第七話 朝一番
「――お、おおおおおおおおオッ!!」
何事か――と、反応せずにいられない叫びで、その日の朝は目覚めさせられた。出どころと声の調子からして、それを発したのはクリスに違いない。向かいの部屋だ。
しかし、仮にもっと離れた部屋だったとしても貫通してきたことだろう。
「……なんだ、朝から」
心配するより何より先に、廉太郎は重たいままの目を擦った。それがあまりに気の抜けた声だったので、緊急性があるようにも思えなかったのだ。
かといって無視もできず、廉太郎は寝起きの不快さを引きずりつつ自室を後にする。寝つきが良くなかったのか、徹夜でもしたかのように体が重い。「……痛った」
脳に、酸素でも足りていないのか。
「クリス、虫でも出た……?」
「そ、そのその――」
案の定、廊下には先に部屋を飛び出しているクリスが居た。不穏な色は見えなかったものの、何やら慌ただしい様子で収まりそうにない。動転していて、心ここにあらずであった。
目は泳ぎ口は震え、言葉も纏められていない。
一体、何があればそうなるのだ。それも朝一で。
よく見れば、その顔は紅潮していた。
「起きたら……ユーリアさんに抱かれてたんですけど!」
「――へ?」
思った以上の大事に、反射的に目がそちらへと向いた。
開け放しのドアを覗いてみれば、確かに、クリスの部屋にはこの家の主が居座っている。一人用のベッドの片側を、それが当たり前だとばかりに占拠し、横になっている姿があった。
目を閉じたままで、ユーリアが起きた様子はない。クリスが目覚めそれに気づくまで、仲良く添い寝していたのだろう。
無断だったようだが。
服は着ていた。
「なにあれ……心臓に悪いですよ、ほんとに」
「余裕ないな、最近」
「煩い」
この状況に、思い当る節が廉太郎にはある。
昨晩のことだ。
少々話し込んでいたのもあり、ユーリアが廉太郎の部屋を出ていくころには、やはり眠たそうな顔をしていたのだ。察するに、彼女はそれから四階の自室に戻らず、向かいのクリスの部屋に向かったのだろう。そして、すでに眠っていたクリスに断ることなく寝床に潜り込んでしまった――と、そういうことになる。
ユーリアにしては大胆で、やや常識に欠けた行為。
まさか、そこまで寝ぼけてしまうほど眠かったのか、判断能力が麻痺していたのか。あるいは、そのつもりで意図的にやったことなのか。
いずれにせよ、一度は一緒に寝ないかと誘っていたユーリアだ。即答で断られていたとはいえ、その要望があったのは間違いない。
「あーもう、変な汗かきましたよ」
口では文句を言っているが、クリスが本心から嫌がっているようには見えない。照れているだけだ。
ユーリアの行動も、それを見抜いていたからこそであろう。人が本気で嫌がるようなことを、彼女がするとも思えない。
「いいだろ、別に。それだけ気に入られてるんだよ」
「良くない良くない――。程があるでしょ、予想できないにも」
「だってユーリアが触れるの、お前ぐらいなんだから」
家族でさえ、友達でさえ。生きている物に触ることができない。
五感の制御も意味をなさない、説明のつかない彼女の不具合。
その点、クリスは人形である。本来自我もなく、生物として見なされることのない存在。肉と血で造られた人の形。その先入観が強いためか、ユーリアはそんなクリスに触れることができる。
「――察せられるだろ」
飢えて当然だ。
あの性格を思えば、なおさら。
「知りませんよ。そんな他人のああだこうだなんて」
ばっさと、クリスは切り捨てる。
混乱のあまり、口が本心の外側から浚っている。気を立てて、落ち着きを取り戻そうとしている。意地は悪いが、同時にいじらしくも思える。
それにしても。
――複雑ではないか、この二人の関係は。
しみじみとそう思う。
ユーリアはクリスを一個の人間として、友人として尊重し接しているのに、なぜかその特性は未だにクリスを生物ではないとして判定する。おかげで触れても平気だと喜んでいるだろうが、同時に気に病んでいないはずもない。
クリスはまた、明らかに人間であるのにも関わらず、そのように扱われるのを嫌うのだ。
互いと互いの認識に、矛盾した葛藤が生じている。関係と感情が入り組んでいて、頭が混乱しそうになる。
クリスの言う通り、他人のことなんて何も分からないのが現実であるのだ。
こればかりは、言葉にして共有できるものではない。それぞれ個人の主観でしか認識できない問題だ。
「まったくもうあの人ってば――」
クリスは似つかわしくなくいつまでも愚痴を続け、未だに混乱の中から抜け出せていない。必要以上に心を揺らされている。
自身の顔を手で仰ぎながら、クリスはその場を立ち去っていった。階段を下りる素振りから、風呂だろうなと察した矢先、
「あぁそうだ、廉太郎」
と、立ち止まりこちらを向いてきた。
「今晩、『ロゼ』の様子はどんな感じでしたか?」
うって変わって、その顔つきは冷静そのもの。
質問の意図は分からない。昨晩からやけに気にしているようだ。
しばし頭の中を振り返った後、廉太郎は嘘偽りなく答えてやった。
「いや――会ってないな」
「……そうですか」
そう零すと、クリスは先ほどの熱は完全に冷めたかのように口へ手を当て、考え込む様子を見せはじめた。感情の起伏が不明瞭なクリスは、訝しんだ廉太郎に、
「……日本語は駄目ですね。すでに習熟していることでしょう」
「『ロゼ』が?」
「えぇ。あなたの過去の思考体系と、密接にかかわるものですから」
『ロゼ』もクリスも、廉太郎の魂に記録された過去にアクセスすることができる。遠い言語一つであろうと理解は早い。クリスと違い『ロゼ』が日本語を話すのを見た訳ではないが、見た映画の内容を理解できているのは確かなのだ。
クリスがそんなことを確かめようとする理由が、廉太郎には分かっていた。
内緒話がしたいのだ。こうしている間も会話が筒抜けになっている『ロゼ』に対し、内容を知られたくない話があるということだ。
「であれば……今から少しだけ、英語で話をさせてください」
「あ、それは俺が無理」
「何で!? 共通語でしょう?!」
本気で驚かれてしまった。その反応に負い目を感じる。
世界的に見て、真面目に勉強している身分の人間が英語もまともに話せない、などというのは珍しい。異様ですらある。『さぼっていたのでは?』と疑われてもおかしくない。
だが言い訳をさせてもらえるのであれば、日本という国は事情が異なるのだ。
簡単に言えば、英語の習得に必死さがない。必要性が薄いと言ってもいい。
植民支配や、移住――それら歴史的背景。それに領土と民族といった背景が絡む。が、別世界の人間相手にそこまで汲み取れというのも無理な話だ。脳無しのそしりは免れない。
「……ゆっくりで良いなら」
何とか、ではあるが。
「それだとあの女も解読できちゃうでしょ……はぁ、あほらし」
弁解もむなしく辛辣に言い残され、一階へと降り去るクリスの背を無言で見送る。汗を流しに行くのだろう。家主より先に使ってしまえるその遠慮のなさ、子供でなければ許されまい。
伸びをしたところで、徐々に眠気が消えていった。
手持無沙汰だった。歯も磨きに行けない。
「……起こすか」
ユーリアを起こす。通常であれば簡単な仕事で、彼女の部屋に備えられた目覚ましの仕掛けを起動するだけだ。ドアノブを回すだけで済む。
しかし、今朝のユーリアは別室にいる。
それで、もう困ってしまった。
熟睡したユーリアが他の手段ではなかなか起きないことを知っている。今の騒ぎで微動だにしないその寝姿がそれを物語っている。
かといって、部屋まで担いでいくことはできない。二重の意味でできない。
クリスは二つ共にそれをクリアしているが、そもそも筋力が足らず運べそうにはない。危険である。
「さて――」
起こさない訳にもいかず、傍まで近寄る。廉太郎はそこで立ち尽くしていた。
すると、自然とその寝顔が目につくことになる。見下ろすようだが、思わずそれに見入ってしまった。
居眠りや仮眠ならともかく、異性の完全な寝顔など通常目にする機会はない。自宅の寝床で私的な時間に、心から無防備で休まっている姿をだ。
飾ることなく、綺麗だと思った。
気持ちよさそうな顔を晒しているのに、崩れた感じがまったくなかった。人に見られているのを意識して、気を張ってキメているかのような顔だった。映画で取られる、理想像として整えられた就寝の絵面にあるかのような寝顔だった。
今思えば、クリスの様子は大げさでもなかったのだ。寝起きで眼前にこの顔を見てしまったなら、それだけで失神するほどのショックを受ける人間が数パーセントは居ただろう。
「……いや。じゃなくて」
見てないで。
起こさないといけないのだろうが。
いつまでも眺めている自分があまりに恥を知らないように思えて、廉太郎は半ば焦ったようにユーリアに掛かる毛布を指で摘まむ。次いで、それを頭まで引き上げ顔を隠した。
「……だから、何やってるんだ――って」
寝かしつけてどうする。
さて、思いつく限り人を起こす手段は三つある。声をかけるか、揺するか、環境を変えて光や風を呼び込むか。
大声では起きなかった。
触れることはできない。
「…………開けてみるかな、窓でも」
と、その場を離れる前に。寝顔を眺めていた廉太郎の中で、ふと一つの気になる疑問が生まれていた。
他人に触れるのも、触れられるのも辛いとユーリアは言う。だが、その『触れる』という判定は一体どこまで及ぶのだろうか――と。
服の上からの接触や、手袋越しの握手でさえもアウトだった。
ならば、毛布の上から肩を揺するのはどうなのだ。おそらくそれもアウトだろうが、しかしさらに分厚い布団を挟んだのなら――。
そこまで考えて、何だか考え方が手の込んだ痴漢のようだと頭が急速に冷え込んでいった。自己嫌悪で今すぐにでも部屋を出ていきたい。
もういっそ、ペンか何かで顔でもつついてしまおうか。
怒られるだろうか。
「……いやいや、馬鹿。どう考えてもクリスを待てばいいだけだろ」
初めから出ていて当然の答え。それにはっと気づいた廉太郎は、後ろめたさに追い立てられるように部屋から逃げるべく背を向けた。
そしてその矢先。
「…………ん」
背後で、人が身じろいだ気配がした。
ユーリアは目を覚ましたようだった。どうにも覆われた顔が息苦しいのか暑苦しいのか、寝ていられずに起きてしまったらしい。
「――えぇと、私……なんで」
寝ぼけているのか覚えがないのか、身を起こしたユーリアは自室ではないことに戸惑っている様子だった。夢とうつつを行き来するその虚ろな視線が自分に向く前に、「クリスなら逃げて行ったよ」などと、説明にもなっていない言葉が廉太郎の口から先走っていった。有りもしない身の潔白を主張するためだ。
「顔赤くして」と、いらないことまで口をつく。クリスの取り乱しぶりが馬鹿にできない。
「クリス……?」
声かけに反応し目を向けてくる。それで自分以外の存在に気づいたのか、出かけていた欠伸を慌てて噛み殺しにいっていた。
「……ぁ、おはよぅ――」と、とっさに取り繕った顔に強張が見られる。
しばらく、気まずそうにユーリアが視線を逸らす。それから眠気を払うように体を伸ばすと、
「今朝は、よく眠れた?」
と、はにかむ顔を廉太郎に向ける。起きてそうそう気遣いが止まらない。世話焼きがよすぎて心苦しいが、限りなくありがたいのは確かである
しかし、廉太郎はそれに本心から良い答えを用意できていなかった。
「えぇと……」
寝つきが悪かった、どうにもそんな気がしてならない。夢を見たわけでも、途中で起きてしまったわけでもない。寝相が悪く体を痛めた感覚もない。
それなのに、気分だけが胸焼けしたように寝覚めが悪い。
体調は万全に違いないのに、よく分からない不快感が体のどこかに残留しているようだった。
「ん? まさか……」
「い、いいや。ちゃんと眠れたよ、おかげ様で」
一気に心配そうな表情に変わってしまったユーリアを見て、慌てて態度を取り繕っていた。昨晩も遅くまで付き合わせておいて、その効果が何もなかったなんて思わせたくはなかった。
それに眠れはしたのだから、不眠とは別件の体調不良に違いない。わざわざ心配させるようなことを言いたくはなかった。
廉太郎は話題を逸らす。
「ところで、なんでここで寝てたか覚えてる?」
「さぁ……見当もつかないわ。あなたに浚われてきたのかしら」
「…………念のため言っておくけど、ここはクリスの部屋だからね」
「冗談よ」
心臓に悪い人だった、寝ても覚めても。
起き上がり、ユーリアは窓から差し込む日に身を晒す。目を細め、昨晩の曖昧な記憶を思い出しながら語り始めた。
「――昨日はもの凄く眠たかったし、クリスと一緒に眠りたいとも思っていたから。それが重なって我慢できなかったんだわ、きっとね」
覚えはあるが覚えてはいない。そんな前後不覚の状態だったとはいえ、無断でプライベートゾーンに忍び込んだことを、悪いことをしたと悔いている。
夜更かしさせてしまうのは廉太郎の都合なので、その失敗の責任を一人背負わせてしまうのは忍びない。まぁ、失敗と呼ぶほどのことでも無いのだが。
「気にしないでいいんじゃない? 文句は言ってたけど、満更でもなさそうだったから」
「だといいけど。あの子、あなたとはまた違う壁を持っているから」
「壁……」
確かにクリスはそうだろう。
どこか、人との付き合いを深めたがろうとしていないように思う。気を遣われるのを嫌がったり、構われるのを拒否したり。努めて愛想よくすることも、好かれるように振る舞うこともない。人間扱いされたがらないのもその一環なのか。
ともかく、本心かどうかは別として、周りと距離を保とうとしているのが表立って伝わってくる。
だが、廉太郎の場合は違うのに。
誰とも親しくしたいと思うし、好かれたいと当然思う。気にしているのは適切な距離感だけだ。むしろ本心では、より深い、ずっと信頼できるような関係さえも求めている。
クリスとは性質も振る舞いも、まるで別物のはずだ。
それを知ってか、ユーリアも口にしたのは『違う壁』という言葉だった。
それでも、壁を感じているのは確かなのか。
感じさせてしまっているのは、一体いつの言動が原因だと言うのだろう。
「――ユーリアはさ」
「ん、なに?」
「俺のこと、どういう風に思ってる?」
「……え?」
「あぁ、変な聞き方になっちゃったな」
頭の中。
強く残っている文言がある。
なぜか、理由は分からない。それを言われたのは一度だけではないのにだ。
昨日、洞窟内でのクリスの言いざまが意味深だったせいだろうか。――否、そのときは殆んど聞き流してしまえたほどの話だった。
それが一晩時間を置いた今、強烈に頭へとこびりついている。
脳が整理してしまったのか。
見たわけでもないのに、夢も何も。
「……つまらないって言われるんだ」
『壁』とは無関係の話だった。それは周りから下される評価であり、廉太郎自身が周りをどうこうする要素ではない。
だが廉太郎には周りへ張っている『壁』に心当たりがない。その自覚もない。あったとしても、必要なことをわきまえているだけだ。
だから、ユーリアにそんなことを告げたのはほとんど無意識のことだった。口をついてから何を言ったのかを自覚した。
知れず、気にしていたのかもしれない。
「ふうん、誰によ――って、きっとクリスね?」
はたしてどんな反応をするのだろうかと思えば、ユーリアはくすりと笑うだけで。
「そうねえ、あの子は……そう言ってしまうかもしれないわ」
「……そっか」
思いのほか、強いショックを廉太郎は受けた。深く考えずとも受け入れてしまえるような、それほど自明のことだったのかと。彼女にも、ずっと同じように思われていたのかと。
それを顔に出さないのは難しかった。
しかし、ユーリアは「あぁ、誤解しないでね」とそんな廉太郎に断りを入れ、
「私はそんな風に思ったりしないけれど……でも、あの子がどんなつもりでそう言うのか、想像するのは難しくないのよ」
「想像……?」
首を傾げてしまう言葉。
クリスの指摘には一理があった。だが、ユーリアとその性格は違う。同じ考え方をするようにも思えなかったのだ。
クリスの言い分を鵜呑みにするのなら、ユーリアを前にした自分はつまらなそうに振る舞っていない。ならばそうそう気にされるようなことは何もない、そのはずである。
「例えば――廉太郎、私に遠慮があるでしょう?」
「……あるよ、それは。当り前だよ」
当然のことだ。
どれだけ世話をかけているのか、分かったものではない。
「いえ、そうじゃなくてね」
貸し借りの話ではないと、ユーリアはその目で訴えていた。覗き込まれると、心まで透かされてしまうような錯覚に陥る。クリスや『ロゼ』なら慣れたものだが、彼女に限って言うなら、どうしても避けたいような事態ですらあった。
「壁というより、逃げられるって感じかしら。一歩近づくと、同じだけ身を引かれてしまうのがどうしても分かる」
実践するように、ユーリアは一歩といわず近づいてくる。言葉に逆らうように廉太郎は動かずいたが、代わりに視線が彼女から逸れ自然と顔が俯いてしまう。
シチュエーション的に無理もないと言えばそれまでだが、まるで人付き合いに不慣れな小心者の振る舞いのよう。それを言い当てられでもしたように、どうにも心が恥じ入ってしまった。
「あの子は嫌がってみせるだけで逃げないわ。でも、あなたは嫌がってないのに逃げてしまう」
そうだろうか、本当に。
単に、物理的な距離感のことを言っているだではないだろうか――そんな風に思わなくもない。そうであるなら言い分もある、鏡を見ろと言ってやりたい。
なのに、ユーリアの言葉には真に迫るような力がいつだってあるのだ。疑問を持つ気なんて少しも湧いてこない。
「一緒に居て、その距離感は落ち着くんだけど……同時に少し、寂しく思うところもあるのよね」
だから――そんな駄目だしのような指摘でさえ、何より嬉しく思ってしまうのだ。