第十一話 舞台
「少し、気になったから確認したいんだけど……」
「あぁ、気はつかわないで。私は自分の体質とか、別に触れられたくないだなんんてことは思わないもの」
廉太郎が言い淀んでしまった様子を察したのだろう。ユーリアは気楽な様子で言葉の先を促してくれた。
「生まれた世界を間違えた、そんな風なことを言っていたけど……それって二つの事が考えられるだろう?」
つまり廉太郎のように世界を移動してしまったのか、或いは単に彼女が特別すぎてそう感じざるを得なくなってしまったのかだ。
前者であれば確かな自覚がない以上、記憶にないほど子供の自分に起きたということになる。だからどうだということもないし、言動を振り返っても有り得ないと分かる話。しかしそこに何らかの繋がりを感じてしまった以上、未だ元の世界に帰る手がかり一つない廉太郎にとっては突き詰めなければならないものだった。
そこに触れる以上、彼女の特異性に話が及ぶことは避けられない……それ故の躊躇。
「うーん、覚えている限り世界を移動したなんてことはないけど……幼児期のことになると確証は無いわね。何も覚えてないもの」
当然の話だ。
「だから、確かなことまでは分からないわ」
「その、話を聞ける相手とかは……?」
はっきり『親は』とは言えなかった。親がいるなら当然聞こうとするだろうし、言うまでもない事だからだ。分からないと言った以上聞けないということで、それはつまり親がいないのだと暗に言っているのに等しい。
仮にいたとしても、親に自分の出生を疑うようなことを気軽に聞けるはずもない。そんなことを強いることはとてもできなかった。
しかしそういった躊躇は、別の形で裏切られることになる。
「子どものころに故郷も親も捨ててこの町に来たからね。私の生まれたころを知る人なんて居ないのよ」
「い、家出……って、どうして?」
それほど重いことを聞けるような仲ではなかった。
たとえ十年来の友人であろうと、廉太郎は本来聞けなかっただろう。
それでも迷わず聞いてしまったのは、無意識の内に彼女のことを知りたいと思っていたからだろう。本来の目的を超過していたその問いに、彼女は変わらぬ顔で言葉を紡いでいた。
「殺されそうになったからよ」
その短い返答に、気軽に聞いてしまったことを後悔させられてしまう。廉太郎は背筋まで凍り付いていたというのに、彼女はなんでもない事を口にしたかのように動じていない。
「ふふっ……何?」
一人で神妙になってしまった廉太郎を可笑しく思ってくれたのか、彼女はごく自然な笑みを浮かべている。
口調は、なだめすかすように穏やかでさえあった。
「私みたいな変わり者が、人間の世界で生かしてもらえるわけないじゃない」
「それは……」
忘れていた。
人間以外の人種、それから肉体や精神が変異した人間。それらがみな、人間の社会から排除される世界。
それらの排他的思考は先ほど見せられたロゼのように分かりやすい異常だけではなく、もっと些細な……言ってしまえば個性でしかないものにも適応されてしまうのだ。
普通の人間と異なる点が少しでもあれば、その対象になり得てしまう。
ユーリアもその一人で、だからこそ世界の例外のようなこの町に住んでいるのだ。彼女の体質が特異なのは誰の目にも明白。それは周囲のまっとうな人間にとって、見過ごせない程のものだったのだろう。
この世界の異常性を再度認識させられたようだった。今までどこか他人事のようであって、とても実感などなかった。
アイヴィも人間ではなくその対象であったが、やはり同族ではないためかその感覚が希薄になっていたのだ。
――あぁ、この世界は……おかしいのかも知れない。
そこで、初めてそう思った。
恐怖ではなく、狂気を肌で感じ取っていた。
「親は……?」
思わず口から滑り落ちてしまった言葉に、言ってすぐ後悔した。
後悔してばかりだ。
親元を離れているということは、親からも逃げてきたということであって、つまり親に殺される可能性すらあったということ。
それはどうしても否定の言葉を引き出したくなるような、酷く嫌な気分にさせられる想像だった。
「親か……さぞかし、疎ましかったのでしょうね」
そんな風に答えたユーリアは、まるで赤の他人の事でも口にしているかのよう。
なんの感情も見て取れなかった。悲しみだとか、怒りだとか……何事かを匂わせてしかるべきだろうに。
過度に態度を変えて見せたところで、それはかえって彼女に悪いのだろうと思ってしまう。もはや何とも思っていないような、切り捨てた過去であるのは確かなようであるからだ。
廉太郎は努めて自然な態度を保ちながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「そういうわけで、あなたの世界に興味があったのよ。もしかしたら私が気安く生きていけるくらいの、決定的な違いでもあるのかなと期待して」
「特に変わっているところは見つからないかな。俺の主観での話だけど」
ユーリアが何を苦としているのか、その具体的な対象など掴みきれていない。それでもこの世界で吸った空気、嗅いだ匂い、感じる温度や重力など、どれをとっても廉太郎の世界と大きな相違点を挙げることはできなかった。
「そう。残念ね」
彼女は大して残念そうでもなくそう言った。
笑ってはいなかった。
「でも、きっとここよりいい世界のはずよ。これ以上酷い世界があるなんて、私は思いたくない」
廉太郎はその言葉に返事を返すことが出来なかった。二つの世界を比べて断言出来てしまえるほど、廉太郎はどちらの世界にも詳しいとは言えない。今まで己が住んでいた世界のことを隅から隅までさらけ出して、それで誇れるかと問われれば自信がない。
「だから、あなたが無事帰れることを心から願っているわ」
その思いは本来ありがたいだけのものなのに、
「――ありがとう」
なぜか、少しだけ胸が痛くなってしまう。
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今から五十年以上前のことだ。
この世界と人類は皆、窮地に立たされていた。
人類とは言語を操る程度の知能をもつ種族の総称。人間種の他に、獣などと生態の一部を共有する亜人種、超自然的存在である妖精種、人並みの知性を持つ超生物である魔人種が存在する。
それらの分類は人間が自分たちの基準で定めたものでしかなく、そういった視点から捉えれば特に意味のある分類ではない。
しかしあの時代、人類は急速にその交流を共に広げていった。
大陸及び国家間での交流、相互の理解が進められたあの時代。皆が平等に生きる権利をお互いに認めていくことができていた。
国家間や種族間での争いが、当たり前のものからあってはならないものへと転換しようとしていた。発生した諸問題に対しては、世界の統一意思で対処するほどの体制が出来上がりつつあったのだ。
それはほんのわずかな、奇跡のような平和。
人が生きる限り争いは当然であり、何の戦争も起こり得ない世界などそれまで想像することさえできなかった。
世界は、確実に一段以上の階段を上っていった。
――しかし、その華々しい変化は階段ごと破壊されることになる。
始まりは異常気象、だったのだろう。
たしかなことは今となってはわからない。なにしろ、当時は世界中が大混乱に襲われていたし、その正確な情勢を把握しているものなどどこにもいなかったのだ。
単なる災害などとは誰も思わなかったほどに、それは異常だった。
国家間どころか国内の連携すらまるで取れなくなるほど何か。それにさらされた当時の人類がようやく事態を把握しようとしたときには、総てが手遅れだった。
五大大陸の一つ、世界の中心にある中立大陸。
その北部先端にある国際機関からの連絡が途絶えていた。あらゆる国家の集合地にして、世界の核。世界全体を襲った災害の後、真っ先に動くべき組織。
それが機能していない。
各国との連絡手段を特殊な通信魔法に頼っていた人類は、それで容易く孤立してしまっていた。
それぞれの国家が各自調査に向かったが、それらが帰還することは一度もない。
隣国との連携も上手くいかず、それどころか自国の現状を把握することすらままならない始末。
人が、自然と消えていくかのよう。
それを含め、人類はやがていくつかの事実を認めることになる。
災害によって世界の各地から謎の瘴気が発生するようになったこと。
その瘴気は土地を腐敗させ、生き物を死滅させるということ。
人の魂にまで影響を及ぼし、その肉体や精神を醜く歪めてしまうこと。
そしてその瘴気は世界中に急速に広がりつつあり、それが発生するようになった土地にはもはや人類は立ち入ることすらできないということ。
その段階で、すでに世界の人口は半分以上が失われたのだろうと言われている。
瘴気は中立大陸を中心に世界の南部の殆んどを飲み込み、そこに住む人間を国家機能ごと消し去っていた。
魂が歪みきった人間は死ぬわけではない。死ぬよりなお恐ろしい、自我を持たぬ化け物へと変異してしまう。
それらは魔物よりも強大な力を持ち、明確な意思を持って人類だけを狙い殺す。
そのせいで、また人口が減っていった。
誰もかれもがその対策に躍起になっていた。蔓延した瘴気の影響は、もはや世界のどこにでも存在が確認されるようになっていた。濃度の違いがあるだけで、安全圏はもうどこにもない。
逃げる場所はどこにもなかった。
そうして全ての人間が、その魂に均等な歪みを抱え始めた時、とうに知られていた事実を、そこで初めて問題視するようになっていた。
瘴気の影響を受けて化け物になってしまうのは、人類の中で人間だけだと。
人間はこの世界の終焉とも言うべき現象の原因の全てを、他種族によるものだと断定。そう思う根拠など何もなかったはずなのに、誰が疑うわけでもなくそれは人間の統一意思となっていった。
――これは人間という種だけを根絶やしにしようとする、他種族による戦争行為だと。
ほぼ同時期に、全世界で戦争が起こった。
人間の名目は生存競争。しかしその他の種族にとっては身に覚えのない言いがかりでしかない。
あの時、この世界にもはや無駄な戦いを起こす余力などどこにもないはずだと、人間以外の誰もが叫んでいた。
それは戦争と呼ぶには、あまりに一方的なものだった。
瘴気によって歪められた人間の魂は、やがて魔力へと変化していった。その魔力は、他の種族を圧倒するほど強力な力だったからだ。
それまで人種の中で人間のみが一切の魔力を持たず、魔法を使うことなどできなかった。魔力を自在に操る他種族とはその戦闘能力に大きな差があり、人間は武器の製造技術などを特出させることでその均衡を保っていたにすぎない。
皮肉なことに、人間に与えられた魔法はあまりに戦争と殺戮に特化していた。まるで敵を滅ぼすために与えられたかのような力によって、それらの争いでは人間側の完勝。
戦争どころか勝負にすらもならなかった。
虐殺は止まらなかった。人間以外の全ての人種を根絶やしにするまで、誰も止まる気はなかった。荒れ果てた世界の復興など二の次、兵や市民が駆り出されるどころか、自発的に敵を見つけ出そうと動いている始末。
そのころの人間にどんな大義名分や思想があったのかは分からない。ただ人間は、原因である彼らを抹消すれば、世界は救われると本気で信じていた。未だに疑問すら誰も抱かない。
他種族は執拗なまでの虐殺行為にそのほぼ全てが死に絶えていたし、辛うじて生き延びた者も皆行き場を失っていた。生きていくためには、もはや人類は立ち入れぬと言われた土地に向かうしかなかった。
人間でなければ魂は変異はしないとはいえ、環境も動植物も異常をきたしている。そのうえ、化け物のように暴れ回る元人間の闊歩する土地でもあった。そんな土地で生きていくことは、とても容易ではない。
それでも人の支配する平和な土地で待っているのは確実な死であり、彼らは不毛な土地で生きていくことを強いられるようになっていた。
そして、この町が位置するのもそんな土地だった。当然、元の住人は全滅している。もはや人の手を離れ捨てられていた城塞都市。
――都市国家ラックブリック。
そこに集ったのは多種多様な人類種と――それから仲間である同種から迫害された人間たち。
目につく他種族を排斥しつくした人間が行ったのは、仲間の選別だった。少しでも変異の兆候を見せた人間は躊躇うことなく処刑され、また瘴気の影響にかかわらず外見や思想が異質である者もその対象となった。
彼らは、他の種族がそうしたように汚染された土地へ逃げるしかなかった。
そこで集った彼らが共同体を作り上げたことは、本来ありえないような奇跡である。
当時の人間の狂気を思えば共生など考えられないことであったし、他の種族にとってはとても受け入れられないような確執があった。
それでも町は成立した。
今から、四十六年前の事である。
そして今日に至るまで、この奇妙な共同体は成立し続けている。
外の世界では、未だに人間が詰み損ねた他種族の残滓を滅ぼそうと探し求めている。
瘴気は広がり続け、世界の生存可能領域の六割を飲み込んでいる。
そして世界の人口は、百分の一以上減少したと言われている。
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廉太郎はそのような説明を受けていた。この世界の事と、この町の事。
町を一通り案内しながらユーリアが断片的に語ってくれたその実情は、とても一度で飲み込めるような話ではなかった。
当初この町の事を語ろうとしたユーリアは難色を示していたのだが、一度話始めると驚くほど饒舌に話してくれた。その際の口調には、特定の感情が込められていたように感じられる。まるで、忌々しい真実を吐き捨てているかのようで、当然の感性だと廉太郎は思った。
彼女の話は理路整然としていて、まるで講義であるかのように淀みなく進行していった。それだけでも彼女がこの世界の事を何度も頭の中で整理し、反芻していたのだというが伺えてしまう。
生まれる世界を間違えたという彼女の思いは、五感感覚によるものだけでなく感性にも由来しているのだろう。この世界はおかしく、そして自分もまたおかしいのだと二重に思っている。
そんな話を聞きながら見て回った街の景観など、ほとんど覚えられていない。対して広い町ではない。三十分もあればぐるりと周れるような小さな町を、たっぷり半日かけてまわっていたというのに。
思わずため息を吐いた。
二人にとって、無理やり決行したような気晴らしのような散策であったのだが、気は晴れるどころか重くなるばかりだった。廉太郎にはロゼの一件が心残りであったし、聞かされた世界の事情もとても重すぎたのだ。
ユーリアにも思うところがあるのか、人知れず暗い顔をしているようだった。
――この町はこんなに穏やかに見えるのに……。
アイヴィのいた喫茶店からほど近い、高く茂った木々に囲まれた公園。そのベンチに並んで腰を下ろしながら、無邪気に走り回る子どもたちを眺めていた。
その光景も、この町の穏やかさも平和そのもでしかないというのに、世界はどうしようもなく終わっている。
子どもの一人には大きな耳が生えていた。作り物のカチューシャでも付けた仮装のようにしかみえないが、あの子は人間ではない。
……人間ではないと人を評してしまうのは倫理的に抵抗があるのだが、とにかく種族が異なるのは確かなのだ。まるで童話の登場人物かのような亜人の子どもは当然見慣れなたものではない。それでも前情報を聞いていたおかげで大して驚くことはなかったし、話に聞いたような敵対心は湧いてこなかった。
その事実に、廉太郎は少なからず安堵していた。
「――良かった。偶然来れたのがそんないい町で」
話を聞く限り、世界のどこよりも希望のある町。皆追い詰められてるのは確かなのだが、悲しいだけの町ではない。
ここでは、人種間での殺し合いなどは起こらない。
ユーリアは、しかしその呟きに言葉を返してくれなかった。かわりに深く息を吐きだすと、かけていたサングラスをおもむろに外している。
「どうかした?」
「かけた感じが気に入らないわ。やっぱり、少し試着しただけでは何も分からないわね」
問いに答える気がないのか、思いがけないような唐突な愚痴。
どうやら掛けていたサングラスが気に障ったらしい。耳の付け根を痛めてしまったのか、指で擦ってもいる。
そのままもて余すように片手で遊ばせていたかと思うと、意図的に無視していた廉太郎をちらりと見て、言った。
「欲しい? 要らないなら捨てるけど」
別に必要はなかった。だがそんな風に言われてしまえば、反射的に受け取らざるを得なくなる。
「……ありがとう」
汚れ一つなく、ほとんど新品に見える。試しに掛けてみようかとも思ったが、あまりに照れ臭かったのでやめてしまった。代わりに、服の胸元に掛けることにする。
すると装飾品のようで、これまた恥ずかしく思うのだった。
これでは贈り物を見せびらかしているようでもあり。
そうやって不意に素顔を晒したものだったから。
わけもわからず気まずくなって、ふと視線を逸らしていた。視線の先では、子供たちが男女を問わず遊びまわっている。
なんとなしにそのまま眺め続けていた廉太郎に、やがて彼女は声をかけた。
「ごめん、その……一つだけ嘘をついていたわ」
「嘘?」
「嘘というか、正確に伝えていなかっただけ……どうせすぐ気づくでしょうから言うのだけれど、この町は別に、それほどいい町じゃないのよ」
「……えっ」
「共生しているというだけで、互いに憎しみ合っているんだもの」
不意に、遊んでいた人間の男の子が、一人の大人に呼び止められ動きを止めた。そして、仲間から離れてその大人へ駆け寄っていく。廉太郎はその女性、おそらくその子の保護者である母親の表情を見ていた。
――快く思っていない。
そんな顔をしていることに気付いたところで、思わず視線を逸らす。
それが何を意味するか、誰に聞かずとも、考えずとも分かってしまったからだ。
「それでもまだ、まともだと思うよ」
狂っているとまでは思わない。
「……そうかしら」
彼女のその声は、とても小さかった。