第二十一話 自己嫌悪
「なんてことよ、それ――」
目が覚めると同時に飛び起きた。服を着なおすのもそこそこに、手早い身支度を整えざまに。ふらつく足をも無視しながら、ユーリアは自分の部屋を後にする。
行き先はむろん、廉太郎の居る部屋だ。
正直言って、自信はない。
あの空間で聞かされた、耳を疑う発言の数々。ウィラーの開示した世界の枠組みと、その対立構造。
それが真実なのか、確証がない。
自分たちの住むこの世界が、ただ滅ぶのを待つだけの先のないものであることは、周知の事実として分かっていた。それが、他の世界からの攻撃だなどと――あまりに想像を超えていて、これ以上ないほど馬鹿げている。
なおかつ、廉太郎はそれに伴い送り込まれた工作員で、彼の住んでいた世界もまた、その敵とやらにすでに殺された後である――などと。
ふざけた話だ。
あっていい話ではない。とても認められたものではない。
勝手知る階段を下りるだけなのに、やけに足がもたついて転げ落ちそうになってしまう。きっと、寝ぼけているからだろう。
だから変な夢を見て、あろうことかそれを現実と混同しているのだ。
廉太郎もクリスも、まったく無関係に眠りこけているに違いない。このままの勢いで自分が必死に叩き起こしても、笑われてしまうだけ。
――そんな期待に縋りたかった。
「廉太郎……っ」
脳裏に浮かぶのは、目覚める直前に見た彼の様子。
思い返すだけで目を背けてしまいたくなる。当然だ。今の廉太郎の立場、その心情は想像を絶する。
自分に置き換えてみるだけでも、身がすくむほど恐ろしい。
故郷も、居場所も。家族も、友達も、知り合いも。
十七年間積み重ねてきた人生のすべてを、廉太郎は失ったことになる。正確にはとっくに失われた後。自分自身でさえ死んだ後、何者かさえ定かでない。
あの短い会話で知らされた彼にとっては、それらを一晩で失ったようなもの。
吐きそうな気分を抱えながら、ユーリアは何とか二階分の階段を下った。そして廉太郎に貸している部屋の前までたどり着き、ノックも忘れてそのドアを開けようと、その取っ手に手をかけようとした矢先、
「……クリス」
音もなく薄くドアを開き、クリスはその隙間を縫うようにその体を廊下へ滑らせてくる。部屋の中を見せたくないと言わんばかりの行動に躊躇いを見せるユーリアに対し、クリスも同じく言葉に迷ったようにはにかんで、
「えぇ。――お先でした」
その言葉と様子に、ユーリアはやっと確信してしまう。
あれは確かに夢ではなかったのだと。自分とクリスは何が起きたのかを共有している。共に廉太郎を気にかけて部屋にやってきた。
そしておそらく、あれがそのまま真実になってしまうのだろうということも。
ぎりぎりまで保っていた期待など、儚くも打ち砕かれたことになる
「それで……廉太郎は」
「起きてますよ」
「なら――」
気が逸りドアに手が伸びかけたユーリアへ、「……ですが!」とクリスは強く制止を投げかけて、
「その……少し、顔を見るのは待ってあげてくれませんか?」
「ど、ど――どうしてよ」
まるで不幸でも隠されているようで、余計な不安が一瞬にしてあちこちと刺激されてしまう。
あまりに動転した様子が可笑しかったのか、クリスは「落ち着いてください」と緊張が削がれたように苦笑を浮かべ、
「少々取り乱していましてね」
「……えぇ」
――分かっている。
「今の状態で人に会えば、意味もなく当たり散らしてしまいかねない。……なんて言って、少し落ち着いてから会いたいと」
「そんなの――」
当然だ。
まったく気にすることじゃない。自分だって気にならない。
いくら当たられたってかまわない。むしろ当たってほしいのだ。それで楽になれるなら。
辛いとき、人が一人で楽になれることは絶対にない。身に染みてユーリアはそれを知っている。親しい存在が必要なのだ。
すべてを失った廉太郎に残された人間関係は、もはやこの世界に来てからのものしかない。その人数は限られている。
一番親しくしている相手は、この自分をおいて他に居ない。うぬぼれることなくそう確信することができる。
だから、今すぐにでも傍に行ってやりたかった。
かけてあげられる言葉なんて何一つ思い浮かばないけれど。それでも、いてもたってもいられない。こうしている時間さえ、もどかしいほどに。
何よりユーリア自身が、その様子を見ずにはいられなかった。
「大丈夫よ。私、何でも受け止めてあげられるから」
「いや、そうでしょうけど――」
どこか、反応は歯切れが悪いものだった。
伝えづらいことが何かあるのかと、不安混じりに訝しむ。すると、クリスはその目を泳がせるように、
「その……だからこそという感じではありますが、どうにもユーリアさんだけにはどうしても会いたくないようで」
「――え」
殴られたように狼狽えてしまう。
一時の拒絶なんて、それこそ一番あり得そうな反応だ。
しかし、わざわざ自分だけが名指しで締め出されているともなると話が違う。その理由に思い当れないせいもあって、受け止めてやるつもりだった『八つ当たり』が、思いほか重たい衝撃となってユーリアの心にぶつかっていく。
「いえいえ! 特別ってことですよ、逆に!」
困惑に曇るユーリアの顔を見たクリスは、突如慌てたように首を振り、
「ともかく、好意的に捉えておいてください。できるだけね」
「どういうこと?」
「ほら男子ですので。格好のつかない面は見せたくないのでしょうよ」
「それは……私も分かる、けど――」
事態が事態だけに、体面なんて気にさせてあげられる余裕がユーリアにはなかった。おこがましくて、とても口には出せないけれど。他人事には思えないほど、自分の心がかじかんでしまいそうなのだ。
なおも食い下がるユーリアに、説得は難しいことを悟ったのだろう。クリスはいきなり「すみません」――と大げさに頭を下げ、強引に結論を切り出してしまったのだ。
「……後で行かせますので。部屋で待っていてあげてください」
結局、ユーリアはその勢いに押し切られてしまった。
戸の前に立ったままのクリスに見送られるまま、すごすごと後ろ手に部屋へと引き返していく。
その道すがら、自分とクリスの何が違うのだろうかとふと思った。
クリスには見せられる弱みを、こちらには晒してくれず。彼女は部屋に居れるのに、自分は廊下で待つことさえ許してもらえない。
顔も見れないこの距離が、すっかり縮められたとうぬぼれていた心の距離と重なるようで、あまりに悔しいように思う。
――――――――
「……これでいいんですか」
ドアを閉めたクリスが、疲れた表情でため息混じりに声をかけてくる。
その顔にも、直前まで行われていた部屋の外での会話にも。廉太郎はどちらに対しても視線を向けてはいなかった。顔を伏し、床をぼんやりと眺めたままの姿勢で、クリスの問いかけにただ一言。
「あぁ、助かる」
「まったく……嫌な役割を押し付けられたものです」
責めるようなその声に、乾いた苦笑が口から零れた。
どうしても今、ユーリアにだけは会いたくない――そう駄々をこねて、無理を言ってクリスに彼女を追い返させた。
三人とも、どうやら揃ったタイミングで目を覚ましていた様子である。外はまだ暗く、自然に起きるには不自然な時刻だ。
「悪いな」
「別に、何でもしてやりますよ。今くらい」
不似合いな言葉を冗談めかしてかけながらも、クリスの表情は人知れず曇る。
「……そこまで、見られたくないんですか?」
「あぁ」
ユーリアにだけは見られたくない。とても、見せられないような有様だから。
クリスに言わせたように、『取り乱した』顔を、ではない。
むしろ、その逆。
――少しも取り乱せていない様子を、だ。
「だって、あれが全部本当なら――」
口ではそう言いながらも、先ほど頭に詰め込まされた話のすべてを、廉太郎は半ば丸々受け入れてしまっていた。嘘だと否定するだけの気力が、とっくにつきてしまっている。
「家族も、知り合いも……みんなもういない、会えないっていうのに。俺は、ただ少し驚かされただけで……今は、もう――」
その実、ほとんど冷静になってしまっている。
やるせない悲しみも、理不尽への怒りも。頭ではちゃんと思い描けているのに、心はそれについていかない。他人事か、映画か何かの悲劇でも見ているような――あるいは、それより酷いもの。
無関心、無感動。
その証拠に、涙一つ流すことができていないのだから。
喚いて、震えて。理性を忘れて、人や物に当たるのが当たり前で、誰もがして然るべき反応であろうにもかかわらず。
「ユーリアは……絶対気づくんだ。俺がたいして動揺もしてなければ、ろくに悲しんでさえもないって」
ユーリアは、あれだけ家族愛にも友情にも厚い女だから。廉太郎は身に染みて、ありありとその性格を知っている。
そんな彼女が今の廉太郎を一目見れば、そこに違和感を、自分の持つ感性との強いギャップを覚えないはずがない。
きっと、信じられないものでも見た気分になるだろう。
なんて薄情な、恐ろしく冷たい奴なのだろう――と。
他ならぬ廉太郎自身が、自分を客観視してみてそう思う。
だから、とても今は会えない。
――嫌われたくない。
「……現実感がないだけ、だと思いますけどね」
クリスは静かにそう言うと、廉太郎が腰かけるベッドの方に近づいていく。俯いたまま顔を見せない彼の頭部へと、慰めるような声を浴びせる。
「無理もない話ですよ。あんな断片的で怪しい話を急に聞かされて、らしい反応をしろって方が無茶な――」
「違うんだ」
その気遣いに居たたまれなくなる。
ユーリアから隠れる反動か、口は本心を隠す気などなく、とても軽くなってしまうようだった。
たとえばそれは、懺悔に近いものだったのかもしれない。
「だって俺は、あろうことか……ほっとさえしてるんだから」
家族も、知り合いも、属する社会も何もない。自分と同じく、別の世界にその枠組みごと滅ばされ、すでに過去の遺産としていくばくかの用途を残すのみ。
だとするなら、廉太郎がこの地に迷い込んだことで悲しんでいる人間もまた、存在しないということになる。
そもそも、一人がいきなり失踪したのではなく、すべてが等しく失われてしまっただけなのだから。
――あぁ、良かった。
心のどこかで、まぎれもない本心がそう囁く。
息子が知らせもなく急に居なくなって、十日以上も家を開けて、夜も眠れず過ごす羽目になる両親はいなかったのだ。
そんな親を見て兄に腹を立てる妹もいなければ、兄が居ないことを不思議に思うだけの幼く小さい弟もいない。
学校で自分の話題が出ることもなく、捜索願いが出されることもなく。万が一にも事件性があると誤解されることも、それで警察が動くようなことも、ニュースに乗ってしまうようなこともない。
これで誰にも、社会にも、迷惑をかけずに済んだ。
彼らを一定期間、あるいは一生、自分の失踪で苦しませてしまうような大罪を犯さずに済んだ。
これまでずっと、一番の気がかりがそれだった。
帰りたいなどと、それを避けるための手段に近いものでしかなかった。
「最低だろ」
だから重荷から開放された――と、そんな風に考えてしまう。
帰れないだけでは困るけれど、死んでいてくれるならむしろ助かる。本心を短くまとめてしまえば、そんな目を疑うような短文ができあがってしまうのだから。
「……さあね。分かりませんよ、私には」
「もっと、自分は上等な人間だと思ってたのに。でも――」
なんて矮小な考え方。頭の中をいの一番に渦巻く思考がこんなものだとは。家族や知り合いの死を嘆くことすら忘れて、何より先に自分ばかり。親不孝をせずに済んだと喜んだ後は、自己嫌悪か。
他人に迷惑がかからなければそれでいいのか。糾弾や罪の意識に煩わされなければそれでよくて、失ったものを惜しいと思うのは二の次か。
――ふと、廉太郎は唐突に気づく。
自分のことが好きじゃないと。
他人から一歩引いた付き合いしかできないのも、きっとそのせい。自信があるふりをして、その実人に誇れる内面が何もないことを自覚のないまま知っていたから。
外面がいいだけで、好感を持たれるように取り繕うことしか得意になれない。
蓋を開ければ、中身はこれほどまでに汚らわしい。
とても人に見せられない、みすぼらしいまでの自分自身。
「クリス――」
黙っているとただ現実に溺れてしまいそうで、そこから目を背けるように廉太郎は話を切り出した。
「あれは本当の事だと思うか?」
「……残念ながら。きっぱり保証しておきます」
「そっか」
さして落胆もせずそれを受け入れる。
ついでに、今ならもしやと顔を上げ、目の合うクリスにしまい続けていた問いを投げてみる。
「お前、もとから色々知ってたろ」
でなければ、ここまできっぱり自信をもった宣言ができるはずもない。
「はい」
「どうして?」
「それは――」
クリスは僅かに言い淀むも、
「そっちの世界の人間と、以前にも関係を繋いだことがあったからですよ」
「そっか……」
それは合点のいく答え。
やけに廉太郎の世界の事情に明るかったのも納得できる。どうりで過去も話したがらないわけだ。
別世界の人間である廉太郎とこうして魂を繋げているように、以前にも同じ存在と同じ関係を結んでいたということ。
その事実を隠していた理由など、聞くまでもなかった。
「あぁ……てことはお前、そうとう俺に気を使ってくれてたんだな」
「別に」
「ありがとう」
知らないままで居た方がいい事実を、懸命に隠そうとしてくれて。
こんなに酷い気分だからこそ、クリスを見つめる表情が微笑ましくふっと緩んでしまう。それを見て、クリスは明らかに照れ隠しだと分かる舌打ちを交え、
「私がしたくなかっただけのことで」
顔をしかめたクリスに、それ以上耳心地の良い言葉をかけてしまうのも逆に悪いように思った。
廉太郎は話を切り替えるように「あぁ、えぇと」と話を蒸し返し、
「あの男の話、まだ分からないことが山ほど――」
「ストップ」
しかし、それが始まる前にクリスは話を途切れさせてしまい、
「もう続きは明日にしましょう。一度寝て、頭も気分もリセットしておいた方がいい」
「まぁ、それもそうか」
気づけば、身も心も徹夜明けのように疲れ切っていた。
この調子で頭に情報を叩きこむには、あまりに理解が容易くない話になることだろう。
ならばさっさと休んでしまいたい――そう、ベッドに体を倒しかけたとき。
「――って馬鹿!」
胸倉を掴まれるような格好でクリスに就寝を押し留められ、何事かと驚いた顔を晒してしまう廉太郎。様子を窺おうにも、クリスは何やら呆れ切った表情で、「違うでしょ」と、言い聞かせるように口が開き、
「えっ。ユーリアさんのこと、朝まで放置する気なんですか?」
「い、いや……だって」
後ろめたさから視線を逸らす。
言い訳を探そうとして、あまりにも馬鹿馬鹿しくなってその気も失せる。いっそやけになる気持ちで、廉太郎は独り言のようにその心情を吐き出していた。
「俺は人でなしだよ。ユーリアになんて一発で軽蔑されて嫌われる」
「……本気で言ってんすか?」
「だって、俺自身がそうなんだから」
今の自分を隠そうとする。それは彼女を騙そうとしているのと何も変わらない。それが更に自分の卑劣さを増しているのにも、もちろん気づいている。
それでも、たとえユーリアを騙してでも、嫌われてしまうのは避けたかった。思いのほか、それが恐ろしく思えて。
だが、きっとそれも同じことなのだろう。
家族の心をかき乱ししたくない――が、ユーリアを失望させたくないに変わっただけなのだ。
共に、人でなしの発想。
――そうだ。
自分はもう、人ではないらしいじゃないか。一度世界ごと消えて、その後再現された亡霊のような何か。毒なのだから。どういう存在なのか、その詳細をまだ知らない。
今自分の心がこれほどまでにおぞましいのは、きっとそのせいに違いない。本来あった真っ当な心が、上手く再現されていないのではないか。欠陥が、後から与えられたからなのではないか。
などと、むなしいだけの言い訳だ。
続く先がないことが知れている逃げ道。
他人なんて結局のところ少しも重要に思っていない、そんな自分を自覚してしまった今となっては、あまりにも遅い期待だった。
「……あぁー、うるさい」
途端にクリスは手を離し、自然の流れで廉太郎の背は後ろへ倒れた。
文句を言うでもなく何を逆らうでもないその様子を、クリスは突き放すように見下ろして、
「面倒ですね本当に。どうでもいいじゃないですか、この際あなたのことなんて」
「えっ、えぇ……」
「かわいそうでしょ、ユーリアさんが」
「いや、かわいそうなのは――」
自分だ。
そのように振る舞わなければならなかったはずの人間だ。
だがそう訴えた目は完全に無視され、クリスは部屋を歩き廉太郎から離れていった。そうして、自ら閉めた部屋のドアの前に再び戻ると、廉太郎に見せつけるようにそれを開けてしまう。
「本気であの人を無視できるって?」
「無視って……。ただ、会いたくないだけだよ」
「そう思うなら、やっぱり今のあなたは動転してるってことになるんでしょうよ。自分で思うより」
知った風な口を聞かれて、言い返してやろうと思わなかったわけではない。
ただ、続く言葉に一発で崖まで追い詰められ、反抗する気力もなくなってしまったというだけのことだ。
「――行かないなら、今の全部チクってきますよ?」
ユーリアに。
自然とバレる方が遥かにマシに思えてならず、事故が起こると知っているバスに乗り込まされるような心持ちで、廉太郎は真っ暗な廊下の方へと一人足を踏み出していった。