変わるまい。
あの瞬間の現実が再現された光景である。が、そこに廉太郎自身の姿は用意されていなかった。自分だけが生身で入り込んだジオラマを前に、時間でも止められたかのような錯覚を覚えそうになってしまう。
「……なんだ、これ」
「シミュレーションだ」
どこからともなく、ウィラーの声が耳元に届く。
次の瞬間――。
「ぁ――ッ!?」
爆ぜていた。
世界、空間が、周囲丸ごと。
爆風、爆音。建物とも路地とも判別できぬそれらが、衝撃を伴いまき散らしている。仮想、精神空間の中でありながら目と耳をやられ、事態の把握もできそうにない。
飛散する大小の瓦礫と衝撃波に当てられながら、廉太郎の体は負傷することなく、ただ突風にみまわれた被災者のごとくその場に釘付けにされていた。立っていることすら困難で、踏みとどまる体は顔を両腕で覆い目を開けることさえできそうにない。
思考は真っ白に停止していて、呆けたように衝撃に身を任せてしまっている。
触覚はあるのに、痛みはなかった。
それでも地面から、側面から――全方向からくる地震のような鳴動に晒されて、現実のものと遜色のない恐怖が腹の底から湧き上がっている。
「ウィ、ラー……!!」
たまらず上げた悲鳴のような呼びかけ。返答はなかった。
代わりに、空間の揺れが収まった。
怖いほどの静寂に、恐る恐る廉太郎は目を開ける。
瞬間、息を呑んでいた。
「――ッ」
半ば予想ができたはずの光景、変わり果てた町の残骸を前に、言葉も忘れてただ呆然と立ちつくしてしまう。
こんな瓦礫の山を、映像か写真かなにかで見たことがある。
災害や、空爆のあと。道具を媒介にした他人事でしかなかった。
だが、そこで廉太郎が目にするものは、それらとはまるで異なっていた。虚構、嘘という点では映画などよりよほど現実離れしているというのに、そこには有無を言わさぬ迫力と、心を刺すような痛みがあった。
周囲を見渡して、無事でいる建物は一つもなかった。根こそぎ、原型が残らないほどの破壊に呑まれた後である。どこが道でどれが建物の痕なのか、思い出すことすら困難を極める。
そして、それら瓦礫の山。石や木材、ガラス、鉄。
雑多に遺棄されたゴミ捨て場のような光景は、わざとらしいほど赤く染められたものであった。
何が起きたのか、何を見せられているのかは――すぐに理解してしまった。
悲鳴や断末魔の類いは一度も耳にしていない。それはそうだ、直前に時が止まったようだと感じたほどなのだ。ここで砕けたマネキンに、声を発するような命など宿っているわけでは決してない。
発したとして、廉太郎の頭の中、白昼夢でのできごとだ。
それをいちいち悲劇と捉えてしまうようでは、赤の他人にも笑われてしまう。
だが、周囲を見るかぎり、この有様で生き残れる者などいないのだろう。町並みがご丁寧に完璧に再現されているのだから、住民にしても同じだけの頭数がここに用意されているのだと推測できる。
「……えっ」
その事実が、ゆっくりと廉太郎の心に焦燥感を刻んでいく。
現実でないとは分かってはいる。それを失念するほど混乱の中にいるわけではない。むしろ、そうでなければならない――と、縋るように、あり得ない現実感を否定したくてたまらなかった。
だけど。
「あっ、そ……は?」
ようやく、直前まで誰の虚像の傍に居たのかを思い出して。
周囲に散見する塵のような肉片と、塗料のような色合いがどこから発生したのかに思い至って。
――気づいたときにはもう、胃が焼けつきそうになるまで嘔吐を繰り返し終えた後だった。
頭から崩れ落ちたのか、無骨でおぞましい地獄のような地面が眼前に迫っている。
逃げ出すように立ち上がろうとして、力を込めた両手が考えたくもない何かを押しつぶしていた。必死で立ち上がってみたところで、腰が抜けて前に歩き進むこともできず、ふらふらと背中の方へと後ずさり、
「な、なんでこんな……てめぇ、何の意味があって――」
「分かれよ」
またしても、どこからか。
容赦のない言葉が降り注いでいた。
「一日待つ。明日、変わった答えを聞きにいく」
言葉の意味を、ウィラーの意図を理解してしまうのが恐ろしくて、廉太郎は感情の波に任せて考えを巡らせるのを放棄した。
目頭が酷く痛み、頬を水滴がつたう。
ふと、泣いているのかと思った。が、いざ手を当ててみればそれはただの汗であった。気づけば、酷く汗をかいる。きつく目元を結んだまま、耳を塞いでも抑えきれない鼓動の痛みに襲われていた。
――れ、……?
どこからか、耳ではない器官を通して声が聞こえた。
その声の出所を必死で求めるように、廉太郎は首を回して周囲を見渡し、
「――廉太郎?」
そして、はっとして自分の目を開ける。
はっきりと、意識の覚醒したような、うたた寝から跳ねるように目覚めたような感覚があった。
目の前に見えたのは、不思議そうに顔色を窺ってくるユーリアの顔。その隣にはクリスも居た。辺りに広がるのは、何事にも見舞われていない、平穏を絵にかいたような日常の風景。
まぎれもない、現実の光景。中断された現実の続き。
そこに戻ってきたのだ。目が覚めたのだ。
開放されたと、そう言い換えてしまってもいい。
「あ、うぅっ……」
「えっと――」
やはり、ある程度の時間を要したウィラーとの会話も、現実ではすべて一瞬に起こったことなのか。ユーリアは何事もなかったかのように、ただ会話の最中にふと相手の体調がすぐれないのかもと感じたかのように、
「どうかしたの?」
些細な好奇心を廉太郎に向ける。
それに対し、廉太郎は――。
「い、いや……何でもない、何でもないよ」
と、そう言うより他に言葉はなかった。
思い浮かばなかったのだ。
今しがた体験したすべて、認めてしまうのが恐ろしくて。
明らかなウィラーの脅し、町全体を人質にとられたような現実を理解してしまうのが恐ろしくて。
そして、それをユーリアに知られてしまうのも嫌だった。確固たる理由も、打算も何もそこにはなかった。ただただ、恐怖に負けて口がそう勝手に動いたのだ。
「ただ、また……泣けなかったなって」
自嘲するように、それを少しだけ後悔して。
ようやく、まだ何事も起きていない二人の無事を安堵することができていた。