第六話 悪夢
夢を制御することはできない。
見たくなくとも見せられてしまう、よく分からない幻。毎日見るようなものでもないし、起きた後覚えていられるようなことも稀。いちいち気にしてはいらなれない、気にしてどうなるものでもない。
廉太郎が魂の中に『ロゼ』を得てからというもの、睡眠中の無意識の中では常に彼女と共にあった。そこで過ごす空間、事象は夢とは明確に異なっている。眠りにつく直前との繋がりを意識していられるし、思考や行動に靄がかかったような不自由さがない。
不思議な、何でもありの時間。
心の中。
それは『ロゼ』の干渉、魂の制御能力の一端だ。それをもってすれば、クリスが勝手にそうしているように自由に魂の記録を閲覧することも可能だし、もっぱら『ロゼ』と過ごしている間は適当な映画を再生していることが多かった。
それは、見たい夢を自由に見られるということに等しい。
『――おい、廉太郎』
そんなわけで、普通の夢を見るのは久しぶりのこととなる。
原因は分からないが、『ロゼ』の姿は見当たらなかった。ならばこれは魂の中の、あの不思議空間ではないのだろう。当り前に脳が見せる、単なる夢だ。それを味わっているにすぎない。
だが不思議なのは、廉太郎がそれを自覚してしまっているという事実。
夢を夢だと、正しく認識できてしまっている。
「なんだよ」
自動的に、呼びかけに応じ口が動いた。
話に聞く明晰夢とも違い、身体の自由は与えられなかった。脳が見ようとしている夢の通りに事は進み、逆らうことはできない。主観ショットの映像でも再生されているかのように。
――否、違ったらしい。
これは、言うべきことが分かっていただけだ。どうするべきなのか知っていて、そしてそれを違えるつもりがないだけだ。
『明日、飯行くってさ』
そう気づいた原因はデジャブにある。
状況に覚えがあったのだ。これはそう遠くない過去、元の世界で交わしていた何気ないやり取りの一場面。
過去の記憶を夢に見ている。
それが目の前で再現され、自分の立ち位置を自分の意思で演じている。
「へぇ――」
寸劇でもしている気分だった。
場所は学校の校舎、その廊下。相手は親しく、気の知れた男子生徒。
元々、夢を見るほうではない。それでもたまに見る夢は、大抵の場合、このようなものであることが多かった。
在学中か、卒業済みの学校。学級が同じか、同じだった同級生。同じクラブで活動する仲間だったり、一時顔を合わせた知り合い。
言ってしまえば退屈なだけ。いつもの日常をただ振り返るようなものでしかなかった。
それを面白いと思ったことも、何か意味を見出そうと思ったこともない。
「あぁ、それは助かるな」と、いつかのように廉太郎は言った。
「今日の内に言ってもらえてさ」
『お前の親、昔からきびしーからな』
何てこともなく笑いかけられる。夢だと分かればまがい物のようで、薄気味悪さすら感じるようだった。
廉太郎は否定する素振りも見せなかったが、言われたような事実は存在しない。親は少しも厳しくない。そういうことにしておくのが、都合がいいというだけだ。
突発的に食事に行けば、家で用意される夕食は無駄になる。もちろん翌日に持ち越せば済むことで、嫌な顔をする親ではないのだが、廉太郎自身の気持ちの問題だ。けちをつけたという、その事実が残ってしまうのが嫌だったのだ。
急な誘いは、適当にでっちあげた理由で断ってしまうのが癖だった。
「で、どこに行くって?」
と、応えの知れた問いを投げる。
『決まってねーってさ』
「じゃあ、決めてくれよ」
『んー、お前なに食いたい?』
「別に、合わせるって」
今なら、和食が食べたいとでも答えるのだろう。
だが、廉太郎に特筆するような好き嫌いは存在しない。基本、選択肢にあがるようなものであれば何でも味わうことができた。そのため食事に行くときは、それが激しい他の誰かへと選択を委ねることにしているのだ。
だがその日は、確か、面倒なことを言われたのだった。
『なんでもいーから一つ言えよ。行く奴で候補を出し合って、それでランダムで決めるから』
「俺はいいよ、別にどこでも」
そう言いつつ、当時思い返すことのあったすこしの間。それを開けて、廉太郎は続きを進めていった。
「――じゃあ、ファミレス」
『えぇ?! やだよ、不味いし。飽きるほど行ったって』
「肥えすぎだろ、舌。高校生だぞ?」
文句を言いながら、相手は携帯端末の上で目を走らせていく。そこに記される他の候補を、廉太郎は覗き込むようにして眺めるのだ。
焼肉、拉麺、寿司――。
その文字列、候補。そのいくつかが今でさえ、どうしても忌々しく目に映ってしまう。
連れ立つ面子を数えてみれば、それは結構な人数であり、その内の誰かしらは、候補の中の何かしらが嫌いなのだ。それを知っているのは廉太郎だけではあるまい。
だというのに、なぜ彼らはいつも自分の嗜好を押し付けようとできるのだ。
『全部レンチンだよ。嫌いなんだよ、あれ』
「知ってる」
しかし、全部が全部解凍品というわけでもない。
選択肢はある。誰の選り好みにも、最低限は応えられる店だからこそ提案しているのだ。
それに、大勢で行くともなれば自然と皆は騒ぎたがる。他の客に迷惑を――常識の範疇に収められるような連中だとはいえ――かけることには必ずなる。
だから、せめてそれが少しばかりは許されるであろう場所がよかったのだ。
『お、決まったってよ』
「……え?」
はたと、困ってしまった。
覚えている記憶とは違う流れに、どう反応したらいいのか――などと思案している内に、体の自由を得ている事実に気づいてしまう。
夢であるのは確かなのに、奇妙に現実感が襲ってくる。
「あ、そう。……何の店?」
夢だと知って、それに付き合ってしまうのも馬鹿らしいとは思うのだが、親しい相手の姿を前に無下に無視してしまうのも忍びなかった。
することもないので発した問い。しかし、返って来た答えは、決して好ましいとは言えないものであった。
『海鮮丼だと』
「……おいおい。いるだろ、アレルギーの奴」
回らない店だ、サイドメニューなど期待できない。思わず舌打ちが零れそうにもなるが、現実ではないことを思い出してすぐに馬鹿馬鹿しくなった。
当時行ったのは別の店だったはずだ。どこなのかは、記憶が曖昧だけれども。
すでに、夢は夢でなくなっている。
明晰夢とも違う。
毎晩『ロゼ』と過ごしていた、あの感覚にとても近い。
「――なんだ、今日は……特別出遅れただけか」
脳の働きの中ではなく、心の中。
思考がより鮮明になっていくのに、目の前の景色が変わることはなかった。心の中は言ってしまえば妄想の中のようなものだから、夢で見ていたものがそのまま引き継がれてしまったとしてもおかしくはない。
認識しているものがそのままに、世界の枠組みだけが変化していた。
地続きの今があり、そして続いたままの会話がある。
『あぁ、駄目ならおいてけばいいだろ』
あんまりで、信じがたい提案だったろう。
だが、所詮は夢の残滓に過ぎない。いちいち口を挟んでも仕方ない。
それが分かっていながらも、気分は自然と不愉快に落ちこんでいくのだった。
悪い奴ではない。
そんな対応だって、当別心が狭いものだとも言えない。他の人間なら普通にするような、些細なものだ。
『彼』との関係も極めて良好。性格的に合わない部分もあれば、噛み合う部分だって無数にある。だからこそ親しく居られる。
それでも、『友達』とまで言い切ってしまうことはできない。
友達という言葉の持つ意味は軽くない。
付き合いは長い。
小学生に入る前からの付き合いで、学校もクラブもずっと同じでいるものだから、ほとんど常に、十二年間を隣で過ごしたことになる。
「――悪い、ちょっと」
用事だと断って、廉太郎は進んでいた廊下に立ち止まっていた。
先へ向かう姿を見送り、意味もなく周囲に目を配る。誰の視線もないことを確認すると、廉太郎はおもむろに通りすがりの教室の戸を引いた。
中へ足を踏み入れ、何かから隠れるわけでもないのに素早く後ろ手に引き戸を閉じる。そして、外から目に入っていた室内の一点へと目を向けていた。
「……やあ」
当たり前のような顔で、そこには『ロゼ』が座っていた。
教室には他に誰もおらず、がらりと静まり返っている。さきほどまで居た廊下にはまだ人の気配が残っているのに、外へ繋がる窓からは星空が覗いてた。
灯りは、廊下から日の光が差し込んでいる。
まるで、見つからないようにわざと隠れていたかのようだった。隅の席で、『ロゼ』は何をするでもなく、バツの悪そうな顔で、ただ静かに座っていた。
「友達かい?」
「たぶん」
状況も不可解で、質問にも脈絡がなかったもので、口からは反射的に言葉が漏れた。
一般的な尺度で、『友達』と呼ぶには十分な関係。それどころか、向こうは『親友』にさえ思っているのだろうし、廉太郎もそれを否定まですることはない。
「ふぅん……」
一瞬、奇妙な沈黙が流れた。
気になることはいくつかある。
まず、いつもの時間とは導入からして異なる。直前に夢を挟んでくるなんてことは一度もなかったし、何やら中途半端なかたちで夢を残されているのが気持ち悪い。理由なく、恐怖さえ覚える。
それになにより、最も異なっているのは『ロゼ』本人だったのだ。
「珍しいな、そういう格好しているの」
「あれじゃあ浮くかと思ってね」
そう言いつつ、『ロゼ』は自嘲気味に笑う。
彼女の服装が、いつものそれと異なっている。洒落た印象の黒地のパーカーは、普段よりは遙かに親しみやすい。どこで誰が着ていてもおかしくないものだ。
物質世界でないここでは、服装どころか肉体までも単なる自己イメージに過ぎない。それでも、受け取る印象は別人のようだった。
現実のロゼもここでの『ロゼ』も、従来の格好は花束だ。白い紙に包まれた、薄く赤い花に似ている。
良くも悪くも、人間味を感じるようなものではなかったろう。
四六時中着込む真っ白なローブは体も頭も覆い隠し、靴から指先に至るまで人目に晒すことはない。窺えるのは顔と髪の色くらいのもの。
実のところ、髪型すらも今この瞬間に初めて見た。
長く、薄い赤い髪が、後ろで凝ったやり方で結われている。
「眺めていいぞ、美人だろ?」
茶化す言葉や自身気な態度は普段と何も変わらないのに、それがかえって反応に困らせてくる。
果たしてどういう心境なのか、計りかねてしまうから。
普段の彼女の格好に、意味やこだわりがあったのは間違いない。おそらく、人に見られたくない事情か、性格的な問題があるのだろう。
そう思っていたのだが、今の彼女に体を隠そうとする意志は見当たらない。
普通の服だから、体型もわりと分かる。
背が下手な男の大人よりも高いものだから、いっそ逆に浮いてしまってさえいるはずだ。大人の、それもモデルか何かが紛れ込んでいるようなものだ。
『ロゼ』は、廊下側の窓へとその視線を向けていた。外を眺めるその顔は、どこか疲れているようだった。そうして、まばらに通り過ぎていく生徒の姿を、順にその目に留めていた。
「でも、なんだかみんな学生っぽくないなあ」
「私服校なんだよ」
「ふーん」
物珍しそうな手つきで、『ロゼ』は着用した上着のファスナーを首元へ上げていた。その色合いが普段と対照的で、また着こなしのせいでもあるが、なかなか様になっている。もっとも、何を着たところで似合ってしまうのだろうけど。
「どうりでお洒落するわけだ。でも、これじゃあ勉強なんて二の次って感じにならないか?」
「そうでもないよ」
窓の外、手を繋ぐ男女が並んで通り過ぎていくのが見えた。
「割と、真面目な奴が多かったから」
「君みたいな?」
「……まぁ」
客観的に、それなりの進学校で通っている。とはいえ一部の生徒はそれを目当てに受験をクリアしてきたし、何なら廉太郎の妹もその一人だったりするのだが――。
窓の外を、同じように一組の男女が通り過ぎていった。
どんな夢だ。
まだ続いているのか。
「しかし、人が多いな。……同世代の奴がこれだけいるのなら、毎日楽しいんだろうね」
当たり前過ぎて、そんな風に考えたことは一度もなかった。
だが、ラックブリックという閉ざされた環境で生まれ育った人間にしてみれば、そうなるのだろう。人口自体が限られているのだから。
だからどう、ということでもないのだが。そんな事実に自然と、僅かな負い目のような、後ろめたさのような、嫌な感情をくすぐられたような気分になる。
「なあ。君はこっちで、好きな女っていたのかい?」
「……どうだろう」
「なんだ、曖昧な返事だね。さっきからさ」
否定することもできないのは、本来『いる』のが自然だろうと思うから。
学生なんて身分で誰とも恋愛する気はなかったし、告白だってさせないように立ち回るべきだとも思っているけれど、かといって異性に興味がなかったはずがない。目で追うことだってあるだろうし、仲良くなりたいとも普通に思う。
だが、誰かを好きになったなんて自覚は一度も持ったことがない。
「ふーん。じゃあ、好みとかは?」
「言いたくない」
目を背けた先、教室の外。
窓越しに一列、気づけば女の顔が並んでいた。
そのすべてに見覚えがあって、ある程度気楽に話せるような連中ばかりが揃っている。それら首に表情はなく、一様にこちらを覗いていて、本来不揃いになるはずの身長差が少しも存在していない。
夢が『ロゼ』との時間に上書きされたのは確かだが、同時にそれが入り混じっている。すぐそこに広がっているのは悪夢そのものだ。
なかなか、気の利いた光景ではある。写真でも撮りたい気分だった。
「なら、ユーリアのどこが好きなんだ?」
その問いを前に、外の様子が一気にどうでもよくなった。
思わずじっと『ロゼ』の顔を、ともすれば素顔とも呼べてしまうそれを廉太郎は見つめていた。
発せられた質問とは無関係に、やはりいつもと何かが違うようだと確信する。
調子が違うのだ。
その格好で、イメージが変わっているというだけでは説明がつかない。
しかしそれに触れることはなく、廉太郎はその質問へと疑問をぶつける。
「……不思議なんだ、いい加減。クリスもそうだけど……一体、俺の何を見てそんな風に誤解していくんだ?」
自分ではまるで気づいていないにせよ、何かしらの非があるのだろう。
好意を誤解されるからには、自分でも気づいていない原因があるはずだ。それを修正する必要がある。
「ふっ――」
どこか帯びていた憂いを消し、『ロゼ』は噴き出し笑みを見せた。
変わらない誤解による、失笑。そんなことだろうと察せられるのに、どうも薄ら寒い悪寒が廉太郎を襲う。不気味で、真意でもあるのではないかと、ありもしないものを恐れそうになる。
「あぁ、まったく……どうして自覚ないんだろうね。無理があると思うけど――」
発言はそこで止まった。
途中で言葉を探し詰まってしまったような、自然な止まり方ではなかった。笑みは顔から消え、視線は明後日の方へと移動している。
教室の外、屋外側の窓。
闇夜を見つめるその顔が、反射する窓に張り付いていた。
「私はあいつが好きだった」
何気なく、ぽつりとそう呟かれた。
誰を指して言っているのかは聞くまでもない。他人の目からはあまりに明確で、今さらな事実。
それでも、現実での彼女にその自覚はなかったように思う。それを今ここで宣言した、何が契機でそうさせたのかは分からない。
先ほどから続く違和感に、こちらの調子も狂わされていくようだった。
「あぁ……そうだね、君と同じだよ」
訝しむ視線、返しにくそうな反応。『ロゼ』はそれらを横目にして、口元をぎこちなく歪めている。笑み――と受け取るにはやや不自然。顔に出したいのは他の何かで、それ自体は無理に取り繕っているだけのように思えた。
「……本当に、よそから見れば丸わかりだってのに――」
『ロゼ』は立ち上がった。その勢いで椅子が倒れ、椅子の背が床へと落ちていく。物音は立たなかった。
廉太郎はそれに一瞬の気を取られたが、『ロゼ』は目もくれようとしない。
窓の外、明後日の方を向いている。そうして、反射する自分の姿を眺めていた。引かれるようにふらふらと近づき、鏡で前髪を確かめる子供のように覗き込む。
額が付きそうな距離だった。
「ほ、本当に……どうして気づけなかったんだろう。だって、あいつしかいないじゃないか……」
背を向けられていても、窓に映る像で表情が分かった。普段の面影はそこになく、余裕がまるで感じられない。
別人を見せられているようだった。
そこにいるのが当たり前の、同じ歳の人間でも見せられているようだった。
「あぁ……生きていた意味もなかったな、私の人生」
それはさすがに、見ていられないような有様に思えて、
「どうしたんだ――? さっきから」
と、そう声をかけていた。
彼女にそこまで言わせてしまう何かの要因、事情。とても検討はつかない。
かといって、『ロゼ』の様子は無視してしまうにはあまりに深刻そうに見える。力になれるような軽い問題だとも思えないが、せめて気にかけてやるくらいのことは必要だろうと思ったのだ。
「君は――」
『ロゼ』は振り返り、まっすぐと視線を合わせてきた。言いかけたことを途中で留め、もどかしそうに口元を噛んでいる。
その目が揺れ、訴えたい何かを言えずにいるようだった。
「……クリスは誤解していたようだけど、私は別に、君に何もしてないんだぞ? 君が、勝手に無視するんだ」
代わりに吐き出された言葉からは、少しもその意図が汲み取れない。
誤解、無視――。
何を言われているのか、なぜ非難の目で見られているのか、廉太郎にはまるで理解できそうにないものだった。
「――でも、まぁそれができるって教えちゃったからね。……悪影響だったかな」
『ロゼ』は笑みを浮かべていた。目を閉じた顔は寂しそうでもあり、先の問題など今しがた放り捨てでもしてしまったかのように、どこか落ち着いているようでもある。
廉太郎の困惑など気にもかけていないのか、分かるようには言ってくれない。
「その……」
「忘れてくれ。今日だけだよ、こんな愚痴をこぼすのは」
明らかな拒絶。
触れてほしくないのか、触れれても困るのか。ならば、触れないままでいるのが一番いい――そう判断することにした。
「……本当は、顔も合わせたくなかったんだ。でも、君が夢なんて見てしまうものだから――」
話をしていただけなのに、『ロゼ』はいくらかの疲れを見せはじめている。発する言葉さえ、途中で放棄してしまうほどに。
「――ふぅ。……なあ、一つお願いがあるんだが」
「お願い?」
「これから、あまり私には近づかないでほしい」
思わぬ言葉に目が丸くなる。その反応が意図するものと違ったのか、『ロゼ』はすぐにそれを訂正し、
「あっ……私って言ってもこの『私』じゃなくて、つまりあっちの……現実に生きている方のロゼって意味だけど――」
聞かされた廉太郎と同じく、『ロゼ』も口にしていて混乱が走ったのだろう。二人して、似たような表情で目元を寄せ合っていた。
そこから失笑と、「あー、紛らわしいな?」と呟きがこぼれ、
「……うん、そうだね。そう思わないか?」
変に芝居がかかった、から回ったような『ロゼ』の言動。否定もできず、肯定する意味があるとも思えない。
反応に困る問い。
それも、結論が聞く前に出ているような問いだった。
「だからさ、ちょっとあだ名でもつけてくれよ」
「あだ名?」
「別にあだ名じゃなくても、まるっきり別の名前でいいからさ」
愛称、ニックネーム。
もしくは偽名、新しい名。
ロゼと『ロゼ』。現実にいる彼女と、魂だけが他人に取り込まれている彼女。
同姓同名の同一人物を識別するための、呼び名のことだ。
「……もう、別人みたいなものなんだし」
『ロゼ』はそれを求めていた。必要があるとは廉太郎も思う。自分で名乗るには抵抗や困惑があるという心理も、なんとなく理解することができる。
しかし――。
「必要ないだろ」
廉太郎はそう答えた。
何やらその物言いが、破滅的なものに聞こえてしまったのだ。『別人』という言葉が嫌に耳へと引っかかる。
変わるのは呼び名だけではなく、それがいつしか本名になってしまうのではないか。引いては、それが自己認識の改変にまで及んでしまうのではないか――と。
「どうなろうと、『ロゼ』はロゼなんだから」
二つに分かれたからといって、自分の存在認識に変化を加えることはない。否定する必要も、疑う必要もないのだ。
別人になる必要はない。
そんな事があってはならないと、持ち合わせた倫理観が警鐘を鳴らしているのが分かる。
「……あぁ。あぁ、そう」
だから、本心から廉太郎はそう答えたのだ。
なのに、対する『ロゼ』の反応は想像とはまるで違うもので、
「有難う。君は、やさしくて……酷い、つまらない男だよ」
目を細めた『ロゼ』の視線。そこに、いつも覚えていた親しみやすい空気は微塵も残されてはいなかった。