第三話 『』『』
「――そうか」
他の者は出払い、寝室の中には二人だけが残されている。依然として横たわりその姿を顔まで隠しているロゼと、その傍に腰を下ろすユーリア。
どういうつもりで置いているのか、多少寄り添ったところで窮屈に感じることのないような広いベッドだ。わざわざ手を伸ばさなければ、体が触れあうこともない。
その上で、ユーリアの手がロゼの体に触れていた。
「ごめんなさい……無理を言って」
毛布を被っているのだから、ロゼにはその表情が見えなかっただろう。覆い隠す布の下、彼女の素肌へ自身の手を潜り込ませるユーリアの顔は浮かれない。
その指に触れたのは確かに人の身体の感触で、寝床のものとは思えないほどに冷え切っている。
「いいんだ」
ロゼが笑う。
その声はやはり風邪をひいたようにしゃがれていたが、受け取れる印象、言葉に込められた思いはいつもと変わらず暖かい。むしろ、よけいに感慨深そうなものにも聞こえてくる。
それがどうにもこそばゆく、そしてそう感じてしまうことこそが余計にこそばゆいと思うのだ。
ユーリアの指が、躊躇いがちに身体のどこかを撫でていた。
ロゼとの付き合いは短くない。彼女が今の職――他人の魂に触れることで、それを安定させるよう調整したり、読み取った情報から的確な助言を施したり、魔術師としてその魂を特化させていく手伝いをするなどの、多岐にわたる総合的なアドバイザーとして動きだし始めてからの付き合いになるので、およそ六年来の友人となる。
初めて会ったのはユーリアが十二歳のとき。子供ながら、その体質を克服するための早期的な魔術習得をするに際し、最も親身に指導してくれたのがロゼだったのだ。
その間立場上、職務上。魂には何度も触れられ、心を――文字通りに――許してきているのだから、もう何もかもが知られてしまっている。
事実として、ユーリアのことを一番知っているのがロゼだということになる。
この町に来る前のことも。
ここに来てから得た生活と、それを失った後のことも。
「どうしても教えておきたかったの、今すぐ」
言葉にできる自信はなかった。どうしても長くなってしまうし、言語化できるほど自分の中で整理がついているとも思えない。口をついた瞬間に、無自覚な自分の頑固さが脚色を入れてしまうのが嫌だった。
今回のユーリアの任務で起きた出来事と、その結果。
家族を奪われたユーリアはこの町の人間を恨み、対立する気配を隠さずに過ごしていた。自分の感情が優先で、その結果誰に迷惑がかかろうとも嫌な思いをさせようともそれ自体が半ば目的。復習なんて大それたことをするつもりはないけれど、その程度の主張なら許されるべきだと思っていたし、そうしていないと心が持たず壊れそうだった。
――しかし、それを続けていくことはできない。
言われずとも知っていた現実を、否応なしでありながらも受け入れざるを得ない状況を経て、今自分はここにいる。
伝えたかったのはそんなことだ。
ロゼはずっと長い事自分を見てくれていて、そして案じ続けてくれていた人だから。
「……ありがとう」
ロゼはユーリアに対しそう返した。
彼女が言ったのだ。
ロゼは本調子とはとても言えない。それを知っていながら、この場で魂を預けようとしてくるユーリアに対して。
「でも、私は君の心境の変化に何も言えないんだ。それを友人の成長と喜んであげる権利も、私には――」
「私は何も変わらないわ」
買いかぶられているようで、こんな自分にいつまでも後ろめたさを覚えていてくれるロゼの言葉を、つい遮ってしまう。
「それでも、態度だけは繕えるようにならなくちゃ」
あの日のことを忘れることはできないだろう。
それに関わった人間と、家族が受けた仕打ちを許すこともできない。不特定多数の人間へ、黒々とした思いを理不尽なほど抱き続けることになる。
それでも、表面上は上手くやれるようにしていこう。
それが大人としての振る舞いで、この社会で生きていくために最低限の能力だ。
自分の感情で、他人に迷惑をかけているようでは品がないし、なにより自分でもみっともないと思ってしまう。
「そうか。それは……ローガンが聞いたら驚くだろうね」
「――ん」
認めるのも癪な話だが、以上の事実はローガンに指摘され続けていたことでもある。
だから――褒めてもらおうなどとは少しも思わないのだが――見返してやれるだろうとは、正直少し思っていた。
別に仲良くする気にもなれない相手だが、少なくとももう顔を合わせるたびに言い争いになるような、いい加減飽き飽きしていた煩わしさからも解放されるのだろうなと。
しかし――
「あいつは……」
「いつも厳しいよな、君に」
見透かしたようにロゼは笑う。
その通りだと、ユーリアも笑った。
「まぁでも、君を嫌ってるわけじゃないんだぞ? ……今日は、気が立ってるみたいだけど」
「――私は嫌いよ」
この町の人間だから――などと、そんな確執はすべて抜きにしても。
口うるさく、しかもそれがすべて正論で、言い返そうにもいざ粗を探せば向こうは落ち度一つない大人。目つきは悪く言うことは粗暴で、ごろつきがたまたま仕事着に腕を通したような容姿でいるくせに、仕事は真面目以上にこなし周りからは慕われてさえもいる。
歳なんて数えるほどしか離れていないのに、ふと客観視すれば自分とはまるで正反対で、理想ですらある大人像。それですでに気に入らないというのに、その上――
「だってあいつ、あなたのことが好きなんだもの」
「だよなぁ」
しみじみとしたロゼの返しに、思わず苦笑いが浮かぶ。
ユーリアは人に恋をしないが、人を人として好きには当然なる。人にある機能としての恋愛など知識でしか知らないとしても、誰が誰を特別に思っているのかくらいは察しがついてしまうのだ。
ローガンを気に入らない一番の理由は、この大事な友人の唯一の立場にいながらも、それを認めようとしないところだろうか。
もっとも、それはこのロゼにも指摘できることなのだが。
だが部外者で、しかもその輪の外にいるユーリアに口がだせるわけでもない。もどかしく思うだけでいるのが常であった。
「――ユーリア、手を離してくれ」
用が済んでなお、触れたままでいる手。本来であれば、指先が触れるだけでも勘弁して欲しいような体だ。
わけもなく名残惜しく、拒否するかのように指先に圧がこもってゆく。
「無理するな」
労わるような口ぶりに、そう言わせてしまう自分の性質が疎ましくなる。
頑張ってはいるが無理はしていない。無理しているのはロゼの方だ。
そして、それはいつだって変わらない。
「ユーリア?」
「……本当に優しいのね、あなたは」
魂に触れて、今も頭の中身が筒抜け。これから言わんとしていることも、ロゼは全部分かっているはずなのに。それに触れようとはしてこない。
しかし、だからこそ分かってしまう。
ユーリアの中に湧いた疑惑を否定してこない。仮に間違っているのなら、いらぬ心配だと笑ってくれるような疑惑がだ。
確信に変わった心のしこりが、目の前の光景を罪悪感に変えていく。
「私は一つ取りこぼした」
「……ベリルのことだね」
「えぇ」
口からこぼれたのは、消えることのない後悔と心残り。取り返せなかった失敗が、罪に形を変えたようなもの。
ベリルは死んだ。
ユーリアの知らないときに、知らない場所で。
町へ向かう彼を止めることができなかった。同じ時分、ユーリアの目はトリカの方にしか向いておらず、それで手いっぱいだった。
ベリルが町を離れた原因がユーリアにあるのだから、死なせてしまったのは間接的にとさえ濁すことができない。
そして。
おそらく、取りこぼしたものはもう一つ、今この瞬間ここにある。
自分に対する先日からのローガンの態度と、本来起こり得ないようなロゼの有様がそれを嫌でも告げてくる。
「昨日ベリルと戦ったのが……あなただとしか思えない」
――――
空は明るく、日の光は眩しいまでに強い日だった。
そろそろ初夏に差しかかる。部屋の外、外気に触れる建物の廊下を抜けていく風が清涼感を運んでくる。
それらすべてが腹立たしく思う。そんな頭を、ローガンは一人冷やしていた。
昨日からこっち、何も知らずにいる小娘の顔が、嫌に苛ついて仕方ない。
つい冷静を欠き、不必要に強く当たってしまう。
そんな行為に意味はないのに、子供が起こす癇癪のように自制できる気がしない。
ロゼと話すユーリアを待っているのか、近くには連れの二人の姿があった。男の方と目が合ったが、人形の方はこちらへ近づかせないように男の服を引いている。関わり合いたくないのだろう。
「悪かったな」
人形とはいえ子供相手にまで凄んでしまった自分が腹立たしく、軽く声をかけてその場を離れてやった。
逃げるように後にしたのは、他でもないローガン自身の部屋でもある。
自分の家だった。
所有している名義はロゼなのだが、内部の一切を管理してやっているので文句を言うものは誰もいない。飯も作るし掃除もする。家事の一切をロゼに任せるつもりがなかったし、寝室だろうが洗濯だろうが勝手に立ち入ってこなしてしまおうとも、今さら遠慮し合うような仲でもない。
ロゼは病的なほどの勤勉さで働き続け、また過剰に頼られ続けている。そんな彼女に、他のあらゆる労力を負わせてはならない。家で休める時間だけは、ロゼに何もしてほしくなかったのだ。
だからこそ、同じ部屋に住み着いている。
そんな生活が、すでに五年は続いている。
ロゼとの付き合いは、それ以前から長かった。
生まれた年が同じ、統歴一八二七年――今から二十四年前。
二人とも、この町で生まれた人間だ。
ローガンの両親は人間の社会からこのラックブリックへ逃れてきた移住者であったが、ロゼの両親については何も知らない。生まれた瞬間の姿のまま、施設に投げ捨てられていたらしい。
そんなものだから、当然教育機関でも初等教育を受け始めるのが一緒だった。子供が多いわけでもないのだから、自然と交流は多くなる。
その後に進んだ、魔術師を養成する訓練校でも一緒にいた。
思い返せば、お互い馬鹿みたいに競い合っていたものだ。
仲が良かったわけでもない。子供の時分は、互いに性格も今とは乖離がある。
毛ほども興味のない、友人ですらない関係だった。
それが変わったのは、五年前。十八歳のとき。
当時二人が置かれていた状況がきっかけとなる。
――あの日。
「おいおい、本気で辞めるのかよ……」
教官と言い争うでもなく、ただ淡々と手続きを済ませてしまったローガンの背に、追いすがるような言葉が届く。
振り返ると、そこにいたのはベリルだった。同期ではなく、彼は一つ上の先輩で、歳も四つは離れていた。その顔は、訳が分からないという疑念で歪んでいた。
これから訓練校を去り、魔術師になることを完全に諦めようとしているローガンを引き留めようとしていたのだろう。その顔を見れば、もったいないと思われていることが嫌でも分かる。
「あの女に続いて……お前まで?」
「あぁ」
ロゼがここを辞めたのは、ほんの数日前のことだ。
彼女のやる気がなくなっただとか、問題行為が認められ退学処分になっただとか、そんな事情はなにもない。
単に、居続けられなくなったというだけのこと。
ロゼには異形化の症状が認められた。
この世界を徐々に飲み込んでいく瘴気の影響による、世に蔓延する流行り病。その症状は魂と肉体を蝕み、容姿と思想を人間のそれと乖離させていく。今も昔も、それを病だなどとは呼びたくない。
呪いにでも似た、より不条理な仕打ちだった。
そして、魔術の行使はただでさえ魂への負担が大きい。
症状の悪化を恐れ、発症した者は諦めざるを得ないということだ。
「何でだ――?」
「張り合う相手がいなくなっちまったからな、やる気がねぇ」
つるんではいたが、特別気の意合う相手でもない。なおもしつこくくっついてくるベリルを無視し、ローガンは黙って帰路についた。
家に返る。
誰もいない家が待っている。
「まだ俺がいるだろ、おい……」
「畑がちげぇだろうが、あんた」
ローガンとロゼは遠距離での戦闘を前提にした魔術師――つまり普通の魔術師――として、訓練校では好成績を残していた。
一方、ベリルは動き回る近距離型。魔術師を一対一で狩ることに特化した存在だ。相性が悪く、鼻から競い合う気にもならなかった。
「お前、才能あるだろ? 辞めちまうのは損失だ」
ローガンは口を挟まず、ベリルの言葉を聞き流した。勝手な台詞だと思いながら。
「一人仲間が辞めたくらいで、お前……なんのためにここに来たんだよ」
なじるような言葉を耳に、気づけば足が止まっていた。
「そんなのは……まぁ、家族を守るためだわな」
この町は生かされている。存在を許されている。
町の外、瘴気が飲んだ死んだ土地の外側――真っ当な人間の社会は、自分たち以外の知性体を許さない。
いつ攻められるか保証のない自分たちは、有事の際に備え続ける必要性に駆られている。
訳も分からない、不条理ながら大多数というふざけた勢力から、ローガンは家族を守りたかった。
それに、兵士になればとりあえず金に困ることもない。
「大家族だったからな」
両親に、兄と、妹と弟が一人ずつ。
その中でも体が丈夫なのが自分だったので、体を張るには都合がよかったのだ。
「なら――」
「でもよお、もうみんな死んじまったからな。……意味ねぇんだわ」
六歳、学校で初等教育を受けるころに弟と妹が同時に生まれた。
父はその成長を少しも見届けることもなく、それから二年足らずで死んだ。その二年後には弟が、それを追うように妹が死ぬ。
十六歳で訓練校に進むと、直後に母が死んだ。
最後に残った兄が死んだのが、最近の話だ。
その死因のすべてが、瘴気による心身の歪みだった。
ふざけた話だと、今でも思う。
――異形化ってのはふつう、中年以降の年寄りがなるもんだろ……。
本来は歳も性別も関係なく、アトランダムに死んでいく全世界的な病ではある。だが、その影響をもろに受ける焦土内におけるこの町では、そうならないための復興機関の対策のおかげで、若年者の発症を限りなく抑え込めるようになっている。
それが、よりによって。
自分の家族は、自分の家族だけが。
四十にも満たない両親どころか、一桁も越えられなかった兄妹までもが呪いに早がかりしてしまった。
死んでいい歳だった者は一人もいない。
そんな中、自分一人だけが生き残っている。
疫病神だったのかと、疑わない日はない。
気づけば、付いてくる足音は消えていた。
一人になると脳裏に浮かぶのは、やはり同じように若くして発症してしまった同期の顔、ロゼ。
親しい相手ではない。家族と比べればその距離は星と星の距離にも等しい。
それでも、ずいぶん長いこと近くにいたのは確かだった。
同い年。
それが死んだと聞かされる日のことを思うと、気が狂いそうになったのを覚えている。
「よお」
ユーリアとすれ違うように家に戻り、ローガンは同居相手へ声をかける。その姿をまた改めて一瞥し『なんだこれは』と、壁を殴りたくなる衝動に襲われてしまった。
なんなのだろう。本当に、今のこの現状は。
ロゼは、魂に負担のかからない仕事に就いたはずなのだ。それが、気づけばより余計に面倒を背負わされる立場になってしまった。
昨日の事は仕方なかった。奴はなぜかピンポイントでロゼを狙ったようであるし、どう考えてもユーリアの失敗ではあるが、それでもイレギュラー。避けようがない事態だった。
だが、それは別にして普段はどうだ――。
本人にとっては負担とならず平気だとはいえ、ロゼはその魂を酷使しているではないか。魂が特別頑丈で、他人の魂に触れても壊れることがないとはいえ、そこにあるリスクをは捨てきることがローガンにはできない。
現に、娵府廉太郎――触れるだけで危険な魂があるという事実を知ってしまったばかりなのだ。
「あいつに何かされなかったか?」
「何かって――」
脈絡のない問いにロゼは笑い、「妬いてるのか?」と茶化している。それには答えず、ローガンは黙って違う話を促した。
「お前、あの子にあまり意地悪するなよな」
耳が痛い――。
ますます気配を殺すほど、顔をしかめて寝室の壁に背を預けた。
「あの子はずっと辛そうだったけど、これからはたぶん上手くやれるよ」
「……そうかよ」
何よりではある。
「でも、お前はいつまで経っても辛そうだ」
「…………」
「私のせいかな」
「そんな訳ねぇだろ。何言ってんだ、お前」
何を考えているかなど言われずとも分かる。
それ以上何も言わせぬよう、また聞くこともないようにローガンは部屋を後にしようと背を向けた。
「なぁ、私は死なないよ」
しかしそう言わない人間だと、どこにもいまい。
それを思えば、それより信用できない言葉が存在するかも疑わしいほどで。
「だから、あまり気にするなよ」
「そうはいくかよ」
「えぇ……。好き過ぎるだろ、私のこと」
「好きじゃねぇよ、別に」
――友達もいねぇだろうからな、あの女。冷やかしがてら……家でも見てきてやるか。
あの日、ふとそう思い立ったのだ。
そしてあれから、気づけばずっと傍にいる。
ロゼには生まれつき家族などいなかったし、独りになったローガンの行動は嫌になるほど自由だった。
決して、孤独を埋めたかったわけではない。同じ家で過ごそうとも、家族だなどと思ったことは一度もないし、女として見たこともきっとない。
だが。
「死なれたら困るだけだ」
果たしてどれだけ困るのか、共感できる者など一人もいないだろう。